懐黍離 HS-3・戦闘後
早芒種
……
ジー。
なるほど。貴方が……ズオ公子ですね。
初めてお会いするというのに、何の用意もなく。とんだご無礼を。
私を知っているのですか……?
(奇怪な長い鳴き声)
ズオ・ラウは身に染み付いた動きで普段腰に提げている剣へと手を伸ばしたが、指に触れたのは農業装置を操作する天師儀だった。
この些細な動作は、男の目から逃れられなかったようで、彼は口元に笑みを浮かべる。
警戒される必要はありません。ただの無害な小物です。
「因を紡ぎ果を織り、虚を裁ち実と為す」……これらは、あなたが生み出したものですか?
ただの暇つぶしです。
(奇怪ないななき)
男が軽く手を振ると、奇妙な織物はたちどころに解けて細い線と化し、そのまま跡形もなく消えた。
あなたたち巨獣の代理人の能力を、理解できる日は来ない気がします。
つまらぬ糸遊びです、役に立つ場面は多くありません。
洪水による災害の後は、続けて虫害や病害が襲いくるもの。目に見えず触れられぬ災害に立ち向かうのは難しいですが、具体的なものに編み上げ、それから滅すれば随分と楽になります。
私がこのようなことをしているのを姉に見られれば、「天に逆らう行い」と責められてしまうでしょうけどね。
あなたは、もとよりここにいるべきでない人です。
ここは一応、私が幼い頃に住んだ地でもあります。長年訪れていなかったので、少し恋しく思ったのです。
あなたたちのような存在にも、「幼い頃」という概念があったのですね。
寿命の長短に関係なく、人には無知蒙昧な時期があります。その時に見る目新しい物事というのも、往々にしてより、印象深く記憶に刻まれます。
ずっとそばにいた人に対しても、他より少しばかり気がかりになるものです。
あなたたち兄弟姉妹が顔を合わせるのは、尋常ならざることですから、事前に司歳台に通達すべきです。
朝廷の補給車列が天災で立ち往生してしまいましてね。私はあの老いた天師から知らせを受け、直ちに自腹を切ってこの緊急物資を届けに来たのですよ。
こちらに戻ってからも、せわしなく姉に一目会っただけです。二人の妹に至っては顔を合わせてすらいません。その言い様、司歳台は少しばかり「人」情に欠けるのでは?
あなたは司歳台の名簿の中でも、厳重に警戒する必要のある方ですから。
たとえここ数年、一度も課せられた規則に反したことがなかったとしても?
それは、あなたが決めることではありません。
そう仰るのであれば、ズオ公子も、今は持燭人の制服を着ておられないのでは?
目の前の男は笑った。穏やかで、礼儀正しく、とても落ち着いた佇まいだ。
しかしズオ・ラウは寒気を感じずにはいられなかった。
実はズオ公子のご芳名はかねがね伺っておりました。本日ようやくお目にかかることができたのも何かの縁でしょう。これを機に、是非仲良くしていただきたいものです。
……社交辞令は不要です。
数年前百灶に滞在していた時、多くの名家の子弟と面識を得る機会がありましてね。文章や学才に関して言えば、才知優れる若者と言える者はたくさんいました。
ですがズオ公子のように、自ら実直に事を行おうとする者は、学宮の名簿を一人一人数えたところでいくらもいないでしょう。
……
昨年十一月、琅珆の山海衆が徒党を組み悪事を働いた際、ズオ公子は危険を冒して、単独で匪賊の巣窟に乗り込み、閉じ込められた数十名の罪なき民草を救いましたね。
今年の二月も、あの特殊な酒杯を追うために、無数の危険が潜んだ道を行くことを選び取った。
事情を知らぬ部外者は、ズオ公子が年若くして要職に任ぜられたのは親の七光りだとばかり言いますが、持燭人の任務がどれほど危険かなど想像もつかないでしょうね?
ズオ公子のこれまでの努力、それがまさかたった一度の過ちで全てが否定されるというのですか?
