安らかな譫言 SS-8・戦闘後
童話のプロローグ
最後の音を弾いた後も、祥子の手は鍵盤に添えられていた。
がらんとした城で、演奏の余韻が響き渡っている。
……さき、ちゃん……?
長らく聞いていない、しかし馴染みのある声に、祥子はゆっくりと顔を上げる。
やっと……やっと……
……やっと会えたね、さきちゃん。
なんだか、すごく長い夢を見てた気がする。もう二度と目が覚めないんじゃないかって思ったくらい。
さきちゃん、私たちずっと同じ場所で何度もすれ違ってたんだね。もう少しでまた繰り返すところだった。
祥子の前には、初華以外のメンバーも集まっていた。
まるで誰かに引っ張られて、気が付いたらここにいたような感覚です。
も〜、改まってなんなの〜?
祥、すごく嬉しそう。
上から照らすスポットライトの眩しさに、祥子は少し目を細める。目の前の光景は、また夢を見ているかのように現実味がなかった。
しかし、これだけは分かっていた――
彼女たちが、再び自分たちの音楽を奏でたということを。
Ave{@nbs}Mujicaは、ここに再集結したのだ。
ええ、本当に、安心しました……
初華……睦。
海鈴……にゃむ。
ずっと……会いたかった。
皆さん――おかえりなさい。
(苦しそうな鳴き声)
私たちを眠らせていたのは、この方々ですか。
夢の効果が……もう……
ダ……ダメ……
出たらダメ……あんたたちは……ここにいなきゃいけないの!
(鋭い鳴き声)
――皆さん、危ない!
ウォルフ!!
モーフィアス、これ以上過ちを犯さないで!
本で覚えたばかりのセリフで……私に説教するんじゃないわよ!
祥子、皆を連れて――ぐぅっ!
ウォルフが言い終わる前に、無数の糸がウォルフの両腕を針のように貫いた。空いた穴からは、綿がどんどん溢れ出てくる。
あっ! 上!
見上げると、数えきれないほどのカールトンたちが、頭上を飛び交いながら大きな夢の網を編み上げていた。
夢の網は少しずつ少女たちに迫り、ますます巨大になっていく。
モーフィアス……もう君も気づいているだろう! 自分の過ちに!
空中から巨大なハサミが落ちてきたかと思うと、夢の網はたちまち切り裂かれ、糸くずと化してひらひらと舞い散った。
(慌てる鳴き声)
誰!?
くっ――!
少女は空中で悲鳴を上げると、そのままの姿勢で落下していく。その速度はどんどん速くなり――
ア、アタシたち助かったの?
一体どういうことですか……
ごめんなさい、遅くなりましたわね。
ア、アイリスさん……! ありがとうございます。おかげで助かりました。
見慣れた妖精の姿を見て、祥子はほっとすると同時に、耐え難い眠気に襲われた。抗っても身体は言うことを聞かず、そのまま鍵盤の上へと倒れ込む。
くぐもった音がホール全体にこだました。
さきちゃん――!
祥子さん……祥子さん……
(どなたが呼んでいますの……)
祥子の五感が少しずつ戻ってくると同時に、淡く芳しい香りが漂ってきた。
ゆっくりと目を開けると、祥子は柔らかいベルベットのソファーに横たわっていた。その傍には、明るい髪色の少女が座っている。
あら、お目覚めですのね?
夢の中を行き来しすぎて、身体が限界だったのでしょう。それで気を失っていたようですわ。
ですが、あのようなアーツにまったく触れたことがないのに、これほど長く持ちこたえられたのは驚きですわ。
他の皆さんは……
ご心配なく。皆様にはお部屋を用意しましたし、ベナもついてくれていますから。
あら、ちゃんとした自己紹介がまだでしたわね――私はアイリス、夢のお城の主ですわ。
わたくし、夢の中ではもう何度もアイリスさんとお会いしていますのに……これが初対面なら、今までのあなたは一体どなたなのですか?
モーフィアスの能力はご覧になりましたわね――夢のお城の妖精には、夢を作り出すことのできる、稀有なアーツを持った特別な妖精がおりますの。
ですが、そうした力も万能ではありませんわ。作り出す夢の完成度は、常に対象をどれだけ理解しているかに左右されますの。
モーフィアスは初めからあなたのことをよく理解せず、対等な相手とも見ていませんでした。ですからあのような不完全な夢になってしまったのですわ。
夢の中でお会いできた理由は……きっと、おばあ様のおかげですわね。
おばあ様?
ええ、以前夢のお城の主だった方ですわ。お体が悪くて、今はずっと隠し部屋で療養しておりますの。
ここ数日、そのおばあ様から以前頂いたネックレスの内部のエネルギーが不安定だったので、念のためベナと急いで戻ってきたのですが……まさかこれほど大変なことになっているなんて。
そういうことでしたのね……
さっき向こうでトラブルがあってね。一人で行くのは危険だから、別の道を通りな。
……ご忠告ありがとうございます。
先ほど近くにいたおばあ様からお聞きしましたの。
早く顔を見せてやりな。
夜道は暗いから、気をつけて行くんだよ。
祥子さん。夢のお城の主として、今回の出来事のお詫びをいたします。
ですが、モーフィアスはあれだけのことをしたのです。お許しいただけるとは……
いいえ……確かに、モーフィアスがしたことは、許せるようなことではありませんわ。ですが、わたくしは彼女を恨んでなどおりません。
……どうしてでしょう?
