塩海に吹く風幕間塩海に吹く風
フォントファミリー

フォントサイズ

⌘/Ctrl+
拡大
⌘/Ctrl−
縮小

地図

名前

塩海に吹く風 幕間

塩海に吹く風

焦っている老人

ごほっ、ごほっ……ウィーディさん、到着しました。

これは、裁判所が各地の執行機関に書類を運ぶための車両です。取り調べを受けることは滅多にありませんし、もし受けたとしても渡しておいた書状を見せれば通してもらえるはずです。

御者は信頼できる方です。とはいえ、彼にできるのはせいぜい辺境地帯を通過する際に昼寝をして、あなたが逃げる隙を作ることくらいでしょう。それほど長い道のりではありません。

こちらは、各方面に根回しをして手元に残った私の全財産です。ロドスに戻る道中は、何かとお金がご入用でしょう。持っていってください。

ウィーディ

でも、それじゃあなたが……

焦っている老人

早く行ってください! あなたは私と会っていませんし、塩海にもアーロンの町にも行っていない。前に町を離れてからは一度も帰ってきていない。いいですね?

そして、もう二度とイベリアに帰ってきてはいけません。


二日前

裁判所の役人

こちらです。

ウィーディ

……今回の引き継ぎは、イベリア、エーギル、ロドスの三者間で行われるもの。てっきり、明かりを再び灯した灯台のような、ちゃんとした場所で行うものかと思っていましたが……

なるほど、裁判所は私を警戒しているんですね。

裁判所の役人

はは、若いのに賢い方だ。

ロドスは裁判所の監察下に置かれる。ロドスから切り離された天災警報システムと医療センターのコアユニットは、それぞれエーギルの新しい執政官に移管する……

イベリアとエーギルの両政府は、このことを記録に残さないと決めました。それゆえ、アイリーニとセクンダという昔馴染みの二人にこの件を任せることはできません。

そんな時に、あなたはロドスのオペレーターとしてちょうどイベリアに滞在しています。引き継ぎを担当するにはこれ以上ない適任です。しかし――

ウィーディ

「しかし、あなたは強盗と結託して、アーロンで裁判所の役人の業務を妨害した疑いがある」そう言いたいんですか?

それとも……「裁判所の公文書の上では、あなたの祖父、そして家族全員が罪人となっている」とでも?

裁判所の役人

そうピリピリしないでください。あのような時代はもう終わりました。

とはいえ、まだ時代は変わったばかりです。義務的な信用調査は実施させていただきます。

この建物はご存知ですね?

ウィーディ

はい、ここはかつて祖父のバイオニクス研究所でした。

裁判所の役人

裁判所から、ペニア家の研究関連の資料が送られています。二日以内に資料に問題がないかご確認ください。そのあとはこちらで保管いたします。

確認が済み次第、引き継ぎ作業を始めてください。

長年積み重ねた資料ですので、かなりの量があります。そこで、事務官を一人手配しました……おそらく、あなたの助けになるかと。

ウィーディ

私の助けになる人……ですか。

裁判所の役人

その人物を見れば、裁判所はあなたに友好的だと信じていただけるでしょう。


ウィーディ

けほっ……けほけほっ!

ベテラン事務官

申し訳ありません。ウィーディさんが埃にアレルギーを持っていることをすっかり忘れていました……ここは長い間放置されていたので、事前に掃除しておくべきでしたね。

ウィーディ

カリストさん、昔私が祖父の研究所に遊びに行った時にお会いした時は、確か私以上の潔癖症だったはず……

祖父がよく話してました。主任助手のカリストさんが自分の立場を継げないのは、あなたが潔癖すぎるせいだって。

カリスト

ウィーディさん、今あなたの目の前にいるのは、裁判所でも一番位の低い事務官です。

この資料に精通していて、あなたを補助する役に選ばれなければ、私は自分のオフィスを出ることさえ許されませんでした……もっとも、あれをオフィスと呼べたらですが……

ウィーディ

ど、どうしてそんなことに……

カリスト

も、もうその話はやめましょう。仕事を始めますよ。

裁判所から与えられた時間は多くありませんから。

ウィーディ

……

わかりました。

カリスト

私たちが今いるペニア家所有のバイオニクス研究所は、合計で五カ所あります。そしてこちらが、それら全てを閉鎖するという旨の通知書です。さて、内容に問題がなければこちらにサインを。

