銀心湖鉄道 RS-7・戦闘前
壊れたブレーキ
この辺りの人はみんな避難したわよ、侍女長さん。どうしてあなたは残ってるの?
スキウース夫人こそ。もう避難なさったはずではありませんか?
フンッ、逃げろって言われてハイそうですかで逃げるわけにはいかないでしょ?
この像はみんなで心血注いで作ったものなのよ。何かあったら、ほかの人にどう説明すればいいの?
みんなで、ですか。それはエンシオディスが、ではなく?
……さっき巫女様があなたを押さえてたのを見たけど、あれはそういうことだったのね。巫女様から何か聞いたんでしょう?
夫人は驚いていらっしゃらないようですね。
あたしだってバカじゃないもの。巫女様は何も事情を知らないみたいに振舞ってるけど、本当に知らないわけがないでしょ?
ただ、彼女の立場的には、知っていても知らないふりをしておくことが一番大事なんでしょうけど。
なのに、彼女はそれを覆してまであなたをここに寄こしたのよね。言いなさい、一体何が起きているの?
現在、こちらへ接近中の人物についてですが……一人はデーゲンブレヒャーさんで、もう一人は「グレーシルクハット」です。
「グレーシルクハット」!? チッ、まさかあいつ……でも、そんなはず……
で、巫女様はわざわざあたしにそれを伝えるために、あなたを残していったわけ?
そう捉えていただいて構いません。
像のことは私にお任せを。
ここまでよ。
ぐっ……!
……さすがは黒騎士、個人の実力は侮りがたいものですね。
しかし、それだけでは私を相手取ることはできない、ということはよくおわかりのはず。
へえ?
自信家は嫌いじゃないけど――
私の我慢にも限度があるのよ。
あなたとの追いかけっこには、ちょっと退屈し始めてるの。
それは申し訳ありません。あなたを退屈させてしまうとは、とんだ失態です。
ですが僭越ながら申し上げますと、あなたの攻撃には殺意が感じられませんね。
かつてカジミエーシュで無敵を誇り、大剣を振るい相手を恐怖させていた黒騎士が、今ではそのような刃を持たない武器を振るっていようとは――ッ!
あなたくらいの相手ならこれで十分よ。
試合ではリターニアの大剣を使ってほしいっていうのが、あの商人たちの要求だったの。
「リターニアの大剣武者」だの、「アーツの才なき変わり者」だの……フッ、何とでも呼べばいいわ。そんなこと、どうだっていい。
だけど、長い時間が経ったせいか、皆忘れているみたいね。
一番始めに、私がこの鐧(カン)を武器として選んだ理由を――
何を……うっ!
その言葉は、正面からの風雪によって口の中へと押し戻された。
彼を襲ったのは、肌を刺すほどのイェラグの寒風、山から押し寄せる無慈悲な雪、そして冷たく重い鐧による一撃だ。
それを前にして、抵抗などできようもない。
――!?
がはっ……
今のは警告よ。
エンシオディスにちょっかいを出してくる連中は山ほどいるし、一人一人殺して回れば私も楽ができるでしょう。
だけど、残念ながら殺すよりも生かしたほうが役に立つ人間もいるのよね。
たとえば、あなたとか。
げほっ、ごほ……っ、なるほど。
手心を加えていただいたことに、感謝しなければなりませんね。
鐧――
私がこれを使ってる理由は単純よ。
刃がないこの武器なら、あなたみたいな人の命を奪わずにおいてあげやすくなるから。
とはいえ、こういう武器を使っていても、少し力加減を間違えたら大抵の人はミンチになってしまうけど。
昔からずっとそうなのよ。
中には好敵手と呼べる人間もいるけど、大抵はすぐ潰れてしまう。
リターニアの術師だろうと、カジミエーシュの騎士だろうとね。
信念も理想も、どんなに高ぶった感情も、どんなに固い意志も……圧倒的な力の前には脆いもの。
笑っちゃうくらいにね。
だけど、あんまり簡単に壊れられても困るのよ。
手にした武器の名を冠したその女性――デーゲンブレヒャーは目の前のヴィクトリア人を見下ろした。彼は決して容易く対処できる手合いではなく、それゆえに相手取れるのは彼女だけだ。
だがそれでも、彼を打ち負かすのは彼女にとってそう難しいことではなかった。
アーツの使えぬ貧民から、騎士競技の三連続チャンピオンたる黒騎士になるまでの道のりは、決して容易なものではなかった。
だが、それよりあとのすべてはあまりに容易いことばかりだった。
フッ……「天性の武者」たる黒騎士に比べれば、大抵の人間は確かに「脆弱」でしょうね。
誤解しないでちょうだい。
あなたがもう少し本気になれば、私も多少は手を焼くはずよ。
残念ながら、諜報員である私が本気で取り組むべきことは戦闘ではないものでして。
ワーオ、あの人たち戦ってるうちに像を囲んだ足場まで行っちゃったわ。
あの「グレーシルクハット」、結構やるじゃない。
デーゲンブレヒャーに追われながら雪山からあの小島まで逃げられる人なんて、イェラグ中どこにもいないでしょうね。
それなのに、ヴィクトリアにはあんなのがまだたくさんいるの?
