白き海の彼方へEP-1・戦闘前白き海に吊るされて
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ヴィクトリアレム・ビリトンサルゴンミノスラテラーノシエスタイベリア
ヴィクトリアレム・ビリトンサルゴンラテラーノシエスタイベリア

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白き海の彼方へ EP-1・戦闘前

白き海に吊るされて

半月前


イシドロ

記録。乗ってきたサンドボードは摩耗が激しく、修理に適した材料も付近には見当たらない。

真水の持ち合わせは……せいぜいあと一日分だな。

幸い、次の補給地点までは半日で着く予定だ。

……メッセージがこんなに?

そこまで長く放置していたか?

通信機のメッセージ

ソーンズさん、長いことそちらからのご連絡がありませんが、お時間のある時に現在地を教えてくださいね。

計算してみたんだが、俺たちの任務ルートとお前の行き先が重なる地点があるから、後々時間を作って会いに行けるかもしれない。その時は、余った物資を分けてやるよ。

やあソーンズ、君の超アメージングな剣術を探求する旅はその後上手く行ってる? 何か良いニュースはあるかい?

イシドロ

まあいい……用事を終え次第、ゆっくり返事をするとしよう。


イシドロ

地図の中央にあるエリアは……名前以外、何も記されていないな。

「白き海」……これは海なのか?

本物の海ではないことを願おう。


不毛の荒野に、風が砂粒を巻き上げて、塩辛い香りを運んできた。

暗雲の隙間からは日差しが注いでおり、とうに干からびた川筋にはいくつか低木が生えているばかりだが――

その中から聞こえるガサガサという音が、この荒野にも生気がまるでないわけではないと証明していた。

青年はロープを使って数枚の木の板を繋ぎ合わせると、その上に乗り飛び出した。


荒野は突然に途絶え、切り立った崖が大地を分断している。

崖の下を見下ろせば、そこには本当に白い海があった。

そこで、イシドロは苦労して崖を降りていき、その白い「海」に足を踏み入れて、乾燥した「海水」を手にすくうと、そのまま口へと運んだ。

イシドロ

……塩の結晶か?

ここに水はなく、白い塩の砂漠が広がるばかりだ。その中にはおびただしい数の骨が点在しており、そのすべてがこの地に飲まれた生命であると見て取れた。

だが、見えないどこかの片隅で何かがまだ流動し、蠢いているのを彼は感じていた。

イシドロは砂の上を滑らせていた板を止めると、腰の剣に手を伸ばした。

イシドロ

おかしい……

こんな場所に生き物などいるはずもないというのに。

地面が小さく震えたかと思えば、青年の足元を中心に、塩がゆっくりと沈み込んでいく。

震動は次第に激しくなっていき、彼のいるほうへと、凹みが急速に広がっていった。

イシドロ

鱗獣!? この塩の中に……!?

不意に、巨大な生物が塩の中から飛び出した。帆のような背びれは高く上がっており、その頭には巨大な矛のような鋭い殻がついている。

そして、強烈な衝撃を受けた青年は上空へと放り出された。内臓はあるべき場所からずれてしまったかのように痛み――次の瞬間には激しく地面に叩きつけられて、意識が遠のいていく。

視界がおぼろげになる中で、彼はその巨大な鱗獣が素早く塩の中へと消えていくのを見た。

イシドロ

(……やつは、飢えてはいなかったようだ……助かったな……)


イシドロ

……


パスクアラ

けほ、けほっ……ほんとツイてない……

あのクソ執行官、マジでしつこすぎ。こんな雑草一本生えない場所まで追いかけてきやがって。

げほっ、うわ、やば……急いで走ってきたせいで、水を全部こぼしてきちゃった。

……どうしよう……

ぺっ、ぺっ……しょっぱ! 口に塩入ってんじゃん!

水がなきゃ、アーロンになんて絶対たどり着けないよ……

ん? あれは……?