なぜそれを……あなたが知るはずがありません。
商売人とは、市場を把握するため、方々に耳を澄ませるものです。そこで聞こえてきたものが、商品として売れることもたまにあります。商いが成立するかは、お客さんがいくら出す気があるか次第ですよ。
また、どのようなお客さんが、どのような情報にいくら支払う気があるのかも知る必要があります。
例えば、私は大荒城の北の川の対岸には何が隠されているか知っています。ニェンがここで作っているものが、一体何に使われるのかも理解しています。
そして、玉門が天災に見舞われた一件について、貴方がより高位の者による仕業ではないかと疑っていながらも、なかなか手がかりをつかめずにいることも知っています。違いましたか?
……
あなたが慎重に事を行う方で、一分の隙もないことは私も知っています。
ですが司歳台も木偶ではありません。僅かな手がかりがあれば、必ずや徹底的に調べ上げるでしょう。
謹んで申し上げますが、規定から外れた行為には及ばぬようにしてください。
ズオ公子、それは友人としてのアドバイスですか?
司歳台の持燭人としての忠告です。
どうやらズオ公子は考えすぎておられるようですね……全炎国最精鋭の天師がことごとく大荒城北部の天機閣に詰めているのです。私一人でどんな波風を立てられましょうか?
私よりも、今この瞬間にも川の対岸で蠢くものを心配すべきでしょう。
……どういうことですか?
ズオ公子は、どうやらここ三ヶ月、天機閣ではどれだけの天師が亡くなったのかをご存じないと見受けられますね?
――!
戯言で私を惑わせると思わない事です……
商人は信用が基本です。私は決して嘘は言いません。もしも信じられないとお思いなら、調査してみてはいかがでしょう。
そしてもう一度よくお考えになってください、自分は何をしたいのかを。それから、私と取引をするかどうかを決めてください。
何もかもがいつもと同じ。
風の音はひっそりとしている。
牧獣が下を向いて草を食べている。
少女は辺りを見渡す。
めんめんもおバカな牧獣なんだから。勝手にどっか行っちゃダメっていつも言ってるのに、全然覚えられないし。
シャオホーもおバカな牧獣だよ……吹いてあげた曲すら覚えてないんだから。もうバカバカ! 二度と一緒に遊んであげないもん!
大きな葉が空が見えないほど幾重にも重なり、風が稲の清々しい香りを運んできた。
土は湿っている。少女は歩きづらそうに地面を踏み、空を遮る葉を押しのけながら前へと歩んだ。
めんめん――おうちに帰るよ――
めんめん! どうしてまた勝手に出てきたの? 早くおうちに戻りなさい、でないとあたしが怒られちゃうんだから!
そよ風が吹いている。牧獣の目はしっとりと濡れていて、大きな瞳孔は真っ黒で、空を、雲を、稲田を映していた。
シャオマンは牧獣の目に映る自分の姿を見た。
ここを出て行くよ。
……え?
もう草は食べたくないんだ。
何言ってるの……?
もしかして……シャオホーがまた変な飼料でも作ったの?
今すぐご飯を改善してって言っとくね!
ここは、怖い。
残ったら、死んじゃう。
ボクたちと一緒に行く?
この前の洪水のこと言ってるの?
怖がらなくていいよ。洪水はもう終わったから。もっと頑丈なおうちを建ててあげるし、どんなに大きな天災が来ても怖くないよ。あたしが守ってあげる!
違う。
川の向こうから、アレが来るんだ。
足元を見て。
あたしの足元が……どうしたの……?
シャオマンは牧獣の目に逆さに映った自分を見た。
そよ風が吹いている。牧獣の目はしっとりと濡れていて、大きな瞳孔は真っ黒で、空を、雲を、稲田を映していた。
少女は辺りを見渡す。
牧獣が下を向いて草を食べている。
風の音はひっそりとしている。
何もかもがいつもと同じ。
……
ワンおじさん、何してるんですか?
木を移してるんだ。
この桃の木は元気に育ってるじゃないですか。どうして突然? 前のあの土木天師たちは?
