辞歳行 TA-7・戦闘前
相思断
982年
……
ジエ、太史閣の方から、姜斉郷土誌の校閲を急ぐよう催促が来ているけど――
油を売っているところを見られてしまいましたね。
……君が休んでいても構わない。郷土誌は私が一度目を通して、問題のある箇所には印をつけてあるから。もう一度確認するか?
あら? おかしいですね、この本はいつの間に……
はぁ……やはりもう少し休息をとったほうがいい。記憶もあやふやになっているじゃないか。この数年傍で見てきたが、君の労働時間は増えて、睡眠時間は減っていくばかりだ……
各移動都市の郷土誌に、都市史、先代真龍の実録、学宮古代史部門の教材……これほど大量の書籍だ。整理を手伝うだけの私ですら、時々疲労が重なってどうしようもなくなる。
この状況は不可解だ。噂じゃ、工部がニェンに出す依頼は減ってきているし、シュウの大荒城での仕事もそこまで忙しくないと聞いている……
それなのに、どうして君だけ、肩の荷がずっと下りないように感じられるんだろうか……
……
ジエ?
はい……?
すみません、少しボーッとしていました。
今日は確かに少し疲れました。仕事はひとまずここまでにしておきます……
分かった。一緒に街へ気分転換にでも出かけようか?
……いえ。今日は何だか、少し落ち着かなくて。街へは同行できませんが、行ってきてもいいですよ。
何か面白いものがあったら、お土産をお願いしますね。
チュエン持燭人。
はい。何の用でしょう……
あなたに見せたい重要な書簡があります。
私に……書簡? 誰から?
司歳台に差出人不明の書簡が届き、監正殿が目を通した途端に顔色を変えられまして、この書簡を陛下に上奏すると同時に、代理人と直接関わる持燭人全員に写しを回すようにと。
中身は……?
私にも分かりません。監正殿からは、軽率に動かず、備えよとの伝言を預かっています。
中に書いてあるのは……
官吏を陥れる、秘密裡に接触する、失火、巨獣の庇護……
これは……
……ウァンか?
本当にウァンがこのような真似を? どうして、司歳台の記録に何も残っていないのだ!?
ま――まだいたのか!?
もう一つお伝えしておくことが。
まず大悪を誅し、次いで元凶を除け。
さらに動揺した持燭人は急ぎ足で天鏡閣へ戻っていった。天鏡閣から出てきた朝廷の官吏とすれ違う。
聞いたか、あのジエの一件?
ああ。史書をみだりに改ざんし、天鏡閣と太史閣が力を合わせても御しきれぬそうだ。これが長く続けば、どうなることやら!
あの持燭人の不手際でもあるだろう。これから先、炎国の歴史が混沌に陥るとしたら、その責任をとれるのか?
持燭人は反射的にその二人の方を振り返ったが、見えたのは足早に過ぎ去っていく二つの影だけだった。
彼女は胸騒ぎを覚えたまま、書棚から司歳台の残した書物を一冊取り出す。
■■年、世に出づ。
!?
持燭人は何かおかしいと感じながらも、思わず文字の列を目で追ってしまった。
■■年、天鏡閣、太史閣を把持す。用うる心は純と雖も、却って人の以て轄制すべきはなし。
■■年、真龍歳を伐ちて以て頡害を除かんと欲し、歳陵を啓けども、陵中は空にして一物として無し。
■■年、太史閣を廃し、大炎の文字を改む。人の以て遵ぜざるべきは無し。
■■年、万民の生計を察し、其の中の凡べての詐偽有る者、皆その姓名を抹消し、辺境に流放す。死者千計なり――
違う。これは誤りだ。彼女はこんなことしない!
数人の読書客が、持燭人の格好をした人物を不思議そうに見やった。チュエンは額の冷や汗を拭い、手元の資料に目を向けると、それはただの詩集に過ぎないことに気がついた。
これはきっと悪い夢だ。そうだ、彼女はこのようなことはしない。
彼女は決してこんなことはしないと? 未来永劫?
当然だ!
恐怖に駆られた持燭人は、声をかけてきた人物が誰なのかを判別する余裕すらなかった。
だが、力が際限なく増した時、彼女もまた変わる。彼女は始まりに戻るのだ。
始まり……?
彼女はあれとなることを望んでいない。
彼女はお前に助けを求めている。あのような姿になりたくないからだ。
炎国はお前に助けを求めている。炎国はこのような結末を受け入れられないからだ。
ジエは歳獣本体をも凌ぐほど強大で、恐ろしい存在となる。彼女はそれを避けられない。
お前が助けねばならない。彼女を助けられるのはお前だけだ……
でも私には……そんなこと……
お前なら、全員にとって最善の選択をするだろう。
全員にとって最善の……選択……?
待て、今話しかけてきたのは一体誰だ!?
その言葉の残響だけが、いつまでも消えることなく彼女の耳元でこだましていた。
陛下?
若い官吏は煌びやかな宮殿にゆっくりと足を踏み入れた。彼女がここを訪れるのはこれが初めてだった。
頂点に君臨する尊き人物は今この時玉座にはおらず、窓辺に立ち、窓外に掛かる雨の帳を眺めていた。
……太師が昨日亡くなったことは、知っているな。
彼はお前の師であり、私の師でもあった。
臨終の前に、彼は私に一番弟子のお前を推挙した。「重責を託すに足る」と。
彼に聞けず仕舞いだったことが、いくつかある。そのため、お前に問う他ない。
何なりと、陛下。謹んでお伺いいたします。
二十年前、太師は移動都市の建設について、悪政であるとして強く諫めてきた。君主たる者、第一の務めは「民を憐れみ、節制すること」だと。
この二十年、炎国の国境は安寧を保ち、国庫は充実し、今が千年に一度の繁栄の世だと言う者もいる。
一方で炎国は疲弊し、民は不満を募らせていると言う者もいる。
お前から見て、私の行いは過ちであったか?
