照らし出す光 幕間
照らし出す光
ロドス本艦
アステシアの部屋
(目をこする)
私の記憶違いでなければ……
この本には、今夜は観測に最適だって書いてあったはずよね。
何か収穫が……あるといいのだけど……
(思わずもう一度目をこする)
近頃私が出している観測結果は、占星術研究協会が発表したデータと乖離しすぎているわ。
お父様はきっと……この結果を不満に思うでしょうね。
それを思うと、お返事を書くのは少し時間を置いたほうが良さそう……
……
鉱石病……
(無意識に目じりをこする)
はぁ……
今夜はいつもより詳細な記録を取っておきましょう。推測が疑わしい以上は、まずは正しいデータが必要だものね。
(目じりを軽くおさえる)
うう~……
目がかゆい……
姉さん、来たよー。
あ、おはよう――
ちょっと、どうしたのその目!?
ああ、これ? 大丈夫、ちょっとかゆいだけだから。
両目が充血しちゃってるし、内出血も起きてるよ!?
すぐ治るわよ……
うわ、ものもらいみたいになってる……
ほっといて自然に治せる範疇はもう超えちゃってるよ。
すぐ医療部へ連れて行ってあげる。
だけど、今夜は――
星なんか気にしてる場合じゃないでしょ。流れ星を見たって姉さんの目は治らないんだから。
ほら、行くよ。
ま、待ってってば……
細菌感染ですね。両目共に、急性の化膿性炎症を起こしています。
幸いそこまで深刻な状態ではありませんし、切除して薬を塗ればすぐに良くなりますよ。
はぁ……
ただ、術後三十六時間は目の上から包帯をしたまま過ごしていただくことになりますから、万一に備えて医療部に留まり、安静にするのがいいと思います。
……
その手術、遅らせることはできるかしら?
……先生、この件は私が判断するよ。
では、まずご家族と患者さんの間で相談してください。
ねえ、ジーニ……
何言ったってダメなものはダメだからね。
事情はわかってるし、それが姉さんにとって大事なことだっていうのも理解してるよ。
それでも、何度でも言うけど……
ダメなものはダメ。
私にとってどっちのほうが大事かくらい、わかるでしょ。
……
姉の同意が取れたので、手術の用意をお願いします。
アステシアさん、本人への口頭確認も必要なのですが。
(小声)それで、お願い……
それでは、同意書をよく読んだ上で、ご家族のサインをこちらに。
(同意書を読んでサインする)
(同意書を受け取り、端末に情報を入力する)
このあとは、受付でベッドの割り当てを行います。術後は病室まで直接患者さんをお連れしますので、ご家族の方はそちらで待機してください。
アステシアさん、こちらへ。
……
手術自体はそう難しくありませんので、安心してください。
術前にご説明した通り、全身麻酔を施しますが、よろしいですか?
(うなずく)
では、始めましょう。
(麻酔を注射する)
1から10まで、ゆっくりと数えてください。
1
2……
……
数時間後――
……
……えますか?
聞こえたら手を動かしてみてください。
(小指を震わせる)
患者の意識回復を確認……
手術は成功しましたよ、アステシアさん。もう少ししたら、看護士があなたを病室までお連れします。夜には、私が巡回診察に向かいますね。
何か違和感があれば、すぐ私に知らせるようにしてください。
ここまで聞こえていたら、頷いていただけますか?
(何とかうなずく)
問題なさそうですね。
医師の足音が少しずつ遠ざかり、ベッドが水平に倒されると、廊下へと押し出されていく。
床との摩擦で軋む車輪が耳障りな音を立てる。
しかし、それ以上にうるさく感じたのは、医療部の医師や、患者、付き添いの人間たちの声だった。
もう少し我慢してちょうだいね、ポプカル。もうすぐあなたの番だから。
ったく、今日はどうしてこんなに患者が多いんだか……おーい、次は誰だ!
