風雪一過 BI-7・戦闘後
砕氷
……チェスターおじさん、どうして外に出ちゃいけないの?
社長の言いつけです。社長が戻られるまで、どうか大人しくお待ちください。
お兄ちゃんはいつ帰ってくるの?
社長は現在、カランドへ向かっているはずです。数日後には戻られますよ。
散歩に出かけるのもダメ?
屋敷の近くであれば構いませんが……見張りを付けます。
エンシアお嬢様、今のイェラグの情勢は極めて危険です。あなたのためでもあるので、どうかご理解を。
……はぁ。
お兄ちゃん……どうしても徹底的にやるつもりなの?
ドクター、あたしはどうすれば……
オーロラ!?
シーッ──すごく厳重な警備だね、入るのが大変だったよ。
Sharp隊長と一緒にドクターのとこに行ってたんじゃないの?
うん、そのドクターから伝言を頼まれて来たんだ。
本当か?
はい……アークトスは、領地内に大量の兵士を集結させています。ですが、その隊を率いているのは例のドクターで、アークトスではないようです。
アークトスは?
わかりません……斥候の報告によると、隊の指揮権をドクターに委ねた後、行方をくらましたそうです。
……ならばドクターの率いる部隊は囮か? いや、そう単純であるはずがない。
規模は?
ペイルロッシュの領地内でアークトスの呼びかけに応じた人数は、ほぼノーシス様の予想通りです。そこから推測すると──同規模の部隊をそれ以上編成することは不可能と思われます。
だがあの男が後方待機するなどありえない。規模はどうあれ、別部隊がいる可能性は非常に高い。
ペイルロッシュ家の戦士は元々山野での行動に長けています。確かにその可能性はあるかと。
だが、囮であろうと主力であろうと、その大部隊を放っておくわけにはいかない。
ヴァイスに伝令を。戦士たちを山の麓に集め、指示を待てと。
それから、人をやって大部隊を見張らせるんだ。君はアークトスの痕跡を探し出してくれ。
はい。
……カランドを登って蔓珠院に忍び込んで、お姉ちゃんを見つけ出してほしいって? ドクターがそう言ってるの?
そうだよ。
ドクターが言うには、もうペイルロッシュ家とシルバーアッシュ家の衝突は、ほぼ避けられないみたい。
でも、もしこのすべてを止められる人がいるとすれば、それはあなたのお姉さん──当代の巫女、エンヤ・シルバーアッシュに他ならないんだって。
でも……
元々ドクターは、内政干渉はしないというロドスの方針に従って、ただ黙って見ていようと思ってたらしいんだ。
でも、エンシオディス様にとって権利返還がただの方便にすぎないのなら、きっとイェラガンドへの信仰すらも眼中に置いていないことになる──ドクターはそう指摘したんだ。
そして今回、シルバーアッシュ家の部隊がペイルロッシュ家の部隊を打ち破れば、エンシオディス様がイェラグを手中に収めるまでの障害は、蔓珠院だけになる。
それはつまり、イェラグ人の信仰の対象である巫女様が標的になるかもしれないってことだよ。
ただドクターは、あなたを通じて巫女様に何かさせたいわけじゃないんだ……責任を感じてるって言ってた。
あなたたち兄妹の関係を修復する手伝いをお願いされたのに、ここに来てから、何の力にもなってあげられてないって……
ドクターのせいじゃないよ! あたしの方こそドクターやみんなに申し訳ないと思ってるんだ……楽しい旅行になるはずだったのに、お兄ちゃんのせいでこんなことになっちゃって……
それもあなたのせいじゃないよ、クリフハート。
とにかく、ドクターの考えはこうだよ。いろいろと見て見ぬ振りをしようと思えばできたけど、そもそも初めからエンシオディス様の計画に巻き込まれちゃってたし──
それに、あなたがエンシオディス様の妹だっていうのも紛れもない事実。
だから、やっぱり行動を起こすことにしたんだって。
あなたにカランド山を登ってもらう理由は、もしもの時のために巫女様のそばにいてあげてほしいから。
ドクターはあたしに、いざとなったらお兄ちゃんを止めてほしいんだね。
もしくは、いざとなったら巫女様を連れて逃げてほしいって。
……
エンシアは無意識に手の中にあるミサンガをなでた。
それは幼い頃、姉が彼女のために編んでくれたものだった。
……
わかった、あたし行くよ。
うん。潜入作戦になるから、私とほかのオペレーターもサポートするよ。
……ううん。
あたしにもっといい考えがある。
みんなはあたしをカランドの麓まで送ってくれればそれでいいよ。あとは、あたしに任せて。
ドクター、どうしてこんなにチンタラ行軍させてるんだ?
