銀心湖鉄道 RS-8・戦闘前
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銀心湖が最も美しい季節は冬だと、人々は言う。
湖面は硬き氷に覆われ、遠目に見れば巨大な宝石のように見える。それが日差しに照らされて、人を酔いしれさせるほど美しく輝く。
だが、その美しさは、より近くで見てこそ深く理解できるのかもしれない。
宝石ほど完璧ではないが、それより硬い氷の下には今なお水が流れている。
……君はいつから、そうも叙情的になったんだ?
蔓珠院が言うには、我々は巫女の後に続き、この氷の上をイェラガンド像の足元まで歩く予定だとのことだ。
短い道のりではないし、途中でいつ何が起きてもおかしくはない。
なんだノーシス。足元の氷が割れないかと心配しているのか?
お前らしくもない。
私が懸念しているのはそんなことじゃない。わかっているだろう。
「参列者」の中には、我々に目を付けている者も多くいる。
君の奥の手に関しては、まだ詳しい情報が来ていない。楽観視できる状況ではないぞ。
そもそも、昨日あの「グレーシルクハット」をイェラガンド像に近付かせてしまったのは私の失態よ。
必要とあれば、すぐに彼を片付けに行くけど。
向こうが何かを感づいているのなら、今さら何をしても手遅れだ。
一度戦いになると周囲を顧みなくなるその悪癖には……いや、もういい。君もエンシオディスと同じようなものだからな。君たちにはそれを改めろと言うつもりはない。
だが次からは、毎度後始末を強いられている私のことを考えて、多少は慎むようにしてくれ。
ノーシスはこう言ってるけど、どう思う? エンシオディス。
私には高さ数十メートルの巨大な像をうっかり切り裂くほどの実力はないものでな。
そうね。
あなたはただ、例のドクターを招待して、危うく計画を台無しにされかけただけだもの。
……
……はぁ。
君たちの無意味な言い合いなど聞きたくない。
それで、警備のチェゲッタは……
事前に小島に配置する予定よ。
ヴィクトリアの人たちと、あの商人たちの接待係としてね。
お前は気を張りすぎだ、ノーシス。
我々はすでにできる限りの準備を整えている。あとは待つだけだ。
二人とも、あと少し待っていてくれ。
春はもうじき訪れる。
三年前、巫女様がカランドを下りられた時のことは、今でも覚えている。
当時イェラガンドがお与えになった祝福を前にして、エンシオディスすらも心服せざるを得なくなったわけだが……今日もまた、あの時のような奇跡を目の当たりにできるだろうか。
この光景を前にして色々と思い出させられたようだね、「友」よ。
とはいえあんたはこの数年、昔のことばかり考えすぎてないかい?
そんな嫌味を言う暇があるのなら、今日の式典へもっと関心を持ったらどうだ。
どうも朝来た時から妙だと思っていたんだが……この像、前と少し変わっていないか?
施工管理はブラウンテイル家の仕事だろう? 巫女様にどうご説明するか、きちんと考えておくんだな!
ははっ、心配ご無用さ……
……
ところでアークトス、あんたその顔どうしたんだい?
まさか「グレーシルクハット」にでも襲われたのか?
……さっきの言葉をそのまま返してやる! 心配無用だ!
(ッ……)
(つくづく、あの子は容赦というものを知らんな。そういうところはタチアナにも俺にも似ている。)
(実に良いことだ。)
お義姉様、全員揃いました。
よし。それじゃ、指定の位置で待機するよう下の者に伝えてくれ。
まもなく巫女様のご到着だ。この大事な時に、うちの家名に傷をつけるような奴がいたら絶対に許さないよ!
はっ。
待て、ユカタン。
お前どうして一人なんだ? 嫁さんはどうした。
もうこんな時間だってのに、どうしてあいつはまだ来ない?
ウースなら今朝、やることがあると言っていましたが……
なんでも、お義姉様へのサプライズを用意しているとか。
サプライズ? あいつのに期待するなんて「恐れ多い」ことだね。
今日の式典より重要なことなんてあるか? こんな時にバカな真似させるんじゃないよ!
