登臨意 WB-2・戦闘前
黄砂の荒波
――!
寝てろ。
(古代サルカズ語)誰だ!? ここはどこだ?
何を言っているかわからん。まあいい、わからずとも構わん。
ここで大人しく養生しろ。寝食その他すべてにおいて、先生の言うことを聞くんだ。先生がいない場合は、俺の言うことを聞け。でなければ、命を落とすぞ。
(少しぎこちない炎国語)ここどこ……? あなたは誰!?
医館だ。お前は病人で、俺は医館の下働き。
私の剣は!?
少女は焦った様子で辺りを探し、そばにある古い剣に手が触れて、ようやく気を緩めた。
よかった……あった……
昨晩お前は医館の前で気を失って、その剣を抱きしめて離そうとしなかった。えらい執着しているし、その傷だ。もしや剣を奪うために負傷したのか?
……あなたには関係ない。
警戒する必要はない。もし俺がその剣を奪おうと思ったなら、お前が気を失っている間にとうに実行している。
「世に並ぶものなき武器」なんてもんのために命を投げ出す奴は多く見てきた、本当にくだらん。
お前たちは本当に、武器一つで実力がぐわっと上がって、本来倒せない奴を倒せるようになるなんて信じてるのか?
俺は武器など信じたことはない。己の拳だけを信じる。
武を学ぶ者として、勝負を外物に託している時点で、すでに劣っている。よくない。よくないぞ。
あなたに何がわかる!
私はこの剣を使って勝負をしたいわけじゃない……ただ……恩に報いたい。
俺は剣が人殺しの道具ってことしか知らん。
師匠が、この剣は彼女にとって特別な意味を持ってると言ってた。
師匠と約束したの、この剣を渡すって。たとえ師匠がいなくとも、剣を墓前に持って行かなきゃ……
お前の師匠は、すでに亡くなっているのか?
うん……
恩やら仇やらきりがないってな。俺も興味ない。
剣を奪ったのが恩に報いるためと言うのなら、信じてやろう。命を落としかけた者が、そんな嘘をつく必要はないはずだ。
つまり、お前がこの剣を命よりも重く見ているのは、受けた恩をそれだけ重く見てるってことだな。情を重んじる奴じゃないか、悪くはない。
……どうして私を助けたの?
医館が人を救うのは当たり前だろ? 理由なんて小難しいもん必要ない。
でも私はお金ない。移動都市で生活する人は、他人から恩を受けたらお金を払わなければならないことは知ってるよ。
借りたもんを返すのは道理だが、金じゃなくても構わん。先生の手伝いとして働くことでも返済に充てることができる。じゃなきゃ俺はここで何してるんだって話だ。
だが俺はお前とは異なる。俺が払っているのは俺が怪我をさせた者の医療費だ。
力仕事は俺がやる。お前は薬草を干したり、傷の手当てなんかを学ぶといい。俺ほど借金が多くはないから、二、三ヶ月があれば返しきれるだろ。
ダメ!
あなたたちが助けてくれた恩は、また返すよ。でも今は、すごく急いでるんだ……
どうしても街を出ないといけない。
動くな。
言ったはずだ、大人しく養生しろ。
これだけの重傷でも生き延びたお前が、医館で養生してる最中に死んだとなれば、お前も医館も相当な恥だぞ。
うむ……とはいえ、恩返しも重要なことだ。お前の傷が治り借金も返したら、俺も手伝ってやるかどうか考えてやろう。
……!
また患者か?
見てくる、お前は大人しくしとけ。
扉を叩いたのはお前か、何用だ?
あなたがこの医館のお医者さんですか?
先生は用事で出かけている、俺はここの下働きだ。用件はなんだ。診察なら先生が帰ってから、薬ならすぐに渡せる。
お邪魔して申し訳ありません。事件の調査中で、こちらに玉門軍の令牌もあります。私の質問に正直に答えていただけますか。
聞いてみろ。気分次第で答えてやる。
昨夜から今朝にかけて、鋭利な武器による重傷を負った患者を治療しませんでしたか。あるいは、そういった者に心当たりがあれば教えてください。
治療してないし、心当たりもないな。薬が欲しいなら言え、買わないなら帰ってくれ。
調査のために、医館の中に入れてもらえますか? 終わればすぐに去ります。これ以上お邪魔はしません。
ダメだ、患者と薬を求めている者以外は、医館に入れることはできない。
医館は命を救い人々を助ける尊い役目を果たして、玉門では誰からも敬意を向けられています。無理やり押し入るなんてことはしたくありません。
事は玉門全体の安否に関わるものです。どうか、ご協力をお願いします。
くどくどと、よく口が回る。お前にはお前のルールがあるように、俺にも俺のルールがある。入れないと言ったら入れない。
では、力づくで失礼します。
ズオ・ラウの身のこなしは素早かった。森に飛び込む羽獣さながらに医館の中を目掛けて駆ける。
しかし扉を越えようとする直前で、彼は怪力に襟をつかまれ、元の場所へと投げ返されたのだった。
下働きの大男は、先ほどと同じ場所に、何事もなかったように立っていた。
彼は軽やかな羽獣であったが、目に見えぬどこまでも大きな網にぶつかったのだ。
(この男、なんという腕だ!?)
