私は「私」 幕間
私は「私」
におい。
海のにおいがしない液体。鼻をつく栄養剤に、無臭の蒸留水。おかしくなりそう。
騒々しい。
ここには歌も、踊りもなく、際限のない喚声が響くだけ。恐ろしいささやきは人を狂わせる。
だけど時折、少しの間静寂が戻る。そうすると、はっきりとした声が聴こえる。
……「私」が聴いた声? いや、わからない。じゃあ「私」はどう反応すべき? いや、それも重要じゃない。
この朽ちかけた体では……どのみち今は沈黙を保つ以外、何もできない。
……彼女は……
……サメ……ローレン……ローレンティーナ!
やめておけ、スカジ。過去の彼女については、君の方が詳しいかもしれない。だが、今の彼女を私より理解しているとは限らない。
仲間にようやく会えたんだ、興奮するのもわかる。だが今彼女との接触は避けてくれ。やっと眠りに就いたところなんだ。
サメ……第二部隊のサメ。本当にあなたなのね。
生きてた……私以外にもアビサルハンターの生き残りがいた……
もちろんだ。
……なぜそう言えるの?
私はもう何年も陸地を放浪しているわ。だけど、私以外のアビサルハンターを見つけたのはこれが初めてよ。ロドスは一体どうやって彼女を見つけたの?
ある取引でだ。代価は決して安くはなかったが、教会が彼女をどこに隠しているかを知ることができた。
我々が連れ帰ってきた時、彼女はまだ最後の理性を保っていた。だがほどなくして昏睡状態に陥った。
サメ……本当に私の声が聞こえないの? 私のことは覚えてるはずでしょう……お互い話したいことがたくさんあるはずじゃない。
「サメ」、か。しかし彼女との会話では――再び理性を失う直前のことだ、彼女は「スペクター」と名乗った。
「スペクター」? 彼女はそんな呼ばれ方はしていないわ。彼女はアビサルハンター――それも第二部隊で最も残忍な「殺戮者」の一人よ……
だが今の彼女は、深海教会から逃げ出し、「スペクター」を名乗る感染者でしかない。
スカジ、過去の彼女が何者であれ、正気を保った彼女が最後にそう名乗ったんだ。アビサルハンターに関してはひと言も触れずにな。
……どうして?
サメ……スペクターは陸地の教会にさらわれたの? だとすれば、奴らに残酷な実験をされたに決まってるわ。
奴らは秘密を知りたがっているから……スペクターの秘密や、アビサルハンターの秘密をね。もしかしてあなたも……
あなたも奴らと同じなんじゃないの?
これが有意義な話題になり得ないことは君も分かっているだろう。何はともあれ、アビサルハンターの秘密は私が知りたい最終的な真実ではない。君への態度にも表れているはずだ。
スペクターに対しても同様だ。彼女はまず第一に私の患者であり、次にロドスの一員だ。それより過去の──彼女自身が触れなかった事象に関して、私は深く追究するつもりはない。
……彼女はいつ目覚めるの?
見守っていても時間の無駄だ。そんなほんの僅かな奇跡のために、君も自らの歩みを止めるようなことはしないだろう。
我々はあくまで、彼女の生命を維持しているだけに過ぎない。陸地で我々にできるのはこれくらいだ。良くも悪くも、回復するかどうかはすべて彼女次第というわけだ。
また来るわ。
目覚めた彼女に会って、話して、歌声を聴くの。私はもう……私たちはもう、あまりにも長い時間、僚友たちと離れ離れだったから。
君と彼女とでは、ロドスへ来た使命も意味も違う。だがスカジ、彼女が目を覚ました時……きっと彼女は、君や私の問いに答えてくれるだろう。
その日が……そう遠くなければいいな。
サルヴィエント とある街外れ
……ねぇ隊長、まだ出発しないの? スカジなら置いていっても自分でたどり着けるでしょ?
