最後の事件幕間最後の事件
フォントファミリー

フォントサイズ

⌘/Ctrl+
拡大
⌘/Ctrl−
縮小

地図

名前

最後の事件 幕間

最後の事件

「もしもし? ああ、また私だ。うまく伝わらなかったようだからもう一度言う。注文したのは一段のショートケーキだ。送られてきた請求書を見たが……」

「一段でも七十ドル? そうかい、まあ構わんよ。いや、二段ケーキにはしなくていい。受取人欄は『モスビー』のままで頼む。モスリーじゃなくて、モス……ちょっと待ってくれ。」

痺れを切らした男

車の窓を閉めた。これでよく聞こえるか? 受取人欄はモスビー警部、ヒュー・モスビーだ。

モスビー警部

今夜の六時までに警察署に届けてくれ。他に注文があるかだと? いらん、ただの退職パーティーだ。ケーキがないとパーティーが始まらないことは分かるな? じゃあ、よろしく頼んだぞ!

……

考えはまとまったか? いい加減自白の供述書にサインをするんだな。

顔に痣がある青年

……なぜ俺を取り調べ室から連れ出したんだ? 車の中で取調べなんて、聞いたこと……

モスビー警部

*クルビアスラング*、質問をしていいと言った覚えはないぞ。この人殺しめ。

顔に痣がある青年

言ったはずだろう、殺すつもりなんてなかったんだって! 俺はただ……「正当防衛」がちょっと行き過ぎただけだ! あいつが先に襲ってきたんだよ!

モスビー警部

黙ってろ。これが何か分かるな? 凶器の折りたたみナイフだ。お前の指紋がびっしり付いてる。これが「証拠」ってやつだ。もしここが開拓地だったら、お前はここで処刑されてるぞ。

俺はお前みたいな若者を何人も捕まえてきた。どいつも揃って学もなく、刺青をして、盗みを働く。そして意味も知らない流行語ばかり使う。そういうのが格好いいとでも思ってるんだろう。

そんな連中の最期を知ってるか?

顔に痣がある青年

……

モスビー警部

お前もじき辿ることになる。

年配の警部は痺れを切らしてペンと書類の入った袋を引っ掴み、運転席のドアを勢いよく開けた。港から吹き付ける冷たい風が車内に吹き込んでいく。

顔に痣がある青年

待ってくれ! あんた、退職するんだよな? つまりこれが最後の事件ってことだ。

それを冤罪で終わらせていいのか? 今までいくつも手柄を挙げてきたんだろ? 全部台無しになるぞ!

ベテラン警部は、ダッシュボード上の『クルビア警察捜査マニュアル』に視線を留めた。


そして供述書を車の屋根に広げるやいなや、自分のサインの横にもう一人のサインを添えた。

インクも乾かないうちに、風が彼の代わりにページを閉じた。


刑事見習い

モスビー警部、また制服着てないんすか?

モスビー警部

おはよう、トレバー。制服はもう返しておいた。どうせ今日が最後なんだ。もし誰かがそれで私を咎めたいなら、勝手にクビにしてくれて構わんよ。

容疑者が調書にサインした。腕っぷしの強い奴二人を駐車場まで呼んで、独房まで運ばせろ。それとこのファイル、警視に回して署名をもらってきてくれ。

刑事見習い

少し後でもいいですかね? 警視は署長と朝の会議中なんで……ええ、わかってますって。警部はいつも通り欠席なんでしょ。

モスビー警部

ああ。あいつらが好きそうなもの――銀行の寄付だの、都市間ネットワークだのに興味はないからな。

警視の襟を引っ張ってでもサインを書かせて、最後の事件にケリをつける。今日一杯目のコーヒーを飲みながら、警官としての最後の日を満喫する……俺が今やりたいのはそれだけだ。

刑事見習い

警部も先例にならって退職パーティーを?

モスビー警部

当然だ。お前も来るか?

刑事見習い

えっと……今夜はちょっと……

モスビー警部

構わん、無理して来る必要はない。


顔に痣がある青年

離せ! 俺は無実だ!

警察に殺される! 俺は警察に無実の罪で殺されるんだ!

若者は網にかかった鱗獣のように必死でもがいたが、被害はせいぜい近くを通った事務員にぶつかって書類が落ちた程度だった。

不機嫌な事務員

おい! 大事な契約書に何するんだ!