ウィーディ

……はい。

カリスト

これは研究設備の廃棄通知書です、こちらにもサインをお願いします。

ウィーディ

はい。

これは……多いですね。

この設計図と公式は確か……

カリスト

ペニア家がバイオニクスについて研究していた論文すべてです。発表済みのもの、未発表のものを合わせると……合計で三千七百八十二本に及びます。

論文のコピーや発表用の原稿はすべて廃棄してありますので、ここにあるのはすべてその原本です。

ウィーディ

原本だけでも私の身長と同じ高さくらいある……これが、あなたと祖父が数十年かけた研究成果なんですね。

カリスト

……

大いなる静謐の後、裁判所はイベリア国内の海に関する研究をすべて中止させました。しかしペニア所長は、バイオニクスの研究を十数年前まで続けていました……

ある夜突然オフィスに審問官が押しかけて、タバコの火のように消された無数のプロジェクトと比べれば、まだ幸運なほうです。

ウィーディ

カリストさんは本当にそう思ってるんですか?

カリスト

……さあ、ウィーディさん! こちらも問題がなければ最後のページにサインをお願いします。

ウィーディ

……

うち捨てられた研究所。老人は山積みになった資料に埋もれて、一つ一つ資料を手に取り、内容を説簡単に明しながら手渡していく。

カリストはずっと下を向いていたため、ウィーディには彼の表情がよく見えなかった。

これが、仕事で心を失ったベテラン事務官の姿なのだろうか?

寡黙で、頑固で、忍耐強い。感情を表に出さず、業務以外の交流を拒絶する……そうして、さらに機械のようになっていく。

ウィーディ

「バートとディマルの両名は……私欲のため、秘密裏に裁判所から禁止されている実験を行い、現地住民を混乱に陥れた……」

「……悪質な犯行である。よって、被告人を聖佑稜堡にて無期懲役に処する。」

これは……

カリスト

判決書です……当時のプロジェクト関係者の。

二人の名前を聞いた途端に、ベテラン事務官の口調がいくらか柔らかくなった。

ウィーディ

「ドーレン、カストロ、リアムの三名は……罪を恐れてイベリアから亡命し、塩海にて死体が発見された……」

カリスト

こちらも問題がなければ、サインを――

ウィーディ

「クララは……」

カリスト

……

ウィーディ

「裁判所の資料を盗み、転売し、機密情報である実験データを漏洩させた……その罪により、懲役十年に処されたが……聖佑稜堡にて病死した。」

クララさんって、あの金色の髪をしたリーベリの女性ですか? 彼女は確かカリストさんと……

カリスト

(小声)淡い金色だよ。

ウィーディ

……はい?

カリスト

いえ……純粋で明るく、美しい人でした。周囲の人間を惹きつける魅力があり、彼女がペルドニから研究室に来たばかりの時は、誰もが彼女と話したがっていました。

彼女はデータの整理を手伝いながら、バイオニクスの研究に使っていた海藻を使って髪のカラーリング剤を開発していました……

彼女が私の横を通るたびに、髪から仄かにいい香りがしました。そう……海を思い出させるような香りが。

ウィーディ

話を聞く限り、クララさんが研究データを横流しするような人には思えませんね。

彼女はただ研究所の成果を……みんなで作り上げてきたものを残そうとしただけではないでしょうか……

カリスト

ウィーディさん、そこは重要ではありません。

裁判所はこれほど大規模な研究を中止させたことについて、人々の疑問を解消するための理由が必要だったのです。理由の真偽など、誰一人として気にしないでしょう。

ウィーディ

でも、彼女はあなたの……

カリスト

確かにクララとあなたの祖父は罪を被りました。しかし私は違います。裁判所は私に生きる道を与えてくれましたから……

裁判所には、むしろ感謝しているのです。

ウィーディ

感謝ですか?

カリスト

戻りましょう! 今日の仕事はまだまだ残っていますからね。

ウィーディ

(小声)はぁ……

わかりました。

次に確認するものは……ん? これは……

カリスト

それは――!

研究所の最重要実験プロジェクトのコアパーツです! このパーツを備えた機械は、海洋生物のDNAを即座に識別してサンプルとして記録できるというのが当初の考えでした……

で、ですが……これはもう存在しないはず……

老人はようやく過去の書類の山から離れ、ウィーディの傍まで来てその小さなパーツを手に取った。

表情のなかった老人の顔には、驚き、嘲笑い、苦しみ、悲しみ、悟り、そして拒絶……様々な感情が入り混じっていた。

カリスト

「国と国民にとって有害な研究」「人の心を苦しめるモノ」「潮を呼ぶビーコン」……

裁判所は、災いの元だと定めたパーツをあえて処分しなかったのか……私に……いや、あなたに見せるために……

いったい……一体、何を企んでいる!?

ウィーディ

大丈夫ですか?

カリスト

私は……

ウィーディ

カリストさん、まだ教えてくれないんですか?

カリスト

はい?