では……すぐにウースに連絡を。
ですが、そうご心配いただかずとも大丈夫ですよ。物事の優先順位は彼女もよくわかっていますから。
お前は嫁さんを甘やかしすぎなんだよ。
まあいい。あいつももう子供じゃないんだし、その「サプライズ」とやらをせいぜい待ってやるとするか。
にしても、あいつがお前なしで行動するなんてね。
……
彼女のそばには手伝いがついていますから……
そろそろお時間です。
巫女様が到着なさいました。
皆様。
蔓珠院が外国人のイェラガンド信仰を受け入れるようになり、早三年が経ちました。
今日のイェラグの発展は、この場の皆様と、イェラグすべての人々の努力と貢献の賜物です。
この数年、皆様もイェラグの変化をその目でご覧になってきたことでしょう。
イェラガンドがその民に、主の子らに課した挑戦へ、我々はすでに一つの答えを出しました。
そしてこの三年は、単なる始まりにすぎません。
我々はこれからさらに複雑な状況に直面し、イェラグ自体もより多くの危機と挑戦に向き合うこととなるでしょう。
ですが皆様には、イェラガンドがこのイェラグの地を、ひいてはここに暮らし主を敬愛する民を見捨てることはないと、信じていただきたく存じます。
このイェラガンド像は、外界に向けたイェラグ最初のシンボルとなることでしょう。
同時にこの像は、イェラガンドを敬愛し、崇拝するすべての人の信仰の拠り所ともなるはずです。
今後はカランドに登らずとも、この場所でイェラガンドへの祈りを捧げられるようになるのです。
身共は、イェラガンドへの敬虔さを示すにあたり、形式にこだわる必要はないと考えております。
真の信仰とは、イェラグ人ひとりひとりの心の中に根付いているものと信じているのです。
ではこれより、イェラガンドのお見守りのもとで、聖像へと向かいましょう。どうぞ身共の後に続いてください。イェラガンドがイェラグに祝福をお与えくださるよう、祈りを捧げに参りましょう!
我らのイェラガンドに。
我らのイェラガンドに。
我らのイェラガンドに!
イェラガンドを呼ぶ多くの声が、湖面にて一つとなった。
巫女は皆の前へと立ち、先陣を切って氷上に足を踏み入れる。
氷に閉ざされた銀心湖は、遠くから見た時と違い、宝石のように完璧な美しさとは言いがたい。
近くに立つことで初めて、この「宝石」が傷だらけだということがわかるのだ。
氷の表面には入り組んだ亀裂が走り、その下には尽きせぬ水が同じ方へと湧いている。それはまるで、早朝の日差しが照らす中、魂が流転し生まれ変わっていくかのようだった。
それはイェラグ人の目には、息を飲むほど美しく映る。
イェラガンドの巫女は、イェラグの寒風を刻み込んだような氷の亀裂を踏み歩く。まるで、イェラグ千年の風霜や、長い冬の日々を踏み越えていくかのように。
そうして今、春が訪れようとしていた。
もうこんな時間なのに、どうしてまだ来ないわけ!?
ほんとムカつくわ!
通信もずっと繋がらないし……昨日の夜にはイェラグ入りして、今日には必ず列車で来るって言ってたわよね!?
すぅ……はぁ……
落ち着きなさい、スキウース……落ち着くのよ。
ふぅ……
(よし……冷静になりましょう。巫女様は氷の上を歩いて小島まで行くわけだから、式典はすぐに始まるわけではないはずよ。だから時間はまだあるわ。)
(これがうまくいったら、ラタトスの奴どんな顔するかしら……)
ふふふふ、あっははは!
こほん、こほん。んんっ。
(約束の時間は間違ってないし、向こうだって約束を破るような相手じゃない。)
(遅れるにしても、きっとそこまで遅くはならないわよね。)
(朝のうちに銀心湖に到着する列車は、大体この時間帯に駅に着くはず。)
どれどれ、次の列車の到着時刻は……どうしてこんなに遅いのよ!?
恐れながらスキウース夫人、この列車は各駅停車の鈍行便ですし、遅れるのはいつも通りと言いますか……
普段は別にそれでもいいけど、今は一刻を争うのよ!
しかし……
ああもう、このまま待ってるわけにはいかないわね!
駅の責任者に連絡して。今すぐ列車を加速させてちょうだい!
なるべく途中で止まらずに、最速でここへ到着させるのよ!