くそっ、踏むんじゃないぞ!

ブリキ

心配はないでしょう。貸借契約書など、今のサンソフィーシティでは毎日何枚でも刷られていますから。

相手が朝の会議で署長が紹介していた「特別なお客様」だと事務員は気づき、書類を拾おうとした彼を慌てて止めた。

不機嫌な事務員

自分で拾いますので、お気遣いなく……「ブリキ」さん。もしくは「犯罪コンサルタント」とお呼びしましょうか?

ブリキ

ブリキでお願いします。

さっきの若者はずいぶん大きな声で叫んでいましたね。ここではよくあることなのでしょうか?


モスビー警部

警視はまだ戻らないのか? いつまであのカビ臭い銀行家と話してるんだ、あの男の署名がないと事件が終わらないじゃないか!

刑事見習い

銀行家たちならもう帰ったすよ。今はたぶん政府から来た人と話してるんじゃないすかね……

モスビー警部

何の話をしてるんだ?

刑事見習い

都市間ネットワークの話とか……警部はあんまり興味も馴染みもないことばっかりすよ。

モスビー警部

今だけは聞きたくて仕方ないな! 俺の退職パーティーに関わってるんだ。せっかくショートケーキまで手配してるんだぞ!

ブリキ

失礼します、モスビー警部。少しお伺いしたいことがありまして。

モスビー警部

お前――*クルビアスラング*! その体はいったい……!?

すまない、歳を取ると新しいものに馴染めなくてな。お前は大都市から来たんだろう? D.C.か? トリマウンツか? それともランクウッドか?

ブリキ

そんなところです。改めまして、サンソフィーシティ警察署に雇われた犯罪コンサルタントのブリキです。体についてはご心配なく、私は至って健康です。金属部分は医療機器だと思ってください。

モスビー警部

ヒュー・モスビー警部だ。何か質問が――ああ、あの若者の話か。あれは俺が担当している事件の容疑者だ。

刑事見習い

ボスの最後の事件なんです……いやいや、そんな睨まないでくださいって、もう行きますから――それじゃ、長い間お疲れ様っした、モスビー警部!

ブリキ

事件の資料を拝見しました。典型的な強盗殺人ですね。不運な被害者は失業した地元の労働者と。

モスビー警部

ほう、よく分かっているな。それで「犯罪コンサルタント」さん、何か気になる点でも?

ブリキ

「ブリキ」で構いません。あなたはずいぶんこの手の事件の経験が豊富なようですね。証拠もきちんと揃っている。

モスビー警部

はぁ……で、気になることは?

ブリキ

警部さん、「強盗」という点が少々引っ掛かりまして。失業した港湾労働者が、バーの勘定すら払えずに追い出されたばかりだったそうですが――

そんな彼が、本当に「強盗をする価値のある財産」を持っていたのでしょうか?

モスビー警部

俺はこの手のチンピラを数十年見てきたんだ、あいつらの考えなど……

ブリキ

まだ話は終わっていません。どうも気になったので、金融犯罪対策課の友人に調べてもらいました――ご覧ください。被害者の銀行口座の残高は、ちょうど事件の前日に全額下ろされているのです。

モスビー警部

全額だと? 待ってくれ、ブリキさん……それが事実だとしても、もう別の事件だろう。

ブリキ

確かにその通りです。しかし二つの事件が全くの無関係だと言えるでしょうか? モスビー警部、残念ですが、まだ退職パーティーはお預けかもしれませんよ。

モスビー警部

調べるなら勝手にやってくれ。

ブリキ

はは、当然あなたにも協力してもらいますよ。それに、私が勝手にあなたの名前でサインをして、捜査に同意したことにするなど、許されるはずもない……そうですよね?

モスビー警部

……

ブリキ

そんなに強張らないでください、大したことではありません。私はあなたを手伝うついでに、この街やこの警察署について知りたいだけですから。


モスビー警部

証拠品はすべてここにある。それと全部のラベルに分類を書いてあるから、好きなだけ確認してくれ。

ブリキ

ラベルプリンターが壊れているのですか?

モスビー警部

ラベル……プリンター?

ブリキ

いえ、お気になさらず。ところで被害者の身元調査書類に、なぜ財産調査の書類が含まれていないのでしょう?

