塵影に交わる残響 LE-4・戦闘後
驚愕
(狂っている! 彼女は狂っている! 丸々一区画の住人の命に関わるのだぞ!)
(それに、これほどの規模の事件を起こして、逃げられると思っているのか?)
(もし彼女の言いなりになれば、事が発覚して最初に出てくるのは私の名だ!)
(この機会を失ったところで別に惜しくなどない。まだチャンスはある……私はまだ待てる!)
(着いた……ヴィセハイム出入管理室……)
扉を開けようとした瞬間、エーベンホルツは強烈な頭痛に襲われ、危うく倒れかけた。
逃げ出すのか、臆病者め……
私に指図するな!
たとえウルティカで死ぬことになろうが、お前のような人殺しにはならない!
貴様は……恐れている……怯えている!
もし恐怖ごときに囚われているなら……貴様は一生自由を手にすることなどできない!
黙れ!
幼稚な愚か者が……
なんとでも言えばいい……
あの女がそう簡単にここから去らせてくれると思っているのか?
!?
(よし、ここには誰もいない……)
(もっと用心して、誰にも見られないように……)
……
(このままもう少し進めば、移動都市外縁部の無人区画だ……)
(深呼吸)
もしかして移動都市の縁から飛び降りる気ですの?
!?
確かにそれなら最短でヴィセハイムから去ることができますわね。ですがその方法はまったくお勧めできませんわ。
ゲルトルーデ、これ以上の干渉は、互いにとって良くないことになるぞ。
あなたに何か強要するつもりは微塵もありませんわ。
ならば行かせろ、今すぐ私の目の前から消えるんだ。
あら、どちらへ行くおつもり?
コンサートが終わるまで、ヴィセハイムはずっと移動しておりますのよ、どこへも行けませんわ。
たとえ命の危険を冒してここを離れようとしても、人のいない荒野に行くことしかできませんわ。
人のいない荒野に行く……
たとえ……
たとえ荒野で死のうとも、ヴィセハイムには居たくないとおっしゃるの?
その通りだ。
お気持ちは理解致しましたわ。ですが、少し冷静になって私の話を最後まで聞いてみませんこと?
これ以上何を話すというのだ。
こんな場所で、私にショーダウンさせる気なのかしら、ウルティカ伯爵?
ウルティカ伯爵……
わざわざその肩書きを強調するな。お前の言いたいことはわかっている。
まず、いまの状況でも私たちの計画は変わらず、滞りなく進行できるということを保証しますわ。
私たちの計画ではなく、お前の計画だ。
多少の言い回しの違いであなたの気が済むのなら、異論はありませんわ。
だが、クライデの「音」は漏れ出しており、ロドスはその副作用に気付いている。
不完全な「塵界の音」で、もう一つを取り除けるのか? できたとして、ロドスがそれを黙って見ていると思うか?
一つ一つお答えしましょう。まず、漏出していてもクライデの「塵界の音」は「共鳴」が可能ですわ。
ロドスに関しては……ここがどこだとお思いかしら?
ヴィセハイム――私の領地ですのよ。
しかもそのハイビスカスさんとやらは感染者ですわ。リターニアの土地を踏ませているだけでも、すでにロドスの顔を立てておりますの。彼女はヴィセハイム以外のどこにも行けません。
それに、彼女が知っているのは、あなたとクライデが原因かもしれないということだけ。「音」については全く無知ですし、因果関係すら立証できないでしょう。彼女は何もできません。
……
わかりますわ。無関係な感染者を傷つけるのが忍びないのですね。
私からすれば、それは不要な哀れみですのよ。ですが、もし本当にそう思ってらっしゃるなら、なおさら計画通り行動すべきですわ。
計画通り行動して、感染者たちを死なせろと?
計画の残りの部分をお話しいたしましょう。
まずあなたはコンサートでクライデと演奏して自分の中にある「塵界の音」を取り除くのですわ。
その後、私はコンサートホールで混乱を引き起こし、あなたはそれに乗じて逃げる。そして私は機を見てクライデを殺害し、彼の死体をあなたのものに偽装する――
何を言っている!?