ですが、夫人!
そんなことをしては、列車を待っているお客様が――
乗りたい人を全員目的地まで送り届ければいいんでしょ?
えっ? あっ、は、はい、それはそうですが……
「それはそうですが」じゃないでしょう!
メンヒ! メンヒ!
はい、スキウース様。
「たったか駄獣」のマネージャーに連絡して! 近くで暇してる駄獣たちを即刻総動員させるのよ!
この路線上の途中駅すべてで乗車待ちしてるお客さんを、全員駄獣で目的地まで運ぶよう手配しなさい!
かしこまりました。
ほ、本当にそんなことをしていいんですか?
しちゃいけない理由なんかないでしょ?
ああでも、そうね。おかげで一つ気付けたわ。
予定を狂わせてしまうお詫びとして、列車の乗客全員にささやかなプレゼントを用意しないとね。車内で売ってる特産品をそれに充ててちょうだい!
費用はすべてブラウンテイル家に……いいえ、全部あたし個人宛に請求して!
了解しました、すぐに取り掛かります。
間に合えばいいんだけど……ううん、絶対間に合わせるのよ!
絶対に……!
ペースを上げろ!
我々がここへ来た理由を忘れるな! 後ろの連中もしっかりついてこい!
はっ!
止まれ! 集合!
その場で整列!
報告! 第二小隊揃いました!
よろしい。
第三小隊はまだか?
報告! 第三小隊揃いました!
よし。
ジャック、お前の小隊は最後列へ回れ!
常に警戒を維持し、いかなる相手も侮るな!
はっ!
よろしい、そのまま士気を保て!
各小隊に告ぐ、引き続き進軍せよ!
はっ!
……
あの連中、何をしてるんだ? 手にしているのは……武器か?
……うそでしょ? 式典に参列しに来たんじゃないの?
前にも、あんなふうに整列してるのを見たことあるし……今回だってきっと、大したことないわよ……
だが……
前の時とは、どこか違うように見えるなあ。
……
我らのイェラガンドに。
イェラガンドがきっと、私たちを守ってくださるわ……
報告します!
先行した偵察兵より、イェラグの巫女はすでに一行を率いて小島へ移動しているとの連絡が入りました!
こちらの準備は整ったか?
はい!
全部隊整列完了しております! いつでも行動可能です!
よろしい。その場で待機し、私からの指示を待て。
……冬の銀心湖というのは、さすがイェラグ指折りの絶景だ。
まさか、これほど美しい景色を、こんな状況で見ることになろうとはな。
随分感傷的だな、ハロルド。
そうか? はっはっは、居心地の良すぎる環境は人を弱くすると聞くが、まさしくその通りらしいな。
一ヶ月休んでいたが、まだ武器は持てそうか? リスバーン。
……正直、かなり重いな。
チャールズ、お前はどうだ?
どうということはありません。
ここは戦場で、我々はヴィクトリアの兵士なんですから。
さすが、従軍して数十年のつわものは言うことが違うな。
それで、本音は?
吐き気がしてます。
でも、それが何だって話でしょう。
ご命令をどうぞ、ボス。
……すまないな、我が兄弟たちよ。
全軍に告ぐ!
総員、進軍開始!
イェラグ人は神像建設の名目で密かに軍事物資を輸送している! ゆえに我々は、彼らにヴィクトリアを愚弄した代価を支払わせねばならない!
作戦目標は――イェラガンド像の破壊だ!
はっ!
何ですって?
今から途中駅に停車せず、終点へ? 車掌、本気ですか?
……はい、わかりました。
どういうことだ?
今の駅でも止まるはずだよな? どうして通過したんだ?
皆様、大変申し訳ございません!
ただいま、少々トラブルが発生いたしました!
適切な対処を行うため、当列車は終点の銀心湖まで速度を上げて走行いたします! 申し訳ないのですが、途中駅には停車いたしません……!
なんだって? こっちは次の駅で降りて観光する予定だったのに!
私もよ!
急いで市場に行かなきゃいけないのに……停車しないってどういうつもりなの!?
ご迷惑をおかけしてしまい、誠に申し訳ございません!
今回の対応の補填といたしまして、当列車より皆様にお土産品をご用意しております!