手伝ってくれ、この土を脇にやるんだ……天師たちは工場に戻ったよ。もう少ししたら、車で材料を運びに来るだろうな。
みんな分かってるんだ。ここらの土地はもう守り切れないと。ここには残れないんだ。
……
シャオホー、お前は普段からみんなと仲が良くて、天師府の学生でもある。この土地で一体どんな問題が起きたのか、はっきり教えてくれないか?
僕にも……分かりません……
……ふん。
想像はつくさ。お偉いさんたちからすれば、どんな狭い土地ですら金次第なんだろ。移動区画に変えるにはどれだけ費用がかかって、どれだけ儲けられるかって話だ。
ここは俺たちの家なんだぞ! 先祖代々ここに住んできたんだ!
口を開きゃ長年耕してきたこの場所を見捨てろって、そんなの無理に決まってんだろ!
ここは……僕の家でもあります……
ワンおじさん、約束します。どんな問題が起きたのかはっきりさせて、この地を守る方法を僕が見つけ出します……
お前の約束が何になるっていうんだよ。あいつらは移動都市を建設する時、この田んぼも移動させるって約束したんだぞ。
ふんっ、もういいさ。田んぼを潰すなら潰しちまえ。天災にダメにされたとでも思うさ。ただこの木は抜いていく。
この木は俺の爺ちゃんの婆ちゃんがここに植えたんだ……移動都市に住んでる人が「家」は移動できると思ってんなら、この木が俺の家だ。これも持っていく。
手伝います……
農夫が桃の木を肩に担ぐ。残された足跡は深く土に刻まれている。彼が背負っているのは、自分の故郷だ。
ホーシェンはずっしりと重い桃の木を支えながら、中枢区画の方を見た。
……
……
木こりの目は下を向き、少しうつろだ。
彼は長く沈黙し、ついに口を開いた。
探し物か?
おじちゃん、話せたの?
何しに来た?
飼ってた牧獣がいなくなっちゃって、ついさっき見かけたから、連れて帰ろうとしてたんだ。
牧獣など、どこにいる?
ここにいるでしょ――
少女は手を伸ばし、傍らを指でさした。
足元の水面は、逆さになった彼女の姿を、雲を、空を、映し出している。
わらは隙間なく並んでいたが、動物の足跡はどこにもなかった。
少女は力強く目をしばたたかせる。
……さっきまでここにいたのに。
……
来い。
牧獣の所に連れて行ってやる。
ズオ公子、おかけください。
……ニン侍郎。
こんな偶然があるとは思いませんでした。
尚蜀に始まり玉門に、さらには大荒城ですか。ズオ公子が持燭人として卓越した仕事をされているからこそ、大任を任されているのでしょうね。
ニン侍郎、何かご意見でも?
まさか。
官職を纏って相まみえるのであれば、このような場所に呼び立てはしません……一つ、このような形でしか公子に頼めないことがあります。
歳獣の代理人に関することですか?
十二楼五城の建設は炎国の極めて重要なプロジェクトです。このような時に一つの都市に四名の代理人が集まることは、厄介だと言わざるを得ません。
この隙に面倒事を起こそうという輩がいた場合、どうなるかは想像に難くないでしょう。
つまり、ニン侍郎は隙を見て面倒事を起こそうとする者に、すでに心当たりがあると?
大荒城の建設が再開された件、ズオ公子のお耳には入りましたか?
あの商人が補給物資を運んできたとか……この件に彼が干渉すべきではありません。
私が知るのは、彼は戻ってから工部のワン侍郎と一度面会したということだけです――ズオ公子はワン侍郎について何か印象はありますか?
確か……ここ数年、彼はずっと大荒城の移動区画建設の責を担っていました。数ヶ月前、都合をつけて玉門城の復旧作業にも出向いていました……
ジーは、一体何がしたいのでしょうか?
記録によると、ジーとシュウの二人は仲が良く、千年前、共に大荒城で耕作をしていたとあります。しかしほどなくして、ジーは大荒城を離れ、商売を始めました。
彼は数十年ごとに大荒城に戻っています。前回戻ってきたのは、すでに六十年前の出来事です。
そこまで仔細に内容を覚えていらっしゃるのですね……彼が大荒城に不利益をもたらすと思われているのですか?
