相見歓 OR-6・戦闘前
勝肉火方
いらっしゃいましたか。
ニン府からのお誘いだからね。断る理由はないよ。
……申し訳ございません。故意に隠していたわけではないのです。ただあえて、わたくしの方から話題に出す事柄でもないと考えておりましたので。
何も謝ることなんてないよ。名家のお嬢様には人に言えない心の内があるものだしね。私も相手が貴族だからって急に嫌な顔をするような人間じゃないよ。
それで、君のことは何て呼べばいいの、ニン家のお嬢様?
わたくしは……寧茵(ニン・イン)と申します。
実を言うと、正確にはニン家の人間ではございません。幼い頃お爺様に引き取られました。
お爺様は、わたくしのことをニン家の遠縁の親戚だと周りに紹介しますが、これまで本当に血縁関係のある「親族」には会ったことがありません。
以前にお話ししたことがありますよね。覚えておられますか?
私、こういう時にあんまり気の利いたこと言えないんだよね……
構いません。お爺様はわたくしにとても良くしてくれていますし、この身元のことで辛く当たってくる方もいません……皆様優しくしてくださっています。
君のお爺さんは……前礼部尚書のニン・シュー?
はい……
そう。ちょうどよかった、私も――
ええ。分かっています……分かっていますとも。
冷えてきましたね。立ち話もなんですし、中で話しませんか?
……どっちでもいいよ。
屋敷の中には曲がりくねった長い回廊があり、それは竹林と築山を通って蓮池を二つに分けていた。涼風が吹き、秋の水面に薄く波紋が広がる。
ニン・インとホァン、二つの倒影が橋に落ちる。影は前後の距離を保ちながら進んでいき、二人はがらんとした部屋をいくつも通り過ぎた。まとめられた荷物と落葉が地面のあちこちに広がっている。
中庭が散らかっており失礼いたします。とてもお客様に見せられる様子ではありませんね。
わたくしたちは間もなくこの屋敷を離れる予定なのです。お爺様は年老い、百灶の乾燥した気候に耐えられないため、江南の生家に戻る準備をしているところです。
……
ニン・インはゆっくりと歩を進めていたが、後ろからついてくる友人に景色を愛でる気はないと気づくと、やや歩みを速めた。
この先、間もなくです。
お掛けになっていてください。お茶と茶菓子を用意して参ります。家の料理人は休暇中ですので、大したものはございませんが――
お構いなく、あんまり長居できないから。
……そんなに急いでいるのですか?
そうですか……
ニン・インはそっと扉を閉ざした。屋外の羽獣の鳴き声が徐々に弱まり、部屋には静けさが訪れる。
それで? どうして私をここに呼んだの?
申し訳ございません。実は昨日鼎豊楼で火災が発生した後、あなたの所へ向かおうとしたのです。
その時に図らずもあなたと大理寺少卿がモー料理長と話しているところを聞いてしまいまして……
それが?
ホァン様、わたくしは……あなたの父上に会ったことがあるかもしれません。
あれはわたくしが十五歳の年だったと記憶しています。家に食客の方がいらっしゃったのです。
お爺様は仕事で忙しく、屋敷には門下生や同僚が多く出入りしておりましたが、わたくしとはあまり関係がありませんでした。
ですが、屋敷に低品の印である青い官服を召した方がいらっしゃることに気づきました。お見かけするたびに一人でいて誰とも関わっていないようでした。
初め、わたくしも気にかけてはいませんでした。その年の誕生日までは……
その日、お爺様は例年通りわたくしのために賑やかな誕生日会を開いてくださいました。
宴では多くの灯りがともされ、屋敷も飾り立てられて、席は身分の高いお客様で埋められていましたが、知っている方は幾人もいませんでした。
客人たちは雄弁を振るいましたが、その内容もわたくしには理解できないものでした。わたくしがこっそり宴席から抜け出しても気づく者はいません。
一人中庭をうろついて退屈を紛らわせているうちに、ふと思い立って、お爺様の書斎に向かったのです。
そこで、またあの方をお見かけしたのです。
当時の彼は便箋の束と数本の筆を衣嚢に入れているところでした。わたくしに気づくと、とても慌てた様子で今度はせわしなく紙と筆を衣嚢から取り出しました。
貴殿は……
お嬢様、誤解でございます!
