風雪一過 BI-ST-1・幕間
郷に入っては
話がまとまったからには、今後我々三家は緊密な協議をする必要がある。
巫女様に委ねる権限の具体的な内容と、各一族で保持したままとする部分についての協議だ。
だが、儀式の準備も疎かにはできない。
そこで、間近に控える大典を、同時に巫女様への主権奉還の儀式を執り行う場とすることを提案する。
大典と主権奉還の執行者は別々であるため、同時に行うことに支障はない。そして儀式にはどのみち当主の参加が必要となるが故。二人に異論はあるか?
この件が決まった以上、必然的にそうなるだろう。
へぇ……
今年の大典は、巫女様への主権奉還の儀式にもなるってことだね……そいつは楽しみだ。
決まりじゃな……となれば、わしは下の者に関連文書を起草させ、できるだけ早くイェラグ全域に周知するとしよう。
きっとイェラグの民衆もこの知らせに喜ぶじゃろう。
待て。
まだ何かあるのか?
とぼけるな、エンシオディス。向こう数日間の谷地と鉱区の管理はどうする? これまで管理していたノーシスの任が解かれた今、誰が引き渡しの監督を担う?
心配は無用だ、アークトス。
イェラグの外部から専門家を招いている。
その専門家は、谷地と鉱区において医療方面での実地調査を行い、シルバーアッシュ領内の医療サービス施設の建設に携わる予定だ。
それと同時に、その二つの地域の管理権限を、その者にすべて委ねるつもりだ。
その者が乗った列車がまもなくカランドに到着するはずだ。二人がもし会いたいのであれば、しばらく待っていればいい。
貴様の与太話など聞いていない! 誰を招き、医療で何を目論んでるかなど知る由もない。しかし――
貴様の言うその「専門家」とやらには、俺の目の届く範囲内で行動してもらおう。
……アークトス、その者は私の大事な客だ。
だからこそだ。
鉱区の過度な採掘は、すべてノーシスが独断でやったことだと抜かしていたが、誰であろうが変わらない。
俺から見れば、貴様の手下など皆ノーシスと同じだ。一人消えたところで、また次の者が現れるだけだ。
貴様が専門家とやらに土地の譲渡を任せるのは構わない。しかし、その専門家は俺の監視下に置いてもらう。
専門家としてやるべきことをやっているのであれば、貴様の客としてだけではなく、俺の客人として、手厚くもてなしてやろう。
……
どうした? 大見得を切った割りには、随分考え込むのだな。
やましいことがないのなら何を悩む。それとも、貴様が招いた第二のノーシスに、ここでは言えない小細工でもさせるつもりだったのか?
……蔓珠院の護衛はこれまでペイルロッシュ家が行ってきた。土地を蔓珠院に預ける以上、ペイルロッシュ家の「護衛」を受け入れることに懸念などあるはずもなかろう?
だが……
一つ忠告だ、アークトス――気を付けることだ。あれは簡単にもてなせる客人ではないぞ。
フンッ、いらぬ心配を。ペイルロッシュ家に「もてなせない」客人などいない。
──貴様と同じように強情な客人かどうか、この目で確かめさせてもらおう。
……スキウース、あいつを見てきな。
またパシリ?
今はじゃれ合う気分じゃないんだ。さっさと行け。
チッ。
メンヒ、メンヒ!
はい。
車を手配して!
はい。
ユカタン、行くわよ!
おっと、足元に気を付けて。
……ヴァレス、お前はどう見る?
……私ごときでは、エンシオディスの真意を見抜くことなどできませんわ。申し訳ございません。
謝る必要などない。だがまさか、あの腹黒いラタトスまでもが承諾するとは、少し合点がいかんな。
ラタトス様ほどのやり手なら、恐らくすでに何かしらの対策を用意しているのではないかと。
フンッ、ともかく、シルバーアッシュ家が陰謀を目論んでいることは間違いない。
奴の話がどれほど合理的に聞こえようと、奴を信用などせん!
