白き海の彼方へ EP-6・戦闘前
退路燃えぬれば
(小声)まさかあの女があたしたちを解放してくれるなんて……あたしはてっきり、修理に失敗したら、縛って裁判所送りにされると思ってたのに。
(小声)しーっ……
どれだけ詫びたところで、あんたが負った損失を埋め合わせようがないことはわかっている。
こういう定めだったのよ。
安心して、あなたを責めたりしないわ。だってあなたのせいじゃないもの。この選択をした時点で、どんな結果でも受け入れる覚悟はできていたの。
あんたは俺たちをかばって船員たちの怒りを受け止めてくれた。パスクアラを守ってくれたのもあんただ。
……あんたも一緒に来ないか。
そうですよ、フアナさん。ここに残るのはどう考えても危険です。
早く行って。これまでずっと逃げたい逃げたいって騒いでたじゃない。せっかくのチャンスなんだからさっさと逃げちゃいなさい。
……
私はキャプテンだから、船員を見捨てたりなんてしない。クルーズにそう誓った以上、一生それに背きはしないわ。
フアナ……あんたに返さないといけないものがある。
その服と剣なら、取っておきなさい。あなたへの報酬よ。
いや、そうではなく……
何かしら?
青年はポケットに手を伸ばしたところで、ふと動きを止め、ゆっくりと息を吐いて――
それから、ポケットの中のものを取り出した。
コンパス? 嘘でしょう……
そんなはず……これが無事なのだとしたら、工房に転がっていたあの残骸は……?
コンパスを直していなかったのなら、あなたはずっと何をしていたの……!?
……
答えなさい!
あれは……俺が作った複製品の残骸だ。本物を使った実験はしていない。
ふぅ……
何それ!? いつからそんなことしてたの? 全然知らなかったんだけど……
誰にも言わずにおいたからな……
なぜそんなことをしたの!
コンパスに搭載されている心相原質は……想像よりはるかに複雑な構造をしていた。その完璧な複製を作り出すことができなければ、本質を理解しているとは言えない。
そんな状態で軽率に本物の心相原質を操作したところで、ほぼ確実に失敗するだろう。
だが、俺は失敗できない状況だった。あんたの期待も、船団すべての注目も向けられる中で、エリジウムとパスクアラの運命も含めて……すべてが俺にかかっていた。
そして俺は、こう考えずにはいられなくなった。失敗する定めなのであれば、せめて損失を最小限に抑えるべきだと。――だから、俺はずっと心相原質の複製を試みていたんだ。
そうすれば、仮に心相原質を理解するだけの能力が俺にないことが証明されてしまったとしても、あんたたちは本物のコンパスを持って次の錬金術師を探しに行くこともできるだろう。
加えて、船団の資源が底をつかずに済むように、材料も一部は節約しておいた。
俺は……
……すまない。本当に手は尽くしたんだ。
イシドロ……あなた、それで全力を尽くせたと思っているの?
俺の計算では、87%以上の確率で失敗すると出ていたからな……俺の考えうる中で、これが一番安全な方法だったんだ。
失敗なんかを怖がることないのよ。たとえ成功率が一万分の一しかなくても、私ならすべてを賭けて、全力でチャンスを掴みに行くわね。
それはギャンブルであって、実験とは呼べない。
ハッ……その成功を掴む確率と比べても、二度目のチャンスが訪れる確率なんてものはもっと低いのよ。
答えて、イシドロ。私たちの人生はギャンブルなのか、それとも実験なのかを。
……
もうすぐウィーディが迎えに来てくれるんだ。一緒に来ないかい?
……俺の旅はまだ終わっていない。
俺は続けるつもりだ。
じゃあ、パスクアラはどうする? 一緒に来るかい?
あたしは……
行こうよ。少なくとも、君をどうにかここから連れ出すことはできるだろうから……
わかった……イシドロ、身体に気を付けるんだよ。
本当に、気を付けてね。
ああ、お前たちもな。
シルバー閣下。
君は残ってくれるのか……そうか。本当に良かった。
お忘れですか? 私は足を悪くしていますから、行かれないのですよ。
……忘れてなどいないさ。二度目の包囲討伐戦でケガをしたんだったな?
……やっぱりお忘れですよ。この傷は処刑の日に負ったものです。あなたが傷の処置をしてくださったではありませんか。とはいえ、結局傷口から感染はしてしまいましたが。
……
もしもの話だが……あの時の私に、君の足を治すだけの技術があれば、君は今頃我々と共にここを発っていたのだろうか?
もちろんですとも。
……そうか。
……
……
何を話していたのですか? そろそろ出発の時間ですよ。
アナスタシオ殿……
はい?