私は……まだ写し終えていない文がありましたので、持ち帰って書き写そうと考えていただけです。尚書様から要人の方々に宛てた文ですので、質の劣る紙を用いてしまっては風評に障るかと思い……
私はただ……
構いませんよ。ただの紙と筆ですので、必要でしたら、ご自由にお持ちください。
……ありがとうございます、お嬢様。
貴殿は?
私は……グー・チュエンと申します。ニン府の謄録郎を申し付かっており、文書や書簡の清書や整理を担っております。
わたくしはニン・インと申します……
もちろん存じ上げております。
それでは、これでお互いに知り合えましたね。
こちらで読書をしたいのです。お仕事の邪魔はしないので、よろしいでしょうか?
そ、そんな恐れ多い。もちろんですとも……! どうぞお嬢様の心のままに。
はい。
お嬢様は……史書がお好きなのですか?
はい。お爺様から常々、人は歴史を鏡として古人の知恵と気骨を学び、古人から教訓を得なければならないと聞かされていますから。
わたくしにとって、読書はただ楽しいことですけどね。本を読むと文字で記録された傑物たちが、まるでわたくしの目の前で生きているかのように感じられます。皆、わたくしの友人なのです。
将来は太史閣に入り、史官となるのもよいかもしれないと考えています。
お嬢様は、ご自分のお考えを持っていらっしゃいますね……
尚書様の家系は学問の造詣が深くあられる。お嬢様がそのように志されるのであれば、必ずや成果を挙げることとなりましょう。
貴殿もまた、お爺様は優れた人物だと思われるのですか?
……もちろんでございます。ニン尚書は礼部尚書を何十年と務められ、多くのことを成されてきました。世に認められる素晴らしい官吏でございます。
そうですね……この家の人は、皆が優れています。
伯父と伯母は一年中百灶におらず、全国各地を駆け回っています。炎国が現在の完璧な気象地動システムを構築できたのは、二人の多大な努力によるものだと伺っています。
ツーチウという、わたくしの妹に関しては、さらにすごいのです。
彼女はわたくしより二つばかり年下ですが、前回百灶学宮の遊学活動に参加した際に外交学院の先生方から褒められていました! 皆が彼女をからかって「小さな尚書」と呼んでいたくらいです!
わたくしの家族は、どなたも将来歴史に名を刻む方々です。
わたくしは家族のことがとても好きで、尊敬もしています。できればその様子や成したことを全て記録したいのです……ですがわたくしは彼らのようにはなれません。
家族の皆に比べれば、わたくしはただの凡人です。
師が言っていた言葉を思い出しました。
「古来より世事は流水のごとし。高い波は記録されるが、その他は静かに流れるのみ……されど細流なくして、波は生まれようか?」
波と細流のどちらが偉大で、どちらが平凡などという話はありません……
確かに、世のほとんどの人々は史書に名を残すことはできません。しかし彼らは書の行間にある空白ではなく、史書の頁そのものなのです。
……あぁ。
申し訳ございません。話し過ぎました……
グー様の手跡はとても美しいですね。
恥ずかしながら……私が長けているのはこれくらいで。謄録郎の仕事を与えてくださった尚書様には感謝しております。
わたくしは字が下手なもので、お爺様からはそのことで何回も叱られてきました。
字の鍛錬には長い時を要します。根気よく続ければ、いずれ変化は見られましょう。
では、グー様がわたくしの書法の先生になっていただけますか?
……
私程度の腕でお嬢様の先生など恐れ多い。ですが……
そうだ……こちらに手本の書が二冊ございます。私が普段から模写しているものでして、字形が端正で初級者に適しております。
お嬢様がお嫌でなければ、これを……誕生日の贈り物とさせてください。
今日がわたくしの誕生日だとご存知なのですか?
