バベル BB-3・戦闘前
静かなる決別
カズデル地区 移動都市カズデル 民家
……依頼を見に来た。
傭兵は嫌というほど見てきたが、その中でもお前は最も貪欲な連中の一人だ、グッドラック。金を貯めてクルビアに荘園でも買うつもりか?
くたばってないだけでも十分だろ。フッ、長生きしてるって観点からすりゃ、お前は確かに「グッドラック」という名に相応しい。
でかい仕事が入ってきたと聞いたが、高額のものはあるか?
最近は随分ときな臭ぇ状況だ。街で目を光らせてる連中がいて、先に依頼を受けた奴らはどいつも良くねぇ末路を迎えた。
……バベルに関わる仕事だが、本当に受けてぇのか?
受ける。俺はずっと運に恵まれてきたんだ、恐れはしないさ。
いいだろう。最近街で少し目立ってる教師がいてな、毎日バベルの異族どものために取りなしている野郎だ。そいつの命に値が付いてる。
……わかった。
どんなサプライズをもたらしてくれるか、楽しみにしてるぜ。
お前の幸運が今日で尽きないことを願ってるよ、グッドラック。
カズデル地区 移動都市カズデル
グッドラックは久しくこの場所に戻っていなかった。
街は多くの者が往来すると共に大きく変化していた。「バベル」や「軍事委員会」という文字は馴染みのあるものだったが……今や、常に誰かが彼には理解できない諍いを起こしていた。
彼には理解できなかった。みんなサルカズなのに、一体何を争うことがあるんだ、と。
彼は写真を取り出し、ターゲットの姿を確認する。それは見た目がいくらかすっきりした若者で、よく見知った三角形のシンボルを身に着けていた。
バベルの異族に肩入れし、軍事委員会に対する反抗を扇動している一人の教師。
本当に運がない。お前の命も今日までだ――彼はそう独りごちた。
痕跡からして、恐らくこの近くだろう。
いや待て、どうしてここに……
久しく帰らずとも、彼はよく覚えていた。ここは自分の家であり――
そしてオッダの家だった。
オッダ、お前は連中に関わるべきじゃない……
――!
隠れてくれ、音を立てないで。
えーっと……何か用か?
……ノックする家を間違えたようだ。
……人を探しているんなら手伝おうか? ここら辺には詳しいぜ。
微笑む彼の目に、動揺の色はなかった。
アスカロンの視線が簡素な部屋を素早く見回す。彼女はすでに勘付いていた。
……
一人で住んでいるのか?
そうだけど……
私はバベルのアスカロンだ。
……!
彼をかくまってくれて感謝する。だが、皆ここを離れねばならん。
くれぐれも気をつけろ。近頃は街も物騒だ。
……
行かなきゃだってさ。聞こえただろ、きっとあんたたちに気づいた奴がいるんだ。
軍事委員会の奴だけじゃない。ケンカ売ってきた傭兵だってたくさんいる……
わかっている、オッダ。この家をこっそり教室として使わせてくれたことだけでも、感謝に堪えない。
子供たちは――
みんな俺が家まで送るから、安心していいよ。数日経って、ほとぼりが冷めたら、またここで授業していいからさ。
いや、もういいんだオッダ。ずっと言ってきたように、私はもう去るつもりなのだから。
この子たちに最後まで授業をしてやるために、もう随分と先延ばしにしてきたんだ。これから私は、まだまだ多くの場所へと赴かねばならない。
……わかった。そうだ、このジャガイモも忘れずに持っていってくれ。
子供たちも先生の状況は知ってるから、みんなでかき集めたんだ。
ありがとう……ありがとう。
感謝を言うのはこっちの方だ。本当にありがとう。先生の授業で、たくさんのことを学べたよ。
ここ数年でカズデルは急速に発展しているが、人々の知識や思想はその発展速度に追いついていないのが現状だ。
これを変えなければ、我々が持っている力はいずれ自身を滅ぼすだろう。
まさに今、この都市内で起きている数々の紛争のようにな。サルカズは本来こうあるべきではないというのに。
……しかし私はまだ現状を変える方法を見つけられてはいない。だが確かなのは、その答えはカズデルにはないということだ。
さようなら、オッダ。
さようなら……どうかお元気で。
……
オッダは街角に消える「教師」を眺めながら、しばらく家に入らなかった。
いつからか、彼には毎日玄関先に座り込む習慣ができていた。ある人の帰りを期待して。
風に巻き上げられた砂埃が、彼に涙を促した。辺りには誰一人いない。
彼はそっとドアを閉めた。
オッダ……
グッドラックはターゲットが家から出て行くのを目にし、その後、久しく会っていなかった者の姿を認めた。
握った刀が途端に重く感じ、彼はしばらく微動だにできなかった。
オッダ……すまない……知らなかったよ、お前たちがいつの間にこんな……
俺は父親失格だ……だが……
彼が刀を握り締めた。
オッダのためにより金を――良い未来を得る方法を、彼はこれしか知らなかった。
……また一人。
煙が街角の死体をかすめ去り、その存在の痕跡を消した。
無音、静寂。生命の消滅は、ちりが大地に落ちるかの如く。それを意に介す者はいない。
死の足音は、とうとう運の尽きた者へと追いついた。
いつまで隠れているつもりだ? 今から襲う算段でも立てているところか……マンフレッド。
また傭兵か。これで何人目だ?