ウィーディ

裁判所が何を企んでいても構いません。どうせ試して、審査して、統制するだけですから。イベリア人ならもう慣れっこです……

私が知りたいのは、あなた自身の考えです。

あなたのような人が、心を失った人形になるとは思えません。あなたとここで再会した時から、私はずっと……

あなたと、本当の意味で「再会」したいんです。

カリスト

ウィーディさん……

ウィーディ

心配はいりません。さっきリーフに近くを見てもらいましたが……ここには私たちしかいませんから。

カリスト

私は――あなたをイベリアから送り返すために来たのです。

老人はウィーディの袖を掴み、人が変わったかのように、鋭く力強い眼差しで彼女を凝視した。

カリスト

あなたは、帰ってきてはいけませんでした。

ウィーディ

……

カリスト

当時ペニア所長は、裁判所の知り合いから事前に情報を入手していました。そして使える人脈を全て使って、あなたをイベリアから送り出したのです……

正当な、裁判所も異を唱えられない方法で。

ウィーディ

ええ。

あの頃の私は、ちょうどイベリアを離れようとしてました。手続きは順調だったのですが、担当の審問官からは「二度と戻れなくなるかもしれない」と。

カリスト

彼らの言葉に耳を傾ける必要はありません。

裁判所の人間の言葉を信用してはいけません……「あの時代はもう終わった」など、都合のいい戯言です。

海と陸地が再び関係を築き、あなたの所属する会社もイベリアで事業を展開できるようにまでなりましたが……

裁判所はまだ「あの時代」のままです。彼らの傲慢さや横暴さ、残忍さ、そして偽善……どれも変わることはありません。

ご覧の通りです。ここにある大量の書類と資料、そして廃棄されるはずだったパーツ……

ロドスの仕事がひと段落したら、あなたに過去を忘れて研究所のプロジェクトを再開するよう強いるでしょう……

まるで……ごほっ、ごほっ! 彼らが犯した罪が、私たちが味わった屈辱と絶望が……あたかも、最初から存在しなかったかのように……!

ウィーディ

落ち着いてください、大丈夫ですか?

カリスト

ですので、あなたがイベリアに帰ってきたとの知らせを聞き、裁判所から手伝うようにと言われた時……あの時から、あなたをイベリアから送り返すと心に決めていたのです!

老人はウィーディの言葉を無視して話し続ける。

カリスト

この数年で、私の膝はもう使い物にならなくなりました……ですが周囲に頭を下げてきたことが幸いして、私にもいくつかツテができたのです。

ここに来る前に、私は財産をすべて換金して、偽造の書状を手に入れました。各所への根回しも済んでいますので、これで道中の取り調べはかいくぐれるはずです。

今晩、あなたをイベリアから送り返します。

ウィーディ

……

それで、あなたはどうなるんですか?

こんな小細工で裁判所は騙せません。すぐにバレるでしょう。

カリスト

あなたが誰にも見つからず、この国を離れていただければいいのです。

ウィーディ

そんなことをして、裁判所があなたを許すはずがありません!

カリスト

違います――私が、奴らを許さないのです!

ウィーディ

……!

カリスト

バート、ディマル……

ドーレン、カストロ、リアム……

クララ、あぁ、私のクララ……

そしてあなたのお祖父さん、ペニア所長……あの研究所はもうないのです。私たちの科学は潰え、残されたのは汚名だけ……

カリストという名の老いぼれが、この廃墟を守りながら辛うじて生き長らえているだけです。

私は、ずっときっかけを待っていました!

ウィーディ

それが、私……

カリスト

私はあなたを送り返した後、あの執行官たちがここに押しかけるのを待ちます。彼らはかつてのように私に怒りをぶつけ、剣を向けることでしょう!

そして――ごほっ、そして……

私は最期の返り血を、あのクズどもの顔に浴びせるのです!

老人はガラガラの声で声が枯れるまで叫んだ。大切なコアパーツをあまりに強く握りしめていたため、尖った部分が掌に刺さり、手は血まみれになっている。

それでも老人の怒りは収まらない。まるで彼の脆弱な身体は、怒り以外の感情を生み出せなくなったかのように。

怒りという感情だけが、彼をここまで生かしていたかのように。

カリスト

ウィーディさん、約束してください!

ウィーディ

ええ、約束します。

私は、イベリアを離れると。


カリスト

……

そして、もう二度とイベリアに帰ってきてはいけません。

さあ、車両に乗ってください! 私は早く研究所に戻らなければ、いつ奴らが来るかわかりません!

ウィーディ

じゃあ……リーフ!

リーフ、カリストさんを縛って、車両に乗せて。慎重にね。

カリスト

は、放してください――何をするのですか!?

