命ある者の旅 MT-ST-1・幕間
「堕天」
「レミュエル、お祈りの実験はもう終わったよ?」
「もしかして知らなかったの? 今日、調査員さんが学校に来て結果を伝えてくれたんだよ。オマケに、フルーツタルトまでもらえたんだから!」
「中央病院に入院してた例の患者さんたちは、二組とも今日退院したんだって……まあ、つまり私たちがこの二ヶ月捧げてた祈りは、その人たちの容体には影響しなかったってことだよね、あはは。」
「でも、あれは単なる第六庁の社会実験だから、落ち込まないでって調査員さんは言ってたよ。」
またヌオバ・ウォルシーニ関連の報告書ね。
あの都市はここ半年で十七もの移動都市と貿易関係を結び、ほとんど休まず活動を続けている。まるで疲れ知らずの猪突獣のように……
当然、そのついでにシラクーザ中に新たな種を蒔きながらね。
その口ぶりだと、ヌオバ・ウォルシーニがほかのシラクーザの都市と交流を持つことまでは奨励しても、『新都市管理法』の推進を支援するつもりはなさそうだね。
カルネヴァーレから戻った時、あなた自身が言っていたじゃない。あの若人たちにはさらなる試練が必要だ、と。
……そうだったかな。
テルニからは、ループカーンが少し妙な動きを見せているという知らせも届いているの。
金色の女帝は近頃、次々と政令を発しているけれど、その片割れは長いこと姿を見せていない……どうやら、我らが隣人は何かしらの変化を求めているようね。
実のところ、最近はリターニアのみならず、この大地中に新たな変化の芽が広がってきている。シラクーザも「ファミリーの事情」にばかりかまけてはいられないわ。
そうだな。
あなたったら、今にも寝ちゃいそうな顔じゃない。
そろそろ昼寝の時間だからね。
そんなことより、この生地はどう?
オーダーメイドでスーツを頼んであげるわよ。ここの仕立て屋はなかなかの腕前だから。
ははっ、遠慮しておくよ。
いまだにその修道服がお気に入りなのね。
私は神父だぞ、シチリア。
でも、この街に教会はないのよ。ラテラーノを離れてから、もうすぐ七十年になるでしょう?
六十八年だ。サンクタのアイデンティティへのこだわりは、スイーツへの愛と同様、永遠のものなのさ。
そのくせ、一度も帰ろうとは思ってないみたいね。まあ、そんな必要もないんでしょうけれど。あの楽園は相も変わらず純白の壁をして、幸せそうな人々がいるばかりでしょうし……
でなければ、あの時あなたが私と一緒にシラクーザへ来ることもなかったはずだもの。
それはどうかな……
気になることでも?
最近、守護銃を握ると少し手が震えるんだ。聖都に残してきた昔の家が、雨漏りでもしているのかも……
私たちは前時代の人間だ。君も知っての通り、老いぼれの勘は昔からよく当たると……ふわぁ──
向こうのソファーで少し寝てきなさい。
この生地のお代を払い終えたら、場所を変えてゆっくり話しましょう。
いやあ、すまないね。
Zzz……
どうされたのですか? まさか立ったままお休みに? 神父様、神父様、大丈夫ですか?
すぅ……
……
……
これで終わりか? たったこれだけとは。
なあティラ、ボスに何かあったのか?
っていうと?
確認は終わってるはずの書類を、法務部の姉さんたちがちょっと書式を整えただけで、あんなにじっと眺めたりするか?
ミスタークリフは、多分あの手紙を読んでたんだと思うよ。
開拓地から届いた手紙のことか? 確か「ウッドロウ」って人からだったな。
だが、手紙にはほんの十文字しか書かれてなかったんだぞ。「どうも、お気遣いなく」……たったこれだけだ。
デイヴィスタウンの件は小耳に挟んだが……
何が言いたいの?
あと半日もしたら、本艦はマックス・クルビアD.C.の航路範囲に入るんだ。俺たちがD.C.市場へ参入するためにどれだけ準備してきたと思う?
なのに、まだ解決してない問題は山ほどある。後ろを見ろよ、幹部連中は全員ボスの指示を待ってるだろ!
こんな時に、あの人の関心は……あの人の――ああもう、言葉が出てこない!
出航直前、ミスタークリフはある重鎮と――ミスタージャクソンと面会してたんだよ。
ふ、副大統領と?
つまり、D.C.の企業との提携にあたって、ボスは事前にクルビア政府の保証を取り付けてたのか――
そう、だから落ち着いて。
BSWの一員なら、「クリップ」クリフを疑う必要なんてない。あなたには考え付かないことも、理解が及ばないことも、あの人なら考え付くし、理解できるんだから。
だってあの人は、これほどたくさんの人間を集めて、銃をラテラーノの外で流通可能な武器に変え……
この事業を開拓地の隅々へ、果てにはクルビア国外まで広げた張本人なんだよ。
ミスタークリフは信頼できるリーダーだし、ほかに類を見ないサンクタだって思わない?
