光冠残蝕 10-19・幕間
遠くの星火
……
こんにちは、君もコシェルナ先生の授業を聞きに来たのかな?
コシェルナ……先生?
そう、彼女のウルサス帝国史の授業は人気なんだよ。
最近は君みたいな若い人が廊下で聴講しているのをよく見かけるんだよ。君はうちの学生じゃないよね? 大学生に見えないもんな。
教室に入っても平気だよ。コシェルナ先生は教室の後ろに人が立っていても気にしないから。その方がよく聞こえるだろ。
必要ない。彼女の声は十分よく聞こえる。
そうか? まあ、どうせもうちょっとで授業も終わるしね。俺は別の授業があるから、じゃあな。
早くここから去るといい。
何か聞きたいことでもあるのかな?
――
見つけたぞ。
彼女はどうして街に入ったんだ?
ある人を探しに。
俺たちがこんなリスクを冒す価値のある奴なんて一体誰だ?
ナイン、お前が言ったんだ。移動都市と関わるような行動は絶対に取るなと。
――
私たちはずっとタルラを審判にかけたいと考えている。だが満足のいく対話を始めるためには、まだ足りない。彼女は答えを見つける必要がある。
もしその答えがなければ、彼女本人も自分の言葉を信じられないだろう。私たちはなおさらだ。そのような状態の彼女など信じるに値しない。
俺たちはそもそもあいつを信じるべきじゃない!
一人で街に入って、このまま蒸発したら? あいつを救出するために俺たちがした努力が、あいつに関する計画が、何もかも水泡になるんだぞ!
……そうはならない。
彼女はよくわかっているからな。自分にはもう行き場がないと。
加えて、一点保証しよう。彼女がどこへ行こうと、私は何度でも彼女を捕らえる。
お前のことは信じてる……だがこれはお前がこの一年俺たちを率いてきた実績をかってのことだ。
お前はあいつとは違う、口先だけじゃないからな。ナイン、俺たちはみんなお前のそんなところを気に入っているんだ。どうかその美徳を失わないでくれ。
私が彼女に影響を受けてしまわないか心配しているのか?
そんなことにはならないさ。
ナイン、監視隊が近づいてるわ――
隠れろ。
予想通りだな。あと三十分もすれば、このルートはもう使えない。
……彼女が早く戻ってきてくれればいいが。
もっと早く会えると思っていたよ――
――タルラ。
コシェルナか。相変わらず単調なネーミングセンスだな、コシチェイ。
あぁ……名前か。名前はただの呼称にすぎない。もしこの発音がお前の不愉快な記憶を呼び起こさせるのなら、フィオレットと呼んでくれて構わないよ。
お前の名が何であれ興味がない。その顔の皮と同じように、私が記憶する価値などない。
ならお前は何のために来たんだ、タルラ?
お前は私の口から回答を得たいのか? 「そうだ、コシチェイはすでにお前から去った、今のお前はただのタルラだ」、とでも聞きたいのか?
ならば、お前は望む答えを得るだろう。私の答えは一文字たりとも異ならない。先ほどの言葉を繰り返してやろうか? だが――
――お前はそれを信じるか?
黒蛇の言葉を信じるとでも?
これがお前の新たな手口か、コシチェイ?
お前は私に多くの情報を与えた。いち早くお前を見つけられるように――つまりあえて私をここにおびき寄せたとしか思えない。
お前はもうあの家に戻ったか? 私たちの家に。
あれは家ではない。ただの陰謀の発生源、毒蛇たちお気に入りの巣窟だ。
お前の口からそういう言葉を聞くと、実に心が痛い。
だがそれでも私の手紙を読んだのだろう? コシチェイ公爵が蛇鱗の密書を受け取るのに用いていたルートを、お前は覚えていた。公爵領を占拠した秘密警察ですら見つけられていないあれを。
――十年前に出された手紙で、差出人はこの学校にいる者だった。
お前の思慮深さを称賛すべきか、あるいはあのルートが十年間封じられ、お前のウロコたちがとっくに朽ちたのを喜ぶべきか。
領地の荒廃を見てどう感じた? 嬉しかったか? タルラ、あの地にいた者たちは本来お前の統治下でより良い生活を得られたのだ。第四軍に踏みにじられることなどなくな。
さも彼らを気にかけているようなフリをするのはやめろ。
言え、お前がこの最北の小都市に留まっている理由は何だ?