彼は現在アフターグロー区における最大の災いですもの。生かしておくなんてありえませんわ。
生かしておくなんてありえないだと――騙されるものか、アフターグロー区最大の災いはお前ではないか!?
話しましたわよね? アフターグロー区のすべての災いの元は、クライデの体内にある壊れた「音」ですわ。
そして共鳴は「塵界の音」のエネルギー漏出を激化させます。これは不可逆的なものですわ。
たとえあなたが本当に移動都市から飛び降りていたとしても、クライデの「音」は、一週間前の無害に近い状態には戻りませんわよ。
さらに問題なのは、「塵界の音」はクライデのそばにいる者だけでなく、彼自身をも傷つけていることです。
彼こそが共鳴の最大の被害者ですわ。
あなたの目には彼がとても健康に見えているでしょうけど、それも一種の疑似的な回復にすぎませんわ。
クライデの身体は本来、「音」に適応しているはずでしたが、ここ最近の急激に上昇するエネルギー漏出によって、すぐにでもバランスを崩すでしょうね。
楽観的に見積もったとしても、彼の平穏な暮らしは恐らく二週間ほどで終わって、疑似回復期後の一番激しい急性症状に襲われますわよ。
彼本人のためにも、アフターグロー区のためにも、演奏した後に死ぬことこそ、最も良い結末ですわ。
これはあなたや私、アフターグロー区、そしてクライデにとっても良いことなのですよ。
私はいつでも使える強力なカードを手に入れ、アフターグロー区は平和になり、クライデは安寧を得られますわ。
そしてあなた……あなたは自由を得るのです。
ウルティカ伯爵、リターニアの正当継承者……
――巫王の、最後の血統。
自由。
物心ついた頃から、自由とは何かを知らない。
可哀想な子ね。
礼儀正しくある必要も、挨拶も必要ない。ただ私の話に耳を傾けなさい。
巫王とは遠く離れた傍系に生まれたけど、あなたは確かに巫王最後の血統だ。
あなたを哀れに思う。だから困らせるようなことはしない。
それだけでない。あなたの一族が代々受け継いできた領地もそのまま与える。
あなたはいずれウルティカの領主になる。
あなたは自分の領民に対して責任を負うことを学ぶ。
あなたは悪名高い親族とは完全に異なる道を歩むと――
私はそう期待している。
これは私の記憶の始まり。
当時私は五、六歳で、それ以前の記憶は一切ない。ぼんやりと覚えているのは、自分が「塵界の音」と呼ばれる妙なものと関係があって、そのせいで命を落としかけたということだけ。
目の前の純白のドレスを見つめながら、自分は無名の小貴族になるのだと疑いもしなかった。
時折襲ってくる「音」による頭痛と幻聴に耐え忍ぶ以外には、平穏な一生を過ごすのだと。
伯爵……言行を慎み、高塔の外へは、みだりに出るべきではありません。
あなたのすべては、女帝陛下から賜ったものなのですから。
伯爵、何かお忘れになっていませんか?
お食事の前には、女帝陛下を褒め称えるべきです。
伯爵、本日は新しい曲を学びましょう。
これは女帝陛下に対する貴族たちの敬意を表す曲です。よく覚えておいてください。
伯爵、なんと素晴らしいアーツコントロールでしょう!
何ですって? もっと精密な操作の仕方を学びたいのですか? いやいや、そんな疲れることをする必要はございません。
周りの者すべてが、できる限り私の自由を制限し、頭に双子の女帝への忠誠心を植え付けようとした。
もしそれが平穏な暮らしの代償だというのなら、耐えてみせる。
私は長い間耐えた。
伯爵様、単刀直入に申し上げます。あなた様こそリターニアの真の主でございます。
私はすでに何年にもわたりあなた様の塔に潜んでおります、きっと私が何者かはおわかりでしょう。
何も仰らなくて結構です。私の話を聴いていただければそれでよろしい。賛同も反論もする必要はございません。
わかっております。あなた様は恐れておられるのでしょう? 今の生活すらも失うことを。ですが少なくとも、あの者たちがあなた様をどう思い、何をしようとしているのか知るべきです。
ご存じでしょう。僭主(せんしゅ)があなた様に押しつけた代理人が現在、階下で宴を開いています。今からそこへお連れして、真実をお見せしたいと存じます。
そう言って、目の前の者は私の手をつかみ、地面から引き上げた。
私の手は汗にまみれていた。
素晴らしい酒だ!