車内で販売中の特産商品より一点、無料で進呈させていただきますので、ご自由にお選びください! チーズ製品でもブラインドボックスでも、どれでも一点無料です!
えっ……補填? へえ、それならまあいいけど。
あっ、恐れ入りますが、「高山の雪解け水」特装版は数に限りがございますので、ご希望のお客様はお早めに――
わかった、みなまで言うな!
速度を上げるも、停車駅をすっ飛ばすも好きにしてくれ! 代わりにそのやたら高い特別版の雪解け水をもらうぞ!
ちょっと、なに割り込んでるのよ! こっちは並んでるんだから!
その何とかの雪解け水、私にもちょうだい!
……なんと慌ただしいことか。
このタイミングでこれほど急いで銀心湖を目指すということは、やはり何か重要な物か人でも運んでいるのか……?
まあ、いずれにせよ……
私のカンは当たったようだ。
スキウース様、列車側の手配はすべて完了しました。
ご要望通り、銀心湖行きの次の列車は最速で到着します。
ですが、お招きになったというお客様は本当にその列車に乗っているのでしょうか?
もちろん! 間違いないわ!
しかし、万が一ということが……
あるわけないでしょ! あの人たちはきっとその列車に乗ってるはずよ!
あなた、全イェラグで通信ができるようにするために、あたしたちがこの三年でいくつ基地局を建ててきたか知ってる?
それは……申し訳ありません、存じません。
あなたはここに戻ってきたばかりだし、知らないのも当然よね。でもこれからはちゃんと覚えておきなさいよ!
あたしたちブラウンテイル家の領地だけでも、通信基地局は五つも建てられてるの!
そんなにたくさん……?
そうよ!
しかも、この雪山でも通信が阻害されないように、わざわざロドスから専門家を招いて手伝ってもらったの!
つまり、理論上はイェラグ内にいる限り、通信が繋がらないなんてことは起きないはずなのよ。
たった一つ……特別な場所を除いてね。
特別な場所ですか……?
……
ふっふーん、わからないでしょ? それはね――
もしかして、列車の個室内ですか?
……
……
(あっ、言わないほうがよかったかも……)
フンッ……そう、正解よ!
特別な場所っていうのは、まさに列車の個室のこと! それも、カランド麓から銀心湖へ向かうあの専用車の個室に違いないわ!
あの列車はあたしたちがヴィクトリアに特注したもので、あれより後に導入された列車はすべて、特注車両を模倣……じゃなくてモデルにして、自分たちで開発してるの。
オリジナルの列車には、個室の壁に外部干渉を遮断する素材が埋め込まれてるから、信号の送受信ももちろん遮断されるわけ。
だけど、ほかの列車にはそういう機能は残さなかったのよ。理由は……えーっと、そうすれば製造コストを抑えられるからなんだけど……
そうだったのですか!
つまり、くだんのお客様がイェラグに到達していることは確認済みである以上、今通信が繋がらないことを思うと、その方はあの列車の個室にいる――と判断なさったわけですね!
さすがスキウース様、列車のことにもこれほど深い見識をお持ちだなんて!
こほん! とにかく!
今のイェラグは数年前とは違うのよ。
聞きなさい、メンヒ。この数年あなたがどこへ行ってたのかは聞かないし、前のことだって追及する気はないし、どうしてノーシスの所へ戻らないのかを聞くつもりもないけど――
あたしの部下になりたいのなら、さっさと今のイェラグに慣れることよ!
それと、あたしのことも三年前と同じだとは思わないように。いいわね?
……はい!
頑張ります!
よろしい!
あら? どうして外に人がたくさん集まってるの?
って、あそこにいる人たち……!
下がれ! 下がっていろ!
全員、近付くな!
なっ……どういうつもり!?
あなたたち、イェラガンドの御許で何をする気なの? 今日の式典を台無しにするなんて許されないことよ!
……ジャック?
ジャックじゃないか……これはどういうことなんだ!?
……
ま、まさかまた皆で飲みすぎたのか?
それならわしの言うことを聞いてくれ。今日は悪ふざけをして良い日ではないんだ! 早くほかの連中にも伝えて――
もういい!
それ以上近付けば、軍令によりその場で射殺する!
ひぃっ!