グロ……あんた、あたしたちの役割をまだわかってないわけ?
シルバーアッシュ家の注意を引きつけるって話だろ? それにしても遅すぎるって言ってんだろうが。
どうせあんたは、さっさと突っ込んであいつらとやり合いたいだけでしょ。
ったりめぇよ。
ヴァレスの野郎に一杯食わされてから、こっちはいまだに腹の虫がおさまらねぇんだよ。
ドクター、大典で連れ去られたユカタンの位置が確認できました。
あなたの予想通り、シルバーアッシュ家の領地には連行されず、麓の町に監禁されているようです。
ご苦労さま。
ドクター、お前ほんとすげぇんだな。こんなすぐユカタンが捕まってる場所を見つけるなんて。
フンッ! その程度の情報収集なら、うちの人間だってできるわ。
とにかく、ユカタンの位置を特定できたなら、あたしたちもそろそろ行動開始ね。ほら筋肉バカ、準備するわよ。
そうだな。
……
ちょっと、聞いてるの?
あ? てめぇ俺のこと言ってんのか? 誰が筋肉バカだ!
(スーーッ)
グ・ロ・将・軍・閣・下! フンッ……これでご満足かしら?
あんた、自分の役割が何かわかってるんでしょうね?
わかってるさ。近くの駅でひと暴れして、お前が自分の旦那を救出するチャンスを作ってやりゃいいんだろ。
わかってればいいのよ。
ドクターの代わりに忠告しておくわ。何があっても死者は出さないようにね。
フンッ、駅にいるのは一般人だ。絶対に手を出しゃしねぇよ。
だがドクター、もしシルバーアッシュ家の連中が本当に来たら──
なるべく加減はするつもりだが、巻き込んじまう可能性はあるってことだけは言っておくぜ。
クリフハート……登山具の準備をしてるの?
そうだよ。
まさか、参道を避けてカランド山をよじ登る気?
うん……さっき聞いた話だと、今はカランドの上だけじゃなくて、麓の方にもきっとたくさん人がいるでしょ。
もし正面の参道からカランドを登ったら、多分Sharp隊長でも見つかっちゃうよ。
でもあたしならへっちゃらだもんね。
麓まで行ければ、あとはあたしに任せてくれていいからさ。
でも……それじゃ、その先はあなたを守ってあげられないよ。
へーきへーき。
あたしだってロドスでさんざんしごかれてきたんだし、普通の相手くらいならどうにかなるって。
でも……
エンシアお嬢様、どこへ行くつもりですか?
チェスターおじさん……
山登りに行くんだ。
どの山ですか?
カランド山。
あそこはまもなく戦場になります。行けば怪我をしますよ。
一体何をしに行くのです?
……
チェスターおじさん……登山が趣味になってから、あたしはずっと自分の身体一つでカランド山を登ってみたかったんだ。
お姉ちゃんが巫女になってここを離れてから、どんどんその気持ちも強くなっちゃってさ……いつか、頂上に登ってお姉ちゃんを連れて帰るんだって思ってた。
やっと、そのチャンスが巡ってきたんだよ。
無理ですよ、お嬢様。
……お姉ちゃんを連れて帰るのは無理でも、せめて今はお姉ちゃんのそばにいてあげたいんだよ。
お兄ちゃんがこんなに大変なことをして、お姉ちゃんだってきっと戸惑ってるはず。
あたしにお兄ちゃんは止められないけど……せめて、お姉ちゃんのそばにいてあげなきゃ!