はい……
ご存知の通り、毎年この日になると屋敷はどこも鮮やかに飾られます。私も務めている間にその理由を耳にしました。
お嬢様……お誕生日おめでとうございます。
あ……ありがとうございます。
あの時の会話は深く印象に残っています。わたくしはあの方の言葉遣いや考え方が好きでした。
理由は判然とはしませんが、いわれのない親しみを感じたのです。
しかしその後、屋敷にて彼を見かける機会はそれと分かるほど減りました。再び彼と話をしたのは、何年も後のことです。
お爺様の風寒は一ヶ月近くも続き、良くなる兆しが見えません。間もなく冬が訪れますので、これ以上長引けば悪化の一途を辿るのではと心配でなりません。先生、くれぐれもよろしくお願いします。
尚書様の病は疲労が募ってのことでしょう。お嬢様からも折に触れて休息をとるようにお伝えください……
はい、そういたします――きゃ。
申し訳ございません! 申し訳ございません……
私の不注意で、お嬢様にとんだご無礼を。
げほげほっ……ごほごほごほごほっ――大変……大変申し訳ございません……
だ、大丈夫です! それより……貴殿の方は大事ありませんか?
どうぞこちらに腰かけて足を休めてください。なんだか……辛そうですよ。
大丈夫です……私は大丈夫ですとも。
あの、何か落とされましたよ――あの?
これは……鎮痛剤ですか?
ほう……これほど強い鎮痛剤とは……あの者、重病ですな。
……
先生、お手すきの時で問題ありませんので、あの方も診ていただけませんか? 医療費はわたくしがお支払いします。
当時はお爺様の病状が気掛かりで、あの時の出会いを気にかけておりませんでした。しばらくしたら時間を見つけて、彼のお見舞いに行こうと思っていた程度です。
ですが、その冬の後、二度と彼に会うことはありませんでした。
先生、お爺様の体調は回復しました。ここのところずっと尽力して下さり、本当にありがとうございました。
そうだ、以前先生にお世話をお願いしたあの方は……
あぁ、あのグー・チュエンという者ですかな。
彼は亡くなりましたよ。
……!?
それは病で……
いえ……聞くところによると、ヴィクトリアへ向かう途中に、事故で亡くなったそうです。
しかしあの身体では、その事故がなかったとしても、恐らく長くはなかったでしょう……
実はですな。前回彼に会った時に五臓六腑がことごとく病に冒されていることは呼吸を聞いて分かっていました。生きていてもどれだけ苦しむことになったか……
それにしても、なぜ重病に冒されておきながら、そんなに遠い場所へと行こうとしたのか……
……
実を言うと……この場所は、グー・チュエン様が当時使っていた書斎なのです。
彼が亡くなってからすでに十年が経ち、この部屋も何度か様変わりしました。
ただ……
これは……
この薬瓶をどうして今でも取っておいているのか……わたくしにも分かりません。
ホァン様……大変申し訳ございません……
いや……違うよ……
親父はそんな人じゃない……
親父はそこまで強い人だったわけじゃないけど、決して軟弱だったわけじゃない。私のそばにいた時、親父の目にはいつも光があった――
どうして……
わたくしはグー・チュエン様のことをあまり理解できていないのかもしれません……ですが彼は温厚で善良な人であるのは感じられました。
わたくしも、数え切れないほど後悔をしました。自分が何もできなかったことを……
私にこんな話をして、一体何を言いたいの?
わたくしのお爺様が、あなたの父上の死の真相に関わっていると疑われているのは承知しています。わたくしも今は、知っていることを全てお伝えすることしかできません――
これだけくどくど話したのは、ニン・シューは無実だって信じ込ませるためなの!?