グロに伝えろ。まずはエンシオディスの大事な客に「お越し願え」とな。後のことはそれから考える。
はい。
はぁ、降りた途端に、雪が降り始めるなんてね。
ドクター、雪が止むのを待ってから行こう。
大したことないよ。イェラグでは、このくらいの雪なんて日常茶飯事だからね。
え?
実はあたしもやりたいと思ってたんだよね……
でも、まだ先は長いし、体力の無駄遣いはやめとこっか。
はぁ……やっぱ、いつになってもカランドに向かう手間は変わらないね。
いつか本当に、列車がカランドの麓まで通ればいいのにな。
カランド鉄道って言ってるけどさ、実は駅から麓まではまだ建設が許されてない区間があるんだよ。
反対する人が多いみたいだし……あたしはその辺の事情に関しちゃあんま詳しくないけど、多分そう単純な話じゃないんだろうね。
カランドまで一歩ずつ歩いて行くことこそが、敬虔さの証しだって信じてる人もたくさんいるけど……別にイェラガンドはそんなこと気にしないと思うな。
イェラグ人の信仰は自分の心の中にあるんだもん。山の麓まで列車に乗ったからってそれが消えちゃうなんてことはないでしょ?
……
カランドまで鉄道を敷くことも、旦那様のかねてからのご意向の一つです。
ですが残念ながら、ここから先はペイルロッシュ家の土地です。
旦那様が鉄道を敷くことに、アークトス様は断固として反対なさっているんです。
事実、半年前にその件でペイルロッシュ家のグロ将軍が、ノーシスさんと衝突してしまいましたし。
ノーシスお兄ちゃんが?
そういやノーシスお兄ちゃんのことはしばらく聞いてなかったな……元気にしてる?
……その時の衝突が原因で、旦那様に解雇されました。
今回、旦那様がドクターをお呼びしたのには、実はそのポジションを埋めるためという理由もあるんです。
えっ? そんなの聞いてないよ?
ドクター、ドクターは聞いて──
……
……ちょっと、あなたたち誰?
エンシアお嬢様……! 僕の後ろへ!
アークトス様の命により、シルバーアッシュ家の客人をペイルロッシュ家に招待するために参った。
そんなたくさん戦士を引き連れて、あたしたちの客人を招待するって言うの? 冗談はやめてよ……!
グロ将軍、ここはまだあたしたちシルバーアッシュ家の領地だよ。ペイルロッシュ家の将軍だろうと、好き勝手は許さないんだから。
……エンシアお嬢様もいらっしゃいましたか、これは大変失礼を。
らしくない社交辞令はやめなよ。……Dr.は、シルバーアッシュ家の客人なんだ。連れてくなんて許可できないよ。
……
エンシアお嬢様、そう睨まないでください。アークトス様もただそちらの客人を家に招待したいだけですから。
お兄ちゃんがそんな理不尽な要求を許すと思う?
心配いりませんよ。あなたのお兄様……エンシオディス様もすでにこのことを承知しています、エンシアお嬢様。
……嘘でしょ!?
本当です。
それとエンシアお嬢様……さっき仰っていた、この土地の所有権についてなんですが……
──つい先ほど、あなた方シルバーアッシュ家のものではなくなりましたぜ。
今後、ここは蔓珠院の土地になります。
何言ってんの!?
ヴァイスお兄ちゃん、どういうことなの? ドクターを招いた理由にしろ、土地の所有権の話にしろ、あたしに内緒にしてたの!?
エンシアお嬢様、申し訳ございません……
申し訳ございませんって……それ、どういう意味?
で、とかいうのはどいつだ?
フード頭……よし、確かにお前のようだ。
......
ああ、俺だ。
ん? フードをかぶった奴だと聞いてるが……
いやお前じゃない、さっき答えた奴だろ!
お前じゃないなら、何を出しゃばってやがんだ?
いや、フードをかぶった奴だと聞いてるぞ。お前だろうが!
(深いため息をつく)
……了解。
動くな! 武器から手を離せ!
お前ら、変な気を起こすなよ……
まだ不満があるようだな?
よく考えるんだな、異邦人。アークトス様がお前に「お越し願え」と仰ってるんだ。一般人じゃこんな扱いはありえねぇんだぞ。
相手が大事なお客様だと知っていて、そんな無礼な態度をとるの?