モスビー警部

被害者の口座は新設の――何て名前だったか、都市間ネットワーク……バーチャルバンク? にあるんだ。オフィスがないから、連絡もつかなくてな。

ブリキ

技術課の方々でも連絡がつかないのですか?

モスビー警部

あいつらには聞いちゃいない。無駄な手間がかかるだけで相手にもされん。

この手のは、ひと月に十件以上は起こる些細な事件だ。大した問題じゃない。

ブリキ

ひと月で十件以上というのは大した問題ですよ、警部さん。

この端末機械は、被害者の遺品ですか?

モスビー警部

ああ、俺が被害者宅から直接持ってきた。まったく、重すぎてかなわんよ。

銀行家どもは新規顧客を釣るために、タダで口座を開いてやるどころか、こんなネット端末までプレゼントするそうだな。一体どこで儲けてやがるんだ。政府の補助でも期待してるのか?

ブリキ

それほど悲観的なものでもありませんよ。ネットを受け入れ、金融業の改革を行ったサンソフィーシティは、今やクルビア都市改革の代表例です。

モスビー警部

悲観的だと? フン! 一生分の貯金を、顔を見たこともない「マネージャー」に預けるなんてな。いかにも*クルビアスラング*現代社会らしい。

ブリキ

この端末を一度でも起動しましたか?

モスビー警部

いいや。

ブリキ

端末には操作記録などが残っているはずです……おや? ストレージモジュールはどこに? 中枢演算ユニットも……

……モスビー警部、まさかディスプレイだけを持って帰ったのですか?

モスビー警部

*クルビアスラング*!


モスビー警部

少し待ってろ。まずはコーヒーを買って来る。飲まないとこの厄介な事件に手が付けられない。お前も要るか?

ブリキ

お構いなく。私はいくつか連絡するところがあるので。

モスビー警部

やれやれ、こりゃあダブルのエスプレッソが必要だな。

警部は角を曲がり、長年通った開拓地風の懐かしいコーヒーショップの前まで来た。

彼は今日もバリスタを笑わせようと、下品なジョークを用意していた。昨日もコーヒー豆を床にぶちまけるほどの大笑いを取ったばかりだ。

しかし足を止めて見てみると、店の佇まいは昨日とがらりと変わっていた。

モスビー警部

クソッ! どうしてここにATMがあるんだ!? コーヒーショップはどこに行った!?

おい、これはどういうことなんだ? 誰か教えてくれ!

誰一人として彼の嘆きには答えず、足早に通り過ぎていく。派手な色をした銀行のチラシが、改装中の立ち入りを禁止するテープと擦れ合い、その音に彼の頭は余計混乱してしまった。


モスビー警部

……

ブリキ

もう少し丁寧に運転してください。レースではないのですから――もしもし? ええ、さきほども連絡した者です。例の事件についてですが、被害者のお名前は――

(受話器を手でおさえながら)何というお名前でしたか。

モスビー警部

グレンジャーだ。

ブリキ

ジョセフ・グレンジャーです。彼の直近一ヶ月の取引履歴が必要なんです――「提供できません」? 申し訳ありません、では別の言い方をしましょう……

あなたのデスクに、おととい公布された『サンソフィーシティネットワーク構築条例』があるはずです。見つかったら、最初のページの一行目を読んでください。

頭取さん、デスクに市長のサインが入った条例の交付書類がないとは言わせませんよ。それがなければ、あなたか市長のどちらかが裁判所に呼ばれてしまいますからね。

モスビー警部

……

ブリキ

その通り、一行目は「市政府および全市民の監督下において」、ですね。続けて次のページの「協力の拒否に対する罰則」もお願いします。

いえいえ、冗談などではありません。私にはもちろん権限がありますので。私の名前ですか? ブリキと申します。

……話が分かる方で助かります。はい、お願いします……ふむ、破産ですか。預金は一括して引き出されたのですか? 受取人は個人ですか、法人ですか? ……個人ですね、分かりました。

担保ローン? 金額は――それだけの額、よく即座に承認されましたね。いやはや、効率のいい仕事で羨ましい。

必要な書類はすべてサンソフィーシティ警察署、ヒュー・モスビー警部宛てにファックスで。それでは失礼します。

モスビー警部

おい……

ブリキの携帯端末がふたたび鳴り、警部の話をさえぎった。

ブリキ

もしもし――ニクソン運送のニクソンさんですね! 折り返し連絡ありがとうございます。ジョセフ・グレンジャーさんが御社で働いていたかどうかお聞きしたいのですが。

ええ、そうですか。そのリストラが合法だったかはおいおい調査するとして、今回はグレンジャーさんの労働保険についてお伺いしようかと。

事故保険? 保険金額は……百七十万ドル、なるほど。継続状況は……解雇後は保険から外れたと。本人もそのことを知っていたのでしょうか?