実は……彼女のおっしゃる通り、Ave{@nbs}Mujicaは、固い絆で結ばれたバンドではありませんわ。
最初にモーフィアスの勝負を受けたのは、眠っているメンバーを一刻も早く助けたかったから。冷静な判断とは言えませんでした。
ですが夢の中に入り、一人ひとりから拒絶された時、わたくしは皆さんの心の内を何も分かっていなかったことにようやく気が付いたのです。
モーフィアスの夢の中で、わたくしたちは表面的な幸福に溺れ、心の中の弱い部分は見ないようにしておりました。
わたくしはこれまで、共に過ごしてきた仲間を理解しようとしたことがあったのでしょうか。
本当に誰かの人生を預かる覚悟はあったのでしょうか。
「夢なき境界」の深淵に堕ちていく途中で、わたくしは何度も自分にそう問いかけましたわ。
祥子さん……
ようやく迷いを断ち切り、皆さんを一人ずつ夢から覚まして、もう一度モーフィアスの前に立った時――最初に浮かんだのは怒りでしたわ。それと同時に、言葉にできない感情も湧いてきたのです……
心の底からこみ上げる、悲しみのような感情が。
モーフィアスと再会した時。ふと気付きました。わたくしはもう弱い人間ではなく、傍には仲間がいるのだと。
ですが、今でも彼女の傍にいるのは、自分の意のままに動く作られた存在だけ。
夢の作り手である彼女なら、夢に出てくるものがすべて偽りであることは、誰よりもよく分かっているはずですのに……
それでも夢を作り続けて、その中に自ら溺れていったのです。きっと、彼女なりの理由があるのでしょう……
……
あはははっ! 心のないバケモノめ!
だから親に捨てられたんだよ!
お前なんてこの冬で飢えちまうぞ!
違うもん、いい加減なこと言わないで!
あんたたち、どっか行きなさい!!
うわっ――逃げろ!
モーフィアス、大丈夫ですの!?
アイリスお姉ちゃん! あ、あの子たちの言ってたことはウソだよね?
あの子たちは悪い子なんだよね? 妖精はあんな子たちに素敵な夢を与えたりしないよね?
私は心を持たないバケモノなんかじゃないし、親に捨てられてもないし、この冬だって越えられる……そうなんだよね!?
モーフィアス……
アイリスお姉ちゃん、答えてよ!!
……
ある理由から、モーフィアスは夢のお城の中でしか生きられませんの。
この大地は童話のように美しい場所ではありませんわ。モーフィアスはあまりに多くの苦しみを受け続けたことで、童話の素敵な夢を信じられなくなってしまったのです。
私もよく分かっています。夢のお城の見せる夢が、どのような問題も解決できるわけではないと……
「現実と比べれば、私たちの力には限りがありますのよ。」
「私たちにできるのは、子供たちの心の一番奥底に種を蒔くことだけ……」
「その種とは、子供たちが幼い時に一番大切に思っていたことや、大切だった物。」
「それは普段は奥底でひっそりとしている。でも肝心な時――人が最も弱くなる時に、力を与えてくれますわ。」
それは……?
夢の中のあなたがお話ししてくれたことですわ。アイリスさん、今度はわたくしが同じことを伝える番です。
もしかすると、モーフィアスも本当の「大人になる」ための夢を待ち続けているのかもしれません。
月明かりが降り注ぐ時、人形は仮初めの命を宿す。――ご覧になって。月はもう昇っていますわ。
アイリスは窓のほうを見やった。冷たい月の光が城の窓から差し込み、彼女と祥子を優しく照らしていた。
ええ、その通りですわね。
それとアイリスさん、もう一つお願いしたいことが……
どうぞおっしゃって、必ずあなたの力になりますわ。
わたくしたち五人は夢から覚めました。ですが、元の世界に戻れたわけではありません。
夢のお城の主であるあなたなら、戻る方法をご存知なのではありませんか?
あなたが気を失っている間に、あなたの言う「世界」がどのような場所か、皆さんからお聞きしました。説明を聞く限り、確かにテラのどの都市とも違うようですわね。
ですがあなたたちのような事例に出会うのは初めてでして、お城の資料庫をいくら調べても手がかりは見つからなくて……
ですから私は、ロドスに助けを求めようと思っています――ロドスのドクターは博識ですから、きっとあなたたちが元の場所に帰る方法を見つけてくださるはずですわ。
ロドス……あの製薬会社のロドスですか?
そのロドスですわ。夢の中でお知りになりまして?
ええ、またあそこへ行きたいと思っておりましたの。それにまたお会いしたい「同僚」も……あら……?
祥子さん、どうかしましたの?
