夢から覚めた時 幕間
夢から覚めた時
……
名を名乗れ。
……Fuzeだ。
その訛り、ウルサス人か?
まあ、そんなところだ。
私になんの用かね?
町の給水塔が壊れてる。そいつを直したい。
だったら勝手に直せばよかろう。なぜ私を訪ねてきた?
問題の箇所はポンプの源石回路でな。俺には修理の知識があって、あんたはアーツに詳しい。あんたの力が必要なんだ。
……全身武装のうえに顔を隠したウルサス人が、リターニアの町の給水塔を修理したいだと?
ベルマンさん……
ふむ、君もいたのか。彼は一体何者かね?
私とヴィッセルさんが河原で水を汲んでいた時、ハリノミに襲われてしまい、ヴィッセルさんが負傷をしてしまったんです。それをこちらのFuzeさんに助けてもらいました。
ヴィッセルが負傷しただと? 傷は深いのか?
なんとか……辛うじて息はあります。今は彼の孫娘が世話をしています。
そうか、続けたまえ。
お礼にFuzeさんを町に招待したのですが、町の給水塔を見るや否や、直せるかどうか確認してみたいと言い出して。すると、問題は機械装置ではなく、源石回路のほうだと判明したのです……
なるほど。
で、では、私はこれで失礼します。
それで、君は彼に町にアーツに詳しい者はいないかと尋ね、こうして私の元へ連れて来られたというわけか。
ああ、どうか自分の領民たちの力になってやってほしい。
私は領主ではない。
さっきの彼は給水塔は「男爵様」が何年も前に建てたものだと言っていたぞ。それで「男爵様」の家はどこにあるかと聞いたら、ここに案内された。
先ほど君も聞いていただろう。私は「男爵様」ではなく「ベルマンさん」と呼ばれていたではないか。
……ならベルマンさん、給水塔ってのは、人々の生活を楽にするためのものだろう。
昔の人々はずっと、川まで歩いて水を汲みに行っていた。あの頃は誰一人、生活が苦しいとは思ってなどいなかっただろう。
そもそも、川にハリノミが巣を作れるほどの空洞ができたのも、給水塔が地下から水を汲み上げ続けたのが原因かもしれん。
給水塔をもっと早く修理していれば、今頃ヴィッセルさんは生死を彷徨うようなことにはなっていなかった。俺に分かるのはそれだけだ。
たかが人ひとりの命に過ぎんよ。
ヴィッセルさんの命はどうでもいいと?
彼に限った話ではない。
彼も、私も、この町も、果てはリターニア全土に至るまで……どう足掻こうとも衰退に抗うことはできず、やがては死に至る定めである。
ハリノミに殺されようと、寿命で死のうと、私からすれば目的地まで駄獣に乗って向かうか、歩いて向かうか程度の違いだ。
……詭弁だな。
どこへ行く?
他を当たる。
この町で源石回路に詳しい者は私以外にいない。先ほどの彼からも聞いているはずだ。
だったら本を調べる。
なぜそれほど固執する? 偶然出会ったに過ぎぬ者たちのために、なぜそこまで尽くす必要がある?
何かをするのに、誰のためかなんて関係ないさ。じゃあな。
待ちたまえ。
君が必要としている分野の書籍なら、私が若い頃に購入したものが数冊ある。
ずいぶん時間がかかったな。
本を探すのは、なかなか腰の折れる作業なのだよ。
ヴィクトリアで出版された『源石回路の理論と応用』だ、受け取り給え。我が家にリターニア語以外で書かれた本は、数えるほどしかないのだ。
きっと今、マスクに隠されたその顔には、さぞや疑念に満ちた表情が浮かんでいるはずだろう。なぜこの男は給水塔の修理を拒んでおきながら、進んで本を貸してくれたのだと。
何個か仮説は思い浮かんでる。
ほう、例えば?