……
そうか。お前たちがわしらのイェラグにやってきた時は、きっとよからぬ考えあってのことだろうと言う者もいて……
その時のわしは、そんな言葉を信じずに、お前たちを庇っていたものだった。
だが、どうやら間違っていたのはわしのほうらしいな。これが……式典をぶち壊しにして、わしらを傷つけることが、お前たちの本当の目的だったのか?
……
イェラガンドはお前たちをお赦しにはならん。
必ず報いを受けることになるぞ!
……ハッ。好きにしろ。
どのみち、俺たちはとうに報いを受けてるんだ。
――!
あれはヴィクトリア軍ですね。何か様子が変です。制式装備をしている上に武器まで携帯しています……!
外で何か起きたに違いありません!
スキウース様、まずはお隠れに――
黒髪の少女は咄嗟に手を伸ばし、自らの主を守ろうとした。
だが、彼女が言い終えるよりも早く、スキウースが物陰へ自分諸共メンヒを押し込んで、素早く彼女の口を押さえて駅の隅へと寄っていく。
(小声)シッ!
(小声)静かにして。まずは隠れるわよ!
(小声)あいつら……式典に参列するだけだとか言ってたけど、ようやく尻尾を出したわね。フンッ……
(小声)どうやら大きく出てきたみたい。
(小声)……ラタトスのほうは大丈夫かしら。
(小声)あちらにはチェゲッタの小隊がついておりますし、カランド貿易のデーゲンブレヒャーもいますから、恐らく当分は問題ないかと。
(小声)ん……それもそうね。
(小声)ユカタンがいれば、ラタトスを守ってくれるでしょうし。
……
(小声)では、私はまずスキウース様を安全な場所までお送りし、その後ユカタン様の支援に向かいます。
(小声)……いいえ。あたしはまだ、ここで奴らを見張っておかないと。そうすれば、何か起きてもすぐに止めに入れるでしょ。
(小声)安心しなさい、あたしは大丈夫よ。あいつらの前に出たところで、あたしはヴィクトリアと多くの提携を結んでいる立場だから向こうも迂闊に手は出せないわ。
(小声)スキウース様……
(小声)何よその顔! さっき言ったわよね、あたしのことも三年前と同じだとは思うなって!
(小声)それより、あなたにお願いしたいことがあるんだけど。
(小声)……はい! 何なりと!
(小声)あのエンシオディスがヴィクトリアの連中に対して何の警戒もしてないはずがないわよね。それなのにこんな騒ぎが起きたってことは、あいつが手配した人員に何か起きたとしか思えないわ。
(小声)だから、向こうの状況について調べてきてちょうだい。上手くすれば、シルバーアッシュ家に貸しを作れるかもしれないし。
(小声)承知いたしました。
……
(小声)どうかした?
(小声)スキウース様……
(小声)本当に、成長なさいましたね。
(小声)な、何言ってるのよ!
(小声)あたしより年下のくせに、お姉さんぶらないで! むしろあなたのほうこそ、あたしをお姉さんって呼ぶべきなくらいなんだからね!
(小声)そうお呼びしてよろしいのですか?
(小声)そっ……それは……またあとでにしなさい!
(小声)ほら、さっさと行って!
(小声)はい!
デーゲンブレヒャーは時折、十年前のことを思い出す。
あの時、彼女は冬の間ずっとエンシオディスについて、イェラグ各地を歩いて回っていた。
帰国したばかりの頃、若かりし彼は今ほどの手腕を得ておらず、青臭い面も残っており、自ら多くをこなしながら奔走していた。
そんな姿は熱血であるとも、野心家であるとも言えたものだ。
デーゲンブレヒャーは、今もあの冬を覚えている。エンシオディスがヴィクトリアで練り上げた計画すべてを祖国に持ち帰り、カランド貿易という会社を一人で立ち上げたあの冬を。
当時腹心と呼べる者は数える程度しかおらず、かろうじてそこに彼女も含まれていた。
そうして彼女は、この寒く冷たい雪国に留まることとなったのだ。
デーゲンブレヒャーにとって、寒さなどはとうに何の影響ももたらさないものでこそあったが、実を言うと彼女は、冷たい気候は好きではない。
カジミエーシュの冬は寒かった。
あの地にいた当時、彼女は冬になると騎士競技の試合を断ることが多く、商業連合会はそこに不満を抱えていた。しかし、彼らの機嫌などは彼女の考慮には入らなかった。
さらに幼い頃にいた、リターニアの冬も寒かった。
イェラグの寒さというものは――リターニアやカジミエーシュのそれよりも厳しいものだろうか?
