淬火煙塵 11-2・戦闘前
一筋の光
四年前
1094年
p.m. 3:25 天気/曇天
ロンディニウム オークタリッグ区 聖マルソー学校
見るのです! 議会広場の兵士たちを、並ぶ弩と大砲を! あなたにもう逃げ場はありません!
うう……
おい泣くなよ、泣くんじゃなくて顔を上げろ! お前が演じてるのは国王なんだぞ!
そっか……お、お前たちを殺す! わ、私にはまだろ……塔の騎士がいるんだぞ!
塔楼騎士だろ。
彼らはほとんど投降しました。投降を拒んだ頑迷な者たちも、すぐにあなた同様、我々と……我々が体現するロンディニウムの怒りの炎に裁かれるはずです。
だ、誰が国王を裁けるというのだ?
これまでには誰もいませんでした、もしかしたら、これからもいないかもしれません。
陛下、あなたは自滅の道をたどっているのです。ヴィクトリアが前へと進む歩みを、あなたが遮っているのです。
都市にある全ての機械が、あなたの号令一つで稼働を止めました。挙句の果てに、苦しむ人々のポケットから、パンを買うための最後の硬貨すらも奪おうというのですか。
私たちの両手は、本来ただ明日の太陽を迎えるために働くのに使うものです。あなたとあなたの貪欲な臣下たちが我々に……我々に、あなたの血で手を染めるよう迫っているのです!
かかれ、戦士たち! ヴィクトリアのために!
ヴィクトリア……! わ……私こそヴィクトリアだ……どうして貴様らなぞに! ヴィクトリアは貴様らを許しはしない、たとえぼ……ぼう……
亡霊だよ! ぼ・う・れ・い! てか先にあの階段を上がって、それから倒れるんだよ。んで、その後にこのセリフを言うんだって!
廊下で走ってるのは誰ですか?
ラルフ、アンナ、あなたたちって子は本当にいっつもそうなんだから――
モリーお姉さん……
もうちょっとで一番面白いとこなんだよ! アンナ、早く階段を上がれ、絞首刑やるぞ!
絞首……絞首刑!?
そんな残酷な遊びを教えたのは、一体誰ですか?
スラントワーズの大人たちがみんなやってたぞ。
スラントワーズ……あそこには、色んな人がいるんです。一体どんな下品な劇を見たんですか? 誰があなたたちを連れていったんです?
靴屋のトムだよ。
なんか、黄色い飲み物を口からこぼしながらたくさん飲んでたよ。それで舞台の上の人に向かって、「国王陛下を侮辱することは許さん、あの方は偉大なるお方だ」って大声で叫んでた。
バカトム! やだ、子供たちの前でこんな汚い言葉を使っちゃダメね……でも、小さい子を酒場に連れて行くなんて、一体何を考えているの!?
続きやろうぜ、アンナ。夜ご飯の前に、最初からもう一回やろう。
なら、次はそっちが死ぬ役やってよ! ラルフ、約束したでしょ、ウソつきはダメだよ!
あぁ陛下……どうか子供たちの不敬をお許しください。
この子たちは、陛下のお姿を見たことがなければ、お声を耳にしたこともないのです。街の喧噪の中で、陛下のお噂を聞いたことしかないんです。
モリー姉さん、姉さんだって国王を見たことないだろ。年寄りみたいに知ったような口でお説教するなよな!
早く行け、アンナ、俺が追いかける――
失せろ、ぎゃく……逆賊めが! いずれ貴様らの心に巣くう獣に、己が噛み殺されることになるぞ!
あなたたち、はしたないからやめなさい。
罰を受けたくないなら、早く降りてきなさい。ほかの修道士や先生方に見つかってはなりませんよ……
何に見つかってはいけないんですか?
ゴールディングさん、いらしたんですね!
ラルフ、顔が真っ赤だけど、どうしたんですか?
