聖山降臨1101 OS-2・戦闘前
甘き隣人
不浄の者たちめ……! 奴らがカランドを踏みにじり、イェラグの信仰を踏みにじったんだ!
このイェラグのものに非ざる鉄の建物がイェラガンドの怒りを買ったに違いない!
ああ、イェラガンドよ、我らの罪を赦したまえ……
祈りの声や、すすり泣く声、怒りの混じった叫び声。
様々な声が一本の縄を成すように絡まり合い、涙や怒りを浮かべた顔が数珠のように繋ぎ合わされて、できたばかりの観測所を取り囲んでいる。
それでも、鉄の扉は微動だにしない。その時、群衆の中からしわがれた声が響いた。
「山々の間を常に吹き抜けてゆく風は、虚空より来たるものではないと忘れるなかれ。」
寒風吹き荒ぶ中、老婆は雪を踏みしめながら、閉ざされた扉へと向かっていく。彼女の声は、はっきりと人々の耳に届いていた。
「其は白銀の峰より吹き降ろされた、主の息吹である。」
「其は奥深き谷底より雲の上へと戻りゆく、主の絶え間なき守護である。」
「其は穢れた瘴気を祓い、岩間に潜む毒虫を駆逐する。」
「其はすべての声を主の耳へと運ぶ。主はその声を以て判じられ、山々は澄み渡るであろう――」
ねえ、あの扉……今動いたわよね?
よし、扉が開いたぞ! 俺たちの抗議が届いたんだ!
扉を開けろ! そうして俺たちの声を聞け!
イェラガンドの民、イェラグ人の心からの声を聞くんだ! お前たちは歓迎されていない! この地から出ていけ!
カランドから出ていけ! 元来た場所へ帰れ!
よそ者は出ていけ!
よそ者は出ていけ!
人々の声は次第に大きく、明確な響きを成していく。中には、両手を上げて空高く振りかざす人もいた。
そうして、真摯な祈りが届いたからか、あるいは彼らの祈りが鋼鉄をも震わせたからか――
扉は開かれた。
すると一瞬にして、人々は声を上げるのをやめ、静まり返る。
……
……
あの服装……シルバーアッシュ家の人か?
後ろの人は……エーデルワイス家のあの人よね? よそ者を追い出すために来てたとか?
だとしたら、一安心だ。よそ者を引き入れたのはあの人たちだし、誰かが追い出さないといけないのなら、彼らがやるべきだろう。ただ、あの表情を見るに……
抗議に来た人々に帰ってもらえ。くれぐれも怪我人を出さないように。
皆さん、武器を置いて、後ろへ下がってください!
どうして私たちが!? 下がるものですか! 出ていくべきなのは向こうの……ちょっと、引っ張らないで!
ねえ、あなたエーデルワイス家の人でしょ! 一体どっちの味方なの!?
……見ればわかるだろ……あいつらの武器も盾も、俺たちに向けられてるんだぞ。あいつが誰の味方をしてるかなんて一目瞭然だ。
……
山上の風雪はこれからさらに激しさを増していきます。
下山する道が塞がれる前に、帰路に就かれたほうがいいでしょう。
道中の危険については心配無用です。シルバーアッシュ家の衛兵が皆さんの安全を守り、無事に送り届け……うっ!
おばあちゃん、ちょっと……やめ――
腰の曲がった老婆が、衛兵たちの間から腕を突き出した。
そして彼女は、素早く、決断力に満ちた淀みない動作で、一握りの冷たい雪を雄弁なリーベリの顔へとぶつけた。
イェラガンドが、あんたの罪をお赦しくださいますように。
しわの刻まれたその顔には、憐憫と揺るがぬ慈悲とが混じり合った表情が浮かべられていた。
老婆の冷たい指がノーシスの額に触れ、単純な弧を一つ描く。
それは、高熱の引かない子供についた穢れを祓うための、イェラグ人に伝わるおまじないだった。
主の奇跡によって、この子の身体から、穢れた瘴気と毒虫が祓われますように……
ノーシスや。イェラガンドの山風はあんたの頑固な心に触れようとしてくれたっていうのに……
あんたは今、それを拒絶しようとしているんだよ。
……
早くお戻りになってください、おばあさん。
ノーシスの表情に変化はなく、ただ白い息を吐く彼の顔を、雪が融けて生まれた水がゆっくりと流れ落ちていく。
冷たい山風で身体を壊さないように、どうかお気をつけて。
イェラグ。それは美しき秘境であり、風雪に覆われた清らかな地。敬虔にして純粋な、加護を受けし片隅の地。
この地の人々の信仰は今も、雄大な雪山の如く、永久に変わらず揺るぎない形で立ち続けているようでいて、あるいはそれは、ひとひらの雪によってすべて崩れ去る可能性もあるのかもしれない……
「あなたは天災の件をどうお思いですか? 天災が訪れたことで、イェラガンドへの信仰に影響はありましたか?」
イェラグの信仰は斯様に惰弱なものではない! 過去最も厳しい試練が訪れた時にも、イェラグ人は一歩も退きはしなかったのだからな!