──!?
金属同士がぶつかり合う重々しい音が響き、それに続いて雪を踏む足音が聞こえてきた。細身の女性がゆっくりと歩いてくる。
その場が静まり返る。取り囲んでいたイェラグの戦士は、皆恐れるような顔つきで武器をしまい、道を空けた。
彼女はドクター一行をさっと見回した。その視線はドクターのそばにいたエリートオペレーターのところでしばらく止まった。
......
二人の視線が交差したその刹那、どちらも無意識に手を武器に置いていた。
そちらの「ドクター」が同行を拒否したら、力ずくでも連れていくつもり?
俺たちは命令を受けてんだよ。エンシオディス様も了承済みのな……お前こそ俺たちを邪魔するつもりか?
そう身構えなくとも、あなたに用はないわ。
……
エンシアお嬢様、エンシオディスからあなたを出迎えるよう言われて来たわ。
ブレヒャーお姉ちゃん、お兄ちゃんは本当に……?
ええ。
それであなたが客人様ね。エンシオディスに代わり、私がご挨拶に上がりました、と。
ついでに彼らに引き渡すのか?
そうね。
......
……
じゃあ、こちらへどうぞ。
噂のエンシオディスさんは、自ら迎えに来る暇もないほど仕事に追われているようだな。
ええ。
……武器を置いてくれる? 大事なお客様の護衛に失礼は働きたくないもの。
武器を持ち歩くのも仕事の一環なんでね。それに、上司でもない者の言うことを聞く筋合いはない。
Sharp、大丈夫だ。ここで血を流す必要はない。
……俺はドクターの護衛だ。一緒に行く。
アークトス様は、ドクター一人だけ連れてこいと仰ってるんだ。
問題ない。Sharp、君は待機していてくれ。
……了解。
ドクター、ほんとに行くの?
無理だよ……どうしてドクターはそんな自然に受け入れられるの……
でももしあたしたちがドクターを招待しなければ、こんなことにはならなかったでしょ……なんでそんな自然に受け入れられるの? あたしだってまだ納得できてないのに。
ドクター、なに笑ってるの。そうやって笑うの、なんだかお兄ちゃんみたいだね……どうしてそんな自然に受け入れられちゃうの? あたしわかんないよ。
グロ。
……
大事なお客様に粗相のないように。
口には気をつけなさい。
……
……ロドスのドクター様、どうか俺たちと一緒にペイルロッシュ家へ「お越しください」。
ありがとう、黒騎士。
……え?
フッ──
私はエンシオディスに雇われた、ただのボディガードよ。
エンシオディスによろしく伝えておいてくれ。
ええ。
案内してくれ。
......
仕方ない、また残業だな。
お兄ちゃん!
帰ってきたか、エンシア。
長旅ご苦労だった。
お兄ちゃん、どうして──
……落ち着け、順を追って話そう。
どうしてドクターをペイルロッシュ家に引き渡したの!?
ドクターには、ノーシスの職務の一部を担ってもらう必要がある。カランド貿易とペイルロッシュ家が、にらみ合いを続けているのは知っているだろう?
そして、アークトスはドクターを自分の監視下で行動させることを要求してきた。合理的な話である以上、無下にすることもできん。
だったらどうしてそれをドクターに言わなかったの!? あたしにすら知らせないのはどうして!?
私が招待状を送った後に起きたことだからな。
でも……!
お前がロドスに救われたことも、お前がドクターを大切に思っていることも理解している。
だがエンシア、私もお前に劣らずドクターを重要視しているのだ。
もしペイルロッシュ家にいる間にドクターの身に何かあれば、彼らには必ずその代償を払ってもらう。
……でもこんなの、やっぱりダメだよ。あたしはシルバーアッシュ家の人間ってだけじゃなく、ロドスの一員でもあるんだもん。ドクターの身の安全を確保してあげなくちゃ。
それがあたしの仕事だから。
……成長したな、エンシア。
ならばこうしよう……マッターホルン。
はい。
人をやって向こうの様子を監視させろ。
ドクターが谷地と鉱区で行動を開始したのを確認したら、エンシアを連れてドクターを訪ねても構わん。
はい。
お兄ちゃん!