それはもちろん同意するが……ボスの顔色、悪すぎるだろう。あの十文字だけの「長文」でそんなにショックを受けたのか?
……
全員――
な、なんだ、停電か?
どこかの間抜けな傭兵がうっかり何かに触っちゃった? それともエンジニアが点検中に配線を間違えたとか?
……
グッドニュースですよ!
山火事がようやく消えたんです! でも、山が半分も焼けちゃうなんて――って、ウッディさん、どうかしましたか? ケガでもしたんですか?
げほ、ごほっ……いや、大したことはない。
彼、西側の森から戻ってきたところなのよ。あそこは火の勢いが一番ひどかったのに、炎の真っただ中で木を切り拓いて、安全地帯を作ってたの。まったくもう。
その歳でそんな無茶してると……
この辺りの開拓事業もようやく軌道に乗ってきたってのに、こんなところで――はぁ、とにかく本当にただのかすり傷だから、二人とも安心しろ……
うう、それならよかったです。
ところでウッディ、手紙が来てたわよ?
分厚い封筒ですね。何か重要な書類だとか?
BSWから届いたのよ。
ウッディさん、開けないんですか?
いや、やめておく。
開けてみなさいよ、もしかすると中にぎっしりクルビアン金券が詰まってるかもしれないわよ? そうだったら、山火事で空いた大穴を埋めるにはちょうどいいわ。
じゃあお前が開けろ。
そうさせてもらうわ。
わあ、ミスタークリフって随分長いお手紙を書かれるんですね。長すぎて地面についちゃってますよ。
……
ウッディ、どうかしたの?
頭が、急に痛んできてな。
それは手紙のせい? それともケガのせいかしら?
……
随分待たせちゃったかな?
エゼルお兄ちゃん!
誕生日おめでとう、セシリア!
このケーキ……
そう、甘イモをすり潰して作ったんだ。
生クリームがどうしても手に入らなかったから、上には刻んだ干し野菜を乗せてみたよ。できるだけ綺麗な色のものを選んだんだけど……
ごめんね、これが精いっぱいで……「奴隷」の身では手に入る物資が限られてるんだ。でも、グリムさんも少し手伝ってくれてね。
すっごく気に入ったよ!
そう、よかった。それじゃあセシリア、お願いごとをしてみて……君の願いは知ってはいるけど――どうか安心してほしい。今も情報は集めているし、きっとパパは見つかるよ。
うん!
でも、今日したいお願いはね――わたしと一緒に、エゼルお兄ちゃんにもろうそくを吹き消してもらうことなんだ。
えっ?
ママがいなくなってから、エゼルお兄ちゃんはずっとわたしを助けてくれたでしょ。公証人役場でのお仕事までやめて、ラテラーノからカズデルまで一緒に来てくれたよね。
こんなに長い時間、長い旅の間、エゼルお兄ちゃんはずっとセシリアのそばにいてくれた。
本当は、ここに、パパの故郷にいたら、エゼルお兄ちゃんはたくさん危険な目に遭うってこと、わかってるの。でも、希望を捨てちゃダメって教えてくれたのは、お兄ちゃんだったから……
一緒に、誕生日のお決まりごとをやってほしいの!
セシリア……
わかった。
エゼルは手のひらに温もりを感じた。セシリアが彼の手を握っているのだ。
彼は甘イモの誕生日ケーキと、期待に目を輝かせる少女を見やり、明るく微笑んだ。揺れるろうそくの明かりの下で、二人は一緒に頭を垂れて祈りの言葉を唱え始めた。
ラテラーノの秩序よ、我らを照らしたまえ……♪
命の道を示したまえ……♪
常に喜びをもたらしたまえ……♪
ラ・ウニダの東の東……♪
白き聖都、ラテラーノ……♪
……
アウレラ、あなたなの?
小うるさいな。
子供たちが練習してるところなんだ。10分後には聖歌の儀式が始まるから。
今のはお前に言ったんだ、ヌエダ。
……向こうは片付いた?
安心しろ。全員片付けた。
返り血を洗い落としたら? あの子たち、いつここに来てもおかしくないよ。
なんだ、怖いのか? ガキどもの敬愛するシスター・ヌエダが、恐ろしい鉄の塊アウレラと殺人の話をしているところを見られたくないって?
そんなこと言わないで。あなたがいなかったら、今頃わたしたちはいないんだから……あなたが銃を取ってくれたおかげで、わたしは毎日子供たちに歌を教えて、穏やかに眠らせてあげられるんだよ。
ふん……
それで、さっき来たのはシンガスの兵士? それともトゥルーボリバリアンの遊撃隊?