デーゲンブレヒャーが湖面を踏めば、足元には氷の花が咲いた。
昔のことでも考えているのか?
思えば、ヴィクトリアからイェラグへ戻ったあの時も、こうして銀心湖を歩いたな。
……
だがあの時は、大雪で道が塞がれていたからそうしたのだった。
当時は鉄道も、除雪用の設備も、悪天候に対応できる専用車両もここにはなく、それどころか平坦な道さえほとんどなかった。
雪は深く、カランド貿易は事業を開始したばかりで、商品が足止めを食い、貿易ルートは停滞し、ほとんど麻痺状態に陥っていた……
最後には、お前がレオン爺さんを手伝って駄獣に品物を背負わせ、この銀心湖を渡ってどうにか危機を乗り越えたのだったな。
今日はやけにお喋りね、エンシオディス。
あなたも式典では、厳かに振舞うものと思っていたわ。こんなところで昔話をするんじゃなくてね。
すまない。
予期せぬ出来事というのは、記憶に残り続けるものだ。ゆえに、ふとした瞬間に思い出さずにはいられない。
まさか強大な黒騎士が、駄獣の扱いまでお手の物だとは思わなかったものでな。
エンシオディス。
何だ?
私がどうして駄獣を上手く扱えるのか、知りたいのならそう言いなさい。
……
昔習ったことがあるの。
リターニアで、か?
リターニアで、よ。
機会があれば連れて行ってあげてもいいけど。
特段良い場所でもないし、あまり期待しないでね。
イェラグと比べてどんな場所だ?
比べようもないわ。
イェラグの寒さも、あの場所には及ばないしね。
お前がそうも主観的な評価を下すのは初めて聞いた。
……黙ってなさい。
ほら、着いたわよ。
皆様、こちらへ。
イェラガンドがお見守りくださる中、まもなく式典が始まります。
では、共に祈りを――
……どうやら、せっかちなお客さんたちが待ちきれなくなっちゃったみたいね。
騒いでいるのは誰だ?
(チッ、まったく面倒だな!)
ユカタン! あんたの嫁さんは何やってんだ!?
先ほど連絡を入れました。すぐに来ると――
来てどうするんだこんな時に!
今すぐもう一度連絡を取りな。できるだけ離れてろ、こっちには近付くなってね!
何事だ!? こうも騒ぐとは、なんたる体たらくだ!
旦那! あのヴィクトリア人ども、いつもと様子が違いますぜ!
大型の武器を持ち出して、見るからにマジになってます!
あの連中が大人しくしていられんだろうことくらい、わかりきっていたことだ!
来るなら来い! ペイルロッシュの者たちには、備えておくよう伝えてあるんだ。俺たちが奴らの相手をしてやる!
アークトス様! 軽率な行動はおやめください!
ですが……巫女様!
巫女様! エンシオディス様!
参列予定だったヴィクトリアの部隊が、警備中の護衛隊を突破しこちらへ接近しています!
まずは小隊をいくつか派遣し、周囲の民間人に被害が及ばぬよう努めてください!
はっ!
向こうが動き始めたわ。隊列を組んで向かってくるわね。
率いているのはあの子爵よ。
どうする?
ヴァイスとマッターホルンは?
昨夜以降、何の報せも受けていない。
本来なら、彼らがヴィクトリア軍の動向を監視しているはずだ。これほど大規模な動きとなれば、今に至るまで情報が入らないはずもない。
……あの二人が、連絡の取れる状態であればの話だが。
クレイガボン子爵は油断ならない相手だな。
彼のことは十分に重んじていたつもりだが、向こうの心を動かすには至らなかったらしい。
感慨にふけっている場合ではないぞ、エンシオディス。
彼らは堂々と敵対姿勢を見せてきているのだから。
相手はヴィクトリアの正規軍だ。本気で攻撃をするつもりがあればドローンによる爆撃を行うなり、群衆に術師を紛れ込ませるなりしたほうが効果的なのはわかりきっている。
つまり、これは依然「警告」であり、「武力行使」ではない。
ではどうする?