あんたは自分の正しさを証明したいんだ。給水塔を修理したところで、何も変わりやしないと。
そこまで複雑な話ではないさ。ただ、少し興味が湧いただけのことだよ。
あんたみたいな人は、何かに興味を抱く感情なんてとっくに失くしてるもんかと思ってたが。
顔を隠した完全武装の外国人が突然やって来たかと思えば、自分の隣人のために躍起になって、給水塔を修理しようとしているのだ。道端に転がっている石ですら興味を抱くだろう。
直せるか直せないか、それだけのことだ。
いいや、そうではない……君は一体どんな経験に影響され、自分とはまったく無関係の物事にここまで固執しているのか、私の興味はそこにあるのだ。
よければ、今晩はここに泊まっていかないかね、Fuzeさん。二人で語り合おうじゃないか。
誘いは感謝するが、あんたとは話が合うと思えないな。
……
それもそうだな。
……だが私はどうしても、君と話がしてみたいのだよ。
……シュフラット、どうした?
すまない、ケッツ。少し考え事をしていた。
Fuzeは辺りを見渡す、
そこはロドスの廊下だった。馴染みのある場所とは言えないが、見知らぬ場所でもない。
彼は両手を頭の後ろに回し、エリアス・ケッツがロドスで寝泊まりしている宿舎前の壁に寄りかかっていた。Blitzのコードネームを名乗るその同僚が、出かけるのを待っているようだ。
もう少し待っててくれシュフラット、ロドスのシェーバーはどうも使い辛くてね。
ああ、構わない。
で、どこまで話したっけ? ああそうだ、俺がリターニアで見た式典についてだったな。
式典の会場には、全部で術師が千人もいてな。式典が始まるまで、そいつらは彫像みたいにずらりと無言で広場に並んで、立ち尽くしていた。
術師たちは待っていたんだ。ほんの微かなメロディが、楽団の首席奏者の指から奏でられるのを。その瞬間、彼らは一斉に持っていたアーツユニットを掲げ……
おいおい、何かリアクションくらいしてくれよ!
そんな光景、全く想像できなくてな。リターニアは俺の知っている場所とはずいぶん違うようだ。考えてもみろよ、ローブとマスクを身に纏い、杖を持った人が千人もレギスタン広場に佇む様子を……
レギスタン広場?
サマルカンドのランドマークだよ。あんたも知ってるはずだろ。
そうかい、じゃあ続きを話すぜ。
それから千本ものアーツの光が夜空へ放たれ、鮮やかな色彩が雲間でぶつかり合い、飛び舞い、咲き乱れた。空がまるで色とりどりの花畑に変えられてしまったようだ……
転化変換系アーツの応用か?
ずいぶんとアーツに詳しいんだな。
ドッソレスで知識を詰め込んだおかげだ。
石炭、石油、天然ガス、果てには核融合まで……ここではすべてが源石で代替されている。早く一から学ばないと――
どうかしたか、ケッツ?
シェーバーが故障したみたいだ。ちょっと待ってくれ――
Fuzeは開きっ放しになっていた本から、勢いよく顔を上げた。どうやらいつの間にか、机に突っ伏したまま眠っていたらしい。
っ、背中が痛い……頭もくらくらする。
「左の写真は、筆者がリターニア見学に訪れた際に目にした式典の光景である……」
どうりであんな夢を見たわけだ。
今何か落ちたな……本にしおりが挟まっていたのか。
これも一緒に返さないと。
あっちのスイッチを押してきてもらえないか。
ダメです、反応しません。
どうやらベルマンさんに別の本を借りる必要がありそうだ。すまないが、代わりに行ってきてくれないか?
すみません、Fuzeさん。ベルマンさんのところには、ちょっと……
どうした? もしかして、あいつは裏で人に言えないようなことでもしているのか? そういえば、初めて会った時もやけに緊張していたな。
いえいえ! それは違います! ベルマンさんは悪い人ではありません。ただ……その、なんと言いますか、少し近寄りがたいんですよね……
……そうか、じゃあ自分で行ってくるよ。
どれどれ……『家庭の電気工学マニュアル・実用版』? この本には簡単な基礎知識しか書かれていないが。
基礎的な知識でも、役に立たないとは限らない。こいつを借りてもいいか?