あなたと共に働けることを、光栄に思います。
フアナさん、どこに行ってたんですか?
……あの坊やたちを送り出してきたの。
そうですか。ところで、頼まれていたことですが、もう準備は整ってますよ。
ありがとう。この先数日は……部下とネネを連れて、塩海に身を隠していなさいね。
あなたを一人で残したりなんかできません。
これは命令よ、ティーチ。
月明かりの下、イシドロは一人塩海を進んでいた。彼の後ろには、ただ孤独な足跡だけが続いている。
どれだけそうしていたかはわからない。おそらくは、一晩中歩いていたのだろう。
彼は、自分が大勢の人間を失望させてしまったように感じたが、何を間違えたのかはわからなかった。
不意にイシドロは、友がそばにいてくれたらと思い、先ほどのエリジウムとの別れを痛感した。
ウィーディはもうエリジウムを見つけているはずだ。イシドロの無事を確かめたことで、二人の任務も完了となるだろう。
となれば今頃は、塩海を離れて次の任務へ向かおうと相談をしているかもしれない。その一方で、イシドロもまた、一人自分の旅を続けることになるのだろう。
何一つ問題も、気がかりもない。
くあぁ~……ねみい……
こんなことなら、夜にガルムを二杯も飲んだりしなきゃよかったな……
うぐっ――!
監視は片付けた。執行官閣下には、情報に誤りなしとお伝えしろ。
進軍準備だ。
早かったわね、ハビエル。
……フアナさん一人ですか。
ええ、見ての通りね。
護衛くらいつけたらどうです……
あるいは、本来私を護衛してくれるはずだった人が……今は、私が打ってあげた包丁を私に向けているから、こうなってるとも言えるでしょうけど。
さあ、私を殺せばこの船団はあなたのものよ。
……
フアナは捕らえた。しっかり見張れ。傷つけるなよ。
……ほんと、笑っちゃうわね。
どうやってここを見つけた? ……どんなクソ野郎が俺らを裏切りやがったんだ?
死に際にも復讐のことなどを考えるとは――悪党め!
ぐはっ――!
どうでしょう、コンパスの手がかりは聞き出せましたか?
執行官様。この連中は単なる下っ端で、まともに話も通じません。
コンパスを見つけるには、賊どもの拠点のさらに奥まで行く必要があるかと……
では、私が命じるまで止まってはなりませんよ。行く手を阻むすべてを焼き尽くすのです。
悪事のために用いられる不潔なものなどは、残しておく価値がありませんので。
はっ!
その時、異様な音がイシドロの思考を遮り、歩みを止めさせた。
振り返ってみれば、何かがぼんやりと夜闇を照らすのが遠目に見える。
あれは……
天を衝き燃え上がる炎。
嘘だろう……
船団のある方向だ。
なぜこんなことが?
俺は……
イシドロは一切ためらうことなく駆け出した。
理性ではなく衝動に基づいて、その決断をしたのだ。
来た道を、足跡を辿り必死になって駆け戻る。
彼の足跡はもはや孤独ではなかった。
よせ、もう探すな。どうせ見つかるはずがない。
船員たちから聞いたんだ。あの坊主の実験は失敗して、コンパスも壊れたと。だから、見つけたところで意味はないだろ。
意味がないかどうかなど、あなたが決めることではありませんよ。
はいはい……悪かったよ。
私はあのコンパスを十年近く守り続け、あれを手に入れようとした人間を全員殺してきたのです……
ゆえに、本当に粉々になっていたとしても、それをこの目で確かめなければならないのですよ。
貴方たちのキャプテンはどちらに?
フアナのことは見逃すと約束したはずだ。
貴方とシルバー閣下が交わした約束など、私には無関係です。
あの女が、コンパスを持って逃げたのでしょう? 錬金術が失敗したなどというのは単なる口実なのですね?
そのような嘘をついたのは……あの女を守るため。貴方自身の欲望のため。そうなのでしょう? やはり貴方も――
嘘はついてない。フアナはもうコンパスなんか持ってないんだ。壊れたコンパスなんぞ、彼女には必要ないからな。
あんたが探すべきなのは、あの錬金術師の坊主と奴の工房だけだ。
場所を教えなさい。
向こうにある、後列二つ目のテントだ。地面に隠し扉があって、錬金工房はその下にある。
……嘘ですね。
死に急ぐような真似はやめなさい。
……
動くな、おとなしくしろ!
なあ……コンパスを見つけさえすれば許してもらえるって話だったよな? あれって本当なのか?
俺らはすぐに投降したわけだしよ……それなりの恩赦があってもいいんじゃねえか?
……
愚か者が。
はぁ、そうかよ……