それに答えるにはまず、彼が大荒城に戻ってきた目的を明らかにする必要があります。これも私がズオ公子に頼みたいことです。
歳獣への対応について、礼部と司歳台はかねてより折り合いがついていない状態ですが、ニン侍郎は私に頼みごとをするのですね。
ではズオ公子自身は、どのような立場に立たれているのですか?
持燭人として、当然下命に従い行動します……
公子は良い剣になりたいという一念でいらっしゃる。
そうであれば、たとえ目標を誤って斬りつけても、責任はその剣にありません。
私は、責任をなすりつけようなどと考えたことはありません――
ではズオ公子はこれまでに、司歳台が一体なぜ強硬手段をとってでも「歳」を取り除くことを強く主張しているのか考えたことはありますか?
もしいつか、玉門が都に赴き、二つの都市と巨獣が共に砲火の中で跡形もなく消えるようなことがあった時……
寄る辺を失った民草、そして戦死した将士は、本当にただ「他に選択肢がなかった」と言う言葉だけで納得しないといけないのでしょうか?
本当に、他の方法はないのでしょうか?
……
ではニンさんはどのような立場から私にこの件を任せるのでしょうか?
官界における取引とは全く関係なく、ただ炎国の、そして蒼生の利益を図る者としてお願いをしています。
「光明磊落」、ズオ公子の心にはすでに答えがあるはずですよ。
男は静かに流れる川を指さした。水面は鏡のようになめらかで、川の水が固まってしまったのかと思わせるほどだ。
水面は空の雲を映し、少女の顔も映っている。
牧獣は、中だ。
川の中?
探したいなら、下りろ。
そう……
分かった。
下りればいいんだね。見つけておうちに連れて帰るよ。
川筋からは激しい水音が聞こえ、空気が逆巻くように流れている。
少女は前に一歩踏み出した。
戻って来て! 死ぬわよ!
目の焦点が合っていない木こりは、突然持っていた斧を高く掲げたが、また力なく腕を垂らした。
祖師、行かせてくれ! 彼女を救いに行かせてくれ!
対処法はわかってる。彼女はまだ深くまでは嵌っていない。行かせてくれ、俺なら救える!
祖師! やめろ! 彼女はまだ助かる!!
祖師――!
近づきすぎれば死ぬよ。彼女はもう助からない、もう救えないの。
連れて帰るよ。帰ってお墓を建ててあげるの。
この間抜け! どこへ行く気?
……
ん?
……牧獣が下にいる、おじちゃんが教えてくれたから。今連れて帰ろうとしてたんだよ。
何よ。あんたの方こそまるで牧獣みたいよ!
……
…………
今悪口言った!?
言ったけど!? 下にいるって何!? 寝ぼけて目がおかしくなったの?
この、メガホン――
バシッ!
大きな泥の塊がシャオマンの頭を直撃し、川の堤防から掴み取った土砂が彼女の顔中を覆った。
うわっ!
……ペペペ!!
視線は思いのほか遮られることなく、彼女は目の前のものがはっきりと見えた。
どういうこと!
シャオマンは慌てて顔の泥を払い落そうとしたが、湿った泥の中にある二粒の硬いものが彼女の顔に引っ付いている。
どうして顔に……お米が二粒?
おじちゃん……
無口なおじちゃんは?
どこのおじちゃんよ? あんたが一人で豆粒みたいな目をして水に飛び込もうとしてるのが遠くから見えたのよ。頭がおかしくなったの?
さっさとそのお米を捨てなさい!
シャオマンは川の水で顔の泥を洗い流した。
口の悪い子供は振り返るも、ダムの向こうの林には誰もいない。しかし彼女は林の奥深くを見やり、微かに頷くのだった。
ガサガサという足音が遠ざかり、林の奥深くへと帰って行った。
朱色の印が押された書簡が机の一番目立つ位置に静かに置かれている。まるで、家の主人がいつ帰ってきて、どのような気持ちでそれを読むのか知っているかのように。
……私と顔を合わせて話したくないのかしら。
口では私を信じているとは言ってるけど、本当に、腰を落ち着けて話す機会は残っているの?