白き海の彼方へ EP-2・戦闘前
脚部切断療法
あなたって、一人でいる時はいつも海のほうを見てますね。
小さい頃、あなたがあたしを抱きかかえて遠くを指さしながら、南へずっと進んでいけば、空よりも青い海が見えるって言ったこと、今でも覚えてますよ。
もう五十年も前のことね。
フアナさんは、今でも百年前のことを忘れずにいるみたいですね。
あら、私の真珠ちゃんったら。あなたも、波間に揺れる船の上から雲間に交わる稲妻を見て、絶え間ない雷鳴を聞き続けていれば――
一生それを懐かしむしかなくなると思うわよ。
実際、気になりますよ。先輩方が寝ても覚めても心に思う海ってのは、どんなものなのか。
あたしはこの一生を塩海で過ごしてきましたから、どんなに想像したって皆が夢中になる理由なんてわからないでしょうけど。
うちの親父は死ぬ前、海に出ていた頃の話を毎日のようにしてました。あなたとクルーズ船長と一緒に、船倉いっぱいに財宝を詰め込んで、船が沈んじまいそうなほどのコインを手に入れたとかって。
あなたのお父さんは、私が見てきた中でも一番俊敏な操帆手だったわ。彼は平地を歩くみたいにマストを登っていたものよ。
残念ながら、自分の目で海を見た船員はもういくらも残ってませんがね。
あたしが心配してるのは、まさにそこなんです。コンパスの導きがあっても、あたしらにはベテランの船員が足りてないんですよ。
海を前にすれば、誰もが無謀で無知な子供にすぎないわ。
はぁ……今のあたしらは、この塩海を相手にするのも大変なくらいなんですよ。
偵察員の報告では、アーロンにヤバい奴が来て、交易路がほとんど全部断たれちまったって話ですから。
あの連中、ついに本気で動いてきたのかしら?
そいつは、うちとキャラバンが接触した地点を正確に特定してきたそうです。これまで数十年の間、町の間抜けどもには痕跡すらも見つけられなかったってのに。
はぁ……厳重に守っていたコンパスを盗まれたのだから、裁判所からすれば屈辱だし、挑発されたに等しいことなんでしょう。
どうあれ、簡単に見逃してくれそうにはないわね。
もう時間がありません。かといって、あの坊主も聞く耳を持ちませんし……一体どうしましょう。
もしかすると、あいつは本当に錬金術師じゃないのかもしれませんよ。
坊やの正体については確信があるの。
あの子が持っていた金貨には、片面に「塩」、もう片面に「水」を表す模様が描かれていてね。それは、特別な錬金術の流派のシンボルで、「海に向き合い生きること」を意味しているのよ。
金貨の元の持ち主はアウルスという男でね。彼は、その流派で一番才のある錬金術師だったの。
あの子はそのアウルスと同じ剣術を使っているし、言動にもどこか似たところがあるわ。
あるいは単なる知り合いで、金貨は何の気なしに贈ったものかもしれないじゃないですか。
いいえ。アウルスがあの金貨を他人に渡したということは、その人に並々ならぬ期待を抱いているということなの。
彼らの流派においては、あの金貨は弟子以外に授けてはならないという決まりがあったはず。
だとしたら、どうしてあの坊主はそれを認めようとしないんでしょう?
わからないわ。私も戸惑ってるの。あの子自身は何のリスクも冒さなくていいと何度も説明しているのに……
幼いイシドロは思い切り歯を食いしばったが、歯茎の奥から込み上げてくる苦く酸っぱいものを抑えることはできなかった。
眼前にいる恩師の足元には、共に学んだ者の死体が転がっている。
とうに冷え切った手足には、吐き気を催すような水色の粘液が残っている。
涙で視界がぼやける中、流れる水の如く優しい声が、断りもなく心の奥へと響いてくる。
なぜ涙を拭っているんだい、イシドロ。
あなたは彼を殺した……
――海と陸は本来一つのものだ。融合とは、両者の隔たりを取り除くことにほかならない。
この決断をしたのは彼自身だ。己の体内を流れる塩と水とを受け入れて、その存在のすべてを我々と分かち合ってくれたのだよ。
もはや恐怖も、憎悪も、嘲笑も、怒りも……そして、閉ざされた扉も、閉ざされた心も、汚らわしい血も、恥ずべき痛みもなくなったのだ。
いつの日か、誰もが誰もに心身を開け放つことだろう。
その時、突然床の上の死体が、水の中から飛び出した鱗獣の如く跳ね、甲高い呼吸音のようなものを立てながら再び床に倒れこんだ。
イシドロは、死体のまぶたがゆっくりと持ち上がり、見知らぬ生き物の瞳があらわになるのを見た。
それは唇を開閉し、人間ともそうでないとも言い難い声を発した。
「お前モ……僕ト……同ジ、よウに……」
いやだ――!