それをもっと早く彼に伝えてあげるべきでしたね。また連絡しますので、これからもよろしくお願いします、ニクソンさん。

ブリキが通信端末をしまうと、警部はすぐさま口を開いた。

モスビー警部

敏腕刑事の真似ごとか?

ブリキ

滅相もない。それより、このような基本的なやりとりにベテラン警部が反応するとは驚きました。

モスビー警部

通信端末に向かって尋問する自分に浸ってるようだな。

「私にはもちろん権限があります」だの、「これからもよろしくお願いします」だの……ランクウッドのリーガルドラマの登場人物にでもなりきってるつもりか?

ブリキ

ここだけの話、私にもリーガルドラマに出てみたいと思っていた時期がありました。

モスビー警部

ふん、車から電話を二本かけただけで事件の真相がわかるとは、実に慧眼だな!

借金まみれの失業者が、わざとチンピラが持っているナイフに飛び込んで、とっくに切れている事故保険で借金返済を企てた――とでも上の連中に話す気か?

警部はクラクションを強く鳴らし、突然車線を変更してノロノロと走るトラックを追い越した。

ブリキ

落ち着いてください、警部さん。安全運転を心がけましょう。

モスビー警部

四十年以上前、ここがどんな街だったか知ってるか? 何もない荒れ地だ! 俺たち開拓者が石を運んで今の街を築いたんだぞ!

お前のような都会生まれの若者は、流行語をペチャクチャ話しながら、端末を肌身離さず持ってるだろう。電話ひとつでテラ全土の事件が片付くとでも思ってるんだろうな!

俺が警察になった頃、何を持ってたか知ってるか? 体ひとつと、このくそったれの『捜査マニュアル』だけだ!

警部はダッシュボード上の『クルビア警察捜査マニュアル』を鷲掴みして、後ろの席に投げつけた。

モスビー警部

殺人犯が人を殺す動機も、強盗犯が盗む動機も、このマニュアルに書いてあった。だが都市間ネットワーク、バーチャルバンク、保険金詐欺……そんなもんはどこにも書いてなかった!

ブリキ

時代は進んでいますからね。それにしても、どうしてそれほど怒っているのですか。

モスビー警部

分からんか? クソッ、俺にも分からんがな!

お前たちが新鮮なものばかり求めたせいで、この街は変わっちまったんだ! 昔ながらのコーヒーショップ一軒すら残さずにな!

よく聞け、ブリキ男め。これは俺の担当だ。俺だけが担当なんだ。三十年も警察をやってきた人間が、映画から出てきたようなブリキ人間から捜査の手順を教わるなんてあってたまるか!

その時、通信端末が空気を読まず鳴り響いた。警部は即座にブリキを睨んだが、ブリキは無実を主張するように画面を見せ、自分に電話が来てないことを示す。

警部は気まずそうに自分の端末を取り出して電話に出た。

ケーキ屋の店員

モスリーさん、申し訳ありません。予約番号を取り違えてしまいまして、お客様は八番目のお受け取りとなってしまいました。本日中にケーキをご用意するのは難しく……

全額返金のうえ、商品券もご用意いたしますので……

モスビー警部

商品券なんて要るものか! こっちが注文したのは何だ!? ケーキだ! 退職パーティーのケーキだ!

退職パーティーをキャンセルしろとでも言ってるのか? おい!?

明日も頭を下げてオフィスに入って、新入りどもに後ろ指をさされながら笑い者になれってことか!?

