懐黍離 HS-5・戦闘前
綾羅紡ぎ
また行くのね。
今回は説得しないの?
そういうことは、一回でも聞き入れてから言ってくれないかしら。
けれどあなたの小言がないと、むしろ心にぽっかり穴が空いたみたい。
私はまだ歩けるよ、手も足もしっかりしている。それに春の風はこんなにも冷たいもの。椅子に寝て日向ぼっこをしていてもしょうがないでしょう。
北がどれだけ危険かは知っているわよね。
けれどシュウ……あなたも分かるでしょう。私たちには選択肢がないの……
私たちは数十年を費やして、ようやくこの小さな土地を切り拓いたけれど、これだけではまだまだ足りないわ……
食糧と土地は常に不足している……もっと北へ行けば、特別な作物が見つかるかもしれない。源石に汚染された土地でも栽培できるようなものが。
その時、大地全体が私たちの田畑となり、もうひもじい思いをする人はいなくなるわ。
なおさら残るべきだわ。
そうした作物が見つからなければ、ゆっくりと育てればいい。十代でも、百代でも、いつの日か――
そうね。だけど、私にはそれほどの時間はないわ。
……
ましてや、「源石に汚染された土地でも栽培できるような作物」、「大地全体を良田に変える」なんて、こんな話は人が聞いたら夢物語としか思わないでしょう。
……あなたには敵わないわね。
老人の言うことはいつも理に適っているのよ。
女性はゆっくりと手を伸ばし、指先を軽く握った。
シュウ……もう一度手相を見てくれる? 私のようなおばあさんにこの先、理想を実現できる幸運はあるのかどうかを。
言ったでしょ、見ないって。
……
女性は笑みを浮かべて、手を広げる。その掌には小さな白い花が横たわっていた。彼女は花を目の前の娘の髪に挿した。
今日田んぼの中で見つけたの。今年最初に咲いたお花のはずよ。吉兆だと思うの。
もしかしたら、今年の収穫の時までには戻ってこられるかもね。
指折り数えながら、排骨スープを作って待っていてちょうだい。
……
天師……
シュウさん?
え?
シュウさん、さっきからずっとぼうっとしていますが、あなたもこの土地が名残惜しいのですね。
ええ……
美しい景色、美味しい食べ物……ここがとても好きよ。
シュウ天師はお若いですから、きっと大荒城に異動してきたばかりなんでしょう。
私は生まれた時からここにいましてね、今ではもう六十七です……六十七年の間、ここを離れなければならない日が来るなんて思いもしませんでした。
神農がこの田畑を切り拓いてから、千年以上が経ったと言われています。名残惜しくないはずありません……
作物は春に種をまかれ秋に収穫されるけれど、一年中風や霜、雨や雪を避けては通れない。世がままならないのはいつものことよ。私たちも成り行きに任せるしかないわ。
今後移動都市に移れば、みんな別の仕事に就けるはず。きっとちゃんと手配されるわ。
納得がいかないだけなんです……たしかに、ここ数年は天気が悪くて、収穫も良くなかったです。でも、みんなで頑張れば、そんなのはきっとなんとか乗り越えられると信じていました。
なのに今はこの土地に問題があると言われて……シュウさん、あなた方天師は物を良く知っていますよね。どうかこの土地を救う方法をもう一度考えてはくれませんか?
方法さえ教えてくれれば、苦労なんぞ怖くありません。たとえこの土地を全部ひっくり返すことになろうと、きっと――
……
つい数日前に大雨が降ったばかりなのに、どうして……
田のそばにいた農民は突然目を見開いた。
まるで地面の下に底なしの深淵が隠れているかのように、貯まった水が肉眼で見えるほどの速度で失われていき、一瞬の間に田んぼのすべての水分が、そして土地の生命力が吸い取られた。
潤っていた水田が瞬く間に硬いアルカリ土壌となり、底が見えないほど深い亀裂が無数に入った。
待ちなさい。
ズオ公子。
どこへ行くつもりですか?
届けるべきものは届け、会いたい人にも会いましたので、そろそろ発とうかと――ズオ公子は見送りに来てくれたのですか?