俺は絶対……お前のようには、ならない……
絶対に……
はぁ……
フンスフンス!
(くねくねと動く)
ん……?
(胸びれをばたつかせる)
お前……
(思い切り噛む)
ッ、何をする!
小動物は彼の足元をうろついて、その丸い身体でイシドロの足にのしかかろうとした。
小屋の外、あらゆる方向から色々な声が聞こえてくる。泣き声や言い争う声もあるが、ほとんどは何かを罵倒する声だった。
イシドロは咄嗟に動きを止め、彼らが罵っているのが自分でなければいいが、と無意識にそう思った。
それから、扉の外へと顔を出す。普段と違って、そこに見張りはいなかった。
集落の中を、一つの部隊がうつむきながら進んでいる。彼らの服はどれも血に染まっていた。
部隊の後方で引きずられている木板の上には、重傷者が何人か横たわっている。その傷は骨が見えるほど深いものだが、傷口にはただぼろきれがいい加減に巻かれているばかりだ。
木板には血が染み込んでおり、それが引きずられてきた痕跡は真っ白な塩の砂漠に長々と残っている。
時折聞こえる荒い息遣いだけが、彼らが今なお生きていることを証明していた。
何とか半分生き残ってるくらいじゃない……
はぁ……
ねえ……一体何があったの?
裁判所のペテン師どもが、通り道で待ち伏せしてやがったんだ。仲間が大勢犠牲になって、何とか逃げられたのは……俺たちだけだ。
町の連中はソルトシップなんて持ってないだろ? どうやって塩海の奥までやってきて、お前たちを見つけたんだ?
そんなこと、誰にもわからんさ……
奴らと来たら、まるで悪霊だ。痛みなんて感じてないみたいで、傷ついたって倒れもせずに、またすぐに攻撃してくるんだよ。
(小声)町にいた修道士は全員、少し武芸をかじっているだけの普通の連中だったはずだ……そんなことができるはずもない。
来たか、ティーチ。ほかの部隊はどうなった? 目標を達成して、戻ってこられた奴らはいるのか?
皆あんたらと同じで、ひどい有様だよ。それに、まだ音沙汰のない部隊だって一つあるんだ。
……このまま行くと、サルベージ隊まで人手不足になりそうだな。
ティーチは何か言おうとしたところで、ふと群衆の中にイシドロの姿を見つけた。
彼女はそのまま歩み寄り、イシドロを乱暴に引っ張ってルスの前まで連れていく。
どうやって抜け出してきた?
入口に見張りがいなかったんだ……
よし、決めた。こいつを連れていけ。
俺を?
そうだ。
同意できんな。
俺もだ。あんたたちの事情に関わりたくはない。
いいか坊主、「働かざる者食うべからず」がここのルールだ。錬金術をやりたくないってんなら、ほかの仕事をしな。
ただ俺を追い出せばいいだけの話だろう?
そうはいかないね。うちは人手不足なんだ。死ぬまでここで働き続ける覚悟をしな。
……引っ張るな。
ルス、明後日の朝に、こいつを連れてここに集合だ。キャプテンにはあたしのほうから話しておくよ。
バカげてるだろ、そんなの……
……
フンスフンス!
お前も行きたいのか?
(激しくうなずく)
ダメだ。
(怒ってヒレをかじる)
リーフ、荷物はここに置いて。
ちょっと待ってよ、ウィーディ!
理解できないんだけど……どうしてそんなに大荷物なの?
ソーンズの奴にはしばらく会ってないからね。友達としては、色々届けてあげないと。
リーフに持ってもらってもいいんだよ。
大丈夫大丈夫、これくらい大したこと――
あちゃー、詰め込みすぎてケースがはちきれちゃった。
まったく。リーフ、散らばった荷物を回収してあげて。
この大袋……フェイスパックにボディローションまで入ってる……重たい! どうしてこんなにスキンケア用品を詰め込んでるの?
ここは日差しが強いから、スキンケアには気を付けないと。前回のバカンスで起きた悲劇を繰り返したくないからね。
私たち、行方不明のソーンズさんを探しに来たはずだよね?
だってほら、あいつが迷子になるわけないでしょ? えーっと、このスーツケースには何を入れてたっけ……ああ、服か。
この任務に、スーツケース一つ分の服が必要だって言うの?
外に出る以上は、ロドスを背負って行動することになるわけだし、見た目には気を遣わないとね。
で、どれがソーンズさんに渡すもの?
それだよ、君の足元にあるやつ!
日焼け止め……? 「爽快クールなウォータープルーフ、美白にはこれ一本」……って、こんな物あの人に必要だと思う?