そんなもの、覚える意味もない。
君は一人を、二人を――果ては百人をも殺せるかもしれない。だが絶えず依頼を受けて向かってくる傭兵たちを全員殺せるのか?
この者たちは、ただ我々に忠告したいだけだ。皆あまりに長く現状に甘んじていると。
バベルの者たちの命でもってか? 誰に対する忠告だ?
……
あの男はかつて、殿下にバベルに対する「厳格な保護」を約束したが、現状はどうだ? 私が目にしているのは、際限のない監視と傭兵への放任だけだ。
……アスカロン、言ってはならないこともある。特に君には。
不満があるのなら、私を捕らえればいい。
お前が奴のそばで成長したのかどうか、見せてもらうとしよう。
私が将軍のおそばで学び得たのは暴力よりも重要なことだ、アスカロン。
それに、客観的に見て、人を殺すことしか知らない処刑人は果たしてどちらだ?
逃げ回らずに正々堂々と戦え! 私は君より強いことを両殿下に証明するんだ!
遅すぎる、マンフレッド。
待て――うわっ!
また死んだな。
うぅ……
立て。
た……立つさ……もう一回だ。
マンフレッド、足さばきにも気をつけなさい。アスカロン、頭ばかり狙っちゃダメよ。
頭は急所だ。避けられないこいつが悪い。
避けられないんなら、痛みに耐えることを教えてやらないと。
はぁ……
アスカロン、お前の言う通りだ。だが、終了の合図もなしに、気を抜いてよそ見をするのは感心せん。
うっ……私はまだ戦えます、殿下! もう一度だ!
チッ。
えっ……当たった? 殿下、当たりまし――
そうか?
おっ、下ろせ、アスカロン!
アスカロン、怪我させちゃダメよ。
背が高く細身のマンフレッドが、手足を宙でジタバタさせる。彼の胴体はすでに木の杭に縛り付けられていた。
こんな一瞬で縛り付けるなんて、一体どうやったんだ!
殿下の服の編み方を見て思いついた。
マンフレッドは束縛から逃れようともがくも、縄はますますきつくなる。
自分と同じように痩せ細った少女に、なぜこんなにも驚くほどの力があり……どうして身のこなしの速さまでもがまったく及ばないのか、彼は理解できなかった。
下ろせよ、下ろせ!
殿下、どうだ、また私の勝ちだ!
アスカロンは武器を高く掲げ、歯をむき出しにして二人の殿下に自分の勝利を誇示した。
アスカロンは随分明るくなったわね。
……
何を考えてるの?
此奴らは他のサルカズの子と比べて、大きく異なる。
此奴らのみであれば、確かに我らで感化し、少しずつ変えていくことはできる。しかしそれをカズデルのすべての子に施すことなどできようか?
私に時間を頂戴。バベルならできるわ。
時間は最も貴重な消耗品だ。
わかってる。だけど教育とは決して目先の利益を求めることではないの。私たちがやっていることは、希望を後世に残すことにほかならないわ。
子供たちに、私たちの素晴らしい未来を語ってくれる教師がカズデルにまだ一人でもいてくれるなら、希望の火種は永遠に潰えないもの。
戯れる二人の子供に視線を投げかけるテレジアは、いまだ未来への期待に満ちていた。
負けを認めるか?
認めるもんか! うぅ……下ろせ、もう一回やるぞ!
負けを認めたら下ろしてやる。
ふざけるな!
マンフレッド、私がほどいてあげるわ。
ありがとうございます! あれ……なんだか体が浮いてる気が……で、殿下!
