樹影にて眠る 幕間
自然の啓示
スゥー……
フゥー……
スゥー……
ここにはもう胞子はないから、酸素マスクを外して大丈夫よ。
わ、わかった。
うう、はぁ~……
キノコって怖いんだねえ。
ずっと前から警告しておいただろう、絶対絶対絶対触るなって。
言うことを聞かないから、こうしてひどい目に遭ってるんだぞ。
そうだ、あたしの――
預かってた空箱か? キノコを入れて蓋しておいたぞ。ほら。
そうそれ、ありがと!
はぁ、はあ……
まさか胞子の濃度があんなに高いなんて……そ、それに、呼吸器系を麻痺させてくるなんて思いもしなかったよ。
あれは肉を食らうキノコなんだが、その肉をどうやって調達していると思う?
ひえっ……
じゃあ、二人はどうして何ともないの……?
わたしは狩人だから、対処法を持っているんだ。
キノコの沼で死んだなんて話になったら赤っ恥だからな。
(サーミ語)ティフォン、供物を捧げましょう。
(サーミ語)供物を? ……着いたのか?
(深く息を吸う)
ふむ――確かにそのようだ。
あれ、どこ行くの? 待って待って!
「供物」ってなあに? あたしのことだったりして……?
そんなわけないだろ、おまぬけ鳥。
ここはサーミの心臓部、原初の森なんだ。
私たちはここから来て、いずれはここへ帰るの。
サーミへの供物として食べ物を捧げて初めて、中に入ることができるんだ。
そうしないと何か悪いことが起きるの?
さあな。だが、起きないとは言えないだろう?
確かに。
乾パンでも許してもらえるかな?
わからん。
砕いて地面に撒けばいいと思うわ。
ん、そうする!
(サーミ語)大地よ、我らはこれより御身の懐を通ります。
(サーミ語)ここに供物をお捧げしますので、我らが血を流すことも狩られることもないように、どうかお見守りください。
(サーミ語)サーミはお許しになりました。
(サーミ語)さらに言えば、気前の良い皆さんのおかげで、サーミはお腹いっぱいになられることでしょう。
言葉選びが少し軽薄ね……若きシャーマンよ。
……いいえ、シャーマン見習いと呼ぶべきかしら。
サンタラの木の末裔よ、そうおっしゃらず。公的な場というわけでもないですし、そこまでこだわることもないでしょう。サーミもお気になさいませんよ。
ん……おや?
シャーマンと狩人、それと異郷の方ですか? サーミではあまり見ない組み合わせですね。
どうやら、ここの生活を体験しに来たというわけでもなさそうだ。
私たち、急いで南へ向かわなければならないの。遠回りしていられないから、原初の地を通らせていただいているのよ。
ああ、わかります。師匠もよくそうしてますから。
でも、今回はいつもと違って、僕一人でここに置き去りにされたんです。「サーミのご意志」というのを理解してほしいとかで。
だけどもう何日もここにいるのに、何の啓示も思し召しもないんですよ。おかげで毎日森の中を歩き回ってるだけになっちゃってて。
あなたなら、その辺りお詳しいんじゃないですか? 末裔さん。
サンタラと呼んでちょうだい。
じゃあ、サンタラさん。師匠が僕に一体何を持ち帰らせようとしているのか、教えてもらえませんか?
わからないわ、オークの子よ。ここには表敬のために訪れたことしかないし、私の試練の地はここではなかったから。
そうなんですか? それは残念です。
先ほども言ったけれど、私たち急いでいるの。この先の道も険しいしもう行かないと。失礼するわね。
えっと……
待ってください!
僕も一緒に行きます。
休憩にぴったりの木や、きれいな渓流ならいくつも知ってますし、安全な獣道もいくつか通ってきましたから。
「木の案内人」に……えっと、ガイドになりますよ!
僕以上にうまくやれる人いないと思いますし!
ねっ、連れてってくださいよ、サンタラさん。そうでなきゃ退屈すぎてそろそろ木になっちゃいそうなんです。
いいでしょう?
狩人さんと、外からのお友達も!
えっと、あたしはどっちでも……
決まりですね!
では行きましょう! 改めて、ようこそ原初の森へ!
……
はぁ……
では、一つ聞かせてもらおうかしら、オークの子よ。
はい、なんでしょう?
あなたのこと、何と呼んだらいいの?