えーっと、それは……それは……
私たち遊んでるの。とっても面白い遊びなんだよ。
遊び?
……
わかりました。早く部屋に戻りなさい、今日の宿題をちゃんと終えるように。
はーい。
それと、ラルフ。モリーは君たちに近い年齢とはいえ、彼女も先生です。
はい。ごめんなさい、モリー姉さん――
はいはい。さぁ、みんなゴールディングさんの言うことを聞いて、早く戻りなさい。
あの子たちを叱るかと思ってました。
ラルフとアンナがやっていた劇のことですか? あの子たちを責めようとは思いませんよ。
二人は、残酷さというものをまだ理解できていないだけですから。
あの子たちには、生まれつき学びたいという欲求が備わっているのです。何が正しいものであるかを、本や私たちから学べないのであるならば、視線がほかの方向へ向くのも至極当然のことですよ。
彼ら……多くの人があの絞首刑がヴィクトリアを変えたと言っています。ゴールディングさんもそう思いますか?
同じ質問を異なる人にしても、ただ異なる答えを得るだけですよ。
ハイベリー区の軍事工場では、未だかつて機械の轟音が止まったことなどないのに、オークタリッグ区の屋敷の多くは主が変わりました。
そして私が知っているのは、毎年多くの可哀想な子供たちが、変わらずこの学校に送り込まれるということだけです。あの子たちは、二十数年前の私と同じように助けを必要としているのです。
学校には感謝しています。もし学校が受け入れてくれなければ、私もとっくに病で死んでいましたから。
モリー、先ほどの出来事が新たなアイディアを与えてくれました。
新たなアイディア……その手にある演劇集のことですか?
ええ。
これらの本は、子供たちのために用意したものだったんですね。ですがあの子たちは字を覚えたばかりです、まだ早すぎんじゃ?
スラントワーズで蔓延している、人目をどう引くかだけ考えた粗悪な代物よりはずっとましですよ。
幼い子供たちにとって、役を演じることは遊びと大差ないのです。複雑な含意を理解する前に、少なくとも言葉に含まれる感情や力を先に身をもって理解することができますからね。
そうであってほしいものですね。
それに、実はもう一つとても大きなメリットがあるのですよ? 子供たちは、私の国語の授業で眠らなくなりますからね。
アハハ、それもそうですね。何はともあれ、あの子たちが少しでもエネルギーを消耗してくれるなら、私もずっとお世話が楽になります!
お二人とも申し訳ありません、今日うちの本屋は早めに店を閉めないといけないんです。
アダムスさん、今日は店じまいがお早いのですね。
聞いてないんですか? 今朝カルダン区の公爵役場で騒ぎがあったんですよ。
騒ぎ? オークタリッグ区まで影響が及ぶ騒ぎとは?
役場の役人が殺されたそうなんです。被害者はスタッフォード公爵の甥で、一週間前にロンディニウムに来たばかりとか。
……可哀想に。警察は犯人を捕まえたのですか?
問題はね、そこなんですよ。
目撃者が言うには、その容疑者は都市防衛軍の駐屯地に逃げ込んだらしいです。
早く、このエリアを封鎖するんだ! 奴を逃すな!
細部まで調べろ――
まさか、その容疑者が今度はオークタリッグ区に逃げ込んできているのでしょうか?
どうでしょう、そう単純な話ではなさそうですけどね。
おかしいです、この兵士たちは都市防衛軍ですか? 見間違いではありませんよね、どうして彼らが着ている制服は私が知っているものと違うのでしょう?
カルダン区に友人が住んでるんですけど、そいつが言うには近くの通りにたくさん兵士が現れたらしくて、その兵士たちもみんなこの制服を着ていたそうです。
し……しかも……
ある公爵が、昨日ひそかにロンディニウムに入り込んだなんて情報もあるんですよ!
まさか、ありえませんよ! それは法律で禁止されていますよね?