地下にこんな美酒があったとは、全く知らなかったぞ。
恐れ入ります。
ウルティカのような片田舎には何もございませんが、酒造りの職人は割と多い方なのです。
あのガキがまだ小さい間に、たっぷり飲んでおいてやらんとな! あいつには残しておけん!
ハハッ、それはご勘弁を。
あの子がここに軟禁されて数年……いつ酒の味を教えてやろうかと機をうかがっているのですから。酒に溺れさせ、酒狂いにするのです。
私はしばらく頭がぼうっとしていた。
ほう、まだそんな手を残していたのか。
あのガキが酒に溺れれば、陛下も安心して――
シッ!
おっとそうだった、いかんいかん! 罰としてもう一杯飲もう!
酒の席でしか言えないことですが……
あの子に世継ぎを作らせてはならない――これは上からの絶対命令です。
だったら、いっそ薬剤師に頼んで――
それはいけません、証拠が残ってしまいます。あの子を自堕落に育ててこそ、この任務は首尾よく成功となるのです!
見事だ! まったくもって素晴らしい! さぁ、飲もう!
無事にあれを墓まで見送ってやれさえすれば、ウルティカは私のものですよ。
おお! さぁ、乾杯だ!
乾杯!
ハハッ、ハハハハハハ……
貴様、今のが聞こえたか?
これが貴様の求めた平穏な一生なのだ!
ミスター・エーベンホルツ?
……
突然、地面に倒れて……危うく病院に連絡するところでしたわ。
大丈夫ですの?
……私は……
何も問題ない。
計画については……
今は聞きたくない。
もう行く。
言いましたでしょ? お好きにどうぞ。
二度と私を訪ねてくるな。
それについては、従うのは難しいですわね。
……
おかえりなさい――顔色が悪いですよ。どうかしましたか? 気分でも悪いんですか?
……大丈夫だ。
全然大丈夫じゃなさそうです。早く横になってください、僕はお湯を沸かしてきます。
必要ない……
遠慮しないでくださいよ。祖父が病気で寝ている時も、こうやってお世話していたので慣れているんです。まずは横になって、他のことは全部僕に任せてください。
もし良くならなければ、ハイビスカスさんを呼んできますし。
すぐに戻ってきますね!
ウルティカ伯爵は、立っていられないほどの強烈な頭痛に耐えながら粗末なベッドに倒れ込んだ。
次第に意識が朦朧としてくる。
下賤なウジムシが。
!?
自らの高貴な血を捨てるとは……
黙れ……
うっ!
自堕落なゴミが!
……
遠くからチェロの音が聞こえてくる。
頭痛が和らぐことはなかったが、ウルティカ伯爵の脳内に響くあの声は、チェロの音に覆い隠された。
彼はいくらか安堵を覚えた。
この旋律にはやや馴染みがある。
頭痛がウルティカ伯爵の集中を散らそうとする。だがそれでも彼はこの旋律に聴き覚えがあると感じていた。
どこかで聴いたことがある……
どこで?
……
目が覚めましたか!
私は……
動かないで。さっきハイビスカスさんが来て、あなたの診察と採血をしていきました。特に大きな問題はなく、恐らく最近のストレスが重なったことによる過度の疲労だろうとのことでした。
(ストレスか……フッ……)
今のチェロは……君が弾いていたのか?
そうですよ。
君は……さっきのメロディーをどこで聴いたんだ?
多分、幼い頃に誰かが口ずさんでいたのを聴いたのかも。
よく覚えていないんです。
幼い頃……
幼い頃――
!!!
君は――君はあの――
僕が……何ですか?
衰弱したウルティカ伯爵は何度かもがいたが、とうとうベッドから起き上がることはできなかった。
しかし彼の頭の中で埃を被っていた記憶が、チェロの音によって呼び覚まされ、目の前で一つ一つ再生されていく。