こわっぱ! 入れないと言っただろう、死にたいのか?
……
公務執行妨害をすると、どうなるかはご存知ですか?
知らんし、知りたくもない。
腕に自信があるならもう一度飛んでみろ、入れたら認めてやるよ。
……ふざけたことを!
ん……?
中に人が!?
あ? ったく、あの娘っ子どこへ行った?
これは……
部屋は散らかっており、テーブルに放り出された包帯や脱脂綿はまだ片づけられておらず、ベッドはまだ温かい。
血の臭いが混じった薬草の匂いがかすかに鼻を突く。
……先ほどの回答だと、ここしばらく重傷を負った患者を治療していないんでしたね。
ではこれらのガーゼや血の痕はどう説明するおつもりですか?
ったく! 動くなと言ったのに、ほんと言うことを聞かない奴だ!
そうだ、奴は街を出たいとか言っていたな。きっと城門へ向かっているはずだ!
まずいぞ。病人に逃げられたとなれば、先生に払わなければならない薬代がまた増えてしまう!
待ちなさい!
茶はどうだい~! 新鮮な茶葉だよ! 尚蜀岩茶に勾呉花茶、姜斉白茶、それと大荒城の粗茶葉……なんでもござれだ。香り高い茶葉はいかがかね!
龍門の緑茶をちょうだい。荷車二つ分。
お客さん、茶葉を荷車単位で買う人なんてどこに――
お……お嬢様……
また会ったわね。
頼んでおいた件は、どうだった?
条件面の話はついていたわよね。
何を仰られてるのか……さっぱりです……
今回玉門に入った商隊の中に、偽造した通行証を持っているのがどれだけいて、その通行証はどうやって手に入れたのか。
より詳細な情報が必要なのよ。
お嬢様、どうか見逃してください! 龍門に戻ったら必ず今回の税金を払いますんで! 前のだってもちろん! お願いします。後生ですから、もう俺に聞かないでください!
前の件については、あとにしてあげてもいいわ。
今は、私の質問に答えてちょうだい。
……
だ、誰か! 助けてくれ!
強盗だ!
真っ昼間から強盗なんてまじか?
捕まえろ!
私の忍耐力を試してるのかしら。
おい! みんな見ろ! 賊の仲間があっちに逃げたぞ!
あのー……
親方はいないよ、俺は今店番をしている。お客さんは何か打ってほしいのかい?
ちーとお尋ねしたくてってですね。
ここは鍛冶屋さ。話を聞きたいんなら、客桟にでも行った方がいいと思うぞ。
ですが、ここでしか聞けない江湖の昔話があるんでしょう?
まあいい。俺は自分の仕事をやるから、適当に聞いてくれや。暇潰しの話し相手とでも思うわ。
もちろん、ただで時間をいただくつもりはさらさらありません。一仕事お願いできますかい。
何を打ってほしい。鉄鍋か、それとも包丁か?
もし剣が欲しいと言ったら?
悪いが、それはできない。ここは日用品しか作ってないんだ。
見間違いじゃなけりゃ、入り口の看板には、「鋳剣坊」とありましたが?
玉門で「鋳剣坊」の看板を掲げているのは、今じゃこちらさんくらいでしょう。
ただの名前にすぎないさ。もし親方がいいなら、「品茗苑」や「迎賓楼」と呼んだって構わないよ。
そう言われると、そうですねぇ。
あんたも外から来た観光客だろ。
玉門の砂漠が素晴らしく美しいってのは、随分前から聞いていましたからね。ずっと来てみたかったんですよ。
はぁ、龍門と接続するたびに、武侠ドラマを体感したいだとかで来る観光客がたくさんいるんだよなぁ。ちょっと考えれば、あんなのはどれもフィクションだってわかるのにさ。
こんな貧しい場所の、どこが良いんだか……
剣を打ってほしいのも、旅行の記念品とかだろ? 悪いことは言わないよ。玉門名物の干し獣肉でも買って行った方がいいぞ。
その場所の風景ってのがあるんですって。なんであれしっかり眺める価値はあるってもんですよ。
武侠ドラマの話が虚構か真実かは知りませんがね、この鍛冶屋に物語がないなんて、おれは全くもって信じませんよ。
信じるも信じないも、あんたの自由だ。
当てこするつもりはないんで、気を悪くしないでくださいよ。ここまで、外の市場を歩いてきたんですがね。どこも満員御礼でそりゃ忙しそうなのに、この鍛冶屋だけは……閑散としてました。
歴史もなく繁盛もしていないなら、こんな賑やかな大通りに店を構えられるわけがないでしょう。
それに、本当に繁盛してない鍛冶屋に、こーんなたくさんの火がついた炉と、こーんなたくさんの鉄があるはずもねぇ。
……だから目ざとい人と話すのは嫌いだ。頭が痛くなんだよ。
いやぁ、どうもお褒めにあずかり光栄だ。
何を聞きたいんだ、言いなよ。
元々は武芸者の界隈の話を聞きたかったんですが……あなたのさっきの話を聞いて、別の興味が湧きました。
教えてもらえますかね、この「鋳剣坊」は、またなんで「鍛冶屋」になったんです?