いいえ、いいえ、決してそのようなことは。
わたくしは、ただあなたにどうか……どうか真相を突き止めていただきたいのです。
グー・チュエン様へ顔向けができるようになるためにも、真相を明らかにするためにも。
その真相が果たして何であれ……
君は……
君に言われなくても……絶対突き止めてみせるよ。
……
厳粛で静か。それがリン・チンイェンが大理寺に抱いた第一の印象だった。
初めて決院のこの執務室に入った時、周囲の一切の雑音が瞬時に消えた。このような設計の意図をかつてユー・チェンが話していた記憶がある。
静かにして后(のち)よく安んじ、安んじて后よく慮り、慮りて后よく得(う)。静けさの中でこそ心が落ち着き、落ち着けばこそ頭が働き、成果を得ることができると。
大理寺はこのところ何かと忙しいのではありませんでしたか? なぜリン少卿だけがこちらの執務室にこもっておられるのです?
シエ・ジェン御史……? どうしてここに?
粛政院御史台の定例調査ですよ。ユー・チェンの一件について、いくつかリン少卿に教えを請いたいと思いましてね。
教えを請いに来たのですか、それとも調査ですか?
リン少卿とは長年共に仕事をしてきましたから、個人的な付き合いから喜んで君を信じましょう。
ただ目下のところ粛政院はこの事件を非常に重視しており、必要な手続きを踏まねばなりません。どうかお許しを。
聞きたいのであれば、聞くといいでしょう。
名は。
リン・チンイェン。
性別は。
……!
……女。
ふむ……基本的な情報は飛ばすとしましょう。これより先の質問は説明をする必要はありません、「はい」か「いいえ」で答えてください。
取り調べですか?
これより先の発言は全て記録されますのでね。少卿の失言を心配しているだけです。
……
特に問題がないようでしたら、始めましょう。
リン少卿は飛び抜けた成績で天師府の考校試験に合格し、若くして異例の入学をした後に、天師府において徳望の高い蒼霆伯(そうていはく)につき従って雷法を修めましたね。
天師府を卒業した後、君は自ら大理寺に勤めることを選択して当時の少卿ユー・チェンに付き従って方々で事件の捜査をしました。
そしてわずか一年で、大理寺主簿からとんとん拍子で炎国史上最年少の少卿となりました。
以上の経歴は、事実ですか?
はい。
大理寺に入職して三ヶ月目に君は大理寺主簿として、粛政院に対して戸部右侍郎の汚職と収賄を告発して、不正に取得した金数千万の追徴を行いました。
五ヶ月目、常稷の地にて、現地の学宮の考校試験における不正事件をほぼ一人で突き止めました。この事件には二品の高官を含む百名もの官吏が関与していましたが、最終的に全員逮捕されました。
そして少卿になった後、前大理寺少卿ユー・チェンの証拠偽造事件を担当し、最終的にユー・チェンを大理寺浩然閣から除名して引退後の一切の待遇も剥奪しました……
以上の事件捜査歴は、事実ですか?
……はい。
このような経歴は、誰が見ても年若くして非凡なる才だと称賛するでしょう。
私としては一人の若き大理寺官吏が、一体どのような胆力と能力があれば、こうした大きな事件をこなせるのかと思わずにはいられませんがね。
一体何をおっしゃりたいのですか?
記憶が正しければ、君のご両親は天機閣の天師でしたね。長年にわたり北部にて多大な功績を挙げ、真龍から直々に冊封(さくほう)を受けてもいる。
リン家もまた名門貴族の一つとして数えることができ、一族には多くの優秀な天師がいます。さらにリン家は平祟侯のご一家と個人的に浅からぬ関係にあるとの噂もあります。
君の師匠に至っては……炎国における蒼霆伯の重要性は、恐らく官位の高さでは測れないほどでしょう。
……以上の人物関係は、事実ですか?
シエ・ジェン御史、どういうつもりでしょうか?
リン少卿、「はい」か「いいえ」でのみお答えください。
言外の意が理解できないとお思いですか……私がここ数年で大理寺において事件を処理できたのは、背後にある勢力に頼っていたからだと言いたいのですか!?
……そのようなことは一言も言っていませんよ。
これでもリン少卿とは知り合って長いのでね。私は君の品性を疑っていません。私の目には、リン・チンイェンは常に正義を追い求める人として映っています。
ですがリン・チンイェン、君に問いたい。今回はなぜそれを追い求めようとしないのですか?