天災が過ぎ去り、足が動くようにさえなれば、わしはカランドへ向かうつもりだ。
イェラグのまばゆい朝日を浴びれば、痛みも災いもすべてが消え、全身の穢れと呪いが祓われ、あの石塊病だかなんだかいう病気も取り払われることだろう……
慈悲深く寛大なイェラガンドが、イェラグを見放されることなどありえぬ。積もった雪を取り払えば、すべてが元通りになるはずだ……
……当たり前でしょ! 全部あのライン生命とかいう人たちが悪いんだから!
何もかも、あの人たちが来てからおかしくなったんだよ! 観測所なんてイェラグには必要ないじゃない! 私たちにはイェラガンドの守護があればそれでいいんだから!
あんな人たち、出ていけばいいのに! 私は平和な暮らしを取り戻したいの、それで……パパとママに帰ってきてほしい……
どうしたの? 何か手伝えることは――待って、あなたヴィクトリア人?
ちょっと、武器を持ってきて! この人をうちの村に入れたのは誰なの? クルビア人だのヴィクトリア人だのがずかずか上がり込んできて、いつからここは誰でも入っていい村になったっていうの?
さっさと出ていって! あなたたちなんてお呼びじゃないのよ!
ふぅ……想像以上に骨が折れるわね。
お姉さん、何か困りごとでもありましたか?
あら、お気遣いありがとうございます……困りごとと言いますか、持ってきたフィルムが少し足りなくなってしまったんです。ここではなかなか手に入らないのは承知の上なんですが……
どれどれ……んーと、この型のフィルムなら、シルバーアッシュ領内の中央ショッピングモールで買えると思いますよ。
それにしても、綺麗な写真ですね。ヴィクトリアからいらした、カメラマンさんですか?
厳密に言うと、記者ですね。
そうだ、ちょうどよかった。お嬢さん、インタビューを受けてもらえませんか?
えっ? あたしですか?
ええ。あなたは天災の件をどうお思いですか? それと、「イェラグを天災から守る」というイェラガンドの守護がなくなった今、ご自身の信仰とどう向き合われるおつもりですか?
あー……だから遠くからでも、イェラガンドがどうだの、天災がどうだのって話が聞こえてたんですね……
あなたは、イェラグ人がそれをどう思っているかが気になるんですか?
ええ。我々はイェラグの真実を記録するべく来ましたので。大地の人々の多くは、イェラグのことをほとんど知りませんから、皆さんの本当の声を、より多くの人に届けたいと考えています。
どうか重苦しく宗教的な空気に縛られず、格式ばったしきたりから解放されたと思って、ご自身の素直な気持ちをお聞かせください。
わー……そんなに一気に難しいことばっかり言われても……
ええと、今回の天災をどう思うかですよね……でも、あたしの答えはシンプルですよ。よその国で起きようとイェラグで起きようと、天災はどれもひどいものです。
どこで起きても必ず苦しむ人や、怪我をする人がいるんですから、良いことなんて一つもありません。あたしはそれが悲しいし、残念に思います。できれば二度と起きないでほしいですね。
それから、「信仰」の話ですけど……そういえば、ヴィクトリアにも神様っているんですか?
ヴィクトリアに、ですか……?
はい。どんな神様なのか興味あるなあと思って。もしかすると、心が狭かったり、怒りっぽかったりするんですかね?
