安らかな譫言 SS-4・戦闘前
客間の迷宮
揺れる甲板から堅牢な大地に足を踏み出すと、祥子の心に安心感が湧き上がった。
嬢ちゃん、話に付き合ってくれてありがとな。
この島は随分離れてるからな。あんたがいなきゃ、一人でだだっ広い海を眺めて運転するところだった。想像するだけで、退屈すぎて気がおかしくなりそうだ。
こちらこそ、海の上の興味深いお話をたくさん聞かせていただきありがとうございました。
その恰好からして地元の子じゃなさそうだな。なんでこんな誰も来ないような小さい島に来たんだ?
……捜している人がいますの。
この島の人か?
……おそらく、違います。
そりゃ珍しいな。この島から出ていく奴はいても、自分から来る奴なんて初めて聞いたぞ。
わたくしも、確信があって来たわけではなく……
夢に入った時、祥子の手元にあったのはこの島への乗船券だけだった。モーフィアスの悪戯かもしれないという考えが頭によぎったが他に取れる選択肢もなかった。
(肩を叩く)まぁ、心配すんな! この島に住んでる奴は少ないから、住民に訊いたらすぐに見つかるだろう!
……ええ。
けど嬢ちゃん、その子が見つかっても見つからなくても、昼過ぎには戻ってくるんだぞ。
この島は船の便が少ないからな。もし逃しちまったら、次に帰れるのは早くても来月になっちまう。
ですが、それではもう時間が……
うーん、そう言われてもな……
少しだけなら待てるが、夜の航海は危険だからな。日が暮れる前には帰らないといけないんだよ。
……わかりました。急ぎます!
(歌声)アーアーアー……♪
はい、聞こえます。
(小さな歌声)アーアーアー……♪
……
離れて何度か歌ってみたけど……ダメだった?
……はい。何も聞こえませんでした。
……とりあえずアイマスク外すね。
どうでしたか?
ちょっと言いにくいんだけど……前やった時と比べて、また聞こえる範囲が狭くなってるみたい。
そうですか……分かりました。これからフィールドワークに出る時は、もっと周りの状況に気を配るようにしますね。
エイヤフィヤトラちゃん、やっぱり危ないんじゃないかな……
島に来てどれくらい経つの?
二ヶ月くらいです。
聴力が落ちてるのに、ちゃんと診てくれるお医者さんもいなければ治療方法もないんだよ。
今日は港に船が来てるはず。荷物をまとめるのを手伝ってあげるから、すぐにでも帰ろう?
そういうわけにはいきません。まだこの島の火山のデータを集め終わっていないので……
でも、エイヤフィヤトラちゃんの身体は――
この島に来る前に、ロドスの先生に診てもらったんです。
その……確かにあまり良い状態とは言えないんですが、先生と約束したんです。三ヶ月だけって。
火山の研究が私にとってすごく大切だってことは先生も分かってくれてますから、最後には納得してくれました。
……
初華さん、私は火山が好きなんです。あなたが星を見るのが好きなように。
私たちが初めて出会ったのも、私が山で迷子になっていた夜でしたね。あの時、ちょうどあなたは星空を見上げていました。
……これから山にフィールドワークに行く時は、私も絶対一緒に行くからね。
はい、ありがとうございます!
今日は天気がいいなぁ……
私、初華さんの歌が聴きたいです。
こんな良いお天気の日は、歌を聴きながら遠くの火山や海を眺めるのにぴったりですから。
いいよ。じゃあちょっと近寄るね……
初華が距離を少し詰めると、エイヤフィヤトラは小さな耳をぴんとそばだてた。その耳には、ちらりと補聴器が覗いている。
(深く息を吸う)
とっても素敵でした!
……ありがとう。
初めて聴きましたが、どなたが作った歌なんでしょう? もしかしてこの島の歌ですか?
私も分からないんだ。前にどこかで聴いたのかな、知らないうちに歌えるようになってて……
でも、初華さん……なんだかすごく寂しそうです。
え……?
なに? 三角初華?
ジョン、聞いたことあるか?
いいや。名前からして島の外の人間だろ?
なにか手がかりだけでも頂けませんか?
島で一番顔が広いあなたならきっと何か知っていると、先ほど近くにいたおばあ様からお聞きしましたの。
うーん……なんせ人が少ない島だからな。誰も聞いたことがないってことは、最近来た人なんじゃないか?
そういえば、確か火山の裏手に別荘があって、そこに変わった奴が住んでるって噂があったな。
ああ……俺も聞いたことがあるぞ。
名前は忘れちまったが、そいつなんじゃないか?
その別荘はどちらですの!?
ほら、この海岸道路沿いを北に二十キロ、回り込むように山の裏側まで行けば、あの別荘が見つかるはずだ。
ありがとうございます。二十キロなら、車で行けば三十分ほど……
嬢ちゃん、ここに車はないぞ。
車がない……?