一陣の風が塩を巻き上げ、彼女は砂から露出している両足に気づいた。それはピクリとも動かない。

パスクアラ

……また塩海に運のない人が迷い込んだってわけか。

だけど、悪いねお兄さん! あんたの不幸はあたしの幸運なの。へへっ。

水だ! ボトル一本分あるじゃん、ラッキー……

ごくごく……ぷはぁ……さてさて、あんたはほかに何を持ってるのかな~?

この瓶とか缶とかは何だろう……

おえっ! 何これ臭すぎ!

ま、毒でも薬でもいいや。どのみちお金にはなりそうだし……ロドス・アイランド製薬? なんだか知らないけど、もらっとこ。

うわっ、外国の金まで持ってんじゃん。この羽獣も飛ばないような場所で、両替商が見つかるとでも思ってたの?

とはいえ……いつかどこかで使えるかもしれないよね。これも全部もらっちゃお。

少女が死者の財布であろう袋をひっくり返せば、数枚だけリヤル銀貨がある以外は他国の貨幣ばかり入っており、あとは「ロドスお食事クーポン券」と書かれた食券があるのみだった。

その時、袋の底で輝く一枚の金貨が、彼女の注意を引いた。

少女はその金貨を取り出すと、何度かひっくり返してまじまじと見る。

貨幣の一面には、横一線で区切られた円形が、そしてもう一面には逆三角形の模様が刻まれている。

パスクアラ

重っ……これ、純度高そうじゃん。

あれ? この模様、どっかで見たような……もしかして、フアナがずっと探してたやつ?

残念だなー、どうしてこんなとこで死んじゃったんだか。

何はともあれ、こんなに色々くれたお礼にあたしもあんたを見送ってあげるね、お兄さん。

……しっかり埋めといてあげるから。

???

盗賊というのは、その貪欲さゆえに空洞化した肉体という器のみを持つ存在にすぎず、己の利のために他人から搾取しておきながら、永遠に満たされぬものです。

剣を抜く音を聞いて、少女はもはや逃れる時間が残されていないことを悟った。彼女は後ろを振り返ったが、その身体はがたがたと震え、それ以上身じろぎもできなかった。

裁判所の修道士が少女へと近づいてくる。彼の持つハンドキャノンと細剣は、不気味なことに白骨で装飾されており、それはほかの裁判所員の持つ厳かで優雅な佇まいとはかけ離れていた。

イベリアにおいては、誰もが彼の名を、そしてその非情さを知っており、面と向かって名を呼ぶものはいない。彼はただ、こう呼ばれているのだ――

「あの執行官」と。

それを聞けば、あの無慈悲で非情で冷酷な執行官のことだと、犯罪者の骨を警告として武器にはめ込んでいる彼のことだと……

犯罪者を地の果てまでも追いつめたとて止まらないこの人物のことだとわかるのである。

???

私は貴方を解放しに来ました。

パスクアラ

ま、待って、誤解だよ、何か行き違いがあるんだって!


イシドロ

ッ、頭が痛い……口の中が、塩辛い……

女性の鋭い声

やめて!

イシドロ

ん……?

女性の鋭い声

うわああ! 助けてえ!

イシドロ

何だ!?


???

なぜ足掻こうとするのですか? 今死ねば、終わりなき悪行の苦しみから逃れることができるというのに。

パスクアラ

敬愛なるアナスタシオ様、どうかお見逃しください! 何卒正しきご判断を!

あたしは脅されてたんです! 本当に! こ……この命に懸けて誓います! もうあのブツは持ってません!

信じられなければ、どうぞ私の荷物を確かめてください! 本当にコンパスなんて持ってないんです! み、見逃してもらえたら、あの人のところへお連れしますから!

アナスタシオ

他人の貪欲さに晒された貴方もまた、己の貪欲によって他人を腐敗させることでしょう。

欲深さに染まった者は皆、裁かれねばならぬのです。

パスクアラ

うわああっ――誰か助けて!