お金は払ったでしょ? どうしてその契約書にサインしないといけないの? ああもう、わかったから速く持ってきて。姉さんを病室で待たせちゃうし。
かゆすぎでしょ~……このマニキュアでアレルギー起こすなんて知らなかったんだけど……
人の声が無意識下の感情を乗せ、あらゆる方向から聞こえてくる。
落胆、後悔、恐怖……アステシアには、それがはっきりと伝わってきた。
彼女の心に微かな不安がよぎる。
普段であれば、苦しむ人たちをいくらか慰めてあげられるかもしれない。
だが今は、彼女自身も床に伏せる患者なのだ。
……
患者を乗せて廊下を進んできたベッドがゆっくりと止まり、向きを変えて病室の中へと入っていく。
医療オペレーターたちはてきぱきとベッドを固定して、病室での注意事項を説明してくれた。
そして、患者の容態に問題がないことを再度確認すると、彼らはすぐに病室を出ていた。
扉が閉じられた瞬間、医療部の喧噪はアステシアから離れていく。
そこには静寂だけが残った。
ジーニ……
麻酔の効果が薄れてくると、彼女は口を開き、妹の名を呼んだ。
ジーニ……そこにいるの……?
返事はない。
誰かいる?
部屋には彼女の声だけが響いている。
無力感がその心へと押し寄せてきた。
彼女はかつて、人々を導く占星術師だった。
だが、今では他人のために道を示すどころか、自らの前途を見定めることさえできない。
源石が身体に根付いたあの時から……
星々は沈黙してしまった。
......
高名な占星術師の中には、感染者であることを公表している人もいるのを彼女は知っている。
そして、自分の感染を知った父の態度も覚えている。
「心配の裏に喜びを滲ませているような」……
それゆえに父は、娘が感染を経てさらに優秀な占星術師になるどころか、何一つできなくなってしまったことを知った時、失望を隠しはしなかった。
......
恐らく、星々もとうに愛想を尽かしているのだろう。源石漏洩に晒された実験室と一人で向き合う妹を、怯えながら安全な部屋でただ眺めていただけの臆病な人間に……
星空は彼女への憐れみを捨て去り、その代わりに源石の反射光だけがそこにある。
それはきらきらと輝いて、人の心を突き刺すのだ。
(小声)姉さん……
(小声)具合はどう?
……ジーニ?
うん、私。ここにいるよ。
医療部の入院手続きがややこしくてさ。静かな個室を確保したいって交渉してたら時間がかかっちゃった。
個室って……また無駄遣いして。
大したことじゃないよ。ちょっと設備費を調整すれば済む話だし。
ねえ、どうしたの? 手汗がすごいけど……
何でもない……大丈夫よ……
目のほうはどう?
かゆみは収まったわ。フォリニック先生がしっかり処置してくれたみたい。
なら良かった。
姉さんったら、いっつも私に早寝早起きしなさいってうるさく言うくせに……どうして自分はこうなの?
……
まだ天体観測のこと考えてる?
今夜はこの数ヶ月で一番観測条件の整った日だから……
もし包帯を取ろうとしたら、すぐ先生にお願いして拘束具を借りてくるからね。
そんなことしないわよ、ただ考えてただけ。
目のほうが大事だもの、大人しく言うことを聞くわ。
んー……だったら良いんだけど。
観測したところで、父さんは良い返事なんてくれないと思うよ。
どうしてそれを――
ここ何ヶ月かの観測記録と解析結果を読ませてもらったの。協会のものとかなり食い違ってるんでしょ?
あなた……
手続き用の身分証を探してたら、ちらっと見えちゃって。
あの書類、机の上に置きっぱなしで、別に隠されてもいなかったし……
……あれ以来、お父様にも協会にも、正しい推測データを提供できなくなったの。叱責されるのも当然よ……
実は、記録を基にシミュレートしてみたんだけど……
姉さんの観測結果は全部正しいと思うよ。
慰めなんていらないわ。
私だって完全に専門外ってわけじゃないのは知ってるでしょ? 天体観測は好きじゃないけど、教育はそれなりに受けてきたわけだしさ。
正しいものは正しいし、間違ってるものは間違ってる。それだけのことで嘘をつく必要なんかないじゃない。
姉さんの目が治ったら、私がデータモデルを使って全プロセスとその可能性をリストアップしてあげるよ。
つまり、協会のデータが間違ってるってこと?
