約束されざる地 UR-6・戦闘前
交差した航路
……
風が若いバンシーの手にある木の葉を揺らし、音がそこからこぼれ落ちる。
(サルカズ語)もう一つ、もう一つお話して!
(サルカズ語)それなら、ブリキの遊侠のお話はどうですか?
(サルカズ語)彼はこの河谷に来たこともあるんですよ。いま霧の湖を覆っている霧は、彼の大きなパイプから吹き出されたものなのです……
……
(サルカズ語)かかるように羽角を収めれば、そなたの両目を覆うことができようぞ。
(サルカズ語)そうするのは、真昼に睡眠をとる時、アイマスク替わりにするため?
(サルカズ語)否、無論そのようなことはない。葬礼にて涙する際に、落ち着いて涙を挽歌へと織り成すためだ……
また一つ音声記録の再生が終わり、若いバンシーが木の葉を懐に収めた。その目つきが急速に警戒に満ちた。
これ以上盗み聞きするなら、コンクリートミキサーの中に放り込んであげる。
先ほどのは……バンシーの呪文かしら?
そうだ。
つまりあなたはカズデルから果てしなく離れたクルビアまで来てもなお、同族の声を録音して肌身離さずに持ち歩いて、繰り返し聞き返しているの?
故郷を偲ぶことがそこまで理解し難いか?
……いいえ、理解はできるわ。だけど、故郷を偲ぶ時に、図面を読んでいる時みたいに集中した顔をする人はめったに見ないわね。
あなたはバンシーの言語と行動のパターンを読み解こうとしているのでしょう。それはなぜかしら? 数千年にわたって生存戦略が課題となっている一族に、新しい道を探すため?
君……
私はそれほど自惚れてはいない。
心配性な輩がいるんだ。私は、その者が終わりに至る間に背負う荷が軽くあってほしいだけだ。
ええ、わかるわ。私には結局、同じことのように聞こえるけど。
それで、何か突破口は見つかったのかしら?
そこまで急いではいない。
そういわれると、さっきの録音、もう何百何千回も聞いたように聞こえるけど……
……
いつも同じコーパスに溺死するまで潜り続けても、新しい言語を生み出せはしないわよ。
視野と思考に課せられた局限性は、私たちを「常識」の中で溺死させるわ。そして、すべてをいわゆる「運命」へと書き換えるのよ……
それに気づいたからこそ、あなたはカズデルを離れたと思っていたのだけれどね。
一つ、酷な忠告をするわね……その録音の数々を削除しなさい。
合理的だな。
こんにちは。私はクリステン、ライン生命の統括よ。
ナスティだ。
ストルイ建築会社が新たに招聘した天才エンジニアにして、常人の三分の一の時間でプロジェクトを完成させてしまうバンシー。業界じゃ、あなたの図面に巫術が施されていると噂よ……
ライン生命は今、エンジニア課を立ち上げようと計画しているの。興味あるかしら?
昨日、偶然君と社長が雑談しているのが耳に入ったのだが……「ライン生命」はバイオテクノロジー関連のテクノロジー企業ではないのか?
上を見て、ナスティ……夜明けの空を飛ぶ羽獣たちと、その背後にある星々が見える?
私はただ、あの空を越えられる力を探し求めているだけよ。
空を……
君の先ほどの忠告通り、もし成し遂げようとしていることがすでに常識を超えたものとなっているのなら、君が求める力は我々に近しい場所から生まれるものではないのかもしれない。
ライン生命が設立すべきなのは、エンジニア課ではなく、科学考察課だ。
理に適っているわね。エンジニア課の主任による会社への一つ目の提案としてみなしてもいいかしら?
……
ナスティさん?
私は直接公聴会の現場か、より秘匿された監獄へと連行されるものと思っていたが……ロープウェイステーションでゴンドラを待ち、その次は浮遊層の見学でもするのか?
あなたをお待ちの方は、今おっしゃった通りの予定を立てられていますね。
……
お久しぶりです、ナスティ。
……君か。
先ほど着いたばかりなのですが、ここは実にいい所ですね。あと半分ほど回れていない場所があるんです。ご一緒してくれますか?
ああ。
……なぜ先ほど我々がくぐり抜けたエリアだけに雨が降っているのですか?