……
オラファー、あなたの末娘はこんなに大きくなりましたよ。
エンシアお嬢様、申し訳ございません。あなたの安全のため、この屋敷から出さないようにと旦那様から命令を受けております。
……行かせなさい。
えっ?
チェスターおじさん!
チェスター様、それではあなたも旦那様の命令に逆らうことになりますよ!
すべての責任は私が負います。
しかし……そう申されても、エンシアお嬢様の身の安全が……
シルバーアッシュ家の人間は、無意味なリスクなど冒さぬもの。
ここは、お嬢様を信じましょう。
……そこまで仰るなら。
ええ。エンシアお嬢様とロドスの客人たちのために、一番の駄獣を手配して差し上げなさい。
承知致しました。
ありがとう、チェスターおじさん!
ありがとうございます、チェスターさん。
てっきりあなたは──
礼は必要ありません。
行きなさい、もう時間はありませんよ。
うん!
エンシア。
ん?
……気を付けるんだよ。
……はい!
オラファー。
あなたとエリザベスが亡くなってから、ずっと後悔していました。あなたの領地改革に反対すべきでなかったと。
だから、あなたの息子があなたの理想を継ごうとした時、私は全力で彼を支持することに決めたのです。
エンシオディスはよくやっています。
エンヤも巫女としてイェラグ人の敬愛を受けています。
エンシアは鉱石病に罹ってしまいましたが、幸い病状は抑えられ、明るい子のままです。
しかし、ついさっき、ふと気付きました。
あの三人の子らが集まって、兄妹同士で自然に交わされる笑顔……それが見られなくなって、どれほどになるでしょうか?
……
大長老、もうお休みになってください……
……
記録によると、この本堂は三家会議成立後に三家の人々が協力して建てたものらしい。三家の存在とその協力関係は、現代の三家制度確立よりもはるか昔からあったのじゃ。
その後、千年以上にわたって修繕を繰り返し、最終的に今のような姿になった。
この椅子も、ここに千年以上置かれておる。
十数人の大長老が、その一生をこの椅子に座って過ごした。
……十数人の巫女が、この山頂で憂いながら最期を迎えたのと同じように。
巫女とは初めから、蔓珠院が信仰を広めるために作り上げたものなのじゃ。
大長老……なぜ今、身共がとうに知る事実を語られるのでしょう。まさか、信仰は偽りであるとでも仰りたいのですか?
お主の言葉も直裁的になってきたな。しかし事はその真逆じゃよ、エンヤ──いや、巫女よ。
巫女よ、ゴホゴホッ……お主はわしの名を知っておるかの?
……存じ上げません。
うむ。この蔓珠院で、覚えておる者はおらんじゃろうて。
わし自身ですら、忘れてしもうた。
どの大長老も、先代から衣鉢を継ぐと、大長老と呼ばれるだけの存在になってゆくのじゃ。
いずれは、人々はお主の名も忘れ、ただ巫女と呼ぶようになるじゃろう。
そして、大長老や巫女は気付く──
人々が信仰しておるのは、決してイェラガンドではないと。
人々はいかなるものでも信仰することができる……そこに物語が、偶然があれば、人々はお主を、わしを、エンシオディスを、山を、水を──ひいては葉っぱ一枚でさえも信仰の対象とする。
人々がいかなるものでも信仰できるのなら、信仰とは一体何か?
大長老たちが最終的にたどり着いた結論はこうじゃ。
人々が信仰しておるのは、「信仰」そのもの。
人々は選択権を信仰の対象に委ねる。
人々は自らが何かを排斥する理由をすべて信仰になすりつける。
人々は信仰が教え導く生活規範に無条件で従う。
つまり信仰とは何か?
信仰とは安定、言い換えれば停滞である! つまり信仰とは怠惰、逃避、退廃と同義なのじゃ! ゴホッゴホゴホゴホゴホッ──
……お休みになってください、大長老。
いや、巫女──巫女よ!