……一緒に出発した方が楽よ。彼女の方がロドスのオペレーターと親しいから。
あぁ、なるほど。隊長はケルシー先生との取引にしか興味なかったから、他の人たちには連絡してないってことね。
だけど、私もロドスに留まって長いわ。あそこのことはそれなりに分かってるし、私がいれば変な顔はされないってば。
今のところ落ち着いていても、まったく問題なしとは言い切れないでしょう? 仮に最悪の事態になっても、私とスカジのどちらかがあなたを確実に連れ帰れるようにしておく必要があるわ。
はぁ、ロドスに帰るまで持たないほど弱ってないわよ。
それより隊長、あそこがどんな場所か知ってる? 自動水洗トイレすらないのよ!
ええ。
つまり、私もそこまで急がないってこと。スカジにやることがあるなら、こっちはこっちでお喋りしてましょ。
好きになさい。
じゃあ、今さらこんな話をしてもしょうがないんだけど、言わないと気持ち悪いからこれは伝えとくわ。……私たちのこと、誰にも漏らしてないわ。
教会の奴らは私たちの秘密を知ろうと躍起になってる。私の口をなんとか割らせて、喉の奥から秘密を引きずり出そうとしたわ。
だけど私は拒んだ。そしたら奴らは私の血肉、そして脳みそから手がかりを見つけようとしたみたい。でも……結果は隊長の見た通りよ。
奴らの思い通りになんて、なってやらなかったわ。
ええ。昔であれば、あなたは賞賛されるべきでしょうね……けれど今となってはもう、あなたの行為に正式な評価を下す資格のある者なんていない。
つれないわねぇ、隊長。あなたにはその資格があるわ。今だけは、過去の……私たち共通の記憶の中で話してると思ってちょうだい。
そう。サメ……あなたの判断は正しかった。よく秘密を守り抜いてくれたわね。
フフッ……アハッ、アハハハ。悪くない気分ねぇ!
もう伝えておきたいことはないわ。あなたの腕だし、もう私に起きた全てを知ってるんでしょ。隊長の経験に比べれば、私のことなんてあまりにもつまらないわよねぇ~。
ああでも、知りたいことが一つ。隊長はこれまで一人だったけど、もしこれから「私たち」……
アビサルハンターが再び集結することになったら、何するつもり?
私の使命は変わらないわ。けれどサメ、今のあなたは何者なの?
私?
ケルシーや、ロドスにいる陸の者たちだけでなく、今となってはスカジすらも、あなたを「スペクター」と呼ぶわ。
あなたはもうその「スペクター」を受け入れた。「サメ」であり続ける必要はもうどこにもないわ。
……私は何も変わらないわ、隊長。面倒ごとは他人に押しつけて、できる時にできることをするだけよ。今の私は、ローレンティーナであり、サメであり、スペクターなんだから。
それも悪くないわね。
……あいっかわらず話が広がらないんだから。こんなに長く会ってなかったのに、もう話は終わり?
他人に無関心なのは変わらないわね、なんなのよもう。
訊きたいことはあるけれど、あなたが思い返す必要はないわ。
訊きたいこと? 回りくどいったらありゃしないわ、勿体ぶらないで言いなさいよ。
あなたは、いつ捕まったの?
陸地にいるときよ。あの獰猛な怪物たちから逃げて、疲れ果てて岸に打ち上げられていた時に、あの「亡霊」たちに捕まったわ。
……となると、海底に引きずり込まれた他のハンターの情報は、やはりわからないということね。
そうね、みんな散り散りになっちゃったからね。
隊長、もしアビサルハンターの生き残りが私たち三人だけなら……
たとえそうであっても、私たちはアビサルハンターよ。この体を流れる血が、私たちを逃しはしない。
はいはい、そう言うと思いました。まぁ、私は使命から逃げないってことは信じてくれていいから。
それにしてもスカジは誰に会いに行ったの? 誰かと話してるにしても、こんなに長くなんて珍しいわね。変わり果てたサルヴィエントに名残惜しいものなんてないでしょ。
陸を行くアビサルハンターの中で、彼女の変化が一番大きいのかもしれないわ。多くのものを背負ったようね。
……陸の人間の情ってやつね。あの無愛想な彼女が陸地での生活に慣れて、こんなに色んな人と関係を築くなんて信じられない。
全くもって無意味なことよ。けれど、あなたにとっては、それも一つの生き方でしょう? サメ。
それは私だってよーくわかってる。口を開けばくだらない言葉が飛び出しちゃう「病気」が治ったら、どう生きていくかちゃんと考えることにするわ。
今はそんなこと考えるより、昔話を楽しみましょうよ。
今の私ときたら、武器のキレはないし身体も重い。反応だってずいぶん鈍くなってる。あなたの力になるには、もう少し時間がかかるわ。
……それにしてもスカジ、いつになったら戻ってくるのよ。もう休憩ということにして……せっかくだから歌いましょ! 隊長、どっちから歌う?