もう行くがいい、エンシア。まずはゆっくり休め。
うん!
旦那様、ドクターについてなんですが──
マッターホルン、エンシアをしっかり守ってやってくれ。
はい……かしこまりました。
世話焼きね。
部屋でおとなしくしていられるような子じゃないからな。
私が見ておくわ。
不要だ。お前にはいつでも動けるよう待機しておいてもらわねば。
あっそう。じゃあそういうことにしとくわ。
そういえばあなた、そのドクターについて、どれだけ知ってるの?
卓越した専門的知識を備えた優秀な学者だ。私との協力がロドスにどれだけの利益をもたらすかもよく理解している。
今回も突発的な状況を瞬時に理解し、受け入れた。そのことからも私の目に狂いはなかったと確信しているが……なぜ突然そんなことを聞く?
あの人が単なる「学者」だとは思えないわ。すさまじい嗅覚を持っているもの。あなたが想像するよりもずっとね。
それで、そのドクターだけど、あなたによろしくって言ってたわ。
……
ドクターはこの事態を想定していたと?
あの人は状況を即座に理解しただけでなく、これっぽっちも驚いていなかった……強調するようだけど、一切動じていなかったのよ。
その上、私の正体も知っていた。
事前準備は万全、というわけか。
エンシオディス……私の人を見る目に間違いはないわ。これは直感だけど……
あなた、今回打った遊び駒で、思わぬライバルを増やしてしまったのかもしれないわね。
ライバル?
いや、もし私が集めた情報とお前の言葉が事実ならば、ドクターは我が協力者――盟友と呼べる存在になるだろう……あるいは主体が変わり、私がドクターの盟友になるやもしれん。
エンシオディス様、まもなく会議の時間でございます。
行こう。
会議室──ノーシスは黙って隅の席に腰を下ろしていた。
周りの人間は皆、彼と距離を取りつつも好き放題に噂話をし、そのひそひそ声は部屋中にこだましていた。
ノーシス、しばらく見ない間に、随分と痩せたな。
社長殿のおかげでな。
お前とはヴィクトリアで共に四年学んだ仲だが、今日のような事態になるとは、私も心苦しく思う。
私に罪を着せたからには、もう上辺だけ取り繕った言葉を交わすことに意味はない。
ノーシス、分をわきまえなさい!
もし社長が昔のよしみを忘れていたなら、あなたにはここに立つ資格すら与えられなかったのですよ?
ここに立つのに資格が必要だとは知らなかった。
なっ……!
ノーシス、カランド貿易の設立と発展にお前が不可欠だったという点については、疑う余地はない。
しかし、ここに立つ資格があるかどうかは……お前が決められるものではない。
チェスターおじさん、頼む。
はい。
まず、カランド貿易元最高技術責任者ノーシス・エーデルワイスの最終的な処遇についてです。
ここ数年、ノーシス・エーデルワイスが主導した谷地と鉱区の開発は会社に莫大な利益をもたらした……これは紛れもない事実です。
しかし一方で、その過激な開発戦略およびカランド鉱区における秘密裏の採掘により、カランド貿易は三家会議において、繰り返し非難を受けることとなりました。
特に、他の両家が谷地の調査に介入することを要求した際には、両家が共同で組織した調査隊に対し、彼は陰で襲撃を画策しました。
これは我が社のイメージおよび三家会議におけるシルバーアッシュ家の発言権に、多大な悪影響をもたらすこととなりました。
よって最終的にエンシオディス社長は、ノーシス・エーデルワイスをカランド貿易から即時除名することを正式に決定されました。
つまり君が私を呼びつけたのは、ただ皆の前で、私に対する判決を読み上げるためだけだったというわけか。
お前の行為はカランド貿易の利益を損ねた。この決定は皆に対するけじめと言えよう。理解してもらえると助かる。
……いいだろう、エンシオディス。
かつて君と共にイェラグに戻り、この地の発展に尽くしてきたが、最終的にこのような結果に行き着くとは思ってもみなかった。
合理的かつ有益な選択は、昔のよしみなどより遥かに重要である。お前も私同様、そう考えているはずだ。