この大地ってつくづく恐ろしいわねえ。
ええ、本当に。毎日こんな面倒ごとに対処しなければならないくらいですからね。誰か私の代わりに巫女を務めてくれる人がいればいいのですが。
何考えてるのよ、巫女様が今みたいな地位にいるのはあなたの自業自得でしょう?
そういうところはお兄さんにそっくりね。いつも自分から好き好んで仕事を増やすんだから。
あの人にそっくりなんて言わないでください。
はいはい、それじゃあの人があなたにそっくり、ならいいかしら?
ヤエル。
ん?
あの約束、まだ覚えていますよね?
あら、どれのこと?
とぼけないでください。
ふふっ、もちろん覚えてるわよ。「イェラガンドはただ見守り続けてくだされば」、って話でしょう?
はい。
以前は、少しズルをしてしまいましたし……この件まで主に頼ってしまえば、私の理想も彼の理想も単なる机上の空論になってしまいます。
……傍観者でいるのは、あなたが想像するよりつらいことよ。
でしたら、主には辛抱強くいていただけるようお願いするしかないですね。
いいわ。主が私たちの約束をお聞きかどうかなんてわからないけれどね。
どのみち、私はこの像に手が加えられやしないかを見に来ただけだもの。
あなた、やっぱりまだ諦めていなかったんですね――
これだけは絶対諦めないわよ。
わあ、今のデーゲンブレヒャーのキックで像全体がちょっと歪んだ気がするわ。
んー、「グレーシルクハット」もなかなかやるじゃない。像の指に掴まって体勢を整えるなんて、大したものね。
二人がもっと像の顔をスリムにしてくれたらいいんだけど。
あーあ、初めのうちはよくわからなかったから、外見なんてどうでもいいと思って適当にやってたのよね。
そのうち人との交流が増えて、私の美意識も影響されて変化したから今みたいになったわけだけど。
でも、文献の中に肖像画が現存しているせいでこの有様よ。こうなるとわかっていたら、エーデルワイス家を出る時に肖像画の描かれた文献も持ち出しておいたのに。
だけど、今になって急にイェラガンドの像を建てようとするなんて誰が予測できるっていうの!
あら、二人ともあっという間に像の頭のてっぺんまで登っちゃったわね。
いい感じね。そうそう、そっちのほっぺたはもう少し削ってちょうだい。
やだ、もみあげまで削らなくていいのよ! そこは結構気に入ってたのに!
んー……まあ、ここから見る分にはいい感じかも。
そういえば、エンヤと知り合ってからは、彼女の付き人をしているうちに、自分の外見も気にするようになったのよね。
お忍びで街へ一緒に行くたびに、あの子が可愛い小物をあれこれオススメしてくれて、いつの間にか私もそういうものが好きになってきて……
そうだ、さっき削られちゃったもみあげの部分は、アクセサリーに変えてもいいかもしれないわね。
とりあえず、覚えておきましょう。
あらあら、「グレーシルクハット」ったらお気の毒ね。せっかく飛び降りようとしたのに蹴り飛ばされてるわ。
可哀そうに。
もしかして、デーゲンブレヒャーの対戦相手をした人たちも、今の彼と似たような心境だったのかしら?
敵わないとわかっていても必死で足掻くことしかできずに、ひょっとするとチャンスがあるかもなんて考えて――
やっぱり、そんなものなかったって最後には気付かされてしまう。
いいえ。
富を求めて戦場に立っていたあの人たちは、彼よりよほど軟弱だったわ。
それで、満足はしてくれた?
何に?
私たちが像を「整形」するのを見て嬉しそうにしてたから。
仕上がりはどう? 気に入った?
ええ、悪くないわ。
そう。
どこへ行くの?
彼はあの程度では死なない。いずれ戻ってくるわ。
だから見張っておかないと。
彼にまかれることはないと確信しているの?
確かに正面切って戦う分には彼に勝ち目なんてないでしょうけど、あなたを振り切ることだけに集中すれば、それは難しいことじゃないかもしれないわよ。
それに、彼が囮ではないという保証もないでしょう?
……そういう判断はエンシオディスに任せてるの。
だけど、彼は今こっちに構っていられない状況でね。そのことは、あなたのほうがよくわかってるでしょ?
……
私に任せてちょうだい。
あなたに?
正確に言えば、「巫女様に任せて」かもね。
ヤエルは手に持っていた通信端末を左右に振った。
聞こえてたかしら、巫女様?
ええ。身共にお任せください。
ご苦労様でした、デーゲンブレヒャーさん。
大したことじゃないわ。
ところで、今夜のかがり火の宴にはお越しになりますか?