ケーキ屋の店員

も、申し訳ございません……

警部は通話を切った。

ブリキは窓を開けて、タバコに火をつけた。

彼は窓の外を見やった。かつて賑やかだった港は今や閑散としている。波止場では廃船となった巨大貨物輸送陸上艦が解体され、鉄屑として売り飛ばされようとしている。


モスビー警部

着いたぞ。覚えておけ、これは俺の事件だ。お前の助けはいらん。

塗装の剥げた二階建ての建物を、鉄パイプや工具を手にした作業員が囲んでいる。窓の向こうでは一人の少女が怯えた目をしながら、カーテンの裏に見え隠れしていた。

モスビー警部

お前ら、これが誰の家か知ってるのか?

工事業者

俺たちは金もらって仕事しているだけだよ、旦那。

モスビー警部

一服しながら、ゆっくり話そうじゃないか。あんな小娘を困らせてどうする。

工事業者

なら旦那も俺たちを困らせないでくれよ。この家は担保として銀行のものになった。それで、上からこの家を片付けろって指示が来たわけだ。指示通りにすれば俺たちは金をもらって、飯を食える。

モスビー警部

上だと? 誰だ?

工事業者

知らねぇよ。指示が来たら現場に行って、仕事が終わったら振り込まれる。仕事ができなきゃ死んじまうんだ。

作業員たちはタバコを受け取ったものの、誰も火をつけなかった。警部が彼らのハンマー、スコップやバールを見ると、港湾労働組合のマークがついていた。

モスビー警部

はぁ……お前たちも元々は港で働いてたんだろう? この家の主人はジョセフ・グレンジャー、そいつもお前たちの元同僚だ。

工事業者

旦那、人間なんて簡単に死んじまうもんだろ。生きるのは大変なんだぜ。

モスビー警部

さっきから誰が旦那だ。この警察バッジを見ろ。

『クルビア警察捜査マニュアル』の規定により、この物件は刑事事件に関係するため、現時刻をもってサンソフィーシティ警察署が封鎖する。今後は誰であっても立ち入り禁止だ。

工事業者

無駄だよ、旦那。俺たちを追い払っても、また別の連中が来るからな。

モスビー警部

さっさと消えやがれ! 今すぐにだ!

作業員たちは抗議せず、虚ろな目をしたまま立ち去った。

ブリキ

『クルビア警察捜査マニュアル』にそんな規定はないはずですが。

モスビー警部

マニュアルを通読したとでも?

ベテラン警部は鼻で笑いつつ、トランクから例のディスプレイを取り出した。

警部はそれを抱えたまま、ブリキを押しのけて部屋へと突き進んでいく。


ブリキ

なかなか重いでしょう?

モスビー警部

だから、お前の助けなど……

ブリキ

聞いてみただけです。

ブリキは湿っぽい合板の箪笥の前で、捜査課が散らかしたであろう私物の間に落ちていたストレージモジュールを拾った。

ブリキ

どうぞ。

モスビー警部

……

警部は電子部品の山の前でじっと考えこんでいたが、ついにためらいつつもプラグらしき部品をディスプレイに差し込もうとした。

ブリキが咳払いをすると、警部はぴたりと手を止め、振り返ってブリキをじっと睨んだ。

ブリキ

私は何も言っていませんよ。

警部はふたたび手元の部品に目を落とし、苦しげに眉間に皺を寄せた。そうしていると、彼は突然思いついたかのように一本のケーブルを掴み、二つのチップを繋ぐように接続した。

それからは急速にコツを掴み、みるみるうちにストレージモジュールの筐体が組み上がっていった。

しかし、ストレージモジュールとディスプレイを接続しようとした時、二本の突起がついたプラグではどうしても三つ穴の差し込み口に入らないことに気づいた。

モスビー警部

クソッ……ちくしょう!

ずっとしゃがんでいたせいか、警部の顔は真っ赤になり、額には汗がにじむ。

彼はムキになって、明らかに合っていないプラグをねじ込もうと力を込めた。

その拍子でプラグが滑り、彼の指は粗雑でざらついた表面で大きな切り傷を負ってしまった。

モスビー警部

*クルビアスラング*!!

くそコーヒーショップが! くそATMが!