……私に会いに来た本当の目的は一体何ですか?
ユー・チェンの件に関して、一体どれだけ知っているのですか?
先ほど伝えたはずです。今日リン少卿に会いに来たのはただの手続きの一環ですよ。
ユー・チェンの件に関して、私が知っているのは、あの日この決院にて聞いたことだけです。
シェ・ジェン御史はなぜユー・チェンの事件に限って、それほどまで気にかけていらっしゃるのですか?
たしかリン少卿がユー・チェンを調査すると決める前、私たちは一度言い争いになりましたね。
こう言うのは少し不適切かもしれませんが……官階や立場をさておけば、私はユー・チェンのような人を尊敬しているのです。
事ここに至っても、まだ彼を擁護する気ですか?
法の執行者が法に則らないのであれば、それは権力の濫用です。三法司の誰もがそうなれば、規範などないに等しいのでは?
いえいえ……ユー・チェンが犯した過ちについては大理寺がすでに結論を出しており、私がこれ以上口を挟む必要はありません。
ただ気になるのです……果たしてかような手段を取らざるを得ないほどの真相とは一体なんでしょうか? 何がユー・チェンをそこまで思い詰めさせたのでしょうか。
……
ユー・チェンに関しては、君の方が私よりもよく知っているはずです。
彼は頭の良い人物だと思いますか?
……もちろんです。人を判じ、物事を判断すること、そして事件を調査して犯人を追う手段に関して、私は彼に及びません。
では、仮にユー・チェンが本気で自身の証拠偽造を隠ぺいしようとした場合に、リン少卿は当時のご自身があの事件を明らかにできたと思いますか?
つまり、彼はあえて私に自分を調べさせたと? なぜです?
それは私には知りえないことです。ですが文書保管庫放火の事件記録に関して君を指名したことを考えれば……ユー・チェンが君に何も期待していないと言うのは無理があるでしょう。
ここ数日、リン少卿が文書保管庫の事件で百灶を駆け回っているのは、私も多少ながら耳にしています。
ですが昨日より、君は謹慎令を食らったかのようにずっと大理寺に篭っていますね。
私はね、興味があるんです。君にこの事件の捜査を諦めさせたのは何でしょうか?
権力者から恨みを買うのを恐れているのですか? いいえ、私の知るリン・チンイェンはそのような人物ではないはずです。
チェン様から圧力をかけられましたか? それも違いそうです。何せ君は今、大理寺の牢獄ではなく、この執務室にいるのですから。
いずれも違うとなれば、答えは一つ……
君は捜査を続けて、他の者を巻き込むのを恐れているのでしょう。
……
……どうやら正解のようですね。
事件の只中に身を置いているがゆえに冷静さを失い、最も簡単な道理をお忘れになられているようだ。
湯を揚げて沸くを止むるは……薪を絶ちて火を止むるに如かず。
……隠しきれぬことならば、いっそのこと暴いて、日の下にさらした方がよいでしょう。
シエ・ジェン御史には授業をしてもらったようです。
とんでもありません。決院は静かですからね。リン少卿はご自身で多くのことに思い至ったのですよ。
……何をすべきかは分かっています。
リン少卿が一日中執務室から出ないのを見て、何か召し上がるか聞こうと思い、そ、その結果……
いついなくなりました?
わ、分かりません。誰も彼女を見ていません……
冷たさが流れ込む。紙が一枚一枚強風に巻き上げられ、空中で乱雑に舞う。
開かれた窓が壁にぶつかる。窓際の机の上には一着の官服が几帳面に折り畳まれて置かれており、その上には硯で押さえられた文がある。
……
それはリン・チンイェンの辞表だった。
ニン・インは門環を握りながら、遠くへ去っていくホァンの姿を見送る。
ぼやけた黒い点が坂道の果てで完全に消えても、彼女はそこを見つめ、長く立ち尽くしている。
何を呆けて玄関に立っておる?
……!
お爺様……