いいえ。賑やかな場所はあまり好きじゃないから。
それは残念です。
何をするつもり?
外国の使節を見張る分には、武力よりも外交手段のほうが効果的ですよ。
彼は使節ではないのよ。
そうあることもできるでしょう。
だったら、巫女様にお任せしましょうか。
あら、どこへ行くの? 帰るならそっちじゃないわよ。
わかってるわ。
えっ、まさか死んでないよな?
こうやって見てないで、まずはどうにか引き上げてやらないと。
服装からして外国の人みたいだけど、今日みたいな水温じゃ私たち地元民でも耐えられないわよ……
あのう、何かあったのですか?
たった今、小島のほうから人がぶっ飛んできて、氷に突っ込んでそのまま落ちちまったんだ。
何ですと!? それはいけない!
失礼、通らせていただけますか!
人ごみをかき分けて目を凝らしたハロルドは思わず吹き出した。
凍り付いた湖面に美しい円形の穴が開き、その中心に「死体」が一つ浮かんでいる。
彼はまさしく、この「死体」を迎えに来たところだった。
うっ、冷たい――迂闊に手を突っ込むわけにもいきませんな。
どなたか、長い棒か何かをお持ちではありませんか? 彼は私の友人でして、引っ張り上げてやりたいのですが。
んー、ここにはなさそうだな。その辺の釣り人に頼んで、釣り竿を貸してもらうのはどうだ?
んなことしなくても、私が貸してやるよ!
おお、それは助かりま――なんと、ロザリンではありませんか!
よお、おっさん。また会ったな。
話はあとだ。私の武器を貸してやるから、こいつで助けてやれよ。
ええ、ありがとうございます。
俺たちも手伝うよ!
ロザリンの武器を借り、野次馬の協力を受けて、ようやく「死体」を引き上げる。
んー、まだ生きてそうだな。
あまり認めたくはないことですが、本当に彼が命を落とせば大変な面倒ごとが起きるでしょうからね。
彼に手を下した人物も、それを理解しているからこそ手心を加えたのでしょうな……はぁ。
さて、まずは彼を暖かい場所へ運んでやるとしましょうか。
ああ。
店主殿、暖を取りたいのでコンロを借りますぞ。
はいよ。
こいつ、ジョンだよな。山にいたはずなのに、どうしてこんなとこに落ちたんだ?
山? そこで会ったのですか?
おう。
こいつとは山で会って……
何かあったのですか?
いや、何でもねぇ。ちょっと説明すんのが面倒なだけだよ。
んで、おっさんのほうはどう過ごしてたんだ?
私ですか?
はっはっ、もとより私は、ヴィクトリアを代表して、イェラガンド像完成をお祝いしにきておりましてな。明日の式典が終わりましたら帰郷する予定なのです。
そこで、最後の時間を目いっぱい活用しようと色々な場所を回り、妻と娘へのお土産を買い集めておりました。
おっさん、暇人だなぁ。
若い頃はもっと色々なことをしようと思っていたものですが、このくらいの年になりますと、暇なくらいがちょうどいいと気付くのですよ。
ごほっ、げほげほげほっ。
おお、「死体」が見事蘇りましたぞ。
げほっ、うえっ……
よう「ジョン」、大丈夫か?
ロザリン嬢……それに子爵様まで?
ああよかった、戻ってこられたのか……実はたった今、死んだ母方の祖父に会ったところでした。
お前、どうしてこんなことになってんだ?
それは……話せば長い話でして。
あなたのほうは、お父上とは上手くやれましたか?
あー、何とも言えねぇわ。
お父上? というと、進展があったのですか?
それも話せば長い話で。
「ジョン」、どういうことですか?
知らぬ間に、ロザリンとの仲を私よりも深めているとは。
……
……
ここにいらしたのですね。お探ししましたよ。
おや、巫女様。どうなさいましたか?
巫女?
プラマニクス?
あら、リェータさん。あなたもいらしたのなら、ちょうどよかったです。
ちょうどよかったって?
すでに子爵様にはご案内いたしました通り、明日の落成式に向けた前祝いとして、今夜銀心湖のほとりでかがり火の宴が開かれる予定なのですが……
子爵様は近頃、観光でお忙しい様子と聞いたもので、そのことを覚えてくださっているか心配になり、伺った次第です。
もちろん覚えておりますとも! ご安心ください、必ずお伺いしますので。
では、リェータさんもぜひご一緒に。
かがり火の宴ねえ。いいぜ、行ってやるよ。
時に、そちらの「グレーシルクハット」さんは、子爵様のご友人でいらっしゃいますか?
……ええ、その通りです。
でしたら、イェラグにとってのお客様でもありますね。ぜひとも、この宴にご出席いただけますでしょうか。
……巫女様のご招待とあらば、喜んで。
ありがとうございます。それでは……決まりですね。