あれは、クラウドスタジオだ。ランクウッドが開発したリアルタイムの全天風景創造システムが用いられている。あと五分も待てば、オーロラまで見れただろう。
百年前、今や映画撮影の父と呼ばれる方が撮影現場でこう嘆いていました。いつか本当に空で映画を撮れる日が来てほしいと……
「天空フィーバー」は、本当に映画の撮影技術に革命を引き起こしました。
ここは実に賑やかな所ですね。これでも日々の生活が刻々と変わっていくことには慣れたと自認していますが、そんな私でも今はクルビア人の創造力には感嘆せずにいられません。
今の状況でもそこまで余裕があるとは意外だな。
D.C.が「プロペラパラダイス」のために制定した管理法案によれば、緊急事態発生から十二時間以内に関連部門は公聴会を開き、問題へ対処して調査結果を公示しなければならないはずだが。
ゴードンはライン生命の生態研究園に侵入し、我々が進めていた研究プロジェクトを破壊して、ついでに彼自身の秘密の取引まで衆目に晒した。
一連の事件に関しては証拠が揃い、連鎖も保証され、その信頼性に文句をつける点はない。にもかかわらず、君たちはすぐさまパークに到着したが、公聴会の開始を今の今まで遅らせ続けている……
時間稼ぎしているつもりはありませんよ、ナスティ。
二年前、クルビア人は己が空に浮かぶ雲と居住権を奪い合うことになるとは想像すらできなかったでしょう。しかし今はどうです?
「プロペラパラダイス」はクルビアで最も注目される存在となりました。特殊区画登録名簿では、名前が最初のページに移動されています。
ほんの少し時間をかけて、ゴンドラに乗ってパークを一周し、周辺の施設を見学して、登録センターの入口で列をなす企業代表たちを見れば……
公聴会にどのような結論が求められているかは、明らかではありませんか?
……
「プロペラパラダイス」とは、よく言ったものですよ。「パラダイス」は空へと突き進む熱狂的な野心を表し、「プロペラ」もこの上なくわかりやすい――決して止まってはいけないということです。
百近くの企業が関わる密輸ネットワークが暴露され首謀はパークの総責任者だった。ここ半年の研究には大量の規則違反行為が含まれる……徹底調査をすれば、今後エキスポは中止せざるを得ません。
あなたの言う通りですよ。公聴会は行わなければなりません。そして、最近の事故のすべてに、何らかの納得がいく説明がなされる必要があります――
が、逆に言えばその説明さえあればいい。
「ライン生命」はそれにちょうどいい、と?
この「天空フィーバー」は、元を辿ればトリマウンツのあの夜から始まった。あの前科がある限り、ライン生命の再犯について疑問を抱く者はほとんどいないというわけだな。
はあ、同業者はあなたを黙々とケーブルを繋いでいるだけの技術者だと噂していますが、実際は似ても似つきませんね。
ですが、ライン生命としても、まったく謂れのない罪名ではないでしょう?
あなたたちのところから飛び立った来歴不明の「木」は、今も空に漂っているのですから。「プランターユニット」であるとの言い分以外に、私に何か説明できることは?
……
どうやら、私はもう公聴会の場に行く必要はなさそうだ。君たちはあらかじめ結果を定めているようだから。
……申し訳ありません、ナスティ。
……
具体的な時期は決まっていないが、私はいつかは故郷に帰ることになる。そこで待ってくれている人がいる。
だけどそれまでの間、ライン生命はあなたの旅路の途中の一駅になれるわ。
あなたが新しい言語を生み出すのも、新しい河谷を作るのも、いわゆる種族の「運命」を変えるのも自由よ……そこに口を出す者はいないわ。
それどころか、ライン生命はあなたが必要とするものを得るために力を尽くしましょう。私たちの仲間に、あなたと同じような境遇の者は多いわ。
条件……いや、もっと直接的に訊こう。代償は何だ?
ナスティ、私は「ライン生命」の事業目的をある種の偉業だとみなして、社員にそのための献身や犠牲を求めたりはしていないわ。
私が求めることはただ一つ。前人未踏を成し遂げようと思うのならば、私たちはあらゆる疑念や喪失と向き合わないといけない……
だから、どんな時も止まらないで。
……ならば、ライン生命への招待を受けよう。
とはいえ、我々はまだゴンドラの中だ。つまりまだ話し合いの余地があるな?
ほう?