彼らに式典を台無しにさせるわけにはいかない。
そうなれば、蔓珠院と三大名家の名声は地に落ちるだろう。それのみならず、イェラグの民心も、イェラグが置かれる対外的な立場も大きく動き……我々全員が窮地に追い込まれる。
難しい状況だな。
ああ。
そうは言いながら、君はほかのことを気にしているようだが。
――我々はヴィクトリアと事を構える必要はない。ただ次の賓客を……賓客たちを待てばいい。
だが、今は彼らをこれ以上イェラガンド像に近付かせるわけにはいかないな。
そうは言っても、彼らはそこまで迫っているぞ。
私が止めてくるわ。
冗談だろう。
相手は二千人の軍隊だ。君一人でどう対処する?
あの人たちの相手をするくらい、あなたを始末するよりは簡単なことよ。
強がりを言ってる場合か!
エンシオディスが持っている無数のプランの中で、私がどういう立ち位置にいるかなんてわかってるでしょう?
……はぁ。君は早死にしそうだな。
私を死なせたくないのなら、もっと必死で頑張ってちょうだい。
デーゲンブレヒャー。リスクを承知した上での申し出だろうが――
こちらの手はずが整うまで、彼らを引き留めてもらいたい。
その間、カランド貿易――いや、「イェラグ」はお前にいかなる支援をもしてやれなくなる。これは完全に黒騎士による個人的な行動とみなされるからだ。
頼めるか?
フッ。これが初めてでもあるまいし。
あなたたちはここで待ってなさい。
……
不満を口にしたければそうしてくれ、ノーシス。
……君たちが合意の上で決めたことだからな。無駄口を叩くつもりはない。
彼女であれば、少なくともしばらくはヴィクトリア軍を抑えておけるだろう。私は今すぐ、ヴァイスとマッターホルン、そして「賓客たち」の迎えを手配してくる。
彼らが早くに到着すればするほど、事態解決は容易になるからな。
任せた。
この件はすぐに広まることだろう。今はひとまず気を引き締め、この機に乗じて牙をむく獣どもに対処しなくては。
さあ、彼らの到着だ。
止まれ! 全員集合!
その場で整列!
はっ!
……すごい霧だな。
何か妙だ。チェゲッタどもはまだ動いてこないのか? このまま取り囲んで見てるだけ、なんてことはないはずだろう。
確かにこっちは不意を突いたが、まさか本気で抵抗しないつもりなのか?
彼らを侮るな。シルバーアッシュ家の当主は聡明な男だ。
はぁ……ヴィクトリアと戦争になるわけにいかないイェラグとしては我々に手を出せないが、一方こちらはこの地で好きなように行動することができる。外交というのは、所詮そういうものなんだ。
この状況で向こうにまだ奥の手があるとは思えんがなあ。
少し試せばわかることだ。
――前進せよ! なおも巫女とシルバーアッシュ家からの反応が見られなければ、当初の計画通りイェラガンド像への砲撃準備を開始しろ!
了解。
ん?
待て、向こうから何か動きがあるぞ!
……いや、違う……
向かってくるのは……たった一人か?
……黒騎士だ。当然、彼女しかいないだろう。
こうなるかもしれないとは思っていたが……
実際にこの光景を見ると、やはり気持ちが高ぶってくるな。
あれぞ一騎当千と言うべきか。いやはや、まさしく騎士小説の一幕さながらだ。
……バカ言うな。
軍隊を相手に一人で対抗できるわけねぇだろ。不死隊だろうと、銀槍のペガサスだろうと、魔族の王庭だろうと無理な話だ。
俺たちが身をもって経験してきたようにな。
もちろんわかっているさ。「我々を殺すことはできても、その全員を殺すことはできない」。
だが、我々にとってもその代償はタダじゃないんだ。
軍隊というのは、新たな血肉を絶えず補充し続けることで動くもの――だが、今となっては、私たちに残されているのは老いたる仲間たちだけだ。
そして我々は、間もなくその代償を支払いきれなくなるだろう。
リスバーン、お前も知っての通り――
私はドケチなんでね。
だから支払いのたびに惜しくなる。それを思うと、夜も眠れなくなるほどに。
……俺たちは軍人だ。選択肢なんざねえ。
そうだな。ヴィクトリアのために。
伝令を。全小隊、その場で直ちに戦闘準備!