執行官の剣の切っ先が少女の眼前を通り、喉へ到達しようとした瞬間、黒い長剣が彼女の背後から飛び出し凶刃を弾いた。

その長剣の先からは金色の液体が滴り落ちており、侵食された塩がじゅうじゅうと音を立て、鼻を突くにおいが広がってくる。

イシドロ

行け。

パスクアラ

し……死人が生き返った!?

アナスタシオ

私は今、裁判所の禁制品を盗んだ犯罪者を捕らえんとしているところなのです。貴方を煩わせるつもりはありませんよ。

イシドロ

お前は裁判所の人間か?

アナスタシオ

この賊を守ってやる前に、まずはご自身の荷物を確認されては?

イシドロ

なんだと?

俺の財布が……

アナスタシオ

貴方の剣術は実に見事ですが、それは犯罪者ではなく、罪なき人を守るために使うべきだと思いますよ。

パスクアラ

うっ……やばっ。

イシドロ

……これは一体……?

イシドロが自身の身体を探ると、ポケットの奥にある小さく硬い物体が手に触れた。

それは不規則な形をした金属の塊だ。一見して工場の廃材のようだが、よく観察してみれば、全体に繊細な錬金術のシンボルが刻まれているのがわかった。

層をなした錆が表面を覆っているものの、それはかつては流体だったようで、日差しを受ければ今も美しい金属光沢を以て照り返す。

アナスタシオ

パスクアラさんが盗品をどこに隠したか、これでわかりましたね。それをこちらに渡して、すぐにお引き取りいただけますか?

イシドロ

これは……心相原質を搭載した「コンパス」か? この一派が創った錬金の産物は、すべて処分されたと思っていたが。

アナスタシオ

ふうむ……今日のイベリアには、それが何であるかを知る罪なき人など、もはや居ないものと思っていたのですがね。

執行官は細剣をイシドロへと向け直す。彼の表情は、厳かなものから意味深なものへと変わっていた。

アナスタシオ

貴方の正体に興味が湧いてきました……指名手配犯アウルスとはどのようなご関係ですか? あるいは、どこで彼と接触なさったのですか?

貴方には色々とお伺いしたいところですね、エーギル人さん。

長年封じられてきた罪深き錬金術の遺物を一目でそれと認識し、さらには抹消された流派についても言及したのはなぜですか?

イシドロ

……お前には関係のないことだ、執行官。

アナスタシオ

いやいや、大いに関係のあることですよ。何しろ、彼らの大半はわが刃によって死んだのですから。

イシドロが何か言いかけた時には、執行官の細剣がすでに彼の喉元へ迫っていた。

アナスタシオ

……法に従い裁かれる気はないようですね。

執行官は剣を引くと、ぐっと重心を前に傾けて、円を描くように下から上へと剣を振るって一直線に振り下ろす。

剣士の直感が告げた――目の前の人間は狂人だ。どれほど道を外れた剣士でも、これほど荒々しくレイピアを振るうことはない。

その刃の冷たい光の眩しさに、イシドロは思わず手首を返して、重い一撃をかろうじて防いだ。

レイピアは刺突武器であり、斬撃のために作られてはいない。これほど乱暴に振るえば、相手の剣が折れるだろうというのは想像に難くなく、イシドロは滑稽に思った。

だが、悲鳴のような鋭い音が響いた後に、彼は気付いた。己の剣が今や半分しか残されていないことに。

折られた刃は塩の砂漠に突き刺さり、頬を伝って血が流れ落ちていく。

アナスタシオ

武器を下ろしなさい。

パスクアラ

逃げて!