僕ですか? うーん……
サーミ語の名前のほうは覚えにくいでしょうし……そうだ。師匠からはオークコップと呼ばれているので、そう呼んでください。
……
どうしてそう呼ばれてるの?
師匠がかなり気ままな人で、酔っ払うと時々僕の角を掴んでコップ代わりにするんです。それで。
へぇ……
あのさ、ずっと何かに見られてる気がするんだけど……
きっと神様だよね……?
いいや、肉食の大きな生き物だ。樹上に一匹、シモーネの後ろの草むらに一匹、それと左の木の陰にも一匹いるな。
おお、じゃあ大丈夫そうだね。
ここまで変わったものをたくさん見てきたし、肉食動物くらいならそんなに怖くないや……
武器を出したほうがいい?
構わなくていい。奴らはまだ理性を失うほど腹を空かせてもいなければ、気が立っているわけでもないからな。
そんなことより、自分たちの夕食の心配をしたほうが――
えっ? 危ない!
手伝いは必要?
いや、もう終わった。
そう遠くない場所に、地面に伏せた牙獣が見える。それはティフォンをじっと見つめていた。
その頬から腕の辺りにかけて、傷がついているのが見える。
空腹で気を狂わせた奴もいたか。だが、狙う相手を間違えたな。
消えろ。お前の肉は不味いんだ。
しかし、どうやら去る気はないらしく、牙獣は姿勢を低くして陰に身を潜めた。いつまた仕掛けてきてもおかしくないだろう。
――バン!
突然、牙獣の眼前で爆音が鳴り響いた。それは驚いて飛び出すと、地面に血痕だけを残して遠くへと駆けていった。
ティフォンちゃん、いま指で何か弾いてたよね?
ああ。今みたいな奴らを追い払うのに使っているんだ。
それって……葉っぱを丸めたもの?
葉っぱに空気を巻き込んで、弾になるまで絡ませ続けたものだ。
へえ……それもメモしておこうっと。
でも、どうやって空気を巻き込むの?
聞いてくれるな。人に教えてみたこともあるが、実際できたやつはいなかった。
――!
落ち着け。あれは角獣だ。運悪く首を嚙みちぎられてはいるが……先ほどの奴の仕業かもしれないし、別の連中が動き出したのかもしれないな。
んー、そっか。
どうやら、この異郷から来たご友人はもう、この土地で起きる色々なことにお詳しいみたいですね。
あと数週間もすれば、立派なサーミフィヨドになれるだろうさ。
あはは……
サーミのことをわかってくれる異郷の人なんて、素晴らしいじゃないですか。
前に巡礼をしていた時、道に迷ったクルビア人のガイドをしたことがあるんですが……
そのうちの男女何人かが、肉食動物が食事するのを見て、あれこれ騒ぎ立てたんです。あとで話を聞いてみたら、その光景が血生臭くて非文明的だとか言っていて。
僕には、文明というものはよくわかりません。ですが、彼らが代価を払ってまでサーミにやって来たのは、「原始的」で「野蛮」なものを見るためじゃなかったのかなって。
挙句の果てには肉食獣を止めようとした人までいましたけど、結局自分が食べられかけてましたし。
服装を見る限りは地位の高い人たちのようでしたが、残念ながら中身が伴っていませんでしたね。
へえー。確かに、君ってクルビア語が上手だよね。
(ウルサス語)ほかにも色々話せますよ! 僕はおしゃべりなので出会う人みんなとお話したくて。
それに偶然、うちの師匠もちょっと変わったおじいさんなので、こういうことを教えてくれますしね。
(たどたどしいサーミ語)すこし、でも……ことば、はなせると……うん、うん、いいよね。
ははっ、でも南の人と気軽におしゃべりしてるのを見られたら、部族の大多数の人にはいい顔されないでしょうね。前なんか、定期的に集落の市場を通るウルサスのキャラバンと……
(こうして戻ってくるのはいつぶりかしら……)
(この場所には今も、自然の息吹がこだましているのね……)
(アンマーは今もこの森を守っているの……?)
(それにしては、妙ね。)
(アンマーの影響はまだ残されているけれど……あれはもうここへ来ているのだから。)
(ウルサスの「黒印」が……)
シモーネさん? どうしたの?
何でもないわ。
それで、ガイドさんは今夜泊まれそうな場所を見つけてくれた?