大長老が勢いよくエンヤの腕をつかむ。
その力は、エンヤの皮膚に赤く痕がつくほどに強く、まるで彼に残された生命力をすべて注ぎ込んでいるかのようだった。
彼の両眼は、目の前の巫女を見つめているが、別の誰かを見ているようでもある。
信仰は醜悪じゃ! しかしたとえそうであっても、信仰を打ち砕くことのできる者はおらん!
イェラグは千年の時を経て……三大名家の溝は徐々に深まったが、信仰を否定できる者などおらん! 信仰はイェラグがイェラグたる所以(ゆえん)であるからじゃ!
信仰だけが、信仰だけがイェラグ人を一つにできるのじゃ。人々は信仰を追い求め、人々は信仰に依存する!
イェラグはそれによって千年もの間、存続してきたのじゃ!
人々は安定を──停滞を渇望しておる!
エンシオディスはこの戦いに勝ったと勘違いしておるようじゃが、それは違う……あやつが勝つことなど不可能じゃ。
千年にわたって凝縮されてきたこのイェラグの信仰に、どうしてあやつが勝てよう!
わしはもう長くない……じゃがお主はまだ若い。お主はこの蔓珠院の巫女であり、いずれこの蔓珠院の大長老になるのじゃ。
あやつに教え、そして打ち勝つのじゃ。あやつに、信仰の前では己が所行など取るに足らぬことをわからせてやるのじゃ!
エンヤはしばらく沈黙した後、大長老の手をむりやり自分の腕から引きはがした。
彼女の瞳には、目の前の老人に対する哀れみの色が浮かんでいた。しかし、より多くを占めていたのは、決意だった。
大長老……身共は同意致しかねます。
信仰は停滞を意味し、人々は信仰に依存している。なぜなら人々は安定を渇望しているからである──あなたはそう仰いました。
身共はそうは思いません。
確かに、人はひとたび信仰を持てば、それに習慣的に依存するものです。怠惰、逃避、退廃……あなたが仰ったこれらについて否定は致しません。
ですが、これは決して、信仰が停滞を意味しているという証左ではございません。
信仰そのものに資性などはなく、信仰とはそれに与えられた内容を示すものなのです。
信仰が前進すれば、信仰する人も前進するのです。
信仰が止まれば、信仰する人も止まります。
あなたの目に、イェラグの人々が停滞を望んでいるように見えるとすれば、それは蔓珠院がイェラガンドへの信仰を千年停滞させているからに他なりません!
我々は、習わしとして定着した規則に囚われ、この雪山の中で千年以上、外の大地を探求することも、外の人々と交流することもせずに生活を送ってきました。
ですがこの習わしは、本当に信仰と関係しているのでしょうか?
これはただの、蔓珠院の傲慢ではないのですか?
傲慢? 違う、違うぞ、イェラグとは本来そうあるべきなのだ!
……本来そうあるべきものなど、どこにもないのです。
もしあるとすれば、恐らくそれは、単に変化した経験がないというだけのことにすぎません。
変わるべき時が来たのです、大長老。
いいや、巫女よ、お主では何も変えられぬ。
信仰は、ゴホゴホッ……イェラグがイェラグたる所以……
身共はエンシオディスに立ち向かいます。ですがあなたの望むやり方は用いません。
それに、成功するかどうかもわかりません。
ですが……巫女というものが、民衆の信仰を導くために蔓珠院が作り上げた道具であるというならば――
身共はその道具としての役割を、いかんなく発揮いたします。
身共は巫女……ですが蔓珠院の巫女ではございません。イェラグの巫女なのです。
人々が自由に前進し、探求し、そして冒険することが叶うように、身共は自らの信じる方法で彼らを導きます。
そしてあなたは、もうお休みください、大長老。
どなたか、大長老をお部屋へ運んで差し上げてください。
エンヤは立ち上がり、振り返ることなく本堂の外へと向かう。
大長老は椅子に座したまま、彼女の後ろ姿をじっと見つめ、何かをつかもうと手を伸ばした。そして、その手はついに力尽きて垂れ下がった。
彼はその手に何もつかんではいなかった。
彼はそこで永遠に停滞し続けるだろう。彼の夢の中でそびえるイェラグの雪山のように。