もちろん、構わないとも。
しかし、どうにも不可解だな。なぜ機械に精通しているくせに、源石回路についてまったく無知な者がウルサスにいるのかね?
そんなことは、今はどうでもいいだろう。
給水塔の件は一旦置いといて、お互いの日常について少し語らないか?
遠慮しておこう。
君が先陣を切りたくないというのなら、私から話そう……ふむ、あの給水塔から語ろうか。
あの給水塔は、男爵様の理想への第一歩だったのだ。彼も当初は、周りの人々の暮らしを少しでも楽にしたい、この町を「理想の町」にしたいと、そう考えていた。
だが残念ながら、領民たちに水道水を飲ませてやること以外、彼は何一つ成し遂げられなかった。
この町に工場を建てること、首都の大物に投資をしてもらうこと、芸術家たちが訪れるスポットにすること……男爵様の望みは不本意な結果に終わるか、誰からも見向きされないかのどちらかだった。
そして、彼の最後の試みは最も大胆かつ、最も成功に近付いたものだった――町全体を移動プラットフォームに移す試みだ。そのために、ヴィドゥニアの工房に話をつけ、多額の前金も支払った……
そして、女帝陛下方の統治下たるツヴィリングトゥルムの時代が到来された。
それはあんた自身の話か?
……私の父の話だ。
当時の私はまだ若く、ヴィドゥニアの大学で感応伝達のアーツに関する論文を執筆していた。
あの頃の私が最も多く目にしたのが、流れる血だった。平民の、貴族の、憲兵の、選帝候の、そして私の先生の……
焼け焦げた論文を抱え、命からがら家にたどり着いた私に対し、父が真っ先にかけた言葉は「どうなった?」だ。そして続けて「あの工房はどうなった?」と……そんなのわかりきったことなのに。
そしてあんたの父親は失意のうちに亡くなり、あんたは爵位を継ぐことができなかったと。
いや、爵位継承権は私が自ら放棄したのだ。すべてが無意味に思えてならなかったのでね。
……あんたとあんたの父親の一番の違いが何かわかるか?
謹んで聞こう。
あんたの父親は、町の人々に水道水を飲ませてやる以外は、何もできなかった。だがあんたは、水道水すらみんなに飲ませてやれてない。
もっと堅実的な話ができれば、明日からあんたの隣人たちにもう一度水道水を飲ませてやれる。
そして目的を果たした君は、片時も足を止めることなく、すぐにここを去ってしまう――そうだろう?
俺くらいしつこい人間なら、リターニアにも大勢いるはずだ。すぐまた見つかるだろう。
いいや、最近ようやく気付いたのだ。君のような男は、極めて稀有な存在であると。
稀有な存在?
いや、気にしないでくれ。作業が上手くいくことを願っているよ、Fuzeさん。
それから、ヴィッセルの孫娘に会ったら伝えてくれ。早めに連れてくるようにとな。
連れてくる? どういうことだ?
言葉通りの意味さ。
ああ、ここにしよう。
かなり暗い場所だぞ、カテブ。
あらゆるものを源石ではなく石油で動かす場所に戻るのは、まだまだ先になりそうだな。
あんたも暗がりでホームシックになったりするのか。
当然さ。君はまだ、我々がここへ来た最初の日のことを覚えているか?