執行官は手を軽く振り、少女が投げた石を払い落とした。その瞬きの間に、イシドロはすかさず距離を取る。

それと同時に、彼は足元の塩の向こうから身に覚えのある振動を感じた。内臓の激痛が、再び神経を駆け上ってくる。

執行官の足音が迫る中、イシドロは素早く思考を巡らせ――歯を食いしばると、塩の砂漠から突き出た遠くの巨大な骨に向かって一直線に走り出した。

アナスタシオ

私が真実を知るまでは、誰一人逃がしませんよ。

イシドロ

お前はいつもそんなにお喋りなのか?

(早く来てくれるといいが……)

アナスタシオ

フフッ……

イシドロは、必死で逃げながらも、折れた剣で執行官の攻撃を全力で防がなければならなかった。

彼は執行官の背後を見やる。すると、その地面が沈み込み始め、再び塩の砂漠に凹みが現れた。

執行官も地面の振動を感じ取り、咄嗟に足を止める。

アナスタシオ

地震……!?

イシドロ

お前もここに来たことはなかったようだな。

その言葉が終わらぬうちに、巨大な鱗獣がイシドロの前で空中へと飛び上がり、執行官を吹き飛ばした。

空中へ投げ出された執行官は、人形のように手足を広げ、そのまま美しい弧を描いて塩の砂漠へ落ちていく。

すると、塩の粒が舞い上がり、くぐもった音が響いた。

彼は運悪く鋭い骨の上に落ち、身体を刺し貫かれていた。その血が骨を伝い流れて、白い塩を赤く染めていく。

イシドロ

ふぅ……

パスクアラ

あの人……死んじゃったのかな?

イシドロ

向こうが死んでいなければ、俺たちは終わりだった。それに、奴が死んでもなお、俺たちは危機を脱してはいない。

パスクアラ

えーっと……恩人さん、それってどういう意味?

イシドロ

先ほど、これを俺のポケットに入れたのはお前か?

パスクアラ

塩の中から恩人さんを引っ張り出すときに、うっかり入っちゃったんだと思うよ!

イシドロ

……

パスクアラ

あはは……信じてもらえない?

イシドロ

俺の内ポケットにはファスナーが付いているからな。

パスクアラ

えっと、どうか寛大な心でお許しを! ねっ、ほら、二人とも生き延びたわけだし……

イシドロ

なぜ、あの執行官がこちらに剣を向けている隙に逃げなかった?

パスクアラ

それはもちろん、良心に目覚めたから!

イシドロ

……

パスクアラ

わかったよ、正直に言う。あんたがすぐに死んじゃったら、あたしも遠くまでは逃げられないでしょ……それに、コンパスはまだあんたが持ってるし、買い手はそれに大金注ぎ込んでるからね。

ここで逃げたら、これまでの努力が全部無駄になっちゃうと思ったの。

イシドロ

……

目的地はどこだ?

パスクアラ

えっ?

イシドロ

これはお前のせいで起きたことだが、お前には一度助けられた。俺も一度は助けになろう。

お前を目的地まで送り届けたら、それで貸し借りなしだ。

パスクアラ

え~? 何それ……そんなにあたしと関わりたくないの?

イシドロ

あるいは、このまま立ち去ってもいいんだがな。思うに、俺から盗んだものがあれば、お前もしばらくは生き延びられるだろう。

パスクアラ

あたしの目的地は……この先の山の頂上にあるアーロンって町なんだけど、あと二日以上はかかっちゃうんだ……

イシドロ

二日? 半日で事足りる。

パスクアラ

うっそ、ほんとに?

その時、少女は再び振動を感じた。あの高くそびえる背びれが、またも砂を突き破って二人に急接近してくる。

少女は驚いて青年のほうを見たが、彼は落ち着きと確信に満ちた表情で視線を返しただけだった。

イシドロ

ロープを貸してくれないか? 俺のサンドボードは壊れてしまったのでな。


まじめな町民

よせ。それ以上叩くと、木が割れてしまうぞ。

悲しむ町民

もっと頑丈にしたいんだ。

まじめな町民

……今も十分丈夫だろう。自分で修理しておいて、安心できないのか?