うん。あの木の中だって。
コップくん曰く、中が空洞になってて、四人休むにも十分な広さがあるらしいよ。
あたし、そんなに大きな空洞のある木なんて見たことないよ。
それじゃ、もうすぐ見られるわね。
わあ~! これ、五、六人は泊まれるんじゃない!?
十人までなら泊まれますよ。この辺りでは、一番大きな部屋ですからね。
あれ、ティフォンちゃんは?
あの人なら、鼷獣が貯めこんでる木の実を取りに行きましたよ。おやつ用にするんですって。
あなたたちは先に休んでいて。私は一通り防護措置をしてくるわ。
この木自体が祝福を受けていますし、外には年中魔よけがかけられてるんですよ? そんなことする必要ないんじゃないですか?
……
やれやれ、本当にまじめな人ですね。
それがシモーネさんだからね。あの人がいてくれなかったら、あたしは今頃雪の中で三、四回は凍え死んでたところだよ。
シモーネさん、ですか? うーん……サンタラのシモーネ……どこかで聞いたことがあるような。
サーミでは有名な人なの?
うーん……いえ、そういうわけでは。僕の記憶違いでしょう。
巡礼の中で身をもって得た知識以外は、よく覚えられないんです。
きっとほかの誰かと混ざってしまったんだと思いますよ。
そう。
(ノートを開く)
コップくんは色々学んできたんだよね。いくつか質問してもいい?
何でも聞いてください。
前に、大樹の下で樹皮を拾ったの。そこにはある記号が書かれてたんだけど……
どういう意味なのか知りたくて。
それは「啓示」ですね。サーミはそうして情報を伝えてくださるんです。
その内容は、未来や過去を語るものかもしれませんし、あるいは自然そのものの感情を表している可能性もあります。
同じ記号が書かれていても、それを読む時と人によってその解釈も大きく変わってくるんですよ。
ひとまず、見せていただいても?
うん。お願い。
これは……老樹の樹皮ですね……
「雪祭司」……「喜び」……
恐らくは、族樹が自らに仕えるシャーマンに向けて送った啓示なのでしょう。……どうぞ、お返しします。
なるほど?
「雪祭司」と「シャーマン」って、別物なの?
雪祭司はシャーマンの長、あるいは偉大なるシャーマンと考えてください。必ずしも最年長とは限りませんが、最も優れた能力と権威を有するその地のリーダーのようなものなんです。
ちなみに、僕の師匠もこの雪祭司ですよ。
じゃあ、君も将来はそうなるの?
あまり、そうなりたくはないですね。雪祭司は大変なんですよ。部族の面倒を見て問題を解決しないといけないですし……あれはなりたい人がなればいいものですから。
へえ……それで、君はもうシャーマンなんだっけ?
いいえ。僕はまだ、サーミの望みも、サーミが僕に何をさせようとお思いなのかもわからないような見習いです。
だからこそ、師匠は「サーミのご意志」を悟らせるために僕をここへ追いやったわけですが。
実際、悟ることはできたの?
いいえ。
いつも通りに葉が落ちて、いつも通りに小川が流れ、どこへ向かえどすべてがいつも通りです。特別なことは何も。
師匠が来たら文句を言ってやらないと。
シモーネさん、おかえり!
ただいま。
何をなさったのか見てきていいですか?
わあ、すごいですね……! 地面に降りた霜でもこんなことができるんですか?
そういえば、老樹に仕えるあの方は、風雪を操り自分の指先で従順に踊らせることができると聞いたような。
老樹には従者などいないし、私のような追放者も必要ないわよ。
話したくないことであれば、無理にはお聞きしませんよ。
老樹って……族樹とは違うものなの?
サーミにおいて老樹と呼べるほどの古木は、ただ一つしかありませんので。
それはしばしば「現在」と「未来」の使者と共に現れ、「過去」を体現するもので……
三位一体にして、サーミを超越した存在なんですよ。
過去を、体現する……
あなたは、服装を見る限り探検家だと思っていたんですが。
うん、そうだよ。
僕が思うに、むしろ――
ええと、何て言うんでしたっけ。
民俗学者、かな? それに近いように思います。
知らない土地に来た以上、探検家としては、たくさん学んでおいて損はないからね。
では、探検家さんで。またご縁があってお会いできた時には、サーミフィヨドの読み物を持ってきますね。
うん、ありがとう!