もちろん。太陽がこんなに照り付けてるんだから、日焼けしちゃうと良くないだろ?
……まあ、友達のあなたが言うならそうなんでしょうね。
ちょっと、どうして引っ張るの?
人が来たから。通行の邪魔でしょ。
執行官様! 今夜も教えを説いていただけますか?
あなたには感謝ばかりです! 実は、妻はもともと、毎夜起き出しては台所で盗み食いをしていたのです。日中は教えに従い、暴食などせずにいるというのに……
ですがあなたの教えを受けて、妻はそれをぱたりとやめました。執行官様の教えが妻を浄化してくださったのです! 本当にありがとうございます!
ただ、己の持ちうるものすべてを皆さんと分かち合っているだけのことですよ……
なんと謙虚な……!
執行官様、どうか御手を握らせていただけますか。アーロンでは近頃色々なことが起きていまして、とても恐ろしいのです……
それで貴方に慰めをもたらせるのなら、喜んで。
あ、あの、私はこれまで悪いことをしたことがないんです。ですので、執行官様に……
祝福をいただくことはできますか……?
押さないで、順番に!
それぞれ、お話ししたいことは事前に考えておいてくれ! 執行官閣下のお時間をあまり取らせないように!
(小声)なんとなく妙な感じがする……
(小声)それだけ裁判所を信頼してるんでしょ。
(小声)そうなのかな……
ここの管轄責任者はどこにいるんだろう。
そちらのお二方、何かお困りごとでも?
声をかけていただいて、ありがとうございます。実は、この町の責任者さんにお会いしたくて……ところで、あなたのことは何とお呼びすれば?
名前でお呼びください。私はアナスタシオと申します。
(小声)この人、本当に人気者なんだね……
(小声)そうだね。道を歩いてるだけでも、彼を見かけた人がみんな立ち止まって挨拶してるくらいだ。
さて、審査官のシルバー閣下はこちらにいらっしゃいます。どうぞお入りください。
魅力的過ぎるのも困りものですよね。気持ちはわかりますよ。
……何の話でしょう?
あの、彼は一体何を……?
ええと、ごめんなさい。私はただの同僚なので、彼のことはよく知らないんです。
こほん、申し訳ない。お客人がいらしたというのに、もてなしに出せるものが何もなく。
町の食料庫が盗賊に燃やされてしまい、次のキャラバンの来訪までは皆飢えを耐え忍ぶしかない状況なのです。
気にしないでください。食料は自分たちで持ってきましたから。
本当に申し訳ない限りです。
そういえば、自己紹介がまだでしたね。
この人は外勤オペレーターのエリジウムさんで、私はエンジニア部のウィーディです。私たち二人とも、ロドス・アイランド製薬に勤めています。
あなたはエンジニアの方なのですか?
はい、そうですよ。
でしたら、ご相談したいことが。風力式の小型陸上艦を作りたいと思っているのですが、関連の知識はお持ちでしょうか?
私の専門はバイオテクノロジーなので、機械工学にはあまり詳しくないんですが……私の知識の範囲で判断すると、すごく難しい設計だと思います。
海を進む船と違って、丈夫な素材を使わないと、動かした瞬間にバラバラになってしまいますし。
(焦った様子を見せる)
鋼鉄製のキールを使うとしたらどうでしょう?
それだと重すぎて、風力では動かせないでしょうね。
ということは、風力式の小型陸上艦は、実現不可能に近いのでしょうか?
いえ、そういう不可能に近いものでも、作れる人はいるはずです。設計の問題点さえ解決できれば、実際作るのはそこまで難しくないと思いますよ。
少なくとも、自分の殻にこもっている今のイベリアにとってみれば……本格的な陸上艦を作るほうが難しいでしょうし。
そうですか……
(焦り気味に両手を振る)
ええと、話を遮ってすみません! そのー、先に本題の話をしてもいいですか?
僕の友達が行方不明になってしまって……
おっと、申し訳ない、私がお聞きしたせいで。よろしければ、ご友人の特徴を伺っても?
そんなの、絶対にありえません!
あいつは僕の親友なんです! そんなことするはずがない!
落ち着いてください、エリジウムさん。私は実際に起きたことを述べただけです。
つまり、ロドスのオペレーターである彼が塩海の盗賊と結託して、町民の遺体を盗み、さらには盗賊と一緒に処刑場から逃げ出した、ということですか?
尋問中、彼は自分がロドスのオペレーターだということを明かしはしませんでしたが……彼の犯罪行為については事実です。
いやいや、きっと何か誤解があるんですよ。
しかし残念ながら、我々の掴んだ情報はすべて、逃げ出した彼を示しているのです。
フンスフンス!