全ての質問に明確に答えるまで、ここを離れてはなりません。
以前私に去れと言ったのは司歳台、今私に残れと言ったのもまた司歳台ですね……朝令暮改とはまさにこのこと、私も困ってしまいますよ。
大荒城に現れた悪魔の穢れはあなたとどんな関係があるのですか。中枢区画の装置に対してどんな企みがあるのですか?
それと……百年前、あの罪人が都から逃亡し、わずか数ヶ月後に彼の碁石が炎国各地に打たれました。この過程で、あなたは何をしたのですか!?
……ご質問は、一つも理解できません。
それならば、はっきりと答えられる場所まで連行するまでです。
……
単身で来られたのは、確かに称賛すべき勇気です。時間に追われていなければ、私も喜んでズオ公子のような才ある若者とお話しをしたいと思いますよ。
ですが……もし、私が拒否したら?
男が玉の杼(ひ)を取り出した。杼は格別に精巧であることを除けば、特に変わった点はない。
ズオ・ラウはそれがかすかに糸をまとっているのを見た。
させません――!
ん……?
意識が逸れたのはほんの一瞬。
男が手にした玉の杼が持ち上げられる前に、持燭人の切っ先はすでに彼の喉元に当てられていた。
私は普通の人間にすぎませんから、代理人に対抗する力はありません……
ですがこの絵巻の中なら、私たちに違いはありません。
この絵巻……あの妹ですか……
貴方がた尋常の人間は、いつからこうした力を畏れずに利用できるようになったのですか?
巨獣学者の研究がどこまで進んでいるか見誤っていたようですね……代理人一人一人の能力を、司歳台は知り尽くしています。
まさかシーが私にこれほど大きな不満を抱いていたとは。持燭人と協力してまで邪魔をしたいのですね……
ですが、持燭人が無断で代理人と接触するのは重罪では? ズオ公子はすでに罪を抱える身であるのに、さらに規則違反をした場合どのような咎めを受けるか考えなかったのですか?
この場であなたを阻み……あなたを捕らえることができるなら、それでおつりがきます。
あなたが悪魔の穢れを大荒城に引き入れたのは、十二楼五城を破壊するためですか?
この件の裏にあるのは、あの罪人の計画ですか?
もし、おっしゃる通りだと言ったら?
!?
ズオ公子はどうされたいのですか?
ここで私を殺し、都の地下にいる歳の精神をさらに一つ分増やしますか? 炎国は開戦の準備を整えたのですか?
そうすることであなたを止められるのなら、そうします。歳獣は決してあなた方が悪事を働くための口実ではありません。
しかし、どこまでいっても、胸算用が必要な商売ですよ。
男は微笑みながら喉元に当てられた長剣を無視し、裾を払うと、石段を見つけてそこに腰を下ろした。
おとなしく――
緊張する必要はありませんよ。この絵巻に囚われている今の私は、ただの非力な仕立屋にすぎません。まさか私が飛んで出て行ってしまわないかと恐れているのですか?
せっかくの機会ですので、お話ししませんか。
あなたは私の質問にだけ答えればいい。
ズオ公子は蔵書閣にある触れる権限のない書類について、興味がおありなのでは?
絶好の機会が目の前にあるのです。ズオ公子の聞きたい質問はこれだけではないでしょう?
小賢しい真似はやめることです……
どれ、勘定をしましょうか。
炎国と巨獣の勘定を。
……ここまでか。
もし悪魔に穢された種が川から流れてきたのだとしたら、どうして都市の端に行くほど穢れの痕跡が少なくなっているの……
まさか……
彼女は土をすくい上げて手で慎重にこねると、眉をひそめた。
地面から、かすかな震動が伝わる。遠くでは新たに建設された移動区画がまるで連綿と続く山脈のように、また蛮荒なるものの隆起した背のように起伏している。
鉄筋コンクリートが万年という歴史の土壌を支え、巨大な構造物は無数の歳月を越えた橋を架けているかのようだ。しかし、この土地の万年の痕跡を誰が知っているというのか?