でも、極限環境だと、観測員の荷物には厳しめの重量制限がかかるんだよね……だから、そうだな。『クルビア百科事典』二冊分くらいまでしか入れられないかも。
縦の長さはこれくらいで、幅はこれくらい。それで厚みがこれくらいの……ハードカバーの本なんだけど。
クルビアの方の概念で説明されるとよくわからないので……とりあえず荷物を貸してもらえますか? 重さをはかってみますから。
あっ、ちょっと待ってね。これ一つに束ねて背負ってるから……
よいしょ、っと。
はい、これで全部だよ。
んー……多分大丈夫でしょう。背負うだけならいけると思います。
えっ?
サーミフィヨドの読み物は二冊で大体これくらいの重さですから。
ええっ!?
それって……どういうものなの?
伝説や、部族の歴史に関するものですね。
ですが、歴史のすべてを読み込もうとすると、今いるような部屋が木板でいくつも埋め尽くされるくらいの量があるので、それはやめておきましょうか。
木板に書いてるの!? て、てっきりサイクロプスの洞窟で見たような紙の本を使ってるんだとばかり思ってたよ……
おーい、マゼラン!
あっ、おかえり。
以前くれた照明棒なんだが、まだあるか?
一応あるけど、どうしたの?
さっき試しに使ってみたんだが、葉っぱの弾より効果があってな。
牙獣に遭ったってこと?
それは、一人で森を歩いていたら奴らが来るに決まってるだろう。
とにかく、まだ持ってるんだな?
うん、あと半束なら。どれくらい必要なの?
とりあえず二本くれ。
で、こっちが採ってきた木の実だ。わがままなお前のために、小川で洗っておいたぞ。
ありがとう!
シモーネとオークコップも、一緒に食べよう。それと、今日は早めに休むぞ。出立の時、血肉を狙う野獣たちに入り口をふさがれるのは御免だからな。
それじゃ、今夜は私が見張りをするわね。
今日はわたしの番だろう? お前は一昨日見張りをしたばかりじゃないか。
ここは安全なほうだし、ずっと起きている必要もないでしょう。息抜きの機会をくれたものとでも思っておいて。
うーん……だったら、任せた。
(小声)だが、夜は気を付けろよ。森に悪魔がいるから。
ええ。
シモーネさん、今夜たき火しようよ。
たき火だと? お前、この辺りの捕食者たちを全員引き寄せるつもりか!?
やめろ、絶対にやるなよ!
だ、だったらランプをつけるだけでもどうかな……?
ランプもたき火も同じですよ。
よく眠れないんじゃないかと心配しているのなら、これを身に着けてみてください。
「夢捕りの網」です。これがあれば、獲物になる夢を見ることなく穏やかに夜を過ごせますよ。
ありがとう。
それじゃ、あたしはもう寝るね。
おやすみ。
オークコップの言った通り、その夜マゼランは悪夢に苛まれることはなく……
代わりに、別の夢を見た。
前の夢と同じ、夜の森の中。
けれど、今度は決して一人では――あるいは、一匹ではなかった。
彼女はあのエンペラーのような生物になり、そのそばには――
他人の夢の中であるにもかかわらず、一匹の巨大な白い角獣がぐっすりと眠っていた。
それは静謐な美しさを持っており、マゼランは思わず手を伸ばす。
けれどそれの持つ威厳を前に、彼女は手を止めた。
結局、彼女はそのそばで横になり、白い角獣と共に夢路をたどることにした。
夢の中でまた、夢を見る。
......
そこでは、皆が眠っている木のうろへと、よろめく一つの黒い影が近付いてきていた。
その背後には、穢れと闇に染まった一本の道が続いている。
と、空から突然黒い雪が降り始めた。その雪はサンタラの木の霜に落ちると互いに融け合い、裂け目を生む。
影は後に引く道を伸ばしながら、その裂け目へと向かっていく。
その時、一匹の角獣が影の注意を引いた。
それは軽やかに飛び跳ねると姿を消し――影が振り返った時には、あの裂け目はすでに霜で覆われていた。
影はその霜を見つめると、足を引きずって角獣が姿を消したほうへと向かっていく。
......