やれやれ、姉さんって父さんに似て石頭だよね。
どっちも正しいって可能性もあると思わない?
え?
研究分野ではよくあることだよ。
データ一つ取ってみても、色々な要素の影響を受けるのは当然のことだよね。ロドスはクルビア領内にあるわけじゃないんだから、地理的な位置も観測環境も全然違うでしょ。
それに、天体運動は不規則なんだから、ここでのデータがクルビアのものと一致してたら、そっちのほうが問題じゃない。
でも、方位に基づいて計算のロジックは調整したのよ!
落ち着いて。
姉さんのデータが正しいのは、その調整をしてるからこそだよ。
子供の頃、父さんの教えたやり方を身につけるのは私のほうが少し早かったけど、解析と推測に関しては、姉さんのほうがずっと正確だったでしょ。
それに、父さんがいつも正しいとは限らないっていうのもそろそろ覚えたほうがいいよ。向こうに疑われたからって、自分が間違ってると思い込むのはやめよう、ね?
(小声)まあ、私もこんなこと言える立場じゃないんだけど……
こほん! とにかく、病気が治ったら協力してあげるから。どうしてもって言うなら……一緒に家に帰って、父さんと話してあげたっていいよ。それでどう?
……ジーニ、手を握ってもいい?
子供じゃないんだから……はい、どうぞ。
(妹の手を軽く握る)
ありがとうね。
姉妹なんだから、お礼なんていらないよ。
あんまり考え込まないで、今はゆっくり休んで元気になってね。
そうするわ。
そうだ、何か食べたいものある?
アイシングケーキを――
オッケー、ナッツのクッキーとベリージュースね。
そうだ、夕飯はお弁当作ろうか。ここに来てからは姉さんがいつも料理をしてくれてるし、たまには私の手料理も味見してみてよ。
ええ。
じゃあ準備してくるね。
(ゆっくりと姉の手を離す)
左のテーブルに果物を切って置いといたから、食べてね。一つ一つ爪楊枝を刺してあるんだけど、食べたら楊枝はお皿に戻しといて。
それとそっちの――
枕元のすぐ右に、姉さんの天球儀を持ってきといたよ。
うん、これだけあれば大丈夫だよね。
それじゃ、またあとで。お大事に。
病室の扉が閉じて、アステシアはまた一人きりになった。
目の前は依然として真っ暗だが、天球儀の緩やかで落ち着いた作動音を聞いているうちに、暗闇で過ごすのもそれほど苦痛ではないかもしれないと思えるようになってきた。
妹の励ましを受けて、自分の問題を見つめ直すことができたのだ。
しかし、これで独り立ちできていると言えるのだろうか?
恥ずかしいことに、アステジーニと比べると、そうとは言えないのは確かだろう。
妹が理想の人生を求めて足かせを破り抗っていた時、彼女は父親の疑念を否定する勇気すら持てずにいたのだから。
占星術というものは伝統を重んじる学問で、現代科学ほど厳密ではないとはいえ、それなりに長い歴史を持っている。そして古くから存在するものには、権威が生まれるに最適な土壌があるのだ。
彼女はとうに、自身が行う探求や疑問は必ず先達によって否定されるか、決められた回答を与えられるだけだと気付いていた。内心賛同していなくても、それを喜んで受け入れてきたのである。
正しいのは常に彼らと決まっているからだ。
権威に否定されることを恐れるがゆえに、彼女は彼らの結論を全面的に受け入れ続けてきた。
それがなぜ、鉱石病への感染をきっかけに、その壁を打ち破れたのだろう?
権威を否定するか、己を否定するかというジレンマに直面したからだろうか?
それとも、妹の身を挺した行動を目の当たりにして、自分もようやく長年の疑問と向き合う勇気が持てたからだろうか?