……
アダムスさん、どうもありがとうございます。本が重すぎるので、こちらに置いていってもよいでしょうか。次伺うときに持ち帰ります。
モリー、急いで学校へ戻りましょう。
誰もいないだと? 人影が路地に入るのを見たという話ではなかったか?
公爵様の情報を、ロンディニウムから流出させてはならん! でなければ、今日の作戦が……クソッ!
性別すらわからないとは、ロンディニウムの役場の諜報員は一体どうなっている? ごくつぶしどもめが! 公爵領の者とは大違いだな!
私が先ほど矢を当てていなかったら、終わっていたぞ――
引き続き追え! そう遠くへは逃げられないはずだ!
……
待って――
ゴールディングさん、何か見つけましたか?
大したことではありません。
モリー、君は先に学校に戻っていてください。子供たちを集めて、外には出さないように。
ではあなたは?
友人に会ってきます。事務室でお湯ときれいなタオルを用意しておいてくれるとありがたいです。すぐに戻ります。
うぅ……ハァ……
すまないね、もう少しの辛抱だから耐えてくれ。学校の設備は簡素なものなんだ。子供たちは兵士の矢に撃たれるよりも、ふざけて転ぶ方が普通だからね。
まさか……あなたが傷口の縫合までできたなんて。
我らが学校が毎年受ける寄付には限りがある以上、人手にも限りはあるのさ。私が兼業校医にならないといけない場面も山ほどあるんだ。
うぅ……痛っ……
通りにいた時には澄ました顔してたから、てっきり痛みを感じないのかと思ってたよ。
からかわないでください……ロンディニウムで、一息つけるのはあなたと居る時くらいです。
私にできるのは傷口の縫合だけで、感染予防まではできないんだ。ハイディ、すぐに病院に行くことを勧める。
できません。
理由を教えてもらえるかな?
……
私たちは友達だと思っていたけど。
私は、本来あなたについてここに戻ってくるべきではありませんでした。ゴールディング、私はあなたと子供たちを面倒事に巻き込みたくないのです。
つまり、兵士たちが追っていた人物は間違いなく君なんだね。あの連中は、本当にスタッフォード公爵の手の者たちなの?
……アダムスがあなたに教えたんですか? 彼ならば、余計なことは言わないと思っていましたのに。
アダムスさんは君の友人であると同時に、私の友人でもあるよ。私たちが知り合った読書会だって、彼が開いたものだ。忘れたの?
フフ、忘れられるものですか。
あの時のあなたったら、本当に容赦というものが全くありませんでしたから。
私の新書を「大衆文化に言いなりの媚びた作品」、「唯一の使い道は金持ちの貴婦人たちのお茶会で話のネタになるくらいだ」、なんて言うんですもの。
作者の才能は、これしきのものではないとも言ったよ。
あの時は思ってもみませんでした。ロンディニウムで最も見る目のある批評家が、まさか無名の教師だったなんて。
私は君が書いた言葉は一語一句理解できるし、君が書き出さなかった言葉も一つ残らず読み取ることができる――ハイディ、これは君が自分で言っていたことだ。
私たちは互いを理解していますから。それを私が疑うことはありません。
じゃあ、私にも手伝わせてくれるよね。
ハイディ、私たちの間で遠慮はなしだよ……これまでと同様にね。
……
ゴールディング……何年も前に、サンクタではないラテラーノの修道士と知り合ったことがあると、話したことはあったかしら?
彼女も、かつてロンディニウムで生活したことがあって、もしかしたらこの学校と何かしらの関係があるのかもしれません。
彼女っていうのは誰なの?
彼女は……
ゴールディングさん、大変です!
え、お客さんですか? こ、こちらの方は……
文学界の友人です。
モリー、何かあったのですか?