人は死に物狂いになると、速く走れるものだ。
あと一歩で背後にいる者から逃れられるというところで、つい数瞬前まではなかったはずの縄に足を取られてつまずいた。彼は急ぎ立ち上がったが、その場に残っていたのは細かい流砂だけだった。
そろそろ懲りた?
(力尽きた息切れ)
いいわ、それじゃあお話ししましょう。
あなたは一体何を恐れているの?
お嬢様……今回は、これまでの奴とは、違う……
わかってるわ。
もし言ったら……終わりだ……あいつらは俺を許しちゃくれないんだ……
お嬢様……俺には家族がいるんです、ガキから年寄りまで、みんな俺頼みなんです。どうか俺たちを追い込まんでください、酷すぎます……
家族がいることは覚えているの、そう。なら忘れていないはずよ。その家族は……――みんな龍門にいるってことをね。
くっ――!
リンさん、あなたと鼠王のやり方は知ってます……
いくらなんでもうちの家族に危害を加えるような真似をするはずが……
それはあなた次第ね。
それとも、私がそこまでの甘ちゃんじゃないってことを証明してあげないと決心がつかない?
それは……
あなたは何を知ってるの?
……龍門と玉門が接続する度に、そこで仕事する密輸勢力は大体同じです。そいつらは安定した通行証の入手手段に加えて、仕入れや販売ルートも持っているんです。
ですが今回は突然知らない集団が現れたんですよ。一番古株の密輸グループの奴らすら、そいつらの正体は知らなくて、そんでちょっかいを出そうとした奴もいるんですが……全員消えました。
消えた?
はい、ちょっかいを出した奴は消えたんですよ……
他には何を知ってるの?
……
吐きなさい。
そいつらのブツの隠し場所と、さばいてる場所を聞いたことがあります……
市場の方は収めた?
ちょっとした騒ぎを起こして詫びるっていう、慣れた流れですよ。
ならいいわ。
こいつは……?
軍営に送って行きなさい。玉門での件が片づいたら、近衛局に連れて行って。
お嬢様! 俺が知ってることは洗いざらい全部話しました! どうして――
少なくとも、安全が保障できる場所まで送るってことよ。
姿が消えた……? 確かにここに居たのに。
玉門の市場は、普段の様子から考えれば異常と言えるほど賑わっていた。
通りは近くの者と肩が触れそうなほどごった返している。子を連れた親も、繋いだ手を一層強く引かねば簡単にはぐれるだろう。
人だかりの中、特定の人物を見つけるのは、容易なことではない。
お客さん、物を買いに来たのかい、それとも言いがかりをつけに来たのかい!?
どいたどいた。買わないなら邪魔だからさっさと退いてくれよ、道の真ん中に突っ立って何してるんだい!
すみません……
物売りの大きな声、遠くで言い争う声、売り買いの交渉の声が絶えず耳に入ってくる。このような環境においては、聞き逃せば命取りになるような音にも気付きにくいものだ。
誰だ!?
剣は背後から鋭く迫ってきた。
何一つ音を立てることなく、差し向けられた切っ先に、ズオ・ラウはほぼ本能だけで前方へと一歩回避した。
彼がまとった外套には穴が開けられていた。あとわずかでも踏み出すのが遅ければ、一生の間立って歩くことのできなくなるほどの傷が腰に残るところだった。
出てこい!
ズオ・ラウは振り返るが、そこは依然として人々が無数に行き交う市場だ。
(まさか、さっきの大男はわざと私をここにおびき寄せたのか?)
(もしここで騒ぎを起こせば……)
(一体どこに隠れた……)
……!
今日の市場は、ほんと賑やかですねぇ。
リーさん?
ズオ公子、どうも厄介な人が紛れ込んでるみたいです、気を付けてくださいよ。
気付いています。リーさんこれ……
ちょっとした目くらましです、あんまり長くは持ちません。
ここは危険ですんでね、まずは抜け出しましょう。
ほかに選択肢はないようですね……
……
元は人を探しに来たんですが、逆におれたちの方が、奴さんたちの網にかかっちまったみたいですねぇ……
まずは市場から離脱しましょう。くれぐれも民間人を傷つけないように。