安らかな譫言 SS-5・戦闘前
マスカレードへの招待状
祥、飲んで。
ありがとうございます。喉の痛みが少し治まりましたわ……
よかった。ほら、これ。レム・ビリトンは砂地だから、水とゴーグルがないと、生きられない。
祥子は睦から渡されたものを両手でぎゅっと握りしめた。水の入った袋が圧力で膨らみ、今にも破裂しそうだ。
祥、ちょっと変。気分悪い?
いえ、何でもありませんわ……
睦、わたくしのこと……覚えているんですの?
うん。
これまで、わたくしたちでしてきたことも?
うん、全部、覚えてる。
その言葉を聞いて、祥子はようやく少しの落ち着きを取り戻し、辺りの景色を見渡した――
二人はこれまで狭い坑道を奥へ奥へと進み、この場所までたどり着いた。
暗い、じめじめとした場所。ランタンと暖炉の火だけが微かに周囲を照らしている。
ベッドと食卓の間には一人が通れるほどのスペースしかない。しかし食卓に置かれたコップの数から、睦以外もここに住んでいることが伺える。
睦……ここでどのくらい暮らしているんですの?
一年くらい……ううん、もっと長いかも。どれくらい経ったか、感じなくなった。ここなら難しいことは考えなくていいから。
それは違います……時間の感覚がないのは、ここが夢の中だからですわ。
睦、どうしてこのような夢を……
夢……?
睦、あなたに大事なことをお伝えします。ここは現実ではありません、今すぐに――
あら――睦ちゃん、もう帰ってきてたの〜?
背後から走ってきた女性が、そのままの勢いで睦に抱きついた。
マ、ママ……埃、ついてるから、こすったらだめ……
もう! 丸一日も会ってなかったんだから、ちょっとくらい抱きついたっていいじゃない!
お客さん、来てるから……
あら、さきちゃん!
うちに来るの、ずいぶん久しぶりね?
みなみさん……
もう〜、そんなよそよそしい呼び方じゃなくて、「みなみちゃん」って呼んで?
うん、私も、たまにそう呼ぶ。
……
睦、いつからみなみさんとこれほど仲良くなりましたの……?
あら、私と睦ちゃんはずっと仲がいいのよ? だって親子なんだから。
ところで睦ちゃん、今日の成果はどうだった?
きゅうりジュース、いつもよりちょっと多めに売れた……多分、暑かったから。
睦がポケットに入っていた巾着をそっと開けると、中には硬貨が数枚入っていた。
うん――睦ちゃん、偉い!
ねえ、私のほうも見て。
ママ、すごい……
ふふ、今日は服のお直しを頼む人が何故かいつもより多かったの!
パパも、工事現場で一日中ずっと働いてたよ。お昼を持って行った時、埃まみれのパパを見たらちょっと可哀想になっちゃってね。仕事が終わったらちょっとだけ飲んでいいよって言っちゃった。
今頃、仕事の人と一杯飲んでるかも。一応「早く帰ってきてね」とも言ったけどね。
ちょうどさきちゃんも来たことだし、せっかくだから、みんなでご馳走にしよっか!
みんなで揃って食べられるの、嬉しい。
そうよ、今日はいつもより余裕があるし、たくさん食べなきゃ。
……
さきちゃんも、遠慮しなくていいからね!
祥、どうしたの?
い、いえ……なんでも……
目の前にある、裕福さとはかけ離れた家。剥き出しの土壁、弱々しく光るオイルランプ……
どうして睦の夢は、こんな所に……
睦ちゃん、みなみちゃん……あら? こちらの方は?
祥……私の幼馴染。
初めまして。
夕食でもご一緒にと思って来たんですが、いかがですか?
たくさん作ってきたので、ぜひ食べてください!
……申し訳ないわ、そんなの。
ご近所さんから聞いたんです。睦ちゃん家の煙突から、もう何日も煙が出てないって……
(お腹をさする)……
それに、前回のパーティーからもう一ヶ月くらい経ちますし。
皆さん言ってましたよ。また睦ちゃんの演奏を聴きたいって。
そういうことなら……睦ちゃん、どう?
え……私の演奏?
さきちゃんも聴きたいでしょ? 睦ちゃんの演奏、何回聴いても素晴らしいの!
そうだ! いっそうちでパーティーをしましょう! 実はさっきまで、みんなも食事に誘いたいなって思ってたのよ。
祥は、どう思う?
そうね……
わたくしは……睦がどうしたいかが大事だと思いますわ。
……うん、私、弾きたい。
喧噪、笑い声、乾杯の音。
決して広いとは言えない家が、人で溢れている。しかし、窮屈さを気にする者はいなかった。
ほら、もう一杯どう?
睦ちゃんの幼馴染、さきちゃんにも乾杯!
さきちゃん、よろしくね!
皆が一斉に、部屋の隅に座る祥子の方に目を向けた。
(グラスを掲げる)さきちゃん……?
か、乾杯……
乾杯――!
乾杯の挨拶が終わると、参加者は再びパーティーを楽しみ始めた。祥子は部屋の隅の壁にひとり寄りかかりながら、複雑な表情で目の前の光景を見つめていた。
祥。
睦……?
実は……全部知ってるの。
え……?
これは、全部嘘だって……みなみちゃんの優しさも、全部嘘。
そ、それは――
祥に会った時に分かった。そろそろ帰らなきゃいけないって。
でも……もう一回、チャンスが欲しい。
これで最後にする。ちゃんとさよならするから。
せめて、夢の中だけでも……私も、みんなみたいに、自由に歌わせて。
睦……
祥子の返事を待たずに、睦はクラシックギターを抱えたままゆっくりと人だかりの方へと歩いていく。
睦ちゃん、準備はいい?
……うん。
どうしたの、睦ちゃん。何かあった?
私の椅子……どこ?
用意してるわよ。ほら、この椅子、いつも使ってたでしょ?
睦は、座面に裂け目のある黒い椅子をじっと見つめた。
うん。
睦がゆっくり腰を下ろすと、周囲がしんと静まった。
弾くね……『春日影』。
――!
一生忘れることのできないメロディーが、睦の夢の中で再び奏でられた。
あの日と同じ、温かい音色が、その場にいる皆の心をしっとりと癒やしていく。
しかしその曲を弾く睦の姿は、祥子には別人のように思えた。
かつてギターで悩んでいた睦ではない。
まだ懸命に感情表現を学んでいる最中ではあったが、ここにいる睦は、とても幸せそうにしている。
睦、これがあなたの……
今日、睦をここから連れ出せる機会は何度もあった。そして、おそらく睦もそれを受け入れただろう。
しかし、どうしても連れ出すことができなかった。
睦が心の底から幸せそうだったから。
蝋燭のかすかな灯りが、音楽に合わせて揺れる人々の影を壁に落とす。その影は、まるで暖かな春の日差しが作る木陰のように揺れていた。
睦は椅子に腰かけ、皆に囲まれている。目を閉じ、弦の指で指を滑らせながら、静かに歌っていた。
今、睦は何を思っているのだろう?
それを見ているうちに、祥子はある感情に囚われた。
それは安堵か、後悔か……あるいはその両方かもしれない。
今の睦は、二人でいる時よりもずっと楽しそうにしている。
一人で椅子に座り、ひたむきにあの日の歌を歌っている。
手を離さなければ――
睦の、幸せのために――
祥子はステージに背を向け、その場から逃げ出した。
そうして、夜の闇に消えていった。