しかし、お前の研究所は保留しておく。カランド貿易に直接関係する機密資料を処理した後は、引き続き使用しても構わない。
あるいは、お前のためにヴィクトリアへと向かうキャラバンを用意してやってもいい。すべてはお前の選択次第だ。
私は皆に対して責任を取ることと同様に、お前に対しても責任を取るつもりだ。
もし君が今、それが合理的な選択だと考えているのなら、私は君に失望したと言うほかない。
君のカランド貿易はいまだ私の技術を必要としている。イェラグの産業もまた、コア技術の輸入から抜け出し、独立成長ができるまでには至っていない。
君は私のために広い舞台を提供し、私が自らの研究を進めることを支持すると約束した。そしてイェラグ人の幸福のために、この前途有望な氷雪の土地を開拓してみせると約束した。
だが結局私は、会社の身代わりとなって罪をかぶることとなった……これが君の用意する舞台だったというわけか。
ノーシス、私は今もお前の学術研究における造詣を認めている。
だから私は、お前がまず自らの愚行を反省してくれることを誰よりも望んでいる。
お前は、事態を私の管理可能な範囲にとどめておくべきだった。
フッ……つまり今の君は、管理できる範囲を逸脱した物事ごときを恐れるほど、臆病になったということか?
まったくもって新発見だ!
バタンッ──会議室の扉が勢いよく閉められた。数枚の書類の端が風で翻り、すぐに元へ戻った。
会議テーブルの周りにいた人々は、突然響き渡った音の発生源へと反射的に視線を向けたが、見えざる圧力の中ですぐにうつむいた。
その時、エンシオディスの顔にどんな表情が浮かんでいたかを知る者はいない。
会議を続けよう、チェスター。
ロドス一行のリーダー、Dr.には、アークトス様の要求により、ペイルロッシュ家の護衛の下で谷地と鉱区移管の件を担当していただきます。
会社としては、ドクターが直近の事務を処理し終えた後で、改めて皆さんに正式に紹介したいと思います。
では、次が本会議の主題となります。
巫女に委譲する会社の権限を、いかに切り取るかという問題です。
まず、関税面に対する調整ですが──
何と呼べばいい、異邦人?
変わった名前だな。
ヴァレスが言うには、エンシオディスのところではドクターと呼ばれているらしいが、それで構わないな。
ドクター? まるで学院かどこかの学者様だな。
ドクター、お前はなぜここに連れてこられたと思う?
わからない。
フン、エンシオディスはお前にノーシスの代わりを務めさせたいようだが、奴の用意した人間など信用ならん。そこで、俺がその見張りをするというわけだ。
旦那、こいつおそらくトボけてごまかそうって魂胆ですぜ。
フンッ……たとえ本当に何も知らなくても、お前はエンシオディスの「大事な客」、つまり向こう側の人間だ。
フンッ、奴の言葉を何も聞かせないために呼んだのだ。
下手な言い逃れはおやめください。
このタイミングでエンシオディス様から招待を受けるだなんて……あなたが目的もなくイェラグに来たなど、信じられるわけがありませんわ。
ヴァレス、そいつに教えてやれ。自分が何をするためにここにいるのかをな。
エンシオディス様は、谷地と鉱区を蔓珠院に引き渡すということを決定いたしましたのよ。これまでそこの鉱山と工場のすべてを管理していた人物は、彼の部下であるノーシスですわ。
ですが今、ノーシスは解雇され、鉱山と工場を管理するポジションが空いたままなのです。
エンシオディス様いわく、彼の代わりとなる人物があなただということですわ。
どうやら状況は理解したようだな。
鉱区と谷地に対し、エンシオディスの小僧が小細工をしていないと確認が取れるまで、去ることはできないと思え。
妙な気は起こさないことだ。うちの連中はエンシオディスのところの奴らほどお利口じゃないぞ。
連中がもし本気でお前を斬り刻んでやると言うのならば、俺でも止めることはできん。
ハッ! 旦那、こいつのヒョロい体つきときたら、どこを斬りゃあいいかわかりませんぜ。
ハハハハハッ!