マゼランが「目覚めた」時、白い角獣はまだそばにいた。
けれどその氷晶でできた角は融け始めていた。
その次に身体が、そして森全体が融けていき……
マゼランは雪に埋もれ、雪の結晶がそのくちばしに落ちた。
不思議と、彼女はなんだか少し惜しいことをしたように思った。
夢が消え去ってしまうまで、その角獣の目を見ることができなかったからだ。
うわっ!
……
どうした? 今日はいやに早起きだな。
なんだか目が覚めちゃって……
恐らく、理由はそれだけではなかった。マゼランは寝袋の中、自分のポケットの近くが湿っていることに気がついた。
寝る前にそのファスナーを閉めたことを、彼女ははっきりと覚えている。けれど今は、そこから何かが出てきたかのように、開いたままになっていた。
ポケットに手を突っ込めば――
サーミからの贈り物だけが消え失せていた。
ティフォンちゃん……
朝から何をへこんでいるんだ?
アンマーの愛って、消えちゃうこともあるの?
あのおばあさんには、面倒を見ないとならない人間がたくさんいるからな。いつまでもお前についていてやることはできないさ。
お前への愛は融けてしまったのか?
うん……
であれば、それはいいことかもな。
こちらの知らぬ間に、アンマーが大きな面倒ごとを片付けてくれたのかもしれないぞ。
だけど、できれば手元に置いておきたいよ。
それならまた探してきてやろう。大した手間でもないしな。
ありがとう!
これって……あの日襲ってきた牙獣だよね。
事切れてはいるが、死んでからそれほど経ってないな。
何か大型の草食動物の体当たりを受けて命を落とした、といったところか。
食べられそうになったから反撃したってこと?
いいや。そいつは、この牙獣が弱るのを待って復讐しに来たんだろうな。
幼い頃に両親か仲間を食われたのを覚えていて、成長してからそいつを殺しに来た、といったところか。
動物が、復讐を……
狩る者が狩られる者を殺せば、その子供が成長した時、復讐をしに来る……人間がするようなことは動物もするものですよ。
僕らと彼らの間には、あなた方「文明人」が思うほどの差はないんです。
さてと、それより……狩人さんもシャーマンさんも、ちょっと来てください。この先にもっと厄介な問題があるんです。
シモーネ、この岩角獣は……
ええ、悪魔に傷つけられたようね。
オークの子よ。あなたはこの幼獣を連れて行ってちょうだい。母親の血を舐めてしまう前に。
はい。
(岩角獣の鳴き声を真似る)
幼獣はその呼び声を聞くと、震えながらも母のそばを離れて、オークコップのもとへ駆け寄った。
(悲しげな鳴き声)
びっくりしたよね。もう大丈夫、僕がついてるから。
(小さな岩角獣の額を優しく舐める)
(カメラを取り出す)
カシャッ――
マゼランは写真を見つめた。
肉眼で見ると、岩角獣の傷口からは墨のように黒く光沢のある血液が流れ出ているように見えている。
しかし写真を見れば、傷口には何も写っていなかった。
これは悪魔そのものが与えた傷ではないようね。この子を傷つけたのは、何かしらの野獣の成れの果て……穢れてしまった個体でしょう。
この岩角獣は転化はしないわ。
まだ救えるかを診てくれる?
はい、すぐに。マゼランさん、この子を見ててもらえますか。
(岩角獣の鳴き声を真似る)
オークコップは幼獣をマゼランの前まで導くと、ケガをした岩角獣のほうへと急ぐ。
こ、こんにちは?
マゼランが手を伸ばせば、幼獣は安心したように、頭をマゼランの掌にこすりつけてきた。
えへへ……
(低く鳴き真似をする)
(苦しげな鳴き声)
……もう少し早く見つけられていたら、救えたかもしれません。ですが、これではもう……
解放してあげることしかできませんね。
狩人さん、横に立っていてもらえますか。
幼獣から見えないように、壁になってほしいんです。
ああ……
(長く鳴き真似をする)
(不安げで悲しそうな鳴き声を上げる)
怖がらないで。痛くないからね。
……
(アーツユニットを軽く振る)
さあ、お休み。夢の中でなら、まだ駆け回れるのだから。
……
あなたは高き山を越え、沼地を渡り……♪
(アーツユニットを置き、短刀を取り出す)
アンマーの眼差しを受け、彼女の森へと宿る……♪
もはや痛みも、苦しみもなく……♪
すべての魂と共に――
(短刀を岩角獣の喉に突き刺す)
サーミの背を駆け巡る……♪
……
大地の魂よ、どうか安らかに……
……(雌獣の鳴き声を真似る)
あっ……
幼獣はその声を聞くや、オークコップのそばに駆け寄った。
(低く吠える真似をする)
(高く遠吠えをする)
心配しないで。君のお母さんは、君と一緒にいるからね。
その血を……その涙を……
(血のついた短刀で雌獣の目元を切る)
そして、その角を。
(短刀で雌獣の角を切る)
君のどこに留めようか……?