悲しむ町民

シルバー様が仰るには、こうやって懸命に仕事をしてこそ、人間は罪を償えるんだそうだ。

まじめな町民

罪って、お前に何の罪があるんだ?

悲しむ町民

あの未亡人、出産を控えているというのに、俺の世話にはなろうとしないんだ。

はぁ……きっと、昔俺が悪事を働いたのを嫌ってのことだろうな。あのせいで罰が当たって、俺は妻を死なせてしまったわけだし。

まじめな町民

彼女は再婚したくないだけだと思うが。

悲しむ町民

何の話だ? 俺には別に下心なんてないぞ。町で子供が生まれるなんて二年ぶりのことだし、きちんと世話をしてやるべきだろう?

まじめな町民

まあ、それもそうだな。子供を産める若者はみんないなくなって、残ったのは我々のような老いぼればかり……

悲しむ町民

もはやこの地で死を待つしか――

まじめな町民

なんだ!? あれを見てくれ! ああ聖徒よどうかご加護を! 空が塩粒で覆われている……!

悲しむ町民

塩鱗獣の群れか? それとも塩嵐か?

まじめな町民

うわあああ! どうだっていい、早く逃げよう!

叫び声の中で、逃げ惑う町民は塩塵に飲み込まれていく。

その直後、巨大な塩鱗獣が塩塵を突き破り、その背から順に二人が飛び降りてきた。先に降りてきた青年は塩鱗獣を軽く叩くと、その身に乗せていた折れた剣を下ろした。

塩鱗獣は胸びれを動かし塩をかき分け、去り際に青年に向けて憎しみのこもった目を向けていた。

当の青年はそんなことなど露知らず、怯えた町民の視線をまっすぐに受けながら近づいていく。

イシドロ

悪いが聞かせてほしい。ここはアーロンの町か?

まじめな町民

あんた誰だ? 何をする気だ?

イシドロ

俺はイシドロ。ここには探し物をしに来た。これが通行証だ。

悲しむ町民

通行証……?

まじめな町民

(小声)シルバー様が仰ってたよな? 最近また、たくさんのエーギルが上陸して、都市の建設を手伝ってくれてるって……

悲しむ町民

(小声)こいつは手伝いに来たと思うか?

(小声)フン、この異種族どもは災いしか招かないだろ!

この命に代えても、お前たちを通すわけにはいかないな!

イシドロ

何を言っているんだ?

パスクアラ

お、落ち着いてよ、誤解だって。

ほら見て。これ、あたしの執行官バッジ。この土地の審査官に会うために、この弟子と一緒に派遣されてきたんだ。

まじめな町民

ふむ……本物のようだな。シルバー様も似たようなものを持っていらした。

あんた……そいつがあんたの弟子だって言うのか?

パスクアラ

彼はその……ちょっと老けて見えるほうなんだよ。

悲しむ町民

エーギルでも……裁判所に入れるようになったのか?

イシドロ

……復興計画の一環としてな。

悲しむ町民

はぁ……

ますます世の中がわからなくなってきたよ。

イシドロ

その……感謝する。そのバッジは奴からくすねたのか?

パスクアラ

えーと……

イシドロ

気になっただけで責めてはいない。それよりお前、顔色が悪いぞ。

パスクアラ

もう……無理ぃ……

おえええ……!

イシドロ

おい……

パスクアラ

ただ……ちょっと――うえええ……!

塩鱗獣に……酔っちゃって……おえええ……!!