お前たちは黙っていろ。異邦人、俺とてお前を困らせたいわけじゃない。
結局のところ、お前はエンシオディスの客人だ。おとなしく協力するならば、身の安全は保証しよう。
いいか?
「話の通じる」相手のようだし、心配はしていない。
……
もういいだろう。ヴァレス、客人を客間にお連れしろ。
はい。
エンヤ、入るわよ?
……やっぱり、まだ寝ていたのね。
エンヤ、エンヤ、起きなさい。
ううん……ん?
おはよう。
もぞもぞと着替え終わったエンヤが化粧台の前に座ると、ヤエルはいつものように彼女の背後に立ち、髪をとかしてやるのだった。
……はぁ。
どうかしたの?
わかっているのでしょう?
三家の指導者になるなんて、いいことじゃないの?
あなた、蔓珠院での自分は、ただ民衆を安心させるためだけの存在に過ぎないって思っていたんでしょう? 実際、物事の多くは大長老が決めてるわけだし。
でもこれはチャンスだわ。
……もしこれがアークトス、あるいはラタトスが提案したものであれば、私もここまで憂うことはなかったはずです。
ですが、提案者はあのエンシオディスですよ。
もしかしたら彼は、突然自分の今までの行いを悔いたとか?
もしそうならば、どれほど良いことか。
そんなに心配なら、断ればよかったじゃないの。
でもあの時、あなたはあっさり受け入れたでしょう?
先延ばしにしたところで意味はありませんから。
あの時、あの場に、異議を唱えることのできる者など誰一人としていませんでした。
彼が本気で私をイェラグの指導者にしたいと思っていたかどうかにかかわらず、誰もその提案に反対できなかったのです。
あの状況では、たとえこの件を一時的に棚上げにしたところで、より多くの人々に知れ渡るだけですから。
雪山の雪が年中溶けないことに慣れてしまったように、人々は平和と安寧に慣れてしまった──あなたはそう言ってたわね。
雪山の民が何よりもまず望んでいるのは平和……彼らは自分たちに平和をもたらしてくれる人に賛同するものよ。
そう、平和です。それをもたらすのがエンシオディスだろうと、蔓珠院だろうと、人々は構わないのです。
ですから、たとえあの時に私が同意せずとも、その後に人々は私に同意するよう懇願したことでしょう。
であれば、大長老が段取りをする前に私が承諾し、主導権を握った方が良いでしょう?
エンシオディスはそこまで計算していたと思う?
彼は決して反対されることのない提案をしました。ですが彼は、本来あのような提案からは最も遠い人物なのです。
アークトスとラタトスもきっとそう思っているに違いありません。
アークトスはまだしも、ラタトスは……彼女は何もせずに手をこまねいているような人物ではありません。
はぁ……まったく面倒です。イェラガンドに私の祈りが届いて、大長老や三大名家の族長たちを懲らしめてくれますように。
すでに届いてるけど、まだその時ではないと思ってるだけかもよ。
──って、エンシオディスも懲らしめるの?
コテンパンに。
プッ……
あとはこのネックレスを着けて……はい、おしまいっと!
ありがとうございます。
あ、そうだ……この手紙、それとこのマフラーをエンシアに渡してもらえますか。それから──
それから彼女をカランドへ参拝に寄越してほしい、そうでしょう?