だって、お姉さんたちはこの数日村のあちこちで取材してるみたいですけど、「イェラガンドの怒りが」とか、「イェラガンドに見捨てられた今」とか、そんな話ばっかりするじゃないですか……
それを思うと、あなたたちの考える「信仰」って、すごく冷たくて厳しいものなのかなって。
少女の顔に笑みが浮かぶ。ふっくらとした頬が弧を描くように上がり、その声音は柔らかく軽やかだ。
だけど、イェラグの神様はきっと、そうじゃないと思うんです。
イェラガンドは、イェラグの人たちみたいに寛容で大らかな神様だと思います。
だから、ケーブルカーや工場ができようが、白熱電球の下で読書する人がいようが怒らないし、ましてやその怒りを理由に天災を呼んで、人の命を奪って憂さ晴らししたりなんてしませんよ。
イェラガンドがそんなに心が狭いはずないじゃないですか。
よい――しょっと! もう一箱頼む! そう、そこに置いて――
ほら、こいつも持ってってくれよ。お前の荷車、まだ余裕があるだろ。うちに残ってる駄乳酒十五樽、一緒に積んでいけるよな?
十五樽だって? あのなあ……
少しは残しておけよ。こんなにでかい酒場なのに、客が来た時に一杯も出せないなんてことになったら大変だろ。
被災した村のほうには……地元の豪商だけじゃなく、三大名家のお偉いさんたちもたくさん物資を寄付してくれてるんだぞ。当分はお前たちの酒までもらわなくたって困りゃしないさ。
そういう言い方はやめてくれ。
誰かが支援したから俺たちはしない、なんて筋が通ってねえだろ。俺たちの酒がなくても~ってお前は言うが、天災の怖さは俺のほうがよく知ってる。
そうは言っても、これは多すぎるんじゃ……
いいや、そんなことねえ。お前らんとこに酒が足りねえことくらいわかってるんだぞ。
なんせ、酒は身体を温めるのにも、薬湯を作るのにも使えるし、いざとなったら傷口の消毒にだって使えるんだ。
昔の俺たちにも、この手の物資がいつもこれだけたくさんあったなら……はぁ、いや、こんな話はやめにしよう。
とにかく、持ってってくれ。でなきゃ、お前は俺をイェラグの仲間だと認めてくれてねえんだって思うことにするからな!
おいおい――何言ってんだ、そんなことないっての!
だったら受け取ってくれ。俺のためだと思ってさ、な? うちの義理の父さんがどういう性格かなんて、お前のほうがよくわかってるだろ。
あの人はずっと貧乏暮らしをしてきたが、腹を空かした奴には食い物や飲み物を気前よく分けてやるような、真っすぐな善人だからよ……ほら、退いた退いた。積み込みの邪魔だぜ。
わかったわかった。それなら、あんまり面倒起こしてこれ以上親父さんに嫌われんようにしろよ。
なんせ、お前が娘さんに求婚した時なんぞ……あの親父さん、ひどく怒っていつまでも文句言い続けてたからな。
「親切な男だと思っていたら、まさかうちのフレイヤを狙っていたとは!」なんて言ってよ。
それでも怒りが収まらず、結局杖まで持ち出して……はははっ……
随分楽しそうね。何のお話かしら?
でも、今はそれより手を動かしてちょうだい。さっき父さんと在庫を数えてきたんだけど、まだ二台分は物資が残ってたの。燻製肉とチーズがほとんどだけど、バターと薬草も少しあるわよ。
あなたがまだいてくれて助かったわ、クリート。カランド貿易の人に伝えてほしいの。酒場に荷車をもう一台回してちょうだいって。
二台分って、お前らなぁ……
クリート、もう話はついたはずだろ。
……はぁ、わかったよ。お前ら夫婦の好きにしな。まったく、普通新婚さんってのは贈り物を山ほどもらうもんだろうに、お前らと来たら、自分ちの倉庫を空っぽにしたがるとは。
だって……これは「天災」だもの。
イェラグでは誰も見たことがないようなものだし、被害がどれだけ深刻なのかも誰にもわからないでしょう。
どうあれ祈りましょう、我らのイェラガンドに……ね、今は助け合うべき時よ。
我らのイェラガンドに。そうだな、みんなで力を合わせれば、この災害も乗り越えられると信じよう。
……
私たちは戻りましょう、リスバーン。風が強くなってきたから。
……待ってくれ、なんとなく引っかかるような……
なんとなくって、何のこと?
何かが起きそうな胸騒ぎっていうか……
い、いや、俺の考えすぎかもな。
相変わらず勘の鋭い奴だな、お前は。
なっ……
嘘だろ……ハロルド? 俺は夢でも見てるのか?
いやはや、何たる光栄でしょうか!