アステシアはその答えを出せずにいた。
二回食事を作りに行ったのを除けば、アステジーニはずっとアステシアのそばにいた。妹と共に過ごしていると、病床での生活もそこまでつらくはないと思えた。
やがて、夜の帳が降りてくる。アステジーニは姉のそばにいてやりたいと考えていたが、そんな彼女にアステシアは少し考える様子を見せてから、やはり宿舎に戻るようにと説得した。
今まさに荒野を進むロドスの頭上には、一面に輝く星空が広がっていることを、アステシアは知っている。
彼女はそれを幾度も見てきたが、今なおその中に潜む不確実性に魅了されている。できることなら、ずっとそれを見続けていたいと願うほどに。だが今は――
ジーニ、どうかしたの?
巡回診察に来ました。
フォリニック先生。どうもありがとう。
目の調子はどうですか? かゆみはないですか? 涙が止まらないとか、発熱があるとか、異物感などの問題はありませんか?
ないわ。あなたのお陰ね、先生。
であれば、回復は順調に進みそうですね。
あなたの声、なんだか疲れているように聞こえるわ。
毎日こうですから、もう慣れてきましたよ。
他にご用事がなかったら、ここで一休みするのはどうかしら。
お恥ずかしい話なんだけど、妹が果物を切りすぎちゃって、一人では食べきれないと思っていたの。
もうすぐ就寝時刻ですし、今日の巡回はあなたで最後ですから――
ここで……十五分くらい休んでもいいかもしれませんね。
ありがとう、先生。ベッドの横に椅子があったと思うから、よければ座ってちょうだい。
ええ。……アステジーニさんの選んだ果物はどれも身体によさそうですね。
実は私たち、昔からこれが大好きなの。
……
一つ質問があるんです。もしかしたら気を悪くさせてしまうかもしれませんが。
どうぞおっしゃって。
私は、占いやオカルトに詳しいオペレーターさんとは、あまりお話ししたことがなくて。
そうした人たちは、いつも全知全能の存在として振舞っているように思いますが……
本当に未来を予知できるのなら、どうして自分の病気を回避することすらできないんですか?
私は自分を全知全能だなんて思ったことはないわ。
ただ占星術師の家系に生まれて、小さい頃からそれを学んでいたというだけなの。
誰かを助けたいと思った時、私に使えるものなんて……あなたからすれば曖昧で無駄に思えるだろう知識しかないのよ。
だけど、クルビアのエリートであろうと、開拓隊の文字が読めない若者であろうと、誰しも自分の経験だけでは説明できない事象に遭遇するものでしょう。
そんな時、彼らは人知の及ばぬ不思議な力に頼って迷いを払拭したいと願う……そこに、こういう技術を身につける理由があると私は思うの。
あなたにも、迷う時くらいあるでしょう? フォリニック先生。
……あなたには理解していただけないと思いますが。
そういえば、知ってる? 今日の夜空で一番明るい星座は、ウルサスを表すものなのよ。
……!?
確かにあなたの心の痛みを理解してあげることはできないけれど、非科学的な方法でも、ある程度のいきさつを察することはできる。
私には、あなたを慰めることはできないわ。あなたにとってそれは無意味な嘲笑に等しいでしょうから。
ふふっ……
あなたが医者になったとしたら、間違いなく心理学の大家になりえる器ですね。
誉め言葉として受け取っておくわ。
とはいえ、どんなに優秀なカウンセラーでも、自分がある日突然目の病気に罹るなんて予測できないものなのよね。
そうなった時はやっぱり、堅実に知識を身につけてきたあなたのような人に治してもらうしかないのよ。
……そろそろ時間ですね。
おやすみなさい、アステシアさん。明日私が巡回に来る頃には、目が見えるようになっていると思いますよ。
病室から出ていく前に、医師はアステシアのためにテーブルライトを消していった。アステシアは、今夜の星空を想像しながら眠りについた。
妹が科学を愛するように、彼女は幼い頃から空に浮かぶ星々を愛していた。
天体観測には、生まれた家の影響だけでなく、後天的に得た趣味としての側面もあるのだ。
それゆえに、拒絶や否定を受けてしまうと、彼女の心には悔しさが生まれる。
権威に拒絶されたことよりも、自分がすべてを理解できていないことへの悔しさが。
しかし、こうした幽玄の知識は学べば学ぶほど、自分の矮小さを実感するものだ。
星空に抱いた疑問の答えなど、本当に存在するのだろうか?