気が利くのですね。
ふふっ。
それと、皆に伝えておいてください。今日は経文解釈を行うので、誰も邪魔しないでほしいと。
ゆっくりと……考えたいのです。
わかったわ。
……
ヤエルが部屋を出ると、エンヤは引き出しを開けた。その中には、美しい装飾が施された台座の上に、目を奪われるような造形の石が置かれている。
……
イェラガンドよ、どうかお導きを。私はどうすべきでしょうか……
門戸を閉ざしていても独力のみで世を渡っていける――そんな時代はとっくに終わった。
過去百年、国家間においては数え切れぬほどの交流や衝突があり、その中で、クルビアのように急速に台頭する国がある一方、ガリアのような強国が徹底的に滅ぼされることもあった。
天災により諸国が分断される時代はまさに変化を迎えつつある。往来の拒絶はもはや現実的な選択肢ではない。
イェラグはこれ以上、真っ白な雪山に閉じこもることはできないだろう。イェラガンドが本当に存在していたとしても、その庇護下で雪山の国を進歩させるのは、ここまでが限界だ。
そしてイェラグがこの先へ歩み続けるためには、より強くならねばならない。
千年の平和と安らぎはすでに終わった。余所の者が扉を開けてくれるのをただ待ってばかりではいられないのだ。
イェラグは外界と交流を行う必要がある。主導権を握っているうちに歩みを進める……これがシルバーアッシュ家の伝統なのだ。
イェラグはイェラグとして存続しなければならない。我々にはまだそのチャンスがある。しかしこの雪山に残された時間は、刻一刻と過ぎ去りつつある。
私はもう外の大地を目の当たりにした……だから行動に移すのだ。私の見聞きしたものに意味を持たせなくてはならない。
あんたがノーシス?
そうだ。
あたしが誰か知ってる?
ブラウンテイル家の現当主であるラタトス・ブラウンテイルの妹、スキウース・ブラウンテイルだな。
わかってるなら、なんで礼をしないの?
私は全く関係のない赤の他人に対して、わざわざイェラグ式の礼などしない。
あんたね! マナーの欠片も持ち合わせてないの?
マナーについて言うのならば、君の礼儀作法こそなっていないぞ、スキウース・ブラウンテイル。
この部屋の中からでも、慎ましさなど微塵も感じられない君のわめき声が聞こえた。それに、貴族同士の挨拶に必要とされるのは、カランド式の礼だ。
先に礼を欠いたのが君である以上、礼儀正しくする義理はない。
あ、あんたそれ一体いつの時代の礼儀作法よ!?
礼節は時を経ても消えない。ただ人々が次第に忘れていくだけだ。貴族として、君はそれを悲しむべき立場にあるはずだが。
……エーデルワイス家は古くからイェラグの文献や記録を管理してきたとは存じていますが、ノーシス様がイェラグの礼儀にここまで明るいとは感服いたしました。
ただ、妻は今日、あなたとイェラグの礼儀作法について意見交換をしに来たのではありません。本題に入ってもよろしいでしょうか?
構わない。ラタトスは以前私の帰順を拒んでいたにもかかわらず、なぜ今になって再び私に接触しようとしているのか興味があるのでな。
フンッ、わかってるくせに! あんたのとこのトップが三家会議で巫女に権力を返還するとか提案したからでしょ。
なるほど、それならば──
ラタトスに伝えてくれ。こうなった以上、協力のために誠意を示すべきなのは、私だけではないはずだとな。
仕事の合間は、ここでお休みいただくようにと、アークトス様から仰せつかっておりますわ。
外出が必要な場合は、私たちがあなたの護衛を務めます。イェラグはかねてより平和な場所ですが、これを機にどんな小悪党が邪魔をしてくるかわかりませんもの。
使用人が毎日、自慢の郷土料理をお運びいたします。部屋の中のものも、どうぞお好きにお使いください。生活する上で何も不自由することはありませんわ。
もし何か必要なものがあれば、使用人にお申し付けください。あるいは私に伝えるよう言っていただいても構いませんわ。
わかった、では夕食を楽しみにしている。
(外へ出れば監視されるということか……)
鉱石病の諸問題に関するコンサルティングサービスの提供、それと大典への参加……これがお兄ちゃんがドクターを雪境に招待する理由?