公聴会は必ず開かれねばならない。すべての出来事に納得のいく説明が必要だ。だが、逆に言えばその説明さえあればいい……
クルビア中が知る通り、二年前の「ホライズンアーク計画」では、クリステンが偽りの題目で国防部から投資を受け、掠め取った。ライン生命は関わっていないが……私は間違いなく彼女の共犯者だ。
パーク全体に危機を及ぼした罪を一つの会社が担うか、一個人が担うか、その性質は全く異なるものですよ。あなたはライン生命のために、それほどの犠牲を払うというのですか?
犠牲? 私もクリステンもその言葉は嫌いだ。
何事にも代償がある、それがカズデルと河谷での生活から私が学んだ道理だ。私がマイレンダーの思惑通り本当に罪のある者の身代わりに甘んじることなどありえない。
……
わかりました。ライン生命の他の者たちには意地悪はしません。
あの「木」もだ。
装置自体は自由に処分して構わないが、私の助手にデータを持ち帰らせてくれ。研究がまだ終わっていないからな。彼は私のプロジェクトのことを知らないから、何か仕掛けるか疑う必要もない。
目的地に着いたな。
ロープウェイステーションのエージェントが向かうべき場所へあなたを送ってくれるでしょう。
そういえば、一つお伺いしたいことがありました。先日カズデルに戻った時、河谷に行ったのですが……
ヴァエラがここに来ている……その件はすでに知っている。
公聴会まで、できるだけ早く見つけるつもりだった。
(ヴァエラがパークに……)
(ああ、そういうことなのですね、マーシア……)
こちらで人を遣りましょう。我が旧友のことは悪いようにはしません。
感謝する。
「プロペラパラダイス」にて発生した突発的実験事故に関する公聴会が先ほど終了いたしました。
容疑者ナスティ・ルノレイはパークのエンジニア部門責任者という立場を利用し、無断で未登録の実験プロジェクトを行ったことで、危うく重大な事故を引き起こすところでした。
犯罪事実を隠蔽するために、事故当日の夜、容疑者は樹形装置を用いて、職務遂行中のパーク総責任者ゴードン・タネンを襲撃。
ゴードン長官によれば、傷害罪の疑いの他に、容疑者はエンジニア部門の展示品点検に関する権力を濫用したとのことです。
部下に違法な点検を強要し、他のテクノロジー企業を意図的に抑圧することで、数十に及ぶ優秀な企業をパークから追い出しました。
現在、酒類・煙草・アーツユニット及び源石製品管理局の指示の元で、巻き込まれた企業はすでに「プロペラパラダイス」に戻り、引き続きクルビアの天空事業に貢献することになりました。
容疑者ナスティ・ルノレイは己の犯罪行為を認め、すでに拘束されています。今後はD.C.の法廷に送られ、相応の法の裁きを受けるでしょう。
「プロペラパラダイス」の今後の運行は、マイレンダー応急対策管理監督協会の監督の元、ゴードン長官とギュスターヴ長官が行い……
……皆さんが待ち望む「天空の暮らし博覧会」は予定通り開催されます。
ヴァエラさん……うるさかったですか? 申し訳ありません。
ナスティは……どこに? 何かあったのですか?
……考えないようにしましょう、ヴァエラさん。
ナスティ主任への記憶を、昨晩お会いした時のままに留めておきましょう。
若きエージェントは古いスライドプロジェクターに手をかけて、記憶という繊細な糸を撫でるように、優しく回転盤を回す。
マイレンダー応急対策管理監督協会は、政府機関の応急対策管理処置に対する監督という名義の元、クルビアのあらゆる事故に介入する。事故とは、最も捏造されやすい事実なのだから。
ブリキはいつも冗談気味に、協会の手段はママジョンズの商品リストよりも多彩だと言うが、その中には当然、マーシアのアーツも含まれているのだ。すなわち――
記憶の抹消。
同じ動きをこれまでマーシアは百回、千回と繰り返してきた。しかし今、回転盤を回す彼女の手は、空中で凍り付いた。
これは……元より残された記憶がわずかな老人に施すべきものではないでしょう。
それに、今日はすでにたくさんの事実が改竄されました。
遅れた公聴会、満足した企業代表、人々に紛れたエージェントの同僚たち……ブリキ先輩の任務とは一体何なのでしょうか?