どっちにせよ同じだろ。奴らは人や金、土地を奪うことしか頭にない*ボリバルスラング*どもだからな!
ラテラーノを出るまでは、まさか大地にこんなクソ溜めみたいな場所があるとは思わなかったよ。
もちろん……わかってるよ。あなたの故郷……ラテラーノでは、絶対にこんなことは起こらないんでしょ。
その武器も、装備も、生活習慣も……あなたはいつでも、ラテラーノ人であり続けてきたしね。
ラテラーノ人? ハッ。
正直言うと私は、お前がどうしてラテラーノ教を信じてるのかいまだによくわからないよ。
わたしはボリバルで育ったから、何一つ頼れるものなんてなかったし、こういう*ボリバルスラング*ばっかり見てきたんだ。
でもだからこそ信じたいんだよ。この大地にあるのは、ぼろぼろの小屋と荒れ果てた畑、終わりのない税や避けられない戦争だけじゃないって。豊かな食料や、花や希望もきっとあるんだって……
あのチビどもにも、そう信じさせようとしてるんだな。
たった一人で信仰を持っても、それは信仰とは呼べないから。みんなお互いに支え合わなくちゃ。今のわたしとあなたみたいに……
これが支え合いと言えるかね……
しーっ……アウレラ、あなたはラテラーノを守る聖なる光のようにここを守ってくれてるでしょ。あなたがいるから、聖なる輝きに満ちた楽園を思い描けるんだよ――実際に行ったことがなくても。
ふん、行ったことないほうがいいっての。
仮にお前の望む「聖なる輝きに満ちた楽園」とやらがあるとして、そこはきっとラテラーノじゃない。ほかを当たりな……
私たちは、これからこの修道院を捨てるんだからな。
……
ほら、もう行け、シスター。
子供たちが最後の楽章をリードしてほしがってるぞ。
アウレラ……
ん?
なぜラテラーノを離れようと思ったの?
バカ、私が罪を犯したんだよ……理由なんてそれだけだ。
ヌエダは礼拝堂の扉を押し開けた。
ラ・ウニダの東の東……♪
白き聖都、ラテラーノ……♪
かの土地は爆ぜることなく……♪
かの田畑には麦穂が実る……♪
かの地には聖なる主がおわし、その慈愛はまさに母の如く……♪
主はあらゆる祈りを聞き届け、あらゆる願いを叶えたもう……♪
主はあらゆる者を愛したもう……♪
足なき者も、腕なき者も……♪
……正式な晩祷をするのは、これで最後になるかもしれないね。
ここ数年、わたしたちはこの、三者のどこにも属さない土地で、なるべく騒ぎを起こさないように、シンガスの貴族や遊撃隊を自称する無法者たちの注目を集めないようにしてきた。
だけど、彼らは税を逃れた人や逃亡犯を追って、この修道院の農場や駄獣に目をつけてしまったの。
アウレラが周囲の状況を探ってくれているから、今夜彼女の先導で近くの谷を越えて、みんなでここを離れよう。
北の平原へ向かうことになるかもしれないし、あるいは南のジャングルへ進むことになるかもしれない。長い旅になるだろうけど、幸い今年の収穫は終えているから、食糧は十分あるし……
シスター……
大丈夫だよ、ユーゴー。
アウレラを、わたしを、自分や周りの人たちを、そして「ラテラーノ」を信じて……
声を震わせないように。歌詞の続きは忘れてないよね?
ラ・ウニダの東の東……♪
白き聖都、ラテラーノ……♪
かの地の銃は花火を撃ち出し……♪
かの地の的はりんごの果実……♪
礼拝堂の窓の向こう、今日の太陽が沈んでいく。それでも、立ち並ぶサンクタたちの光輪はなおも輝いており、聖歌隊の声はゆっくりと響き渡っていた。
そうした讃美歌を、彼女はこれまで幾度も歌い上げてきた。かつて聖徒が長く苦しい旅の中で綴ったというその歌は、巡り巡ってボリバルの賢者の改編を経て、今まで百年以上伝えられてきたという。
信仰は無私なるものであり、讃美歌には魂が宿る。「ラテラーノ」は彼らを守り、この先に待ち受けるイバラの道と長い夜を乗り越える助けとなってくれるだろう。
――!
何が起きたの!?
慌てて去った夕陽が、残光をもたらし忘れたかのように、聖歌隊のサンクタたちの光輪と翼が一瞬にして砕けた。それはもはや元の形を失い、光を放つことはなかった。
ヌエダの心には、かつてない恐怖が湧き上がった。
彼女は、ククルカンの伝承によって多くの知識と秘密を知っていたが、目の前の現象に該当する記述も、符号も、記憶の中には一つとして存在しなかったのだ。
祈りの言葉を止めることすら忘れ、彼女は小声でつぶやき始めた。震える声が礼拝堂内に響き渡る――
かの地には聖なる主がおわし、その慈愛はまさに父の如く……♪
主はあらゆる悪人を罰し、あらゆる曲事を除きたもう……♪
主はあらゆる者を愛したもう……♪
傷だらけの者も、石が生えた者も……♪
心より祈りを捧げれば、主はパンを与えたもう……♪
主の御許へと駆け寄れば、主は救いを与えたもう……♪
*ラテラーノスラング*――!