イェラグに婿入りされた方が、まだこの老いぼれの名を覚えてくださっていようとは。生死を共にしたあの日々のことも、少しはご記憶に残られているようですな。
うっ……からかうなっての。それより、どうしてここに?
どうしても何も、用件なんぞ決まっているだろう?
イェラグが近頃ちょっとした厄介ごとに見舞われたと聞いたものでね。お節介な隣人としては、助けの手を差し伸べずにはいられないというわけさ。
この荷車、一台丸ごと救援物資でいっぱいじゃねえか……よくこんなに持ってきてくれたな。
一台だって? いやいや、これで終わりだと思ってもらっては困るな。この後にも大部隊が続いているんだ。
ハロルドが後ろを指差したことで、リスバーンはようやく気が付いた。街道にヴィクトリアの紋章が刻まれた大型車両が並び、果てが見えないほど長い隊列を成していることに。
これが……ただ「助けの手を差し伸べに」来た連中の規模か?
まあ……少なくとも、どこぞの威圧的な輩よりかは「助け」と呼べるものだろうさ。
エンシオディスさん、私どもとしてはやはり、今回の事件をどれほど問題視しているかを強調してお伝えすべきと考えています。
これまで我々は、カランド貿易を信頼できるパートナーと捉えて、イェラグもまた尊敬に値する国であると見なしてきました。
ゆえに、この観測所のプロジェクトが両国間の協力関係の模範となり、相互理解と交流の機会をもたらすことを期待していたのです。
ですが、現状を見るに、いささか失望を抱いたと言わざるを得ません。
ご不安はお察しいたします。ですが、まずはご説明を――
いいえ、説明など必要ありません。イェラグで何が起きたのかは当然把握しておりますので――その点については、大変遺憾に思っております。
ですが、だからと言ってそれが、イェラグの民衆からクルビアの学者が理不尽な攻撃を受ける理由になるなど、決してあってはならないことです。
彼らは観測所を包囲し、科学者を呪われた者と呼ばわり、敵意を煽り、明らかに排他的な態度を取ってきました。
現在のイェラグにおいては、他者の安全が軽視され、侵犯されているのです。もはや怒りを覚えるほどに。
もし、その管理者がこのまま何の措置も講じず、事態が制御不能な状況にまで陥った場合、クルビアは避難規定に基づき、ライン生命研究員の安全を守り、避難の支援をするべく人員を派遣します。
包囲事件の顛末からもおわかりになります通り、カランド貿易の武装戦力はいち早くライン生命の観測所に到着し、対立の激化と問題の拡大を防ぐことに成功しています。
私の知る限り、あなたの言及された「デモ」において、死傷者及び財的損失は発生しておりません。
運よくそうなった、というだけのことでは? あるいは、感情の高まりが未だピークに達していないだけのことではありませんか?
我々は、イェラグが事態を穏便に治めてくれることを信じろと言われているのでしょうか。あるいは、「群衆の怒り」が一夜にしてすべて消え去ることを信じろと言われているのでしょうか。
炉に燃える火がパチパチと爆ぜて、暖かな空気が頬を撫でても、誰の顔にも安らぎや心地よさは見えなかった。
クルビア大使はわずかに姿勢を正した。穏やかな声で言葉を続けつつも、その指先はテーブルをゆっくりと叩いている。
これまでにカランド貿易が見せてくださった専門性や誠意、その優れた管理能力には敬意を表します。
そうしたものがあったからこそ、我々の提携事業も、科学研究資金の援助プロセスもスムーズに進んできたのですから。
ですが今は、クルビアでも指折りの優秀な研究員たちが、あなた方の土地で不当な脅威に晒されているのです。
イェラグ側の問題の解決策を……もしくは、少なくとも解決へと踏み込む意志を見せていただきたいですね。
しかし、こうした発展途上国に……そこまで厳しい要求をするのはいかがなものかと思いますよ、大使。
イェラグの現状を鑑みれば、エンシオディスさんの対応は十分称賛に値するものでしょう。
……ヴィクトリアは隣人を深く理解し、気にかけていらっしゃるようですね。
ええ、それが当然のことですから。
ヴィクトリアの古い物語にも、ある王子が雪中の羽獣に自らの金の冠を与えるという逸話がありますように、善良な隣人たるもの、善意によって手を差し伸べねばなりません。
男は、その厳格な顔つきに見合わぬ不自然な慈愛を滲ませて微笑んだ。
そして彼は襟を整えると、胸の内ポケットから折りたたまれた書簡を取り出し、長テーブルの上に広げる。
こちらが第一回人道支援における物資のリストです。
食糧と、防寒には必須となる毛織物、医薬品、アルコール、砂糖と塩、そして信頼のおける医療チームと、秩序維持に長けた二つの部隊をご用意しました。
これぞ、今のイェラグに必要なものだと思いまして。
なんと手厚い援助でしょう。大使殿のイェラグに対する善意に感謝いたします。
いやいや、これは私のというより、ヴィクトリアの善意ですよ。
金の如き心を持つ王子は、金銀のみならず、宝剣をも贈ることができるものです。ゆえにすべては、あなたが必要とする物が何か、そしていかなる脅威に直面しているか次第なのですよ。
……フッ。
恐れも心配もいりません。あなたの選択はきっと、三者にとって満足のいく結果をもたらすと信じております。
言ってしまえば、この雪境では生き延びること自体がある種の芸術とすら呼べるのですから……そうではありませんか、エンシオディスさん?