お前は南寄りの都市を好んでいたと記憶しているが。
そちらの方が空気が潤っている。それだけでなく、権力の中枢となる人物を何代にもわたって育んだ土地の方が、お前の陰謀をはびこらせるのに適しているからだ。
だが凍原は違う。ここの生活は苦しく、人々の頭にあるのは食糧の悩みだけだ。
お前の自慢の演説は、身につけた造花のように、見掛け倒しの飾りで何の役にも立たない。
タルラ……タルラよ。
もし、私がここにいるのは、この付近の凍原にはお前が残した足跡があるからだと言ったら?
ならば私はそんなのデタラメだと言うだろう。
「人の歴史とは、闘争の歴史だ。」
お前はすべて覚えているはずだ。
かつて私が教えたすべてを、お前はその後の戦いで用いたのだよ。
お前がすべて覚えているのなら、凍原の感染者闘士タルラ、そして公爵の位を受け継いだタルラ、この二つは私にとってどこに違いがあるというのだ?
だがお前は私が凍原で築き上げたすべてを滅ぼした。
私が滅ぼした?
この一連の致命的な過ちを犯したのは、一体誰だと思っている?
もしお前が本当に己に罪がないと判じているなら、自分はどのような死に方を選ぶべきかと、一年半もかけて考える必要などなかっただろう。
それどころか、お前はすぐさま次の戦いに身を投じるだろう。
……
タルラ、なぜお前が私の前に現れたのかはわかる。
お前は私に対する裁きでもって自身を裁きたいと考え、私の懺悔を聞いて自身の懺悔を始めようと思っている。
お前が求めているのは、少しばかりの、哀れな気休めにすぎない。
……続けろ。
私に続けさせるのか? てっきりお前は――
怒りを見せると思っていたか? いや、コシチェイ、お前にそんな資格などない。
これまでのところ、お前のひと言ひと言、すべて脳内で想定したことがある内容だ。一年半は短い時間ではない。ロドスに捕らえられていた私は何もすることがなかったのでな。
この場で己の命を終わらせたくないのであれば、もっと新鮮味のある話をすべきだ。
どうやら閉じこもっていた時間はお前に忍耐を与えたらしいな。
だが私が凍原について言及したのは、お前を刺激するためではないのだ。
タルラ……この学校を見てみるといい。学生たちの顔つきを見てみるといい。
彼らは五月の日差しが凍原の雪を溶かし、凍原の土よりも堅牢なウルサスが彼らの足元で変化すると信じている。
そしてお前はまたあの卑劣な思想でもって、彼らの純真を汚すつもりか?
私が彼らの中から次の継承者を探そうとしているとでも思っているのか?
違う、違うのだタルラ。私はただの普通の大学教師にすぎない。私が伝えているのは知識と思想のみだ。いかなる権力や富も私の手にはない。
もしも、彼らが権力を欲するのなら、その両手でもって勝ち取ればいい。陰謀を渇望するのなら、私が教え伝えた知識の中から適切な手法を見つけ出すことができる。
お前は――あの塔の上での失敗によって改心したと言いたいのか?