陛下、私一人に陛下を評する資格はないと考えます。
私が移動都市に安住し、衣食に困らぬ富豪であったのなら、その立場から発せられる陛下を讃える言葉は、果たして忠言と呼べるでしょうか?
もし私が家族を労役で失った一般の民であったなら、陛下を昏君と謗り、政事が悉く誤りであるとする批評は、果たして公正と呼べるでしょうか?
陛下、私から反問する無礼をお許しください……
陛下が真に気にかけておられるのは、後世の評価でしょうか? それとも他の何かなのでしょうか?
口の上手い奴だ。
では批評をさせるのは止めよう。師に代わってひと言、諫言を述べてみよ。
師はかつてこう仰っていました。私が生涯心に刻むべきと考えている言葉です……
「世事は詭(みだ)りに随(したが)ふ、謹んで良知を致せ。」
この複雑な世の中では、民草でさえ公正な評価を得ることは難しゅうございます。ましてや陛下においてはなおさらです。
この世に陛下の功罪を裁く法はございません。ですが陛下の胸中には、是非と善悪を量る良知が必ずやございましょう。
謹んで良知を致せ……
もし我が胸中の良知が、私の成したことに過ちは皆無だと告げるなら、どうすればいい?
真にそうであるなら陛下は本日私をお召しにはならなかったはずです。
陛下、炎国の民草は、陛下を知らずとも陛下の成したことを通してお姿を目にすることができます。
ですが陛下がこの禁城から、民草を、ひいてはご自身の政事の得失を見極めようとなさるのなら、そのためには別様の工夫が必要になるでしょう。
……その言葉、覚えておこう。
もし私に次の二十年があるのなら……余さず胸に留めておく。
太師の教え子に対する評価は、贔屓ではなかったな……明日より、礼部に出仕せよ。
ご厚恩に感謝いたします。
疲れた様子の真龍は玉座の傍に戻った。机には一通の罪状が置かれている。
それは司歳台より送られてきた罪状である。
世事は詭(みだ)りに随ふ、謹んで良知を致せ……
生年百に満たざるに、常に……千歳の憂いを懐(いだ)く。
功罪と得失は、後世に評価を委ねておけばよい……だが炎国の病を、後世に残すわけにはいかぬ。
誰か。
はっ。
軍を直ちに配置に就かせよ。
……歳の陵墓を開く準備をするのだ。
また一つ、長く疲弊した昼が過ぎていった。
代理人は見慣れた古寺に戻り、いつものように片隅の碁盤に目を向ける。一目見ただけで、彼は目ざとく異変に気づいた。
誰かがここを訪れたのだ。
碁盤は整然としていたが、真ん中に何かが置かれている。薄暗がりの中では、それが何かは判然としなかった。
近づいてみて初めて、碁盤の天元の位置に、ふっくらとした白い銀杏の実が置かれていることが分かった。
……
あの銀杏の木を見よ。今年の春に植えたばかりのものだ。
数日前、工部尚書はここで、あの銀杏が実を結ぶ前に百灶を移動都市に作り変えるという誓いを示すために軍令状を立てた。
およそ二十年だ……お前にも二十年の時間をやろう。
……
無限にも等しい寿命を持つがゆえに、お前たちは傲り、忘れてしまったのだろう。尋常の人の一生に、一体いくつの二十年があるのかを。
炎国は待てぬ。私もそれ以上待つ気はない。
……なぜ催促する?
私は元よりそのつもりだった。
もしお前が本当に実現可能な道筋を導き出したのであれば言え。私も共に行く。その方が幾分か勝算は高くなるからな。
どれだけ自信があるか言ってくれれば、お前の指図に従おう。たとえ私の命が必要だと言われても、喜んで差し出す。
……だが、お前は己が何をしているか本当に分かっているのか?
これは元より解のない死局(しきょく)であった。
欠片ごときがどう全に打ち勝てる? どうすれば「己」が「己」を弑して生き残ることができる?
だが彼は、そのための唯一の道を見つけた。彼ら全員にとっての活路を。
自分が……あれに取って代わるのだ。
ひょっとしていつの日か、私たちの持つ力があれを超えた時、私たちはその影響から逃れ、真に「自分自身」として生きられるかもしれません。
もちろん、そのためには、自分が誰であるかを決して忘れてはいけませんね。
策士は、とうに覚悟を固めていた。
囲碁の謀略という道において、この大地に敵はなし――これが彼の確固たる自我であり、千年の間蓄えてきた力であった。
そして彼が相対するのは、長らく沈黙していた崩れかけの意識に過ぎない。
この一局、何があろうと敗北は許されない――
……久しぶりだな。
傲慢で……無関心な……「私」よ。
遂に千年ぶりとなるこの薄暗い墓室に戻ってくると、かつて抱いた数多の感情が一斉に胸へと押し寄せてきた。
怒り、悔しさ、屈辱……
だが本当にその場所に足を踏み入れた瞬間、彼はふと骨の髄まで突き刺さるような寒気を覚えた。
いや……違う!
なぜだ? あり得ない!
お前は……なぜ目覚めているのだ?