アステシアにはわからない。
それでも、一つ確信を持っていることはあった。
それは――荒野で一人夜道に迷った時、人は星空を見上げ、共に歩む星々の煌めきに励まされながら、苦境を脱するまで前へ進み続けるしかないのだということだ。
陽光が包帯とまぶた越しに瞳へ差し始めるのを感じて、アステシアは目を覚ました。
そうして彼女は妹の来訪を待つ。
妹さえ来てくれたら、その肩を借りて手洗いに行き、歯を磨き、顔の包帯で覆われていない部分を拭いて、軽く身体を動かしてからもう一度ベッドに戻ることができる。
待ち望んでいた扉を開ける音はすぐに耳へと届いた。
しかし、やって来たのはアステジーニではないようだ。
調子はどうですか、アステシアさん!?
トミミ、どうしてここに?
さっきまでガヴィルさんといたんですけど、お前とよく一緒にいる奴が昨日病室に運ばれたぞって聞かされて、急いで駆けつけてきたんです。
大丈夫ですか? すごく重傷みたいですけど……目から血が出るまで殴られるなんて、一体誰にやられたんですか?
そこまでの傷じゃないわ。ただ細菌が入ってしまっただけだし……もうじきに治るから。
あ、でも、枕元に歯ブラシとコップ、それからタオルがあるかどうか見てくれるかしら?
ありますよ。
(ベッドから起き上がる)
じゃあちょっとそれを持って――洗面台まで行くのを手伝ってくれない?
もちろんです!
ゆっくり歩いてくださいね……
着きましたよ。
はい、アステシアさんの歯ブラシと、歯磨き粉と、コップです。歯磨き粉はつけといてあげましょうか?
大丈夫よ。タオルも横に置いておいて。あとは自分でやるから。
はい、わかりました。
(手探りで歯ブラシに歯磨き粉をつける)
そういえば、最近宿舎の片付けをして、台座をいくつか置いてみたんです。そこに物を乗せたら、ガヴィルさんが目を輝かせて「トーテムへのお供えみたいで面白えな」って楽しそうにしてくれて……
(曖昧な返事をする)
それから、少し前に看護能力資格っていうのを受けてみたんです。
試験はあんまり得意じゃないんですが、ちゃんと合格できたので……将来的には、お医者さんの仕事を一緒にやってもいいってガヴィルさんが許可を出してくれたんですよ。
(歯を磨きながら頷く)
それとそれと、私、今バイビークさんからお裁縫を教わっていて……一通り覚えたら、私も皆さんにお似合いの服を作ってあげられると思います。
……
アステシアさん、どうしてお喋りしてくれないんですか?
(口の中の水を吐き出す)
ふぅ……
ちゃんと聞いてたわよ。
(タオルを洗う)
頑張ってるわね、トミミ。
えへへ……アステシアさんがアイデアをくれたお陰で、最近はなんだか、やりたいこととできることが増えた気がするんです。
やりたいこととできること、ね……ふふっ。
(丁寧に顔を拭く)
でも、そういう良いことがいっぱいあったせいで、大変なことも起きたんですけど……
そうだったの。
(タオルを絞る)
とりあえずベッドまで一緒に戻ってくれる? 話は座ってゆっくり聞くわ。
あっ、はい。
気をつけてくださいね。
足元に注意して……
着きました。
よいしょ……
ふぅ。
トミミ、座ってちょうだい。
もう座ってますよ。
じゃあ教えて。大変なことって、何が起きたの?