情熱的な視線と、意味深長な視線が一つ所に集まり、薄い紙の上を滑って、沈黙する青年のもとへと向けられた。
エンシオディスさん、あなたはどうお考えですか?
青年は目を伏せたまま、差し出された書簡を手に取った。
すべての行、すべての列に明確な文字で内容が記されている。そのリストには偽りはなく、ヴィクトリア側は小隊長全員の名前までそこに記載していた。誠意と品位、どちらも申し分のないものだ。
お断りする理由などありますまい。
大使の仰る通り、これぞ今のイェラグに必要なものです。
物資の援助はより多くの被災者を救い、また医療チームは病と死との戦いにおいて、我々により多くの勝算をもたらしてくれることでしょう。
そして、訓練された部隊を貸していただけるとなれば……言うまでもなく、それがどこで役立つかはお二人もご存知の通りです。
ところで、クルビア大使殿。先ほど中断された話題についてですが……
観測所の設立当初、イェラグはこの地に滞在する全研究員の安全を保障するとお約束しました。
そして、現時点において、結果を見ればイェラグはその約束を違えてはおりません。ゆえに私には、あなたがなぜ「イェラグの情勢は制御不能である」と結論を急がれるのかがわかりかねます。
蔓珠院とカランド貿易は、引き続き約束を果たして参ります。ですので、今しばらくの間、イェラグには内部の問題を処理する能力があると信じてはいただけませんか?
私は、観測所で起きたデモについても、偶発的なものか、あるいは何者かの悪意ある扇動によるものかは、遠からず答えが出ると考えております。
……いいでしょう。では、エンシオディスさん、あなたがどのように行動なさるのかを楽しみにしております。
ですが、やはりご忠告はさせていただきましょう。クルビアは観測所のプロジェクトを非常に重視しておりますし、これはテラ全体にとって非常に有意義なものであると考えております。
ですのでクルビアには、「いかなる手段を用いてでも」、我が国の研究者と彼らが生み出す成果を守り抜く覚悟があります。
そうですね。私も、イェラグで行われている科学研究は、我々全員にとってのチャンスであると信じております。
イェラグの平穏を守るべく、ヴィクトリアとしても、尽力しましょう。
ありがとうございます。
無論、その点については三者全員の目標は一致しているものと私も信じております。
傾いた陽光が窓枠から差し込んで、暖かな空気を通り抜け、クルビア大使の肩越しに、ヴィクトリア大使の胸へと真っすぐに注がれている。
彼は姿勢を正したまま、席から立ち上がっていた。どうやらこの対談は一区切りついたようだ。
賢明なご判断でした。どうやら、全員が望む結果を得られたようですね。
……ふぅ。
会議は終わったか?
いつからここで待っていたんだ?
三十分ほど前からだな。言っておくが、その間に報告書を四件ほど確認していたから、時間を無駄にはしていないぞ。
そうか。では、座ってくれ。何か飲みたければ勝手に飲むといい。
お構いなく。先ほど、君が棚の上に隠していた茶をもらったところだ。少し古い物だったがな。
……
ようやくお前から話を聞く暇が作れたな。ライン生命の状況はどうだ?