怪我した手を振り回しながら、ベテラン警部は怒りのままにあらゆるものを罵った。この数十年間毎日飲んでいたエスプレッソを、家のドアに警告の張り紙をした隣人を。

貨物輸送陸上艦を廃船にした政治家を、金をもらって何に対しても見て見ぬふりする署長を。

法律の穴を、娘を捨てた意気地なしを。

労働者を裏で操っている黒幕を、ネットと金の裏に隠れて顔すら見せない連中を。

そして、何物にも届かない自分の両手を、彼は罵った。

ブリキは何も言わず、ただ見守っていた。警部が要求した通り、彼は一切のことを手伝わなかった。そうしているうちに、警部は落ち着きを取り戻した。

モスビー警部

……このくそったれた機械を、組み立ててくれ……頼む。

警部はその場にへたりこんだ。

ブリキは彼の足を跨ぎ、床に落ちた冊子を拾った。それは端末の組み立てマニュアルだった。最初から警部の足元に落ちていたが、警部の目には入っていなかった。

小冊子は図解入りで、非常にわかりやすく書かれている。ブリキはページをめくり、あっさりと端末を組み上げた。

ブリキ

パスワードが必要ですね。

モスビー警部

奴の娘の誕生日だ。

ブリキが警部から伝えられた数字の羅列を入力すると、端末から聞き心地のいい起動音が鳴った。そして、ブリキは唯一入っているオンライン取引のソフトウェアを起動した。

ブリキ

……完全に詐欺ですね。

相手はまずグレンジャーさんにビールを二ダースほど買えるほど儲けさせて、そこから沼に引きずり込んだようです。

ブリキは全てのやり取りと操作の記録を保存した。

モスビー警部

詐欺……サンソフィーシティにこんな詐欺はなかった。

ブリキ

不本意ですが、現状この取引は合法です。通常の投資と何ら変わりません。

ですが、相手は最初からグレンジャーさんの全財産を標的にしていました。

……担保ローン手続きの案内まで送られていますね。ふむ……やり取りの中には事故保険のことまで……

モスビー警部

自殺教唆だ。こいつは逃げられんぞ。

ブリキ

いいえ、これだけでは全く足りません。相手が誰なのかすら分からないのですよ。ネットの向こう側、あちらの端末の前には、複数人がいてもおかしくありません。

相手はグレンジャーさんに一枚の金券すら残さなかった人です。

モスビー警部

……

人間はいつからこうなっちまったんだ? 開拓地では、一番悪どい強盗でさえ貧しい家に残ったパンを奪ったりはしなかった。情ってもんはどこに行ったんだ?

ブリキ

それは人々がまだ太陽の下で決闘をしていた時代の話です……さあ署に戻りましょう。もう証拠は揃いました。

ブリキは証拠品をポケットに入れて部屋を出た。

警部はすでに電源の切れたディスプレイをじっと見つめていた。そこには、ぼんやりと顔の形をしたものだけが映っていた。


警部が階段を下りて道路に出ると、また通信端末で話し込んでいるブリキの姿が目に入り、警部は無性にむしゃくしゃした。

ブリキ

……はい、間違いありません。それでは失礼します。

モスビー警部

今度は何の電話だ?

ブリキ

手配を済ませました。マイレンダー児童権益保証基金会の担当者がすぐ来てくれます。これでグレンジャーさんのお嬢さんも住む場所が見つかるでしょう。

警部さん、これがあなたの言っていた「情」でしょうか?

モスビー警部

……俺がやるべきだった。だが、うまく出来なかった。

お前が正しかった。

警部はふっと肩から重荷が下りたように自嘲した。

モスビー警部

俺は年を取りすぎたな。もうこの仕事に合ってないんだろう。

突然、警部の端末が鳴った。

ケーキ屋の店員

モスリーさん、先ほどは大変失礼しました。

順番についてはこちらで調整いたしました。パーティーの時間通りにケーキをお届けします。

モスビー警部

謝るのはこっちの方だ。ついカッとなって言いすぎてしまったな。もうケーキは結構だ……いや、返金はいい。もっと必要な人に回してくれ。

パーティー? 気にしなくていい。誰も来やしないだろう。

ブリキ

先に署に戻っていてください。私はここで同僚を待ちますので。

警部は怪我した指を手当てしながら車に乗り込む。そのタイミングでブリキが声をかけた。

ブリキ

あの規定、嘘だったのでしょう?