あっ、大典っていうのは年に一度の一番盛大な祭典のことで、イェラグ人が一番大切にしてる行事なんだ。
当日になると、イェラグ中の人々が仕事の手を止めて、イェラガンドに──えーっと、つまりあたしたちイェラグの山神様に向かって敬虔な祈りを捧げるの。
来年も山神様の加護の下、幸せで健康な一年を過ごせますようにって祈るんだ。
鉱石病に関しては、これまでイェラグでは感染者が少なかったし、みんなあんまり理解してないんだよ。雪山の国で命を脅かす最大の脅威は鉱石病じゃないからね。
でもお兄ちゃんが雪山に鉄道を敷いてからは、観光客がどんどんと増えて、生活も良くなってきた。それでみんなもようやく感染者や鉱石病について知り始めたんだよ。
多分、ほかの切迫した問題が解決してからじゃないと、鉱石病のことなんて考えてる余裕もないって感じなんだろうね。
イェラグじゃまだ感染者の専門的な検査方法も普及していないし、もちろん感染者の収容や診療なんてもってのほかだよ。
そういう状況だから、きっとドクターがコンサルタントには一番の人選だったんだね。
で、ドクター……この招待を受けるの?
そうだよね、ドクターにはやらなきゃいけないことが山ほどあるんだもんね。でも……
急にこんな招待をされても、ドクターもきっと戸惑っちゃうよね。でも……
え?
……
個人的には、受けてくれればいいなって思ってるよ。
……あたしの両親は、あたしがまだ小さい頃、急な事故で亡くなったんだ。
二人が亡くなった後は、エンシオディスお兄ちゃんが家業を引き継いで、一族を支えてきた。
お兄ちゃんはあたしが成人するまでずっと一人で家を支えてきたんだよ。そして一族をもっと発展させるため、イェラグを出てヴィクトリアに留学に行くことにしたんだ。
お兄ちゃんがイェラグを離れる前の数年間、あたしたち一族全体を揺るがすようなこともたくさんあって、お兄ちゃんもその辺りから強硬な態度をとらざるを得なくなっていった……
でも少なくともその時はまだ、お兄ちゃんもお姉ちゃんもあたしもみんな仲良しだったよ。
だけど、お兄ちゃんが留学から帰ってきてカランド貿易を設立した頃から、たくさんのことが変わっちゃった。
お兄ちゃんもお姉ちゃんも、あたしには優しかったけど、二人の会話はなぜか減っちゃって、関係も冷えてった。
五年前に先代の巫女が亡くなったあと、お姉ちゃんは巫女の試練……まぁ選考会みたいなものかな。それを乗り越えて、新たな巫女になったんだけど……
それから、お姉ちゃんはほとんどカランド山を下りなくなった。あたしもあんまり会えなくなって、やりとりは手紙だけになっちゃった。
それで、お姉ちゃんは巫女になってから、色んなことでお兄ちゃんと揉めてるみたいなんだ……
あたしが得意なのは山登りだけだしさ、人間関係の修復だとかそういうのは専門外なんだよ。
でも、その点ドクターはすごいじゃない? ……誰とでも仲良くなれるし、色んな人の抱えてる難題を解決してきたわけでしょ?
だからあたしは、もし機会があればドクターに何かアドバイスをもらえないかなって思ってたんだ……
でも……
でも?
こういうことをあたしが言うのはあまり良くないかもだけど……
お兄ちゃんのことはあたしがよくわかってる。お兄ちゃんはとっても優秀だけど……手段を選ばないとこがあるんだ。
ホントにドクターが招待を受けたら、お兄ちゃんに利用されちゃうんじゃないかって、ちょっと心配なんだ。
だから、ドクターが行きたくなければ断っても平気だよ!
ひとまず様子を見るか。
だから言ったでしょう? 今から帰っても遅くはないって……
結局捕まっちゃったじゃない。
そうよ。
ねぇ、聴こえてないわけじゃないんでしょ?
もしもーし?
それはむしろあなたに問いたいわ、クールなよそ者さん。
あなたはここに来てから、少しも慌てた様子を見せていない。こうなることがわかっていたの?
君を何と呼べば?
イェラと呼んで。
気が変わったわ。あなたと仲良くなりたいの。
私とお友達になってくれる?
あら、ちょっとミステリアスな方がいいでしょう?
ごめんなさいね、今はある人が手紙を書き終わるのを待っていて、席を外せないの。また今度ね。
うーん……それは秘密よ!
はぁ……もしあなたに少しもその気がないって言うなら、しつこくつきまとうほど私も暇じゃないわ。
だけど、話し相手が増えるのは、あなたにとっても悪いことじゃないんじゃない?
......