見回りの者が増え続けています。私があなたのためにできることはだんだんと減っています――先輩が私の嘘に気付くのも時間の問題です。
ですが、もしどうしてもナスティ主任のことが気掛かりでしたら、何とかしましょう……
ナスティ……私の娘。ごめんなさい。
……
私のせいで……あなたは帰る家を失ってしまった。
「炬火の向かう先は、あらゆる魂の在処。」
「骨は骨に、魂は魂に還らん。」
此度の葬礼はこれにて終いにしよう、ヴァエラ。一族の者は皆庭園へと戻った。直に夜が訪れる。
三ヶ月。ドモヴォーイは、止まり木の下の小屋で丸々三ヶ月も我慢して、ようやく死を迎えることができたのよ。
できる限りのことは、すべて試みたわ。だけど……ゆっくりと抜け殻になっていくという苦痛を和らげてあげることはできなかった。
彼女はいつも楽観的で明るかったわ。湖の畔に茂る葦すべてが彼女の笑い声を聞いて揺れていた。
だけどここ二百年間で楽しいと呼べる記憶はどれも、彼女が小屋に移ってから最初の三日間で、跡形もなく消えてしまったの。私が拾い集めようにもどうにもならなかったわ。
それから人生残りの三ヶ月で、他の記憶までもが彼女を見捨ててしまった時、ドモヴォーイは喉から途切れ途切れのうめき声をひねり出すことしかできなかった。
少なくとも生前の二百年間、彼女には多くの笑顔があった。
だけど、最期の時に苦痛の中で死を迎えたわ。なぜそうでなければならなかったの?
私たちが河谷に定住してから二百年……亡くなったバンシーの誰もが、息を引き取る前にドモヴォーイと同じく長く辛い忘却を経ているのよ。
まるで、残忍な冗談のようよ。死の岸辺へ辿り着こうという人々にとって、バンシーは最後まで彼らを記憶する者であるはず。我々の性質は忘却ではなく、心に刻み記憶することだというのに。
「忘却」は確かに、この二百年で生まれた新たな出来事である。だが、我々は、未だよく知らず癒すすべのない病を理由に自責の念に苛まれるべきではない。
これは手の施しようのない病なのかしら。それとも代償なの?
いつもいつも、最初に霧散する記憶は、河谷での暮らしに関するものばかり。
まるで……私たちが作り上げてきた暮らしは空虚を埋めるだけの中綿でしかなくて、それを使って本来一族が営むべきものの代替をしたところで……
時間が経つにつれて中の詰め物が朽ち果てた時、残されるのは空っぽの身体でしかないと、誰かに言われているようよ。
我々が成そうとしているのは、元よりそのようなことであろう?
バンシーに、そしてサルカズに、これまでとは異なる生活を創造する――戦争と死ではなく、歌声と甘い菓子が共にある生活を。
覚えておるか? 殿下も我々に約束してくださった。我らが河谷でそれらを作り出し維持する時、彼女もまた魔王として、一族が長らく積み重なった怨念と殺戮の性分に別れを告げるよう導くと。
あなたが直接話してくれたことがあるわ。殿下は考えを変えて、源石に答えを求めるようになったと……かの「士爵」と共に。
その後、幾度か殿下と言葉を交わした。かの方は一度も我々のかつての理想を忘れてはおらぬ。
彼女は、より苛烈な手段で約束を果たすことにしただけだ。もしいつの日か、彼女の花畑が大地の至る所に広がり、花が咲き誇るのであれば……サルカズは当然新たな生活様式を必要とするであろう。
河谷がその時まで持てばいいわね。
止まり木は今も枯れ続けていて、根が腐り始めているわ。土石の子の巫術、私の呪文、どちらも効かなかった。
止まり木の件はいずれ何とかなるであろう。妾はただ……そなたが未だかの未来を見えていることを望むばかりだ。
この三ヶ月間、ドモヴォーイに付き添うために、そなたは一晩でも休みを取ったことがあるか?
少なくとも彼女はそなたの呪文に慰められ、霧の湖の水音と舟を漕ぐ音を聞き、しばしの安らぎを得られたであろう。
だが、そなたはどうだ?
ドモヴォーイが旅立ち、二百年前の戦争を経験したバンシーで残されたのはあなたと私だけ。
あれらの代償を背負えるのは私だけね。
まだ子らがおるだろう?
だから、アエファニルをカズデルに送ったの?