忘れるものか。あの日マグネットヒルNo.2実験室があった場所へ調査に向かったはずなのに、気付けばレイネルのゴルフボールの上に、頭から突っ込んでいったからな。
ホームシックと言えば、君の故郷の話を聞かせてくれよ。確かサマルカンドには……レギスタンという名の広場があったな。
ああ、空も、建物のドームも、全部が青に染まった場所だ。広場を行きかう人々と自動車、それと三つの大きな建物に彫られた模様まで、はっきりと目に浮かぶさ……
Fuzeは本からパッと顔をあげた。
いつからか、睡魔は時と場所を選ばず襲ってくるようになった。設計図を描いている途中で眠ってしまうこともしばしばあり、起きた後は夢の余韻を頭から追い出さねばならなかった。
なぜなら、どの夢もあまりにも鮮明で、リアルだったから。
リアルすぎるあまりに、ここテラという場所は長い夢の中であり、現実の自分はマグネットヒルNo.2で頭を打ち付け、意識を失っているのではないかと、何度か本気で考えてしまうこともあった。
ふぁ……
ダメだ、今眠るわけにはいかない。せめて給水塔へ行ってからか、ベルマンさんに別の本を借りて検証した後で――
そういえば、ヴィッセルさんの孫娘に伝言を頼まれてたな……早めに連れて来いと。
ヴィッセルの息がまだ残っているうちに、彼を連れて来てくれて感謝する。ところで、孫娘の姿が見当たらないが?
過労で倒れたよ。
ベルマンさん、あんた、死にかけの人を連れて来させて何をするつもりだ?
他の人にも聞いてみたんだ。みんな口ごもっていたが、結局は教えてくれたよ。あんたはいつも町人にこんなことをさせてるんだってな。
ふむ……君は私が死んだ者を利用して何か企んでいるとでも疑っているのかね?
ほんの少しだけな。もし、前にあんたが言っていたことが本当ならば、本気で疑うことはできない。
どうしてかね?
「衰退」だの、「死」だの、「無意味」だの、そんな言葉ばかり口にするような人間が、本気で悪事を企む姿が想像できないからだ。何もしない人間なら、道を踏み外すこともない。
……ずいぶんと失礼なことを言うのだね、Fuzeさん。まあ、別にどうでもいいが。
まだ質問に答えていないぞ。
ならこれから起きることをよく見ていたまえ。そうすれば分かる。
またもや強烈な眠気が襲ってきた。Fuzeは睡魔に抗うために、思いっきり自分の舌を噛むしかなかった。
ベルマンは、老人の濁った両目を見つめながら、杖の先端を彼の額にそっと当てた。
杖の先から、かすかな光が放たれる。
う……ぁ……
レヴィン、本当にお前なのか。帰って来てくれたんだな……本当に……
あ、謝らなくていい。何も言うな。さあ……家に帰ろう……
ほら、裏庭で採れたリンゴだぞ……家を出ていく前に、食べたがっていたろう? だがよりによってあの年は、リンゴが一つも実らなかった。あれから毎年、お前のために一つ取っておいてるんだ……
しかしFuzeが見ている老人の手には、リンゴなど握られておらず、目の前に立っているのもベルマンだけだった。
レヴィンって?
ヴィッセルの一人息子だよ。十数年前に鉱石病に感染し、自ら町を出て行くことを選んだ。
ヴィッセルさんに一体何をしたんだ? 幻覚を見せたのか?
まさか。そんなものは、そもそも私に手が届く領域ではない。
私はただ苦痛を和らげ、心を落ち着かせてあげているだけだ。夢を見るべきではない時間と場所で、夢の中へと誘い込むことで……私には干渉できぬ白昼夢を見せているのだよ。
なんだか形のない鎮痛剤みたいだな。患者の耐えがたい苦痛を緩和させるために、医者が施すもののような。
君がそう解釈するのは、君の自由だ。
だが薬物の乱用は、時に人を破滅へと導く。
死を待つだけの者を安らかに逝かせることも、乱用だと呼べるのかね? シュフラット――
……
Fuzeさん、これが私が誰かのためにできる最も有意義なことなのだよ。
だが、考えたことはあるか? もしあんたがあの給水塔を直すためにもっと早く行動していれば、そもそもヴィッセルさんは死ぬこともなかった。
形のない鎮痛剤に最も深く浸かってしまっているのは、死にゆく人じゃない。ベルマンさん……あんた自身だよ。
ハハッ、私が?