私が先陣を切り、名高き黒騎士に相まみえるとしよう。彼女の一番のファンとしてな!
了解!
なあ、ハロルド。お前を止める気はねえが、一つ聞いておきたい。
大好きな黒騎士と競技場に立つご気分は?
良いとは言えないな。
若い頃、公爵様のパーティーで人に騙されて、割る前の酒を飲んだことがあるが、あれと同じ気分だよ。
苦く、喉は焼けるようで、吐き気がする。
頭がくらくらしてくるが、ほんの少しだけ……興奮しているよ。
ハロルド・クレイガボンはイェラグの果てなき風雪に目を向ける。
左右を見渡せば、銀心湖の氷上には霜が降り、霧が漂い、さらに遠くのイェラガンド像の顔はぼやけてはっきりとは見えなかった。
足元から延々と立ち上る冷気は、氷雪の不思議な空間に迷い込んだかのような錯覚をもたらして、凍った湖面はまるでアイシングされた巨大な菓子のようにも思えた。
この現実味のない幻じみた光景の中で、場違いなほどの気迫を帯びた彼らの前に――
一つの影がかすかに浮かび上がる。
影は、一歩一歩氷雪を踏んで近付いてきた。その一歩ごとに、何千もの人間の足をすくませる力があるかのようだ。
そこまでよ。
ここから先は立ち入り禁止。
式典を見たいというのなら、ここで私と一緒に見ましょう。
貴方からそのようにお誘いをいただけるとは、なんたる光栄!
私個人の感情としても礼儀としても、ご厚意を有難く頂戴したいところなのですが……
公爵様はイェラグのビジネスパートナーとして、この国の発展に強く関心をお寄せでして。我々は誠意を示すべく、必ずやイェラガンドのご足下まで向かうよう仰せつかっているのです。
へえ、関心を?
完全武装で大砲まで持ち出すような「関心」なんて、珍しいものを見られたものね。
なにぶん差し迫った状況ですので、なにとぞご容赦くださいませ。
実はこの頃、反社会的勢力がイェラガンド像建設の名目で、イェラグ内に禁制品を輸送しているようなのです。
我々が入手した情報によれば、その拠点というのが、まさしく聖像の足元にあるのですよ。
公爵様はこの件を大層憂慮しておられます。報告を受けた途端、部下を連れて調査を行うようにと私にお命じになられたくらいに。
……
ナンセンスね。
ですが、公爵様のご意向とあらば無下にはできません。
何しろ、この像の下に危険な勢力など隠れていない、と断言できる人などいないのですから。
万が一、巫女様とエンシオディス様の身に何かあれば、その時点で手遅れになってしまいます。
そんな事態は誰にとっても見たくないものであるはずです。そうですよね、デーゲンブレヒャー殿。
今の話は、私とは無関係よ。
もちろん、あなたたちともね。
イェラグ人は、自分たちの問題くらい自分たちで対処してるの。他人にあれこれ指図してもらう必要はないわ。
はぁ……
ならば仕方がないですね。大変遺憾ではございますが、私にも職務というものがありますので。
ところで、先ほどから非常に興味深く思っているのですが、貴方がこれほど辛抱強く私とお話してくださるのは……
よもや時間稼ぎが目的ではありますまいな?
……
あなただってペラペラ喋ってるじゃない。
はっはっは、この歳になるとお喋りが過ぎていけませんな。
ですが、デーゲンブレヒャー殿。
私の知り及ぶ限りでは、貴方はこうした無意味なお喋りなどお好きでなかったはずですが。
……チッ。
これだから頭が良い上に口まで達者な人は嫌いなのよ。
彼女はそれ以上言葉を重ねようとはせず、ゆっくりと鐧を抜いた。
金属の擦れ合う耳障りな音がして、最後に氷が打ち据えられる。その音を聞けば誰もが戦慄し、震えを抑えきれなくなった。
相手が気付いている以上、これ以上話したところで無駄なことだ。
やっぱりこのほうが性に合ってるわ。
もう一度言っておきましょう。
ここから先は立ち入り禁止よ。
――誰一人、通ろうとは思わないことね。