バンシーの未来は、いつか必ず子らが担うことになる。
私たちの決断が正しかろうが間違っていようが、その代償を子どもたちに担わせてはいけないわ。
……そのためにナスティをこの葬式から遠ざけたのか?
あの子を連れてこなくてよかった。河谷の生活が今も中綿のように脆いものであるのなら……
ナスティはカズデルで、困難な状況に抗いながら育った子よ。あの子からすれば、死なんて地面から突き出す源石クラスターと似たものでしょう。
死を前にした彼女の態度は、きっと他の子たちに疑念を抱かせてしまうわ。
聡い子だ、そなたの意図がわからぬことなどありえぬだろう。
かつては止まり木の側に己の小屋を作ろうとしたが、結局はそなたがムシンカの生える林に作らせたのであったな。
そなたは彼女を一族が集う庭園にほとんど連れてこず、系統的に呪文と挽歌を学ぶことも許さぬ……どのように説いていたのだ?
子供たちが騒がしすぎるから、「管理人」は静けさを求めてやむを得ず遠くに住んでいるのだと話しているわ。私の忙しさを、あの子は見ているから……
信じたのか?
少なくとも、何も言わなかった。
……
さあ、そろそろ戻る時間よ、ラケラマリン。
そなたは?
もう少しだけここにいたいの。
そなたはもう十分長くこの挽歌を歌っていた。
……自分に、歌う以外の何ができるかわからないだけよ。河谷は腐敗へと歩みを進めていて、外では私の過ちのせいで多くの帰る場所をもたない魂が今も悲しみ、涙を流している。
少なくとも、ナスティの側にいてやることはできるであろう。
母親として、妾たちが子を扉の外に締め出すことの代償を受け止め切れるとは限らぬ。
そなたがその扉を閉めたのは、残忍な真相を隔離するためであっただろう。しかし子にとってその行動は、彼女を遠くへと押し遣る所業だ……
……
ここ数日、ナスティが出ていくかもしれないという予感がなかったわけではないわ……
確かに唐突な決断ではある。
……
……
頼りない小舟が、水の流れるままに川を下っていく。年老いたバンシーがそれを呪文で動かし、河谷の外へと進んでいく。
葦が揺れ、薄い霧が湖に浮かぶ落ち葉を覆い隠す。季節がわからなくなったことで、この別れが本来持っている色を見つけることができなくなった。
本当は、この河谷で一生を安らかに過ごしてほしかったわ。
あなたをもっと早く見つけてあげられなかったのは、私の手落ちなのよ。そのせいで、もう十分に苦労をさせてしまったというのに。
河谷に連れ戻すと決めた時に、その償いはきちんとすべきだった。それなのに結局……
わかっていながら行動できずにごめんなさい、ナスティ。
私が河谷を離れるのは君のせいではない、ヴァエラ。
……少なくとも、君が思ったような理由からではない。
あの子たちと違って、あなたはカズデルが今も変わらずあのような有様であると知っているわ……
カズデルでは、生きた人間は相変わらず鉄錆と糞便の匂いがする市場で喧嘩していて、死んだ人間の体にある結晶は相変わらず雑草のように体内から湧き出ている……
あそこに私が求める答えはない。
あなたが抱えている疑問は一体何なのかしら?
……
そ、それでは、あなたはどこに向かうつもりなの?
わからない。もしかしたら、君からこっそり盗み学んだ中途半端な呪文を使って、河谷の入口で石ころを何個か投げて、方向を決めてもらうかもしれない。
リターニアとか、ラテラーノ、クルビア。
カズデルで放浪していた頃に、名前を聞いたことがあるんだ。
それは……
どれも、ここからとてもとても遠いわ……
それがどうした?
……
ナスティ、きちんとご飯を食べて、よくよく体に気を付けるのよ。
長らく黙り込んだ後、ヴァエラはただ一言そう言った。
年老いたバンシーは死の知らせを届ける過程で長く旅をしてきた。だが今、ふと彼女はそれらの地について子と同じように何も知らないのだと気づいた。
遠くへと旅立つ養い子が、始まりの一歩を踏み出そうとしている。だが彼女には、娘の旅路の終わりに待つ景色がどのようなものかわからない。どう言葉をかけるべきかは、なおさらわからない。
何の抵抗もなく船は進み、静かな水音が響く。ナスティは振り返らなかった。
さようなら……お母さん。