懐黍離 HS-8・戦闘前
植因
日差しも届かぬ暗闇。
どれほどの深さなのか、わずかな日差しもなく、天井の重みを感じられるほどに空気が重い。
ここは陵墓だ。
どんな状況だ……アタシは戻ってきたのか?
おい、老いぼれ、生きてるか? 会いに来てやったぞ。
(かすれた雄たけび)
目の前には重厚な扉があり、声は扉の向こうから聞こえてくる。
これだけ長い間寝てたってのに、気性の荒さはちっとも変わんねーな……
ビビらそうとイキってんじゃねーよ。ずっと横たわってたくせに、まだ何か力が残ってるってのか?
ふぅ……
何も怖いことなんかねー……よな。
尚蜀?
どの山だ、なんで標識すらねーんだ……いや、今は何年だ?
道の両側の家を見るに、移動区画ではないようだな……私が尚蜀に来たばっかの時みたいじゃねーか?
カン――カン――
ある者が切り立った崖に紐でぶら下がり、槌と鑿(のみ)で壁に文字を彫っている。
おーい――山の上の兄ちゃん、何してるんだ?
私が誰か知らないのか!?
どうして知る必要があんだよ?
この尚蜀城は、私の設計で建てられたのだぞ!
お、すげーすげー。
天災がもうすぐやってくるんだ。人々はみんな避難した。だが私が建てた家々がこの天災で滅びようとしていること――
それが悔しいのだ!
なになに、靖炎五年、我尚蜀に至って三十年……『尚蜀城記』?
この都市を建設した過程をこの崖に刻み、後世の民たちが私の功績を忘れないようにするのだ!
けどすぐに天災がやってくるんだろ。たとえ命を惜しまず刻んだとこで、雷が落ちたらこの山が無事でいられるとは限らないだろ。そうなりゃ無駄な努力になっちまうじゃねーのか?
そんなに構っていられない、私にはこの方法しかないのだ。私の行いを知る者がいないのなら、死んだ方がマシだ!
またとんでもねぇ奴がいたもんだ……まあいい、なら、せいぜい頑張ってくれ。私はもう邪魔しねーからよ。
なあ、山のこの道はどこに繋がってんだ?
さあな。
オメーか……
先生に剣を一振り賜いたいのです。
剣を欲して、何に使うんだよ?
人を助け、仇を討ちます。
言っただろ、私の打つ剣は高いんだ。何と交換するつもりだ?
私の命です。
またかよ……
……もう断っただろ。
……
あの時、鉄くずを渡してオメーを追い払ったこと、恨んでるか?
……ただの幻影相手に、私は一体何言ってんだ。
ですが、先生は私のことを覚えてくださっていたのですね。
映画の脚本の元となった話が気に掛かってるだけだ……思わず考えちまうんだよ、もし当時本当にオメーに良い一振りを渡してたら、物語の結末は何か変わってたんじゃねーかって。
先生のような見事な腕前で、広く沢山の物事を見てきた方が、私のような無名の輩になぜ哀れみの情など抱かれるのでしょう?
たかだか人一人の命など、先生にとっては全く無価値なものであるのに。
そこまででもねーよ。お前たち人間のことは、結構好きだしな。
先生の目に映る私たちは、劇の登場人物と何ら変わりありません。
先生の気まぐれな行いが、この劇にまたとないシーンを添え、無数の人の運命を変えることができます。興味が湧けば、先生はそこに加わり、何節か歌おうとも思っています。
しかし劇で何が起ころうと、ただ唯一先生だけがその中にはいないのです。
先生は常に孤独です。
ったく、走馬灯なんてもんが自分の身にも起こるとはな……
もういい。この剣は真面目に打ったもんだ、持ってけ。
見せてくれよ、物語の結末に変化があるのか。
先生、ある少年から、今年の冬至までに、必ずやこの包みをあなたに渡すよう頼まれてのう。
アイツは自分で会いに来る度胸がないってのか?
あの子は恐らくもう、死んでおるじゃろうて……
包みは空だ。
……
これは……?
先生、お待ちしておりました。
私を?
一つ理解できないことがございまして、先生に教えを賜りたいのです。
言ってみなさい。
先生、今日私が着想を得ようと郊外へ向かうと、川辺に住む一羽の奇妙な羽獣を見ました。
あれほど美しい羽獣は見たことがなく……紙と筆を取り出し絵を描こうとしたまさにその時に、羽獣は羽ばたき、消えてしまったのです。
その後に記憶を頼りに描こうとしても、なにをしても描けないのです。
能力の及ばない事だってことよ。やり過ごしてしまえばいいのよ。
他者にしてみれば、やり過ごせばよいことかもしれません。しかし私はいまだ画師を名乗っているのです……画師ならば、何かを残したいと思うものです。
ここ数年来、多くのものを描いてきました。多くを描き、多くの風景を見てこそ、この生涯に顔向けができると思っておりました。
しかし私は、ついにある道理に至りました……絵とは、結局は死物なのです。
というと?
今この瞬間描いた風景は、次の瞬間には消え去るのです。多くを描くほどに、自らの絵が取るに足らぬと感じます。
それは当然でしょう?
人の生は百年にも満たない。この大地を全て見たいと思うのは過ぎた望みでしかないわ。
いいえ……先生は恐らくまだ理解されていません。
こちらに拙作がございます。ご指導をいただければと。
これは絵なの?
私の絵です。
これは私たち凡人が、普通の人間が見ている風景です。
たとえ先生であっても、あなたが足を運び見てきた風景はこの大地千年の天地の変化と比べて、大海の中の一粒の粟にすぎません。
先生、もう一度よく見てください。
我々には、この一夕の時間しかないのです。
よく育っているわ……
全てあなたが植えたの?