ここに来るまでに気が付かなかったのか? この島に車なんてないんだ。
でも、道路は整備されて……
むかし観光客を呼び込もうとして道路を作ったんだが、完成しても誰も来なかったのさ。結局、金がかかっただけで赤字になっちまった。
嬢ちゃん、急いでるならこの自転車を貸そうか?
古いやつだが、まだ何とか使える。頑張って漕げば、別荘まで二時間くらいで着けるはずだ。
……
祥子は男の背後にある古びた自転車に目を向けた。フレームは傷だらけで、塗装もほとんど剥がれ落ちている。見るからに年季の入った自転車という佇まいだ。
頑張れよ! 久しぶりに来たお客さんだからな、目当ての人が見つかるように祈ってるよ。それと、島を楽しんでいってくれ!
ありがとうございます。それでは、わたくしはここで。
祥子がペダルを軽く踏むと――
なんとか、走れそう……ですわね!
気をつけろ! 前は下り坂――
注意はもう手遅れだった。古びた自転車は制御不能になり、祥子は自転車ごと坂道を滑り落ちていった。
きゃ――――!!!
――ふふっ、面白いわね。
あっはははははは――
ほんと――最高ね! あははははは!
モ、モーフィアス。
少し、やりすぎ、じゃ……
黙りなさい。
……
あいつが自分で勝負に乗ってきたんじゃない。私は勝負を進行しているだけ。
あいつの弱点、絶対に暴いてやるわ。そして二度と覚めない夢を紡ぐのよ。
思い知らせてあげる――私こそが、夢のお城最高の「夢の作り手」だってことをね。
……アイリス。あんたが私より上なんてあり得ない。
太陽が真上に来て、木陰がどんどん狭まってきました……
ちょっと暑くなってきちゃいましたね。
私の別荘がこの近くにあるんだ。そこでひと休みしない?
ふぅ――すっごく涼しいです!
リビングもとっても広いですね。ここまで広いと、冬場は寒くなっちゃいませんか?
あそこの暖炉に火をつければ、すぐに暖かくなるんだ。
でも私一人なら、ストーブをソファの傍に置くだけで十分だよ。
うーん、初華さんがここまで立派なお嬢様だったなんて……
いやいや! 私はここに住んでいるんじゃなくて、この別荘を管理しているだけ。
(小声)私、家主さんのお邪魔になっちゃいませんか……?
大丈夫、今は私一人しか住んでないから。
ここの家主は……もう長い間帰ってないんだ。
なんだか……その人が恋しいみたいですね。
うん。仕事の関係っていうより、私にとっては特別な関係だったから……
あの子は、初めて私のことを見てくれた子っていうか……私と初めて親友になってくれた人でね。
あの子はピアノを弾くのが好きだった。私は傍で椅子に座って、ピアノに合わせて歌ってたんだ。
本当に……本当に楽しかったんだ。
それなのに、どうしてその方は、この島を……この「家」を出てしまったんですか?
どうしてだろうね……ここにずっといたいと思ってたのは、もしかしたら私のほうだけだったのかも。
自転車のきしむ音がますます激しくなり、祥子はバランスを取るだけで精一杯になっていた。
そして、体力も徐々に限界へと近付いていた。
きゃっ――!
急カーブにさしかかった所で、自転車のブレーキが突然効かなくなり、祥子の身体は勢い余って投げ出された。
ううっ……
祥子は痛みをこらえながら身体を起こし、必死に顔を上げて目的地の方向を見据えた。
遠くの山の麓に、一軒の家がかすかに見える。
あれは……
その家を見た祥子の脳裏には、何故か無数の知らない記憶が蘇ってきた――
こ、これは――!?
初華はこの夢の中で、幼い頃から祥子とここで遊んでいた。
そして成長してからは、ここで一緒に暮らすようになった。
これは……全部、初華の夢ですの……?
ふふん――♪ ふんふふん――♪
ふふっ……どうかしら? あの子には色んな夢を見せてあげたわ。だけど、結局あの子の願いは「あなたと一緒にいたい」ってだけなのよ。
そんな夢も、最後はいつもひとりぼっち。
いつも、あんたが突然いなくなる――
ほんと、あんたってつくづく酷い子ね。
そんな……酷いだなんて……
あいつから聞いたんでしょ?
夢に出てくるのは、心の奥底に眠るありのままの思いだって。三角初華が一緒にいたいと強く願えば願うほど、ますますあなたに手が届かなくなっていくわ。
ひと気のない小さな島を作ってあげても、そこを二人だけの島にしても……それでも、あの子は手に入れたものを失う辛さを何度も味わう運命なの。
結局あの子の幸せは、砂みたいに指の間からこぼれ落ちていっちゃうのよ。
まったく、夢の中ですら救われないなんて、どれだけ絶望してるのかしらね。
……初華、必ずあなたを悪夢から救い出しますわ。
ほんと? ほんとに!?
楽しみにしてるわ――己の無力さに打ちのめされ、途方に暮れるあんたの顔をね!
モーフィアスが人目も憚らずに高笑いをする中、遠くから船の汽笛の音が響いてきた。
それは、出航の時間が迫っているという合図だった。