どちらでも。
ずっと我慢してたの。あの滅茶苦茶で狂気じみた苦しい日々の中、もし歌うことさえ許してもらえるなら、戦う力を捨てろって言われても受け入れてたかもしれないわ。
でも……結局、それだけは唯一叶わなかった。
……
……もう何年にもなるわ。私の喉はまだ歌い方を覚えているのかしらねぇ? 試してみましょ。
......
......
行きましょう。
第二部隊隊長……スペクター。
話は終わったの?
ええ。片づいたわ。
陸地の人とこんな話すなんてあなたらしくないわねぇ、何か教えてたの? 海の知識? それとも踊りや歌?
そんなこと教えないわ……つまらない話をしていただけ。
嘘。アハハッ、スカジ、またウジウジくだらないこと心配して嘘付いてるわね!
あなたはどうせ歌って、踊ったんでしょう。それから彼らに、海辺で食べられるものでも教えたのかもしれないわね。海でエーギルが食べるような……
サメ。
ねぇ隊長、ずっと報告したかったのよ。スカジは変わったわ! よく私の部屋へ来て、歌って、話を聞かせてくれるのよ!
この頑固者は、あの災いの悲劇を全部自分のせいにしてるのよ。悲しきエーギルの運命に、自分が直接立ち向かったからそう思い込んでるのかしらね?
そんなことはないわ。
行きましょう、スカジ。サメの話に付き合ってるとキリがないわ。
もちろん、私も話したいことはまだまだあるわ。だけどそれはスカジも一緒でしょ。身体は動かなかったし、目を開くことすらできなかったけど、問いかける声は聞こえてたわ。先に聞いてあげる。
……もうしなくてよくなった話もあるわ。
真実が明らかになったことだってある。
スペクター、あなたに……聞きたいことは確かにあった。でもそんな感情をあなたにぶつけるべきじゃないわ……少なくとも今は。
あっそ、別に構わないのに。もしまた話したくなったら言って。でも……
……できれば、深淵が再び訪れる前に……「亡霊」はまだ生きて……
えっ?
スペクター、あなた今──
チッ、何でもないわ。ただの悪い癖よ。
本当に大丈夫? また狂気に呑まれそうになっているのなら、すぐにでも戻らないと。
急いで戻って何になるの? 陸地の医療システムなんて、何の役にも立たないわ。あんなの私を生かしておくのが精一杯のガラクタなんだから。
……だけど……
いずれにしても、急ぎましょう。
サメ、スカジ。私たちに時間の余裕はないわ。
アハッ。スカジ、何年間も離れ離れだった三人の旧友がまた会えたのに、隊長ったらいい加減にあしらってると思わない?
別にそんなことは気にしないわ。私はただ真実を確認したかっただけだから。
フッ、真実ね。何の意味があるの? アビサルハンターはただ必要な知識を交換するだけ、そういう関係でしょう?
ああ……まただ……頭の中を、脊髄の中を、何かがずっと内側から掻き回しているように……痛い……
……ようやく抜け出したのに、再び狂気に陥るのは避けられない。アハハッ、いったい私に何ができるの? こんな私に、これ以上何ができるっていうの?
……そう……私にできるのは……
戦うこと。そう、それだ。
ノコギリならお手の物よ。正気じゃなくても、意識がもうろうとしていても振り回せる。
また深淵に陥ったとしてもこれさえあれば……自分を証明できる。私はスペクターであり、サメであり、ローレンティーナでもある。誰かが私を覚えていてくれる。
イベリア北部
ケルシー先生の言う通りなら、出迎えはもう到着してるはずよね。Misery……だったかしら?