もしかしたら、あまりにも多くの悲劇を目撃しすぎたせいかもしれんな。だけど、目撃すればするほど、ますます確信が深まるのだよ――私が正しかったのだと。
天災、陰謀、戦争、源石、果ては些細な事故に至るまで……それらの前では人の意志も命も、等しく脆く儚いものだ。
今はなおさらそう思っているさ。私もまさに死にゆく身なのでね。
ベーメがシャツのボタンを外し、胸部と腹部の間に点々と浮かび上がった源石結晶を露わにした。
ツヴィリングトゥルムから帰る道中、自分の脇腹から……小さな黒い石が飛び出していることに気づいた。ヴィドゥニアからの餞別だよ。
今やこれは、私の全身を吞み込まんとしている。それゆえに私は、生涯ただ一度きりの罪を犯すことに決めたわけだ。
罪、だと?
心身ともに健康かつ非協力な人間に対し、私のアーツを使うには、厳しい条件を満たす必要があってね。君にそのようなことをしたのを、申し訳なく思っているよ。
最初はただ、寡黙で行動的な人間が夢の中でどんなことを話すのかに、興味が湧いただけだった。そこで本としおりに……ちょっとばかりの細工をさせてもらった。
そしたら、君の口からとんでもない寝言が飛び出したのだ。源石の存在しない場所に……青く澄み渡る空。
君と共にその源石のない場所に行きたいなど、おこがましい望みは抱いていない。君とは友人になることすら不可能だろう。だって君は、私のようなロマン主義の人は嫌いなのだろう?
……
だからアーツを使わざるを得なかった……君と私で、この最後の白昼夢を完成させるために。
鉱石病患者の最期に付き合わせてしまって、本当に申し訳ない。だが私は、あまりにも長い時間を孤独でいすぎてしまったのだ。
Fuzeが反応するよりも先に、ベルマンは杖を彼に向けた。
激しい睡魔が、Fuzeのまぶたを無理やり閉ざそうとする。
どこからともなく響いて来る低く繊細な音色が、まるで海底をうごめく暗流のように、海面に浮かぶ意識をゆっくりと海の中へ引きずり込んでいく。
起きて、シュフラット、起きなさい!
ゴホゴホッ……
あら、やっと目が覚めたのね。おめでとう、あなたの頬はビンタを食らわずに済んだわ。さあ、装備を持って。ここを離れるわよ。
ここはどこだ?
マグネットヒルNo.2実験室よ。揺れは収まったし、何も起きていないわ。あなたが頭を打ったこと以外はね。
実験室内部に異常がないことも確認済みよ。Docたちは一足先に撤退したわ。さっきの揺れにレヴィが関わっていたとしても、次の調査で調べるしかないわね。
うっ……ああ。
それよりも休暇のことを考えましょ。
休暇?
それすら忘れちゃったの? そんなに強くぶつけちゃったわけ?
どこかお勧めの場所はないの? しばらくは、最高の景色を眺めながら、思いっきり羽を伸ばしたい気分だわ。
サマルカンドなんてどう? 前に言ってたわよね。レギスタン広場には青い空と青い建物があるって。それから壁画に、行きかう人々に、自動車も……
そこに着いたら、何も考えずに、一日中横になっていたいわ。
ああ、いいな。
だが……いや、ダメだ……俺にはまだ何か、やるべきことが……
やるべきことって?
分からない。だが――源石が……
源石? 何それ? 頭を打って気を失っていた間に夢でも見ていたの?
Ela……源石という言葉に聞き覚えはないか?
自分の夢に出て来たものを、他人に確認してどうするの?
すまない、だけど、この単語が……ずっと脳裏に焼き付いているんだ。
そんなどうでもいいことより、レギスタン広場のことを考えましょうよ。もしかしたら、このあとすぐに行けるかもしれないわ。
あなたの国の術師――いや、科学者、つまりその、最先端の技術を持っている者たちは――
……やっぱりなんでもないわ。
あなたの故郷に行って、美しい場所でしばらく過ごせると思うと、嬉しくなっちゃって。
天災も戦争も、悲劇も存在しない場所で。
悲劇が……存在しない場所?