それが……
宝物のお世話とか、ガヴィルさんのお手伝いとか、バイビークさんのところでお裁縫をしたりとか、ほかにもたくさんやりたいことがあるので……
最近はちょっと時間が足りないなあって思っていて……
もしかして……何かを諦めようとしているの?
確かに、私には好きなことが多すぎるのかなって考えたこともありました。ロドスにいると、趣味以外にもやらなきゃいけないことがたくさんありますし。
だけどその、楽しいことを先送りにするのは……
もったいないわよね。
そうなんですよ、その通りなんです!
でも、どうすれば時間に余裕ができるのか、全然わからなくて……
何もかも大事にしたいと思うのは人間の本能なのよ。チャンスを逃したら二度と取り戻せないこともあるんだし、自分を責めることはないわ。
そうですよね。
あなたはまだよく知らないかもしれないけれど、時間を上手く使うことも大きな学問の一つなの。
私も詳しくはないけど、教えられることは何でも教えてあげるわ。
ありがとうございます、アステシアさん!
その学問も、占星術なんですか?
いいえ。
星々は道を示してくれるかもしれない。でも、前に向かって進むことに関しては、占星術は役に立たないの。
それに必要なのは自分の意志と、とてつもない努力だから。
とはいえ、私が思うにあなたならそれができるんじゃないかしら?
は……はい!
それで、明日の午後は本屋さんに行く予定?
そうです!
じゃあ、明日会いに行くから、雑誌を買ったあとゆっくりお喋りしましょう。
はい!
さあ、もう行きなさい。今頃、助手がいないってガヴィルさんが文句を言ってるかもしれないわよ。
た、大変! すぐに行かないと!
ありがとうございました、アステシアさん!
どういたしまして。
ははあ……今の子、姉さんの友達?
そうよ。
ふーん……
顔はもう洗ったの?
ええ。
前が見えてないのに……
私の目になってくれた人がいたのよ。
確かに、まだ一日しか経ってないのに姉さんのお見舞いに来る人がドアの前で列を作ってるしね。
ふふ……
じゃあ、今日は何食べたい?
......
夜が近付き、一日せっせと働いていたアステジーニは姉のそばで眠りについていた。
アステシアは、もうすぐ光が戻ってくるという期待と共に、暗闇がもたらす静けさを味わっていた。
アス……
(小声)アステシアさん。目に異常はありませんか。
(小声)おかげさまで、先生。
(小声)では、包帯を外しますね。
医師は道具を手に取ると、アステシアの目を覆った布を切り落としていく。
そうして、ガーゼで余分な軟膏を拭き取った。
(小声)おめでとうございます。無事に治りましたよ。
(小声)ベッドランプは暗くしておきますね。目が慣れてきたら明るくしても構いませんので。
(小声)当面はお酒を飲んだり、刺激の強い物を食べたり、激しい運動をしたりするのは避けるようにしてください。
(小声)それと、術後用の目薬は処方箋を妹さんに渡してありますので。
(小声)ありがとうございます。
(小声)……ところで、週末にでも、時間を取れたら少しお喋りをしに伺えたらと思います。
(小声)……私にもカウンセラーが必要かもしれないので。
(小声)いつでも歓迎するわ。……おやすみなさい、フォリニック先生。
(小声)おやすみなさい。
医師が去った後、アステシアはゆっくりと目を開いた。疲れ切った妹が寄りかかっているベッドの横には、アステシアが天体観測の記録用に使っているノートが置かれている。
ノートを開くと、一番新しいページには彼女とよく似た筆跡で、アステジーニが昨夜の天体に関する詳細を細かく記録していた。
その一部には誤りがあり、天体の名前にも明らかに間違っているものがあった。
しかし、それが何だというのだろう?
アステシアはノートを閉じて、窓の外の夜空を見上げる。
今夜の空に星は見えず、月さえも暗雲に覆われて、一筋の光も放てずにいた。
それでもこの時、彼女の目は星々の如く――
きらきらと光り輝いていた。