少女は激しく嘔吐しながらも、荷物の中にバッジを詰め込むのを忘れはしなかった。

一瞥しただけでも、彼女のショルダーバッグには、執行官の手荷物品が十数個と、イシドロの作った薬剤のボトルが数本入っているのが見て取れた。

彼には、それがいつの間にまた盗られたのかさえ判然としない。

イシドロ

……まあいい。

これで貸し借りなしだ。俺はもう行くぞ。


びくびくした町民

人違いです。

イシドロ

まだ何も言っていないんだが……

不安な町民

よそに行ってください。

イシドロ

だから、何も……

慌てる町民

ほかを当たってくれ。

イシドロ

話くらい聞け! この近辺には、海賊が編み出した「波風と戦う」ための剣術が伝わっていると聞いたが、何か知らないか?

慌てる町民

か、海賊だって? ああ聖徒よどうかご加護を。アーロンは再び災いに見舞われようとしているのか……

イシドロ

なに……?

慌てる町民

もうすぐ大雨が降りそうだから、家に帰って服を取り込まないとならないんだ! 早くどこかに行ってくれ!

イシドロ

……あんたの家はここではないのか?

……それに、この場所はイベリアで一番乾燥した地域なのでは?

青年が不思議に思っていると、背後からどたばたと足音が聞こえ、振り返れば通りには誰もいなくなっていた。

視線を巡らせてみれば、不快な音を立てて扉と窓が次々に閉まっていく。

イシドロ

……

まさか本当に雨が降るのか?


口に含んだ肉は痩せて乾いたものだった。彼の左の奥歯はぐらついて痛み、右の歯茎で少しずつ削って食べるほかにない。

母が言うには、これが家に残った最後の食べ物だということだった。

彼は、それを与えてくれた時の母の慈愛に満ちた眼差しを、そして自分がそれを持ち上げた時の母の冷ややかな眼差しを思い出した。

そこにはいくらかの矛盾があったが、彼はそれを飢餓状態による記憶の混濁のせいだと思うようにした。

その奥歯が緩んだのが、母のせいだったのか、あるいはただ抜け替わろうとしていたからなのか、思い出せないのと同じように。

彼はあまりの空腹に、手にした肉を見つめながら一人つぶやく。

「でも、これが最後の食べ物なら、食べたらなくなっちゃうんだよね……」

「どこに行けば、ほかの食べ物を見つけられるんだろう……」

扉の向こうから、刃物を研ぐ音が聞こえる。思えば、父が失踪する前にも、この音を聞いたような気がした。

そこでふとあることに思い至り、彼の全身に寒気が走った。

彼は思い出したのだ。あの時、母が血まみれの顔に恐ろしい笑みを浮かべながら、肉を持って扉を開けたのを。母は彼に口を開けさせ、咀嚼させ、飲み込ませたのだ……

彼は歯の抜け落ちた歯茎を舐めた。あの時はひどく痛んだが、今はもう痛みはない。

彼がその罪に生かされたのだとすれば、首を差し出し死を受け入れて、その死によってすべてをすすぐべきなのだろう。


鋭い骨にこびりついた血液は、血に飢えた小さな生き物を引き寄せた。その生き物たちは血まみれの傷口に向かって、待ちきれないとばかりに這い進んでいく。

真っ先に到達したのは羽を持つ小さな虫だ。それは彼のあごに止まると、青白い唇を、そして頬を這い、最後にまぶたで止まった。

生き物たちがご馳走にありつこうとした瞬間、男のまつ毛がはたと揺れた。

アナスタシオ

ああ……

罪人たるアナスタシオよ、なぜ己が死に値するなどと思うのです?

貪欲さに侵された者も、コンパスに腐敗させられた者も、どちらも未だ彷徨い、悪事を成しているというのに。

貴方は彼らを見つけ出し、その欲深さを取り除き、その苦しみを終わらせてやらねばなりません。

……それこそが、貴方の使命なのですから。

男はゆっくりと骨から身体を引き抜いた。細やかについた返しとトゲが彼の血肉を引きちぎる。

しかし、その間一度として、彼の身体は震えはしなかった。

アナスタシオは塩海の奥へと歩みを進める。彼が残した血痕の上では、血を好む飢えた小さな生き物たちが付属肢をこすり合わせていた。