……あんたの仕業か?
これだけ長い間、あんたは人知れずこの悪魔を抑えてきた……一体何のためにそんなことを?
どこに、あんたみたいな「神」がいるのよ……
ズオ公子は蚕をご覧になったことはありますか? なかったとしても少なくとも、「繭を作りて自らを縛る」という言葉は聞いたことがあるでしょう?
何が言いたいのですか?
私はこうしたことに通じているのですよ。
あの虫たちは成長する過程で困難を乗り越えなければなりません。乗り越えたものは繭を破って出て行き、乗り越えられなかったものは暗闇の中でひっそりと命を止めることとなる。
……虫とは誰の事です?
貴方も私も、世の万物も。
あなたがどう思おうとかまいませんが、我々は自分を虫になぞらえるつもりはありません。
貴方がたは自らが創造した文明を誇りとしていますよね。まさか司歳台の資料の中で、最初の最初に真龍がいかにして百氏の乱を終わらせることができたのか記述されていないのですか?
もちろん知っています。それが歳獣の傲慢による愚弄にすぎず、決して恩恵などではないということも十分理解しています。まさか炎国にあなた方への感謝を忘れないでほしいと?
ましてや今ではもう、代理人はあのような力は備えていません。
破滅と新生、生命であればそこから逃れられません。夏虫は氷を語れず。私たちが見るもの、聞くもの、そして考えるもの、全て繭に包まれています。ですので、常に謙虚でなければなりません。
何が言いたいのですか?
あの大戦が終わり我々のような者が現れてから、司歳台も今に至るまでに千年の歴史があります。
まさかズオ公子は考えたことがないのですか。なぜ今になって、炎国はようやく歳を除く決定をしたのかを?
百年前にあの罪人が混乱を起こし、代理人一名を死に至らしめました。歳獣の目覚めが避けられない今、これに対処するのは当たり前です。
歳獣が目覚めようとしているというのは、どちらの巨獣学者が導き出した結論ですか?
……
炎国が戦争を起こさねばならなくなった時、一体誰に利があるのでしょうか。「歳を除く」件において、誰かの目論見が働いた可能性はあるのでは?
こうした問題を、ズオ公子は考えたことがないのですか。それとも存在しないふりをしているだけなのですか?
なぜ私があなたの一方的な言い分を信じなければならないのですか……
もちろん私を信じる必要はありません。では別の勘定をするとしましょう。
私が一介の商人であることはさておくとして。私の兄と姉たちは、本来炎国に及ぶはずであった危険をこの数百年でどれだけ阻んできたでしょう。
あの「ぶらぶらしてばかり」の妹でさえそうです。もし彼女がいなければ、こうした移動都市を建設するのに炎国はあと何倍の体力を費やしていたか分かりません。
それに、ずっとこの地を守り続けているあの姉……
巨獣と炎国は歴史を共にし、私の兄弟姉妹たちはこれまで炎国に危害を加えたことはありません。彼らが求めるのは、ただ普通の人のように生きることにすぎません。
しかし今、彼らは降って湧いたような災難によって命を落とそうとしています……教えていただけますかズオ公子。この勘定はどう清算すればよいでしょうか?
……
代理人の中には、確かに炎国に対して代えのきかない貢献をしてきた人もいます。炎国もそれを忘れたことはありません。
しかし現状は、代理人の中に炎国を敵に回すことを選んだ者が存在し、代理人が炎国の無数の民草の安全を脅かしているのです。
はぁ、ズオ公子はつい先ほど、いわゆる「神」の炎国への配慮はその程度でしかなかったと言っておきながら、どうして難題に直面すると、今度は「神」を責めるのですか?
「神」など、どこにいますか。最初から最後まで人しかいません。
なぜ自らの足元を見ようとしないのですか。
汚染された作物は処分したはずじゃなかったのか……
いや、違う……これは前に収穫した米だ。問題がなかったはずだったのに、なぜこんなことに……
穀物倉庫は数日前に収穫した米でいっぱいだった。
黄金色のはずだった米の山が、今は赤黒い小山になっている。