ウィーディ

カリストさん、お金と書状は置いておきました。御者さんにも話は通してあります。少し遠回りするとは思いますが、あとは私の同僚があなたを迎えに来てくれるはずです……

笑顔が明るくて、冗談好きで、白髪に赤いメッシュが入ってるリーベリの男性です。

彼があなたを故郷まで……あのルアルカってところまで送り届けてくれます。小さい頃にあなたが教えてくれた、塩海が近くて、みんなが皆が夜な夜な火の周りを踊ってたっていう、あの町に。

カリスト

なぜこんなことを! 研究所で約束したはずです!

ウィーディ

……ごめんなさい、騙すような真似をして。

でも私が約束をしてなかったら、あなたは研究所で裁判所の人たちと争ってましたよね。

カリスト

……

ウィーディ

引き継ぎ業務はロドスの存続に関わります。私はロドスのオペレーターですから、イベリアに残って自分の任務を全うしないといけないんです。

裁判所の「信用調査」にどんな意図が隠されていても、私一人で向き合います。

カリスト

ウィーディ――お嬢さん! この枯れきった老人の体は、もう長くはもたないんだ! どうか、最後の望みだけでも……

ウィーディ

だからこそ、行かなきゃいけないんです!

カリスト

――!

ウィーディ

まだ気づかないんですか?あなたはずっと裁判所だけじゃなくて、自分自身にも囚われていたんです。

私が祖父に会いにいった時、あなたはどうして研究所に入ったかを話してくれました――人工のヒレを作り出せば、海の中を自由自在に航行できる――そんな未来を夢見ながら。

でも今のあなたは、過去を思い出しても憎しみと苦痛を味わうだけ……そうですよね?

カリストさん……あなたには故郷に帰って、残された時間を、塩海を吹くほろ苦い「潮風」に当たって過ごしてほしい。塩鱗獣が塩の砂漠から飛び出す姿を眺めてほしい……

焚き火のそばに座って、踊る若者と話して……

ううん、椅子に揺られて、ぐっすり眠ったりするだけでもいいから……

ただ、ゆっくりと過ごしてほしいんです。

カリスト

……

ウィーディ

ペニア家の研究所、私の祖父の実験。それらが裁判所の言うとおり罪だとしても、あるいはあなたの言う通り冤罪だとしても……すべて、この車両がここを離れたら終わりにしましょう。

カリスト

しかし、これで終わりにしていいのですか?

ウィーディ

リーフ、カリストさんにお別れの挨拶をして。

一匹のシードラゴンが、ゆらゆらと踊るように揺れる。

カリスト

……これは?

ウィーディさん、まさか、このシードラゴンは……

ウィーディ

はい。

まだ未熟で、研究所が積み重ねてきた技術には及ばないけど、リーフは確かにバイオニクスから生まれました。

カリストさん、科学は誰かの否定で途絶えるものでも、誰かに認められて続くものでもないんです。

これが私のやり方、そして私なりに彼らと向き合う方法です。

カリスト

……

ウィーディ

じゃあね、カリストさん。

ウィーディは二歩後ろに下がると、車両のフレームをトントンと叩いた。

ウィーディ

――御者さん、お願いします。

老人は口を結んだまま車両の壁に寄りかかり、ただ窓の外のウィーディとイベリアの土地を見つめていた。車はだんだん遠ざかり、視界がぼやけていく。

彼はただ呆然と揺られながら、細い身体に強い意志を持ったあの女の子も、あの土地も、そして自分自身すらも馴染みのない存在のように感じた。

ウィーディ

行こう、リーフ。

これから忙しくなるよ。


裁判所の役人

アイリーニ閣下。

アイリーニ

なに?

裁判所の役人

彼女が一つ条件を追加しました……

アイリーニ

「裁判所は、カリスト事務官の罪を問わないように」って?

裁判所の役人

はい。

アイリーニ

却下する理由も見当たらないわね。

裁判所の役人

……

アイリーニ

あなたは誤解しているわ。

裁判所の役人

な、何をでしょう?

アイリーニ

ロドスの天災警報システムと医療センターのコアユニット引き継ぎ業務は、海と陸地に関係している。だから信用調査は必須。

でも素質を問われるのはロドスのウィーディさんだけじゃない。あなたと私、それに裁判所にも同じことが必要よ。

……新しい時代では、過去とどう向き合い、未来に繋いでいくべきかを考えないといけない。

裁判所の役人

……

アイリーニ

ウィーディさんの信用調査はここまでにしましょう。彼女は、自分がただの「罪人の末裔」とか「潔癖症の科学者」ではないことを証明したわ。

裁判所の役人

承知しました。