聖山降臨1101 OS-8・戦闘前
道半ばの宣告
静寂と空虚さが、いっそう寒さを際立たせる中、記者は重いカバンを背負ってゆっくりと前に進んでいく。積雪を踏む足音がはっきりと響いていた。
ここも随分人が減ったわね……
……あら?
そちらのお嬢さん! すみません、いくつか簡単な質問をさせていただいてもいいですか?
何よ、どうかしたの?
今のカランド貿易について――
その名前は聞きたくないわ。
エンシオディス様には、あの契約書に署名した経緯を説明していただきたいわよね。
「資源と引き換えに発展を得る」とかいうけど、結果的にはそれが今回の天災を招いたんじゃない? その辺り、どう説明するつもりかしら?
……
記者が向けられた怒りの言葉を消化しきれずにいるうちに、相手はとうに姿を消していた。
……そちらの方、少しよろしいでしょうか!
あんた、ヴィクトリアの記者さんかね?
近頃のイェラグは物騒だから、地元の人だって家にこもってるくらいなんだよ。あんたも気を付けたほうがいい。
ご忠告に感謝いたします。ですがこんな時だからこそ、怖がっているわけにはいかないんです。そうでなければ、カメラを持つ資格なんてありませんから。
今伺いたいのは、あなたがエンシオディス氏に抱いている率直な見解なのです。お聞かせ願えますか?
ううむ……あなたには悪いが、私はエンシオディス様がイェラグ人を欺いたのは確かだと思う一方で、ヴィクトリアにも疑わしい点があると思っている。
長年にわたり、私はイェラグがどう変化してきたかをこの目で見てきた。だから、エンシオディス様にも苦悩がなかったとは決して言えないのだ。
蔓珠院の大長老が出てきて話をしてくれたら良いのだが――
その時、突如飛んできた石が記者の鼻先をかすめて、背後のショーウィンドウを突き破った。
きゃっ――
ヴィクトリア人はイェラグから出ていけ!
イェラグの事情に無関係な人間が首を突っ込むな!
まだ撮る気か? さっさと出ていけ、この*イェラグスラング*!
この瞬間、彼女はこれまでになく複雑な心境に陥った。
彼女は、平凡な生活を送っていたイェラグの人々が、次第に疑り深くなり、苛立ちを抱えていくのを見てきていた。
さらに、彼女はイェラグ滞在中に、心を許していた撮影班の仲間たちが彼女の部屋に忍び込み、原稿や写真を何度も調べていたのを見てしまうという経験もしていた。
先ほど石を投げてきた男がもう一度石を手にしたところで、記者は取材相手に一礼すると現場を走り去った。
逃げるしかないのだろうが、一体どこへ逃げたらいいのだろうか?
お姉ちゃん、ヴィクトリアの人?
あっ……ええ、そうよ。こんにちは、坊や。
……君は、ヴィクトリア人が嫌いじゃないの?
うん、嫌いじゃないよ。
少年の汚れた小さな手が、固くなったヴィクトリアのパンを差し出してきた。
だけど、パパはこれを捨てろって言うんだ。うちはヴィクトリアの人から施しなんて受けちゃダメなんだって。
じゃあ……
でも、イェラグの民は隣人を愛して、恩に報いなければならないっていうのがイェラガンドの教えだから。
これはお姉ちゃんに返すね。
足早に去っていく子供の背中を見つめる記者のまぶたは震え、彼女は喉に物でも詰まったような苦しさを覚えて、歯を食いしばっていた。
彼女を車に乗せろ。見つからないようにな。
それが、意識を失う前の彼女が最後に聞いた声だった。
エンシオディス様、またもお邪魔してしまい申し訳ない。
このような有事には、私などよりほかの方に会うほうへ時間を割きたいとお思いになるでしょうが……
他人行儀な仰りようですね。
イェラグは今も、子爵殿のお心配りを忘れてはおりません。ゆえに以前から、お礼をお伝えする機会が欲しいと思っておりました。
何を仰いますやら……私としても、このほどイェラグを再訪できたことには感無量の思いがございますよ。
正直なところ、ここを訪れるたび、本当なら何か良い知らせを手に伺って、この老骨を雪山に捧げ、静かな余生を過ごしたいと思います。
ですが、現実には世は無常なもの。臨機応変な対応というものを学ばねばなりますまい。
しかし、子爵殿はカスター公爵のために悪い知らせを伝えに来た、というわけではないのでしょう。
ええ。あのお婆さんのことには、私もこれ以上関わりたくはありませんからね。
それに、前回私がイェラグに来た時の状況を鑑みるに……彼女は私の介入を望んではいないでしょう。
ところで、子爵殿……
おお、そうですな、本題に入りましょう。貴方もお忙しいでしょうから。
この度は、お別れを言いに来たのです。
近頃のヴィクトリア関連の世論が子爵殿にご迷惑をおかけしたということであれば、私のほうで――
ああ、いやいや……それだけの話ではないのです。
……元々私は、あのお婆さんもそろそろ年を取って少しは丸くなったのではと、少々非現実的な期待を抱いておりました。
そうであれば多少の善意を示すこともあったでしょう。ですが、結果はご覧の有様です。
ゆえに、耄碌したと思われるかもしれませんが、どうしても貴方に直接お尋ねしたいと思いまして。
本当に、他の方法はなかったのですか?
子爵殿もご存知の通り、彼女の狙いはいくつかの採掘場だけには留まらぬものです。
エンシアに手を出された時点で、私にとってこの協議は受け入れられぬものとなりました。
ではどう対処なさるおつもりで? まさか本気で彼女と刃を交えようとでも?