フフッ。
……フッ。
ほら、テレジア、早く下ろしてやれ。
成長したな。だがテレシスが己のすべてをお前に教えていないのは明らかだ。
君は何事も習得が早かった。だが将軍のもとを去ってからというもの、君に見て取れるのは迷いだけだ。将軍は君が去ったことに失望されている。
私はお前ほど口が達者でないが、少なくとも他人がテレジア殿下に無礼を働くのを平然と見ていることはないぞ。
君は殿下がなぜバベルの理念にこだわっているか、なぜ将軍が自ら表立ってバベルへの襲撃を阻止しないのかを、真に理解しているのか?
責任を放棄して立ち去るのではなく、君はまず将軍とよく話し合うべきだった。
責任を放棄だと? 殿下を見捨て、多くの声を無視したのはお前たちだ。
私が目にしたのは、奴が混乱を招く傭兵を放任し、バベルの損失に全く無関心な態度をとっていたことだ。
将軍がそのすべてを黙認されているのは、まさに大多数の声を無視できないからに他ならない――
サルカズの運命が深淵に滑り落ちることから逃れられないのであれば、より有効的な手段によって挽回しようとすることの何がいけない!
それこそがお前の本当の想いというわけか。
……大多数のカズデルの民の想いだ。
殿下が信じられないわけではないが……美しき未来を約束するだけならば誰にでもできる。しかし人々は目の前の現実を無視することなどできないのだ。
たった今父親を奪われたばかりの子に、暴力を用いて親の仇と握手させ、仲直りを強要することの方がよほど残酷だと思わないのか?
……何とでも言えばいい。
軍事委員会の者に手を出すつもりはない。だが、もしお前たちが傭兵をだしにして事を行おうとするのなら……
私が成すことは簡単だ――
傭兵が一人残らずいなくなれば、問題も解決する。
アスカロン……!
……時間があればで構わない。
殿下に会いに行け。今ほど疲弊した様子は見たことがない。
気流の乱れが起こした煙だけが、彼女がすでに去ったことを証明していた。
マンフレッドは下を向くと、胸からゆっくりとにじみ出る鮮血を拭う。
ため息をつき、誰もいない通りへ顔を向けると、ふと死んだ傭兵の遺した代物が視界の片隅に映った。
……いずれ、我々は理解せねばならない。
選択をしてきたのは殿下でも、将軍でもないのだ。
誰だ……?
彼は扉を開けることをためらった。
このぼろくて小さな家が今日は本当に賑やかだ。「先生」を見送ったかと思えば、今度は人が訪ねてくるなんて。
扉の外にいるのは誰だろう?
父が帰ってきたのだろうか? もし本当に扉の向こうに親父が立っていたら、なんと声を掛ければいいのだろうか?
ここ数年、親父が家に帰る頻度はますます減っていた……「先生」から学んだことを、たくさん共有したいと思っているのに。
しばらく深呼吸し、気持ちを整え、平静を装うと彼は扉を開けた。
えっ……あの……
こんにちは。
あなたは……軍事委員会……えっと、何かご用でしょうか?
私を知っているのか?
……
いえ。ただその軍事委員会の制服を以前見たことがあるもので。
そうか、邪魔をしたな。ただの定例調査なのだが――これに見覚えはあるかね?
こ、これは……親父の――!
受け取るといい。最近街が少し物騒だ。君の父については……残念だった。
これは……どちらで見つけたんですか? そこにはほかに何か……
申し訳ない、現場にはこれしか残っていなかった。
……
名は何という?
……オッダです。
もし何か手助けが必要であれば……
いえ、必要ありません……こうして届けてくださっただけでも、とても感謝しています。
実は父には久しく会っていないんです。これだけで……十分です。
……これでもう待ち続ける必要がなくなりました。ずっと……帰ってくるのを待つ必要が。
ほかに家族や友人はいるのかね?
……いえ、ですが自分のことは自分でどうにかします。それに、この都市じゃこんなのよくある話でしょう?
……
申し訳ありません、ついしゃべりすぎてしまいました。なぜかはわからないですが、あなたに親しみを感じてしまって……
きっとまだお仕事が山積みなのでしょう。お時間を取らせてしまって申し訳ありませんでした。
……お悔やみ申し上げる。
扉の前に静かに立つマンフレッドの耳に、部屋の中からすすり泣くかすかな声が届いた。しかし彼は悲しみを感じられなかった。
確かにこの都市ではよくあることで、これまでも似たようなことを何度も目にしてきた。しかし殿下が最初に描いた青写真の中では、この都市は本来こうではなかったのだ。