失敗? あれが失敗とは思ったことはない。
レユニオンはチェルノボーグ中枢区画で完全に消滅したわけではないからな。コシチェイの計画も同様だ。
確かにお前たちは一時的に彼を阻止した。彼はウルサスを即座に変革させる戦争の到来を望んでいたが、それは叶わなかった。
しかし、ウルサスはそれでもコシチェイが設けた軌道に乗った。
戦争はまさに今起きている。議会と軍の摩擦は過熱し、人々の意志も一つ一つの衝突の中で新たな火花を散らしている。
そして私は、どこよりも活力ある土壌において、力の及ぶ限り種をまく。
私は……こうした変革の発生を導く、あるいは促すと言うべきか。
お前は私に大衆を教育する意味を否定していたと思うが。
事態が変化しているにもかかわらず、統治者が過去の手法を変えることなく旧態依然に甘んじるなら、その者は必然的に破滅へと向かう。
お前はいまだ……統治者とうぬぼれているのか。なるほどな、少しも変わっていないようだ。
忘れるところだったよ、お前はこの言葉をひどく憎んでいたな。コシチェイの支配を憎み嫌っていたのと同じように。ずっと前に言っただろう、誰が統治するかなど私は気にしない。
ウルサスがヒッポグリフの手からこの土地を奪ったあの時から、明に暗に一体何度権力の交代が起きたと思う?
タルラ、お前は私であり、私もお前である。
我々が望んでいるのは、ウルサスが我々の手の平で火花を散らすことだ。
この火は……いずれウルサス全体を燃やすだろう。いや、ウルサスだけではない。ヴィクトリア……それに他の国も、みな巻き込まれるだろう。
大火の後、この土地はより一層の繁栄を迎えるのか、あるいは破滅に進むのか?
ウルサスは自らの最初の千年を歩んだ――そして私は二つ目、三つ目に向かわせる。これこそ黒蛇が存在する意味。
黒蛇は不死である。自身を存続させる意志があるからではなく、ウルサスが生き延びねばならぬからだ。
アスラン王の世継ぎがロンディニウムに戻った、だと?
そうみたいね。
この前サルカズのトランスポーターたちを送り返してあげたお礼として、向こうがくれた情報よ。
お礼?
奴らは我々の手を借りて、公爵同士の争いを激化させたいだけにすぎない。
そうね。誰の目にも明らかよ。でも奴らのやり方から、ロンディニウム内の情勢に変化があって、サルカズが少し焦っているのも見て取れるわ。
サルカズはほかに何か言っていたか?
特に有用な話はないわ。
チッ、「スパイ」が捕われてから、得られるロンディニウムの情報がだいぶ減っちゃったわ。
残念だ。
ええ……ほんと残念だわ。まだ制御可能な範囲での損失でよかったけどね。
そうだ、もう一つ多分重要な情報があったんだった。
これは私たちに協力してくれてるクルビアの武器商が教えてくれたんだけど――
一ヶ月前、あのレユニオンと呼ばれる部隊が以前の「リーダー」を取り戻したそうなの。
それはつまり……
タルラよ。
これまでの情報がすべて正しいとすれば、彼女も……ドラコである可能性が非常に高いわ。
ほ、ほんとうなの? う、嘘言ってないよね!?
……キミに嘘を言ってどうする?
チェンちゃん、うちのこと殴って。
何をバカなことを言っている?
早く殴って! 本当に夢なんじゃないかと勘違いしちゃうべ!
だったら壁に頭をぶつけてみればいいだろう? だがあまりやり過ぎるなよ。人家の壁を壊しでもしたら、この郡の騎馬警察に事情を説明しなきゃいけなくなるからな。
うち……なんて言えばいいのかわからないよ……
どうしてそんなに驚いている? 毎日毎日、隊長は絶対に死んでないと力説していたのはキミじゃないか。
でもうち……うちは……
彼女がまだどこかで、キミが助けに来るのを待っていると?
うん。
でも隊長が生きてたって知れて、やっぱりすごくうれしい!
ありがとう、チェンちゃん。おめーさんがいなかったら、うちロドスの人たちと知り合えてなかったし、ロドスに入ることも、隊長を助けてもらうこともなかったよ。ほんとよかった、うううっ……
ちょっ……抱きつくな!
ううっ、だってすっごくうれしいんだもん!