……
アグニル、その光輪――
*シラクーザスラング*!
な、なにが起きてるんだ!?
大丈夫だから、落ち着いて。原因はわかったよ。訓練場にいた誰かが銃の試射中にパラメータを間違えて、給電線を吹き飛ばしちゃったみたい。
エンジニアが向かってるから、すぐに電力は復旧すると思うけど――あれ、なんか違和感が……
こんなに暗くちゃ、そりゃあな。明かり一つないんだから――
そうだ、それだよ! どうしてミスタークリフの光輪が見えないんだろう? こういう時いつもなら、あれが電灯みたいに光って見えるはずなのに……
……
ミスタークリフ!?
ウッディ、今お医者さんを呼んでくるから!
ウッディさんっ……
……
エゼルお兄ちゃん、光輪と翼が……なんで……?
堕天……?
どうして……
わ、わたしのせい?
っ――ラテラーノ……
レミュアンさん!
ふぅ――遠くからお姿が見えたので、何度も声をかけたんですが、お気づきいただけなかったみたいで……
あら、ごめんなさいね。今からちょうど――
おおっ、そういえば今日から新しいお仕事に就かれるんでしたね!
これからは、「敬愛なるレミュアン枢機卿」とでもお呼びしたほうがいいですか?
……やめて、鳥肌が立ってきちゃったわ。
あははっ。それにしても、枢機卿補佐官になられてから、その後枢機卿として着任されるまで、たったの二年でしたっけ?
第七庁の歴代最短記録を塗り替えたって聞きましたよ……本当にすごいと思います!
車椅子早撃ち大会の記録を破った時に比べれば、随分時間がかかっちゃったけどね。
えっ?
冗談よ。
そうですか。ああ、俺もいつか、レミュアンさんみたいなすごい人になれたらなあ。
でも、ここの通り三つに住む二百世帯以上が、あなたの配達を待ってるのよ。あなたが運んでくれる新鮮なミルクがなかったら、朝食のフルーツタルトも、食後のデザートもないんだから……
それに比べれば、枢機卿が必要になる場面なんて、そう多くないでしょう。ラテラーノの外交や安全保障を担うお役目は、そこまで頻度は高くないし。
ラテラーノにとって、私たち二人のどっちがより重要な仕事をしているかは何とも言えないわね。
ははっ、それもそうですね。じゃあ俺も、急いで仕事に向かわないと!
ミルクはいつも通り玄関に置いておきます。お二人分でしたよね?
ええ。
そういえば、レミュエルさんって今どうしてるんですかね。龍門で配達業をやってるのか、それともロドスって製薬会社で警備の仕事をやってるのか……
しばらくお会いしてないんで、ちょっと懐かしくなっちゃって。
エルのことだから、いつかふらっと戻ってくるんじゃない? その時冷蔵庫が空っぽだったら、きっと怒られちゃうわ、ふふっ。
ははっ、ですね。
あっ、ところで第七庁に向かうならこっちは遠回りですけど、どうして……
ついでだから、久しぶりに友人の顔を見てこようと思ったの。
そうでしたか……それじゃまた、レミュアン枢機卿。
どうか平穏な一日を。法が我らと共にありますように。
ええ、またね。
道すがら何人かの顔なじみに出くわし、そのたびレミュアンは挨拶を交わしていく。それから彼女は街角を曲がり、ごく普通の通りへと入っていった。
清らかな街並みに雲が影を投げかけ、そよ風が空気に漂う甘い香りをかき混ぜる。進むうち、周囲は次第に静まり返り、レミュアンの今日の目的地が近づいてきた。
彼女の生活が変わったのは確かだ。だが彼女は足取りも軽く、そうした変化を喜んで迎えていた。
レミュアンは昔からそうだった。
あるいは、ラテラーノ人は皆そうであるのかもしれない。
「どうか平穏な一日を。法が我らと共にありますように。」
レミュアンは小さくつぶやいた。
道の突き当たりには、ひときわ大きな建物が雲を突き破らんばかりにそびえ立っている。その流線形の構造は、周囲に建つ背の低い教会建築群とはまるで釣り合っていなかった。
「そびえ立つ」というのは決して誇張表現ではない。どこからともなく現れたようでもあり、初めから聖都に存在していたようでもあるその建物は――
レミュアンの到着を歓迎していた。