でもロドスらしき人影はどこにも見えないわ。
――もしもし、聞こえますか? スカジさん、スペクターさん、グレイディーアさん。
ええ。
私はMisery小隊のメンバーです。
通信がつながるということは、我々はそう遠くない場所にいるはずですが、指定された場所まで行けず申し訳ありません。実はイベリアのロドス外勤チームがトラブルに遭ってしまって。
ケルシーは部下にそのようなミスをさせる人間ではありませんわ。
確かにそうですが、このトラブルは先生の想定外です。敵の待ち伏せにより、ロドス小隊の状況が不明なんです……あなたたちの言葉を借りれば、「陸地の面倒ごと」でしょうか。
Misery隊長は、これを解決してから合流すると。
どれくらいかかりますの?
うーん……急いで二時間くらいです。私たちが一番近くにいます。
ここで待つの? 私は嫌よ。隊長、それならいっそこっちから──
それは最善策とは言えないわ。私とロドスはまだ正式な協力関係にないのよ。
はいはい、そうですか……じゃあスカジ、あなたはどう? もし普段のあなたなら、ロドスのオペレーターとしてどう行動するの?
……言うまでもないわ。
あら、私と同じ考えね。
今のあなたたちの、陸地人に対するスタンスは似たり寄ったりということね。
じゃあ隊長も加わってみたらいいじゃない。どうせ目的は同じなんだから、早くロドスへ戻るためなら手伝って損はないでしょう?
それに、長い間一緒に戦ってないでしょ? さっきの戦いだけじゃ全然満足できてないわ。
今度こそ存分に……と言っても、陸地の奴らとやり合うのにそんなに体力は使わないけどね。かすり傷だって負わないかも。
……ああもう! あなたたち、片方は必要最低限しか話さないし、もう片方は重要な悩み事すらウジウジして話さないときた。もううんざり!
いいわ、私が決めてあげる! ロドス、私たちも今すぐそっちに向かうから待ってなさい。それから一緒に支援に行くわよ、その方が早く片付くわ。
しかしケルシー先生から、あなた方は先程激しい戦いをしたばかりだろうと伺っています。なのにもう次の戦いに向かうと言うのですか?
はぁ、あれはただのウォーミングアップよ。私たちの意見は一致してるんだし、ケルシー先生がとやかく言うことじゃないわ。
──確認ですが、これはあなた方が支援を願い出ているということでしょうか?
それで問題ないわ。
私は陸地の人たちを助けることに興味はありません、むしろ反感を抱いていますわ。ですがそれはあなた方の敵に対しても同じ。ぶちのめしても罪悪感はありませんわ。
ということで、私たちの総意は明らかでしょう? ロドスさん。
……時間がないの。あぁ、深淵の誘惑が、ゆっくり迫って──
「シスター」よ、私の言葉に従いなさい。私の呼び掛けに応じ、真なる精神を大地に広めなさい……
くっ……ゴホッ、ゴホゴホッ……やめて!
スペクター? あなたまた……
違う……フッ……フフッ……私を哀れまないで。
そうじゃないわ……心配しているだけ。
……スカジ、あなたが恐れてることはわかってる。確かに砂時計は想像よりも早く流れてる。だけど……まだ耐えられるわ。
……生き残り同士で、ゆっくり話せることもたくさんあるはずなのに……
今はそんなこと話している場合じゃないでしょう。それに、私たちは結局アビサルハンターなのよ。経験を語り合って盛り上がるのは楽しいでしょうけど、ほとんど無意味よ。
アビサルハンターのコミュニケーションは──すべて歌声と戦いの中で行う。昔からそうでしょ? そっちの方が私たちにとって意味のある交流と言えるわ。
隊長、戦う時は余計なことは考えない、そうよね?
ええ。あなたが問題ないと言うなら、私はこれ以上訊かない。
それでいいのよ。さあ行きましょう、目覚めた状態で戦える……久しぶりに、自由に楽しめるわ。
ゴホッ……うっ、ゴホッ……
大丈夫、スペクター?
うっ……!
あなた……ひどい状態だわ。そんな状態で何をするつもりなの?
フフッ……私は何をするつもりなんでしょうね……例えば、時間切れになる前に、あなたから出されたクリスマスの宿題を提出しに行くとかかしらねぇ。
宿題? 私が出した?
あなたが陸地のクリスマスで私に受け取らせた「好意」は、ただの素朴なプレゼント以外に……また違う感情を私に与えるためじゃなかったの?