ここの人々が植えたのよ。
あなたが言ったように、私は自分の能力を使って作物の成長に干渉することはできない……いつの日か私は消えてしまうけれど、ここの人々はまだ長く生活していくのだから。
本当にお疲れ様……
久しぶりね、シュウ。
不思議ね。私のあの弟も、最近はよくあなたの夢を見ると言っていたわ。
どうして、そう私のことばかり気にかけているの……人は年を取ると、過去が恋しくなるのかしら。
あなたも、私の事をからかうようになったのね。
ここに住む者はみんな、かつて二十四節気をまとめ、人々に耕作の知識を教えた「神農」がいたことを覚えているわ。その人は命の危険を冒してまで、万頃の凍土に良田を切り拓いた。
「神農」なんて、名前負けしちゃうわよ。二人で一緒にやったことなのに、どうして全部私に押しつけるの?
これだけ経っているんだもの。あなたとか私とか、もう別にいいでしょ?
私が覚えているのは、自分が子供のようにあてどなくさまよっていた時、そばに置いてくれて、「家」を与えてくれた人がいたってことよ。
彼女が私に、人と獣の別なんて気にする必要はないって教えてくれた。私でも一人の人間のように生きることができる……一人の人間のように生きるべきだって。
でも、あなたがここまで長く残っているなんて思ってなかった。
あなたに約束したことよ。この土地を守って、より多くの人がお腹いっぱい食べられるようにするってね。
シュウ……私を恨んだことはある?
……
千年よ。これはもはや、貢献なんてものではなくて監禁よ……
たとえあなたの精神がすでに散っていても、この土地との繋がりによってここに閉じ込められ、自由を得られない。
私が犯した過ちのせいで……
あなたを恨みはしないわ……私はただ、あなたに代わって北への遠出に行かなかった自分を恨んでいる。
シュウ……あなたとは知り合って長いけれど、私は一瞬たりともあなたを「神」だと思ったことはない。むしろ、そのことを忘れかけていたほどだわ。
でも最後にあなたとお別れする時、私はようやく自分にも欲があるのだと気付いたの。「人」としての欲がね。
私はあなたが残って、ここの人々を助け続けてくれたらと思った。私の無数の同族が、あなたを必要としていた。
でもあなたが彼らを私と同じように愛してくれるか、私には分からなかった……
きっと、あなたを失望させてしまったでしょうね。
私たちはやっぱり失敗したのね?
……
あなたは結局、種を見つけることができなかった。私も源石土壌で育つ作物を開発できなかった。
この土地ですら、守り切ることはできなかった。
人は天にも勝る……人が天に勝ったことなんて本当にあるの?
シュウ……後悔しているの?
……
私が言ったこと、実はずっと前から分かっていたのでしょう?
ええ、全部。全部知ってた。
あなたはここで私に会うべきではなかった……
あなたはこの装置の中に残った一筋の意識、私もその僅かな意識の記憶にすぎない。罔両(もうりょう)が影(かげ)に問う。なんて哀れでしょうね。
私はあなたよ。
ガァ――?
まだここにいたのね。
私はずっとあなたの心の中にいる。
命は貪と瞋(じん)を犯し、生を貪り死を恐れる。
当時なぜ貴方を描いたのか忘れかけてたわ。
山高く、水遠けれど是処なく、吾人の世にて自在なることに無碍なり。
長い間ぼんやりとしているうちに、この程度の気づきも失っていたなんてね。
世の万物を描き尽くしてこそ画家であるなんて、誰が言ったのかしら。一山一水を描くことも、一山一水の境地だわ。
画家は剣を振るい、層(かさ)なる山が尽く起きる。
私は即ち私。
私が見たもの、それ即ちが万象。
おい、起きろ。
撮影現場で眠こけるなんて、監督として完全に失格だろ。
眠くなったら寝るもんだろ……何を撮ってるんだったか?
『決戦:メカ巨獣VS巨獣』だ。
おぉ、私のとっておきの脚本じゃねーか。
それは、デタラメ具合のことを言ってるのか……
言っとくけど、こうして撮影に付き合うのも今年で最後だからな。
笑いも怒りも全部文章になって、伝説や奇談はどれも物語だ……
あのよ、ラヴァ。
……オメーはなんで、私にここまで付き合ってくれるんだ?
約束した伝説の武器は、いつくれるんだよ?
やっぱりそれか……
もしいつか、私が跡形もなく消えて、二度と見つからなかったら――私のことを恋しく思うか?
いや。
そんな日が本当に来れば、誰もオマエを覚えてないだろ。
オマエが作った武器、道具、都市、それに撮った映画も全部消えてなくなる……そのことは分かってるだろ。
お前の言う通りだ……私もここでオメーに会うべきじゃねーな。
……
そうだ、その通りだ。私が作ったこいつらは結局のところ無駄だ。だけど、どうしようもなかった。楽しみを見つけて、何かを残したかったからな。
ものを残した、私も楽しかった。それで十分だ。
ありがとうな、ラヴァ。ロドスでオメーがバカに付き合ってくれた日々はなかなか楽しかったぜ。
恥っず……自分で作り出したものなのに、逆に説教されるなんて。
どうかすると人にくだらねー記憶を思い出させるなんて、まったく天邪鬼め……
もういいだろ。あの混沌から分かれたからには、私たちはもうあの問いに答えたってことなんだ。
ただの心臓にすぎねーくせに、私たちを戻そうなんて考えてんじゃねーよ。
老いぼれ、私たちが苦労して真っ暗な陵墓から抜け出したのは、オメーの影の下で生き続けるためじゃねーんだ。
さっさと――