最後の一線として「刃を交える」可能性を示していなければ、イェラグはとうに彼女の手中に落ちていたかもしれないということは、子爵殿のほうがよくお分かりのはずでしょう。
それはそうですが……やれやれ、何と言ったものでしょうか。
彼女の性格を思うに、ここまで来たら簡単には引き下がってくれませんよ。
私は心の底から貴方を案じているのです、エンシオディス様。この先どうしたものでしょうね。
「成り行きに従う」ほかありますまい。
時に、子爵殿も、カスター公爵とは旧知の仲でいらっしゃるのですか?
私ですか? いやいや、そんなとんでもない。
数年前までは世間話くらいはしていましたが、そうした時は常々カスター家の若者のことを話題にしては、出来の良い子が一人もいないと愚痴っていましたよ。
そして、若者たちの出来が悪くなるほどに、彼女は焦った手を打つようになったものです。あれでは、若かりし頃の底知れぬ彼女のことなど誰に想像できましょうか。
十年以上前、一度公爵にお会いした際の気高いお姿は、今も目に焼き付いておりますよ。
ははっ、私にそのような物言いをする必要はありませんよ。
あの傲慢でいかにも貴族ぶった態度は昔から変わらぬものでしょうしな。
何しろ、裏でどれだけ策略を巡らせていようとも、人前に立てばそうした素振りを見せず、いかにも尊大で威厳ある姿勢を保たねばならないのですから。
……さて、貴方の部下にはより重要な用件がおありのようですし、私はそろそろお暇いたしましょう。
……子爵殿との意見交換は大変勉強になりました。
またいずれ、より適切な時期にあなたをイェラグへお招きできたらと思います。
ははっ、それは有難い!
おっと、そうでした……
(声を抑える)公爵様にお会いになった際は、私が彼女を陰で「お婆さん」呼ばわりしていたことはくれぐれもご内密にお願いいたします。
……無論そのように。
ありがとうございます。
それでは、またイェラグを訪れる機会があるよう、私も心から願っております。
……
はい、誰にも気付かれていません。
大丈夫です、必ずやご要望通り……
すぐに彼女を連れていきます。
……
おい、起きろ!
……ここは……私は、確か――
半日寝たのにまだ寝足りないのか? さっさと起きろ。当主様からお前に話があるんだ。
何を……
当主様って……?
ったく、あんたと来たら、いつになったら加減を覚えるんだい?
も、申し訳ありません。
ラタトス様。
よう、目は覚めたかい?
動くんじゃないよ。手首の縄が食い込んでもいいなら話は別だけどね。
……
えっ、ラタトスさん!?
……じゃなくてラタトス様、私はてっきり――
焦げ一つない私を見て驚いたかい?
機会があったら同僚に教えてやるんだね。ブラウンテイル家に関わる時は、部屋の仕掛けを確かめろって。
同僚……ですか?
正直に言いな。何日もコソコソ嗅ぎまわって、何を撮ろうとしてたんだ、スパイさん?
なっ……誤解です! 私がスパイだなんて!
はぁ……
捕まったスパイは皆そう言うんだよ。
彼女のそばにいた衛兵が、記者のリュックから何かを取り出し、床に放り投げた。それは彼女がこの数日で撮影し、現像した写真だった。
風土や暮らしぶり、あとは巡回中の衛兵を多少撮るくらいなら別にわざわざ構いやしないさ。
だが、あんたには遠慮ってもんがない。蔓珠院で勝手に写真を撮ったばかりか、あちこちの山に登っては撮影していたね。
私が何も知らないとは思わないことだ。
……
ラタトス様、信じてもらえないかもしれませんが、私は本当にただの記者なんです。
仮にスパイであれば、こんな証拠を持ったまま街を歩いたりすると思いますか?
それに、今の混乱した状況を考慮すれば、テレビ局の同僚に資料をすべて預けて保管してもらうことだって考えられたはずですよね。
その理由についてはあんた自身に説明してもらいたいね。
事実、あんたは大量に怪しい資料を持ち歩き、不審な行動を取っていたんだから。逃げようとしていたと思われても仕方ないだろう?
それは資料を守っていたからです!
カスター公爵が世論統制を始めて以降、報道局から撮影班に派遣されてきた人員が、私の撮影した映像を勝手に削除したり、編集したり、私の部屋を調べたりしてきたんです。
私があの場から逃げ出していなければ、あなたが目にした素材のほとんどは彼らに没収され、最終的には内容を歪められて使われていたことでしょう。
彼らは、ヴィクトリアがイェラグの内政へ強制介入する行為を正当化するためにそんなことをしているんです!
……
この素材がイェラグのために役立つとお思いになるのなら、私はあなたにすべてを託しても構いません。
この資料を公表し、より多くの人に、今のイェラグで起きていることを伝えてくださるなら……何しろ、イェラグに必要なのはヴィクトリア人の「施し」ではなく、本当の助けですから!
……
厄介なことになったな。
こんな時だが、エンシオディスの奴は電話に出られるもんかね。
悪いけど、彼にはもっと大事な用事があるの。だから、応援に来たのは私だけよ。
私は自分の死を偽装したあと、何人かのスパイを捕らえてあいつに引き渡した。約束通りなら、とっくにこっちへ応援を寄こしていい頃だってのに。
結局寄こしたのはたった一人。ただし、それが黒騎士ときた。太っ腹なのかケチなのか……
……
それでカスター公爵への対処だが、あいつに何か策はあるのかい?
今は敵の情報を集めているところよ。あなたの尋問の手伝いとして私が来たのもそのためなの。
今一番肝心なのは、この記者が「山にある物」を撮ったかどうか。
それじゃ、そこの記者。
まずはあんたの拘束を緩めてやるよ。だから約束することだ。
この先聞かれたことには必ず答えると。いいね?