概ね予想通りだ。彼らも突然起きた天災に困惑している様子だな。
地元住民たちは比較的手加減をしてくれたと言えるだろう。手を出してくるようなことはほとんどなかったし、大半の人間は手を取り合って『イェラガンド』を唱えていただけだった。
だが、気になったのは、先頭に立って大声で叫んでいた連中だ。奴らは衛兵を見た途端、群衆の中に逃げ込んでいった。
……先を案じているのか?
ああ、これは一度では済まないぞ。
デモが起きたのは観測所だけではない。ペイルロッシュ家やブラウンテイル家の領内でも、抗議運動が相次いでいるし、我々の工場でもストライキが起きた。すでに対処は行っているが。
この天災を、自らが利を得るために使えると気付いた者たちがいるんだ。加えて、その連中は、感情的に沸き立つ民意がどれほどの力を持つかを知っている。
それはかつて君が用いた武器でもあるが――その剣の柄は、今は君の手には握られていないようだな。
ふむ……
顔面に雪を投げつけられた下りは報告しないのか?
……報告する必要があるか?
それは唯一、「想定内」ではなかった出来事だからな。
だとすれば、君がクルビアとヴィクトリアの人間に囲まれて、片方から脅迫され、片方からは「善意」を向けられることまで、想定内だったのか? あるいは、そこは想定外か?
どちらとも言い切れんな。
クルビアは発言内容や態度こそ強硬的だったが、結局のところは、協力関係の継続を望んでいる。彼らにとっては、観測所が成果を上げることこそが最重要だからな。
一方で、ヴィクトリアは……我々の予想以上に焦っている。
ハロルドの部隊が来ているのは確認済みだ。彼は恐らく、今も町を歩き回り、あちこちで「懐かしい知人」と話しては、「良き隣人」について語り聞かせているだろう。
だが、距離からして、あとニ十分もすれば、彼はカランド貿易本部に到着する。
あの物資の受け取り自体は会議の場で決まったのだろうが、厳密には、他に選択肢などなかったと言える。
この件は、すぐにペイルロッシュとブラウンテイルの両家も知るところとなるはずだ。彼らの態度は――いや、三家会議が迎えるであろう状況については、ある程度予測を立てておいたほうがいい。
……
どうした? 怖いのか?
もう慣れたことだ。
君のその平然とした態度こそが、他者の怒りを買う原因なのだと思うが。
お褒めにあずかり光栄だな。
どうあれ、この天災は誰にとっても予想だにしないものだった。
君のことだ。皆の前でいつも通りに平静を装うことはできるだろうが、今回の出来事を本当に何とも思っていないとは言わせないぞ。
……君はそこまで鈍感ではないだろうからな。
……ああ。
だが、リスクとは常に、チャンスをもたらすものでもある……過去千年にわたり発生しなかった天災が初めて起きた以上、これは千年続いてきた何かが変わる時でもあるのだろう。
エンシオディスは窓の外に目を向けた。いつの間にか再び降り始めていた雪が、しんしんとイェラグの地に舞い落ちていた。
決して止まない山風は、今も吹き渡り続けている。人々はそれを、イェラガンドの息吹であり、使者でもあると信じてきた。
山風はイェラグの隅々までを巡っていく。ただ、すべての声を主の耳へと運ぶために。
それを以て、主は是非を、善悪を、友と敵を、敬虔さと偽りを、薬草と毒草を、歓喜と涙を見分けることだろう。
そして、そのすべてを然るべき形で裁くのだ。
もう一つ、君に知らせておくべきことがある。
天災で起きた雪崩で麓の駅が倒壊した際のことだが――奇妙ながらも幸いなことに、その時の駅構内にはほとんど人がいなかったそうだ。
後から判明したことには、天災が起きる直前に、何者かが「駅に爆弾が仕掛けられている」と叫んで騒ぎを起こし、それをきっかけに多くの人が避難していたらしい。
何者か、とは?
誰かは判明していない。
だが、例のライン生命の研究者は今も消息不明のままだ。
それを思うに、もし彼女がその人物だとすれば、天災発生時点ではイェラグを離れていなかったということになる。となれば、今もまだイェラグ国内にいるはずだ。
わかった。
ノーシス、この件を任せられるのはお前だけだ。
ライン生命を刺激しないよう、その人物を探し出してくれ。
ようやく真剣な顔になってきたな……その理由を聞いても構わないか?
いずれわかるさ……
とはいえ、盤面の展開としては、奇策を弄さずに済めばそれが何よりのことではあるがな。