モスビー警部

どうして分かった? 俺は署で何十年も働いてきた。やりたくないこととか面倒ごとにぶつかった時は、いつもあのマニュアルの規定をでっち上げて、相手を煙に巻いてきたもんだ。

それに気づいたのは、お前が初めてだ。

ブリキ

少なくとも、あなたはあのマニュアルを熟読しています。

モスビー警部

読むしかないだろう。ラテラーノ人には祈りと賛美歌があるが、俺にあるのはこの時代遅れの捜査マニュアルだけだ。お前みたいな、この仕事を始めたばかりの若者にはわからないだろうがな。

ブリキ

……それでは、また。


深夜の警察署で、ベテラン警部は事件終了の報告書を何度も何度も書き直した。

ブリキ

パーティーはもう終わりましたか?

モスビー警部

ああ。ケーキを食べそこねたな。

警部はブリキから渡された熱いコーヒーを遠慮なく受け取り、彼に冷たい視線を向けた。

モスビー警部

コーヒー代は明日渡そう。

ブリキ

警察署に戻ってから、あなたはすぐにあの若者を釈放したのでしょう? それなのに明日もまた出勤するのですか?

モスビー警部

バッジを返しに来るんだよ。今日は一度も署長と顔を合わせてないからな。

ブリキ

私が代わりに届けましょうか? どのみちあと数時間もすれば、彼らを会議室に閉じ込めることになるので。

モスビー警部

いや……自分で伝えたいことがある。

ブリキは黙って頷き、懐から分厚い本を取り出してベテラン警部に手渡した。

ブリキ

私からの退職祝いです。正式な出版はまだ先なので、他言無用でお願いしますよ。

モスビー警部

『クルビア警察捜査マニュアル』……第二版だと?

ブリキ

本当は第三版ですがね。あなたが数十年読み込んでいた本、あれが第二版です。私があの本を著した頃、サンソフィーシティは確かに今とは違う姿をしていました。

モスビー警部

お、お前は一体……?

ブリキ

驚きましたか? この大地には、あなた以外にも「ベテラン」がいるのですよ。

当初の予定では、サンソフィーシティには三日だけ滞在するつもりでした。重要な会議が終わったら、また他の都市に移って、現地調査をする手はずだったのですが……

あなたと過ごしたおかげで、もうしばらくここに滞在したくなりました。

モスビー警部

何を調査するんだ? 警察か?

ブリキ

警察、犯罪者、失業者、政界のフィクサー、壊れた扇風機――変革が必要なもの全てを調査します。そして、そこから学びを得るのです。

モスビー警部

……

そうか。

ブリキ

すぐに受け入れてくれましたね。なぜですか?

モスビー警部

もう年を取ってしまったって現実を受け入れただけだ。今のクルビアじゃ毎朝目覚めるたびに新しいものが増えてるが、もう驚くこともなくなった。

どうしても都市の変化に馴染めないなら、開拓地に移って古い生き方を貫く手もある。

焼いたクッキーをおすそ分けしたり、バーテンダーと世間話をしたりな。顔も知らない他人に破滅まで追い込まれるなんて無縁――

ギャングでさえ、現場にはせめて血の手形を残していったもんだ。

そんな人生の一瞬ずつが、俺を過去に引っ張っていく。もう自分を変える力なんて残ってない。

ブリキ

過去に留まりたいと願う人を誰も責めはしませんよ。その人は自分の人生の開拓者だったのですから。

ですが、明日に目を向ける人も、この世の中には必要です。

そして私こそが、明日を追い続けることをやめられない哀れな者です。なにせ目的地は明日よりも遠い場所にありますからね。

モスビー警部

……話をしてくれてありがとう、ブリキさん。最後の事件をぶち壊してくれたことにも感謝しないとな。

ブリキ

こちらこそ。会議の前に半日空き時間を取ったのは正解でしたね。でなければ車の運転が下手な警部も、この生々しい事件も、隠された真実も見逃すところでした。

私がいま取り組んでいる仕事によって、目下裁きから逃れている連中は白日のもとに晒されるでしょう。そのためには、あなたのような心強い味方が何人でもいてほしい。

明日の心配はいりませんよ。朝日は必ず昇りますから。警部さん、これまでお疲れ様でした。

ベテラン警部は未出版の本を片手に、もう一方の手でコーヒーを掲げていた。まるで、誰かに敬意を表するかのように。

ブラインドの隙間から差し込む朝日が、彼の顔を照らしていた。