な……なぜか、あの方々の顔がはっきりと思い出せなくて……
困惑する祥子を見て、アイリスはそれを予期していたかのように、そっと彼女の手を取った。
祥子さん、これまでたくさんの人の夢を見てきたあなたなら、夢のお城のルールはよくご存知のはずですわ。
……
他のすべての夢と同様、目が覚めた瞬間から、夢の記憶は少しずつ薄れていきます。
いつの日か、あなたの「世界」へ帰る日が来ますわ。その時は、私のことや、夢のお城で見た素敵な夢、テラのあらゆることを忘れてしまうでしょう。
そんな……!
ですが、ここで起こったこと全てが無意味だったというわけではありませんわ。
帰ってからも、あなたたちはもう一度ご自身たちの問題と向き合う時が来るでしょう……ですが、皆さんは困難に立ち向かうための勇気を手に入れました。
それは夢から覚めても、決して忘れるものではありません。ですから、今のあなたたちならきっとどんな困難も乗り越えられると信じていますわ。
ええ、わたくしも信じております。
元の世界へ帰っても、Ave{@nbs}MujicaはAve{@nbs}Mujicaであり続けます。
夢のお城の主として、「子供」でいるあなたたちの今の姿をいつまでも忘れずにいましょう。
いつか大人になったあなたたちの前に、私が現れる日が来るかもしれません――その時も、皆さんが変わらず音楽で自分たちの人生を綴っていることを願っていますわ。
ええ、約束いたしますわ。
外から音がしますわね……
また誰かが騒ぎを――!?
祥子は慌ててドアを開けた。
さきちゃん――やっと起きたんだね。
(目眩を覚えているような鳴き声)
ええ。でもこの大きな音は一体……?
新しくステージを作ってるんだ。ベナちゃんの指示で、モーフィアスちゃんはこの子たちに物を運ばせてて……
新しいステージ……?
そうそう。ここに長く残ることになるかもしれないし、時間があるうちにどんどん演奏をやっていこうって話になってね。
うん。やりたい曲、いっぱいある。
モーフィアスさんは夢の中にステージを作ればいいとおっしゃっていましたが、ベナさんと私たちで却下しました。
夢はしばらく見たくないかな〜……
私も……
誰かちょっとは私のこと気にかけなさいよ――なんで私がこんな力仕事しなきゃいけないの!?
(怒るような鳴き声)
隣に立っていたベナは、黙ったままモーフィアスのふわふわの耳を指で軽く弾いた。
いたっ!!
(哀れな鳴き声)
モーフィアス、悪いことしたら、罰を受けなきゃ……
ウォルフ、あんたも連帯責任よ。最後のライトを取り付けてきなさい!
えっと……はい。
ウォルフは全員の目の前で、両手を地面につき、獣の姿に素早く変身した。
そしてケーブルを咥えると、軽々と跳び上がって天井のライトと繋いだ。
どう? 私の作った新しいステージは。
え〜!? すっごいイイじゃん!
にゃむはステージの上に駆け上がり、丁寧に作られたセットの間を走り回った。
ふん、こんなの朝飯前よ。
それより、肝心の楽器は忘れてないわよね?
ちょっ、耳を叩かないでよ! すぐ持ってくるって!
モーフィアスが耳を押さえている間に、ステージには全員の楽器が揃っていた。メンバーたちが次々にステージへ上がっていく。
うん、手に馴染む。
(夢の中で叩いてなかったから、現実でも感覚がナマってないといいんだけど……)
さきちゃん、みんな準備できたよ。早くおいで。
祥子はステージ上の仲間たちを見上げた。四人はすでにライトの下に立って、キーボードと共に祥子の帰りを呼びかけているようだ。
皆さんの演奏、とても楽しみですわ。
前のライブはちゃんと観れなかったけど、これで埋め合わせができそうね。
(楽しそうな鳴き声)
敵としてじゃなく、友人としてみんなの演奏を聞けるのが、僕は最高に嬉しい。
何よあんたたち、綺麗事ばっかり言っちゃって!
で、でも……一曲くらい、聴いてあげなくもないわ。
ぷっ……ふふ……あははは……
な、なに笑ってんのよ! アイリスお姉ちゃんとベナお姉ちゃんがいるからって、私に何もできないと思ったら……
なんでもありませんわ……ふふっ、もう少しだけお待ちくださいませ。
祥子は仲間が差し伸べた手を取り、ステージに上がる。
その瞬間、まるで最後のピースが嵌まったように、Ave{@nbs}Mujicaのステージが完成した。
皆さん、わたくしたちの音をこの大地に残しましょう!
月明かりが降り注ぐ時、人形は仮初めの命を宿す。
人形の皮膚の下には、少女たちの秘密が隠されている。
愛、恐れ、悲しみ、死、忘却。
夢のお城では、秘密と過ちが混ざり合い、また蘇る。
燭台を掲げ、荊棘を越え、霧を払おう。
新たな童話が、ここに生まれる。
これはわたくしたち人形の不思議な冒険譚。
……ようこそ。Ave{@nbs}Mujicaの世界へ