……別に。ただせっかくのクリスマスだからってだけよ。それ以外の意味なんてないわ。
フッ、他の人たちは昔のあなたを知らないけど……でも私と隊長はあなたの本当の姿を知ってる。
スカジ、あなたはすっごく変わったのよ。昔と違って今のあなたの心は……いつも柔らかい。陸の人の暖かい心があなたをそう変えたんでしょう。だからあなたも彼らにお返しをした。
じゃああなたは? 教会に連れ去られたあなたは……ロドスに助けられ、僚友たちに再開できた。あなたはこの陸地をどう思っているの?
私は……海を崇拝するあの教会の虫けらどもを罵倒し、蔑視し、嘲笑する以外、ロドスの人たちとはまだまともに話をしてないわ。
あなたも知ってるでしょうけど、彼らは私の言葉の意味だって理解できないし、エーギルの生活に一番必要な日用品がどういう物かも理解してない。
ロドスは、私たちが生活するには……とっても面倒、面倒すぎて嫌になるわ!
否定はしないわ。
でも、人の心は似通ってる。
そう……万物の主も、深淵の中で、この総てを覗き見た……
「それ」は探し出し、籠絡しようとしています……「それ」は再びここに降臨せんと……ううっ……
スペクター、あなた……まだ歩ける?
(……もう時間がない。)
ええ。帰り道でもたくさん話したことだし、おしゃべりはこの辺にしましょう。私にはまだやらないといけないことがあるわ。
それと……「面識のない」──あるいは少ししか面識のない陸地の人たちにも、最後に会っておこうと思ってるの。
必要なら手伝うわ。
フッ、別に大丈夫よ。アビサルハンターが二人肩を並べて歩いてきたら、陸の人が震え上がっちゃうでしょう。
最後の余力は、陸地の人のために使うわ……挨拶ができた人たちは……きっと私のことを覚えててくれる。はぁ、でもそれに何の意味があるのかしらね?
結局はケルシー先生が言うように、ただ必要だから──他人に必要とされるからこうやって生きてるのかもね。
或いは……そうね。
ケルシー先生は、私に「新しい友人」ができたって言ってた。
友達? 陸地の? ……フッ。
とにかく、自分で会って挨拶してみないと、信じられないわ。
行ってくるわ。
……わかった。
あなたはまた目覚めるわ、スペクター……その時も私はきっと側にいるから。
スカジ、そんなに険しい顔しないで。罪悪感を持つ必要なんてないんだから。あの厄災に関してあなたを恨んだことなんてないわ。
わかってる……わかってるのに……
ほら、笑って。私だって、ずっと正気じゃいられないことを受け入れたわ。あなたも自分の過去と今を受け入れてよ。
次に目覚める時が来たら……その時また会えたら、楽しい話をたくさんしましょう。
あ、やっと戻ってきたんだ。予定より遅かったね。
どうして私だけを呼んだの? 隊長とスカジが持ち帰った情報の方が重要だと思うんだけど。
そんなのは後でやることだよ。君の身体を適宜適切に治療することの方が、ロドスにとっては重要だからね。ちゃんと考えて総合的に判断してるんだから。
それに、ケルシーがわざわざ言い残したことでもあるからね。
……彼女が心配じゃないの?
ケルシーが? だって本人が自分で決めたことでしょ? それに、事態がこうなるってことを、あたしに言ってなかったとでも思う?
あなたたち──陸地のそういう謀り事は、本当に煩わしくてくだらないわね。
いやー、あたしは口の達者な君に会えて嬉しいよ、スペクター。そういえばMiseryが教えてくれたけど、君たちアビサルハンターの三人がロドスの外勤チームを助けたんだってね。
私とスカジはもうロドスに登録済みだし、もう一人もそのうちロドスに加わるんだから、仕事みたいなもんでしょ。
それで……戦ってみてどうだった?