(身をよじる)
ついてくるなと言っただろう。
おい坊主、ネネには敬意を持って接しろ。
あんたたちに接する時と同じ態度で接しているんだが。
だったらなおさら敬意を持て! まったく、ネネはお前よりずっと役に立つんだぞ。
てっきりこいつは非常食だとばかり思っていた。
ネネはキャプテンの宝物なんだ。鱗一枚だって迂闊に触れるやつはいねえくらいさ。
それに塩海では、ネネは俺らよりもよっぽど鋭い感覚を持ってるからな。ネネがいるおかげで、塩の下にある良いもんだって見つけられるんだ。
良いものというのは?
そりゃお前、黄金時代の骨董品だよ。ハイテクな道具だの高級品だの、どっちにしろとんでもない値打ちもんさ。
黄金時代の遺跡の発掘は、裁判所の命令で固く禁じられているはずだろう?
確かに奴らは嫌がるが、密入国してるキャラバンの連中はこういうのが大好きなんだ。だから俺らは、それを真水や物資と交換して生計を立ててる。乞食になるよか、そのほうがマシだろ。
違法取引というわけか……
そんな顔すんなっての。こんな場所じゃ、生きてくだけでも精一杯なんだ。いちいち法律なんぞに構ってらんねえんだよ。
なあ、それよか坊主……
お前が錬金術に使うことになる材料は、鱗獣の骨一本に至るまで、全部が全部船員が汗水たらして手に入れたもんだ。
……よく考えて行動しろよ。最初からできないってわかってんなら資源を無駄にするんじゃねえぞ。
俺にどうしろと?
錬金をする時に、ちょっとした騒ぎを起こして、失敗をキャプテンに見せつけろ。それであの人を諦めさせるんだ。
(小声)そんな真似をせずとも俺を逃がせばいいんじゃないか?
それは……
それに、なぜ彼女に直接その話をしないんだ?
キャプテンには、俺たちが計画に反発してるなんて思われたくないんだよ。俺たちはあの人を尊敬してるが……あの人が恐ろしくもあるんだ。
恐ろしい? 確かに、彼女の戦いの腕は相当のものだが。
本当に怖いのはそこじゃねえんだよ。
ふと、風の中に異音を聞いたかのように、フアナが足を止めた。
だが彼女が振り返っても、広大な塩海には彼女が残した足跡以外、どんな生き物の活動の痕跡も見当たらない。
ほっとしたようにため息をついて、彼女は再び前へと進む。その行く手には、巨大な骸骨の下に広がる濃い影が見えていた。
フアナはその影へと足を踏み入れ、姿を消した。
その昔、船団内で反乱が起きたことがあるそうなんだ。昔のことすぎて、一部の年寄りしか覚えてすらいないんだが。
反乱の原因は、全員の前で彼女を告発した奴がいたことだ。「フアナは海の怪物と取引して、船員をみんな怪物に献上することで、大きな力と長い寿命を得た」と、そいつは非難したらしい。
海の怪物というのは、シーボーンのことか?
どう呼んだって構わんが、とにかくその怪物どもは、この辺りから海水が引いた頃になっても、まだ猛威を振るっていた。そこで、クルーズ船長たちが命がけで奴らを一掃したんだ。
だが、結局クルーズ船長も……その仲間たちも、みんなこの塩海で死んじまって、生きて帰ってきたのはフアナだけだった。
彼女は戻ってくるなり船団のすべてを引き継いだ。一方で、彼女に従わなかった連中は、狩りの最中や裁判所に包囲された時なんかに次々と死んでいった。
あんた自身も言った通り、そんなものはただの噂だ。
……あのティーチでさえ、それが起きた時にはまだガキだったそうだ。
つまりあんたは、フアナがコンパスを直そうとするのは、皆の活路を見出すためなどではないと考えているのか?
あるいは……それもフアナの壮大な計画の、ほんの一部でしかないのかもしれないと思ってる。あの人の最終目標なんざ、誰にもわからないからな。
ほかにも、そう考えている人間が?
……まあ、一部な。
ハビエルもその一人なのか?
いや、あいつはキャプテンを疑ったりなんかしない。
ハビエルは母親を亡くして以来、キャプテンに育てられてきたからな。もうあの人を親だと思うようになって久しい。
それで、さっきの話に出てきたシーボーンの件だが……実際にそれを見た船員はいるのか?
いいや……誰も。
フンス……フンス!
くぁーん! くぁーん!
こいつ、どうしたんだ?
ハハッ、何か見つけたらしいな。
怠け者ども、帆を畳んで錨を下ろせ! 船を降りるぞ!
伝令だ! 発掘準備!
道具と武器を忘れずにな、坊主。ちゃんと見張りをつけるから、逃げようだなんて考えるなよ。