せめて……そんなに力を入れないでくれ……うぐっ……
あれ、じゃあ……もしかして、チェンちゃんもう行っちゃうの? 隊長を探すの手伝ってくれるって言ってたけど、もううちが助ける必要はなくなったから……
こういう時だと、キミの頭の回転は速いな。
正直、考えたことがないわけじゃない。あいつがロドスを逃げ出したと知ってから、ずっと捜索を検討していた。
実は、うちわかってたべ……
だがチェン・フェイゼは途中で投げ出すような奴じゃないからな。
これだけ長い間歩んできて、私たちはようやく手がかりを得た。
バグパイプ、私は引き続き調査を手伝う。「亡霊部隊が再び太陽にさらされるその日になったら」――私はすべきことをしに行く。
タルラを探しに行く。
タルラ、コシチェイがお前に教え込んだ技術を使え。私の言ったことが本心からのものであるか見てみるがいい。
必要ない。
ではお前はまだ私をここで殺そうと考えているのか? 都市の衛兵の視線をかいくぐるために、お前はいま剣を持っていないだろう。
ならば自分の炎で私を処刑するしかない。私を愛するこの学生たちの前で……お前はそんな恐ろしい罪を犯してもいいのか?
お前を殺す程度、誰にも気取られずにできる。
知ってるだろう、それもお前から教わった技術だ。
私を殺すことで……お前は満足するのか?
私一人で満足できなければ、二人目、さらには三人目の名を教えてやることもできる。
……つまり、ウルサス内の黒蛇は、お前一人だけではないと言いたいのか。
生き延びるためについた嘘だと思ってくれてもいい。
お前の新しい体は……とてももろいな。
お前の息の根を止めるのは、あの老いたフィディアを殺すよりずっと簡単だろう。
なら何を待っている? さぁ、私の体を消し炭にし……この薄暗い廊下にばらまくがいい!
「恐怖の感染者殺人鬼、再び大学に現る」――明日の新聞の一面はこれになるだろうな。
お前は……そんな悪名など気にしないだろう。
ついでに伝えておくが、私は三分後にここに駆けつけるであろう監視隊も気にしていない。
だが……都市の外にいるお前の新旧の友人は……彼らは皇帝近衛兵の相手ではない。
たとえ近衛兵たちが一部の権力者の意を受け、お前がウルサスに戻ることをひとまず許容していたとしても……ウルサス内で殺人を犯すことまで許しはしないだろう。
……コシチェイ。
もし近衛兵たちが不死の化け物――チェルノボーグ事件の首謀者がここにいることを知ったら、私を捕らえるよりも先に、その視線と刃をお前に向けるとは思わないか?
……
なら、なぜまだ手を下さない?
……もうすぐ時間だ。
まだ戻ってこないな。ナイン、あいつを見誤ったんじゃないか?
万一時間になっても彼女が現れなかった場合、お前たちは計画通りに撤退するんだ。
お前は?
彼女はまだ私の拘束具を付けている、つまり私の囚人だ。私自ら捕らえてこよう。
……ならその手間が省けたな。
――タルラ。
戻ってきたか。しかもぴったり時間通りだな。会いたい者には会えたか?
まあな。
それで?
どんな成果があったかまで話させる気か? あの長ったらしい無駄話でお前の耳を汚すつもりはなかったがな。
ほう、随分と元気が出たようだ。冗談まで言えるとはな。
例の邪神は? 殺せたか?
奴はもう変わったと言っていた。
信じるのか?
信じない。だが私も、もはや奴を殺せば問題が解決すると思っていたタルラではない。
奴が私の目の届く範囲から離れるのを許さない。必要となれば、私はすぐに手を下す。
ただ、一つ予感がする……
予感?
不死の邪神は……いずれ死ぬ。だが奴を殺すのは、私ではない。
――ウルサスが奴を殺す。
奴は今なお人々の意志を操れると思っているが、私たちも奴に見せてやるのだ――
――いつの日か、目覚めた人々が愚昧な統治者を容赦なく捨て去る様をな。
その後、黒蛇はウルサスから消え去るだろう。
では今は?
まずはヴィクトリアへ。ここに戻ってくる前に、あの場所へ向かわねばならない。
ようやく私たちと共に行くことを決めたか?
私はお前の囚人だ。お前たちについていく以外、行き場はない。
それにお前は言っただろう……あの地の感染者が、私たちを待っていると。