君の戦闘能力の評定をしなきゃいけないんだよね。
目覚めた状態で、問題なく他の隊員たちと協力して戦闘を行えるってことなら、あたしたちも喜んで新たな任務をアサインするよ。
あんな簡単な「テスト」じゃなんの評定もできないわ。あの程度の雑魚数匹なんて、本来私たちアビサルハンターが三人で戦うような相手じゃないもの。
それに、私たちが到着した時にはもう、Miseryがほとんど片付けてたわ。
まったく、つまらないったらありゃしないわ。これならあのクソ変異司教の方がマシよ。あ、もう死んじゃったんだったわ。
……私がこの手であれを深淵に還してやったから……でも深淵は……深淵はまだ背後から追いかけてくる……
ウフッ……アハハッ……誰が逃れられるというのでしょう……一つに帰する大群への渇望から……
スペクター? まだ耐えられそう?
ううっ……たぶん、あまり長くはもたないわ。
神経系への再侵食が思ったよりも早いみたいだね。すぐに検査しないと。
……慌てて検査しなくてもいいでしょう。どのみち最後は、またあのベッドに戻されるだけなんだから。それに今のうちにやっておきたいことだってあるの。
……やっぱそうなるかぁ。ケルシーからも言われてたんだよ、君を無理に止めるなって……ケルシーは君の現状と選択を予想していたんだね。
でもスペクター、ロドスとしてもいくつか訊かなきゃいけない質問を用意してあるんだ。
面倒くさいわねぇ、じゃあさっさと訊いて。
あとどれだけ目覚めていられるの?
何とも言えないわ……ずいぶん頭がぼうっとしてる。半分くらいは意識がないのかもしれないわね。
そっか。じゃあこれからの発言が君自身のものであることを願ってるよ。ロドスは君の望みをできるだけ尊重するつもりだから。
スペクター、君が初めてロドスに来た時、何かを伝えようとしてたみたいだけど、最後まで言うことができなかったよね。それを今また伝える気はある?
もう必要ないわ、クロージャ……って名前だったわよね? 私が伝えないといけないことは、僚友たちがもう知ってるから。
残りの……教会の手先が私の意識下に植え付けた毒については、それが芽を出して、広がっていくことを許すつもりはないわ。
わかった。じゃああの後、ロドスは君を治療して、それから慎重に検討した上で君を外勤作戦に投入してたわけだけど、それに対する意見や抗議は……
それなら願ったり叶ったりよ、戦うことは私自身の選択なのよ。ケルシー先生はその点を理解してくれてたみたいだし、少しは感謝しないといけないかしら。
戦場は……静かなの。静寂の廃墟は時に稼働し続ける医療機器よりもずっと静かだから。
もし……もしもだよスペクター、君の意識が回復した時……あたしたちが君の意識をある程度保たせる方法を見つけていたとしたら、君はどんな将来の計画を立てる?
計画? それだったらもう考えてあるわ。
さっきの帰ってくる道中でも考えてた。
いっそ隊長とスカジを誘って、三人で戦闘専門の小隊を組んだらどうかなって。隊長の指揮のもと、私たち三人で完璧な軍隊になるのよ。
スカジが言ってたわ。陸を何年も歩く中で、あなたたちの「良い」と「悪い」の定義を理解したって……だから私たちが、陸地の「悪い」雑魚どもを虐め抜いてやるわ。
確かに、アビサルハンターの実力があれば……
でも、この話は彼女たちにはしてないわ。
え?
ケルシー先生から忠告も受けてるし、私自身も察してるわ。この理性ある状態はそう長くは続かない、そうでしょう?
だから結局、三人小隊の計画は実行不可能なの。私の戦い方だって昔とはまるで違うし、ロドス──あなたたちが私のために選んだ戦術が現状においては一番よ。
でも、君の治療法が見つかれば……
考えるだけ無駄よ。あなたたち陸地の技術では、私を一時的に静かにさせるくらいしかできないもの。
私の身体の問題は……私にしか解決できない。他人に頼っても無意味だから。
……
あら、そんな顔しないでよクロージャ。とにかく今の私は、あなたたちの管理下にいることしかできないわ。「私」が人を斬りたい気分になってる時を見計らって戦場へ出せば、きっと役に立つから。
つまり、君はロドスのオペレーターとして戦い続けることを受け入れたって考えていいの?
言ったでしょう。戦場は私の頭を落ち着かせてくれる場所なの。もうアビサルハンターのようには戦えないでしょうけど、ロドスには戦場の楽しみを与えてくれる人もいる。
あたしたちの指揮官の采配が、君に対して効果的だってこと?