待って、シュフラット、どうしたの?
オレゴンを覚えているか?
シュフラット……
答えてくれ。あんたオレゴンについてどう思う?
オ、オレゴン? 芸術家にピッタリの場所よね。素敵な博物館があるし、楽団なんかも……
じゃあバグダッドは? レバノンは? モスクワは?
……シュフラット、話を聞いて――
あんたは、源石さえなければ――
ああ、やめてくれ!
悲劇も起こらないとでも思っているのか、ベルマンさんよ!
ハハッ、そんなまさか、シュフラット。
もしかしたら、すべては源石以外の何かによって繰り返されるのかもしれない。だが死にゆく鉱石病患者が、そのような場所に夢を抱くことを、責めないでくれたまえ。
だったらあんたは、俺がさっき挙げた場所に行って確かめてみるべきかもな。源石のない青空の下で、一体何が起きているのかを。
その必要はない。そこで流された血が、あの秋のヴィドゥニアより少ないということはないのだろう?
悲劇は、大地にしみ込んだ血の量で推し量るものではない。
ハッ……シュフラット、君も言うようになったな。
行くがいい。
アーツが失敗した今、その青空の下にどんな光景が広がっているのかを、君から直接聞くことも、その話の中に身を置くことも、もはや叶わぬ。
さあ、私がまだ源石の粉と化していないうちにさっさと行け。これで我が生涯の最初で最後の悪行も、失敗に終わったことになる。
どうした? 何一つ成し遂げられなかった男に対して、突然何か言葉をかけたくなってしまったのか?
この世界の――この大地の悲劇は……あんたが思っているほど多くはないかもしれないぞ。
では、私がヴィドゥニアで見た光景はなんだと言うのだ? 先ほど君が挙げた場所では何が起きたのだ?
混沌さ。
混沌は、衰退や死をもたらすかもしれないし、何も連れて来ないかもしれない。時には友人にすらなり得ることもあれば、そこから抜け出す道を指し示してくれることもある。
混沌が常に悲劇で終わるとは限らない。ただ……
行動を起こさねば悲劇に終わる、か?
……
かもしれんな、シュフラット。だが、もう遅い……
遅すぎるのだよ。
シュフラット、君は人が死んだら魂が残ると思うかね?
その手の話題は得意じゃない。
構わんさ。ただ、考えていたんだ。もし本当に魂が存在しているのなら……私は死んだあと、君の記憶の中にあるサマルカンドへ行って、そこにある青いドームを見られるだろうか?
あんたが望むのなら……
……そこがどんな場所なのか、アーツなんか掛けずとも話してやることはできる。
私にそれを聞く資格はあるのかね?
本当に何も成し遂げないまま終わりを迎えるな。
やつれた男は目を見開くと、弱々しい笑い声を漏らした。
シュフラット、君が寡黙な理由は、賢すぎるからかもしれないな。賢い者は、他人の神経に障る発言が得意なんだ。
Fuzeは肩をすくめた。そして、広場と周りの建物の外観を、なるべく詳細に語って聞かせた。
それに耳を傾けながら、ベルマンは杖を掲げる。レギスタン広場を模ったリアルな模型が、卓上に少しずつ形作られていった。
……ああ、そっくりだ。
……ならよかった。
これからどこへ行くつもりだ?
給水塔だよ。しばらくは町に留まって、あんたがやるべきだったことを、代わりに成し遂げてやる。
ならば行くがいい。あと、ヴィッセルを家に送り届けてくれ。孫娘と最期の時を過ごせるようにな。
ああ、それじゃあ、また。
……達者でな。
ドアが閉まる音が聞こえた後、ベルマンは最後の力を振り絞って杖を掲げた。
今回、音色が響き渡ることはなかった。彼はただ部屋のドアと窓を封じただけだった。
カタン――杖が床に落ちる。しかし、その音すらもうベルマンには聞こえない。彼はまだ見ぬ青空に思いを馳せながら、ただひたすらに模型の青いドームを撫で続けていた。