幼獣は、オークコップの膝をそっとひづめで蹴った。
ひづめだね。
(短刀で幼獣のひづめに印を付ける)
行きなさい、友よ。君の命は始まったばかりなのだから。
幼獣はオークコップのそばを歩き回っている。その姿は、彼を新たな拠り所、新たな家族としたがっているように見えた。
んー……ダメではないんだけどね。
君のお母さんのことが片付いたらでもいいかな?
幼獣は答えず、ただオークコップにすり寄っている。
どうするつもりなの?
さすがにこれは、僕みたいな見習いだけじゃ解決できませんから。
(遠くまで口笛を響かせる)
修行のことは忘れて、こういう面倒ごとは師匠に何とかしてもらいましょう。
この方角に進み続ければ森を抜けられます。そうしたらすぐ、沢の民の村ですよ。彼らならあなたたちを歓迎してくれると思います。
僕はこの子とここに残って、死体の出血を止め、師匠が来るのを待つことにします。こういう死体を捕食者たちの餌にはさせられませんからね。
樹冠の賢者によろしく言っておいてちょうだい。
えっ、まさかとっくにご存じで――
それと彼には、ウルサスの「黒印」がこの件に関わっていると伝えてほしいの。
ウルサスの「黒印」……? わかりました、覚えておきます。
やれやれ……ウルサス絡みとあれば、大方ろくなことじゃないですよね。
そちらの食料は十分か?
僕はシャーマン見習いですから、森で飢え死になんてしませんよ。そんなことになったらとんでもない恥さらしですし。
じゃあ、これあげるね、コップくん。
おお、懐中電灯ですか?
僕は夜目が利くので大丈夫ですが……師匠が使うと思います。ありがとうございます。
それでは、行ってください、友よ。
サーミのご加護があらんことを。
やっと森を出られたね!
あっ、ちょっと電波が入るようになったみたい。
沢の民はお前たち南の人間とよく取引をしているから、お前たちの持つような鉄の塊をあれこれ取り付けているんだ。
ところで、ちょっと気になったんだけど、コップくんたちは最終的にあの死体をどうするのかな?
穢れを受けた血や地面を清め、傷口をそぎ落としたあと、その場に置いておくだろうな。
埋めたりしないの?
埋めたところで、腐肉を食らう獣に掘り起こされるだけだ。余計な手間をかけても仕方がないだろう。
人も同じようにするの?
大抵はな。
オークコップも言ったように、サーミにおいては、わたしたちと獣たちの間に大した違いはない。
狩り、狩られ、生者は食らう側になり、死者は食われる側になる。
わたしたちにできることなど、獲物に少しの慈悲を与えることくらいのものだ。たとえば、確実に息の根を止めてやるとかな。
これが自然の掟であり、サーミの意志なんだ。
……
それを変えたいと思うのなら、方法は一つしかない。
方法って?
祖霊の父たるサーミそのものになることだ。
まあ、誰も見たことのない伝説の存在に過ぎないがな。ははっ。
もう……からかわないでよ。
「『黒印』の状態を確認中。『フリエーブ鳥』がまもなく水上の家で取引を行う。」
……
野獣の死体がまた一つ。また一頭の被害者が出た。
捕食者はそれを食らう気もなく、死せる身体を踏み越える。
空腹を満たすためでもなければ、復讐を果たすためでもない――純粋な殺戮。
それは一匹の穢れた角獣だった。腹部に空洞が開いているにもかかわらず、それはまだ「生きている」のだ。
その血も、涙も、唾液も、すべては墨のように黒い。
よろめく捕食者は獣道を進む。新たな被害者を探して。
さほど遠くない場所には、同じように揺れ動く影がある。
それは、人の形をしていた。
近づかずとも、その独特な呼吸音が聞こえてくる。
スゥー……フゥー……