ええ。あなたと話し終えたら、すぐにその人に会いに行くわ。
まだ目覚めてる時に話したことないの。言っておかなきゃいけないこともあるから。
ロドスの指揮官──ドクターは、あなたたちの誰とも違う。
それは感じ取れるんだね。
言葉での意思疎通ができない時には、代わりに他の器官が鋭くなるものよ。私が戦場に立ち続けるためには……
必ず……あの人を連れて行かないといけません……あの場所へ……
スペクター……
……シーッ。今はまだ立ち止まれない。深淵に追いつかれるわけにはいかないわ。
行かなきゃ。
あぁ……やっと……見つけた……
あの……ドクター……
フフッ、目覚めた状態で話すのは初めてね……
そう……私はまだ目覚めてるわね。だけど……またちょっと疲れてきたみたい。
そう固くなっちゃイヤよ、ドクター。こうやって私と話すのは慣れてるでしょう? 今なら、私の言葉もわかりやすいはずよ。
ドクター……あなたはかつて、さまよっている私と話をしてくれたわね。
もしその時の話で、理解できない言葉があったなら……それはもう忘れてほしいの。
ああいう狂気は広がっていくべきじゃないわ。だけど、私はそれを制御できないの。幸い、私には口を閉ざすという選択肢が残されているけどね。
フフッ……ドクター、そんなこと言ってくれる人なんてほとんどいないわ。
一つだけ残念なのは、その状態の私は歌えないということ。そして……今の私にも、もう歌声はないの……
でもドクター、私はあなたのために歌いたい。
何が何でも、歌わなきゃいけないの。そして……あなたなら、歌を聴けばわかってくれるかもしれない。あなたには力があるから。
ドクター、私は僚友たちに会ったわ。隊長……私は彼女と一緒にアビサルハンターになって、数え切れないほどの選別と淘汰を経験してきたの。
彼女――グレイディーアはかつて私たちを指揮し、共にあの恐ろしい敵……海の深淵に立ち向かっていた。もちろん、今でも変わってないわ。
そして私は、「サメ」でありながら、「スペクター」になった。私にはスカジと同じように、陸地の匂いと、ロドスの匂いが染みついている。
目覚めた状態を維持できない時は、隊長と泳ぐことはできないの……私の身体には陸地の造物が埋め込まれ、大地を這うことを強いられてる。
だからこそ、戦場に立つことを、海に行くことを、そして歌うことを心から望んでる。
あなたは指揮官よ……私の戦場での姿を知ってるでしょう? 私をあまり長く戦場から離れさせないで。それは私が……他人の死後もまだ生きているという証だから。
どうすればいい?
もっと私を危険にさらしてほしいの。
じゃあせめて、もう少し私を前線に出して。心配しなくても、戦場での私は普段よりもずっと聞き分けがいいわ。
私の力を恐れないでほしいの……ただ、私の鋸で斬るべきでないものは遠ざけて。
アビサルハンターには、戦闘中の余計なコミュニケーションなんて必要ないから。
とにかく安心して、ドクター。もう少し戦場で過ごせば、私たちはよりお互いを理解できるわ。言葉による束縛は……私のような戦士には全くの無意味よ。
私を戦列に加えて、アビサルハンターのように戦わせてちょうだい……そしたら私の漂う意識を、武器を握りしめる両手に込められるかもしれないから。
あなたを信じてもいいかしら、陸地の指揮官さん?
……ウフ、ウフフ、アハハハ……
御覧なさい、ドクター。私にはまだまだ「秘密」があるのです。あなたに話して差し上げないと、あなたが……あの場所へと行く前に……
ですが……今は、今、私は何をすればいいのでしょう……
歌えばいい、スペクター。
歌……そう、歌。
......
......
......
これは……スペクターの歌だわ。
スペクター、そこにいるの?
彼女が涙する時♪
夜空も微笑む♪
スペクター……ローレンティーナ、待って!
あぁ……僚友の匂い……
スペクター、あなた……聞こえてる? スペクター──
私に……触れないでくださいまし……
──!
未だ……洗礼を受けていない……海に戻った穢れ……陸地の匂いがあなたを追いやり……誘惑する……
……
フゥ……私はあなたの呼び声を聞きました……フゥ……深淵の縁で……
......