ゴールディングさん、外が……聞こえてるものだと思っていました……
……
遠くから異様な音が響いてきていた。
ロンディニウム人はこのような音に鈍感である。
最初、人々はこの音を、誤って引き起こされた蒸気ボイラーの爆発音や、子供たちの好きなロボット羽獣が空を切る音と勘違いしていた。
しかし家屋や地面の震動がはっきりと感じ取れるようになると、誰もが本能的なパニックに包まれた。
諸王の庇護下にあって、ロンディニウムは天災に見舞われたことがない。彼らが直面しているのは紛れもなく別の脅威――多くの年長者が気付いた、二十数年前の悪夢がまたやってきたと。
戦争の予兆だ。
人々が沈黙する合間に聞こえる轟音の間隔がさらに縮まった。
理解できません。
事件の犯人を捕まえるだけなのに、どうしてこんな大ごとになるんですか?
我々がすべての人の考えを理解できるのならば、多くの悲劇はそもそも起きません。
モリー、まだ外に兵士がいるかどうか見てきてもらえますか。
わかりました。
私はここを離れなければなりません。
わかっている。残るよう説得したいのは山々だが、砲火でも君を止めることができないのは重々承知している。
ゴールディング、あなたも気付いているでしょう。今夜ロンディニウムは、また一つの劇変を迎えます。
スタッフォード公爵の軍が、まさに今議会広場に攻撃を仕掛けています。キャヴェンディッシュ公爵の手の者も、早々に城壁の外に到着しました。
二十数年前のあのクーデターは、少なくとも市民の視点から見るのなら、ごく短期間の混乱で済みましたが。しかし今回は……わかりません。
もしかすると、公爵間の戦争に発展するかもしれません。しかも、このロンディニウムで勃発する争いです。
私の元には……少し前に得た情報があります。これで数万人の命を救えるかもしれません。明日の朝までに、これを都市の外に送り届ける必要があります。
……今、戦争って言った?
恐らくは。
戦火がいつ他の都市に燃え広がったとしても、おかしくないです。全てのヴィクトリア人が準備をしておく必要があります。
陛下が亡くなられてから、ヴィクトリアの平和は二十年以上続いてきた。多くの人がこれを奇跡と呼んでいるけど、私は奇跡なんてものを信じるのは、遠い昔にやめたんだ。
目の前にぶら下がっている利益を放棄する人はいない。それがヴィクトリア丸ごとなんて、莫大なものとなってくると……これをかすめ取る資格がある者は、より慎重になる。
そして、歴史の隙間の中で生きる哀れな人々は、目を閉じて、その期間を「平和」と呼ぶしかないんだ。
フッ……スタッフォード公爵にこの一歩を踏み出すよう促したのが急病であるなんて、誰が想像できたでしょう? そのうえ、他の公爵がこのような激烈な反応を示すなど誰が予想できたでしょうか。
君のように献身的な人間がいなければ、この戦争は二十二年前にとうに起きていたはずだ。今の今まで延びることもなかったろう。
私を慰めてくれるのかしら、ゴールディング?
ただ事実を述べているだけだよ。
ハイディ、君の今回の行動の目的を私に説明する必要はない。長年計画してきたことが一体何なのかを開示する必要もないよ。
ただこの質問にだけ答えてほしい――平和は再び訪れるのかな?
……ええ。
私たちはずっとそれに向かって努力しているんですもの。
自分たちの故郷を守ること。これはヴィクトリア人が代々信じてきた真理です。
たとえその道で無数の人が亡くなったとしても? そして、たとえ道の終わりに差し掛かったと思うたびに、待ち受けているのが必ず起きることが定められている戦争であったとしても?
そうです。
なぜなら、戦争はいつか終わるからです。私たち、あるいは私たちの後を継ぐ者たちの手によって。ヴィクトリアを覆う塵霧が散ったその時には、子供たちの笑顔からも陰りは消えるでしょう。
うん、ならいい。
ハイディ、私は喜んで君を信じたいと思う。
ゴールディング、もし私がロンディニウムに戻ることができれば……また会った時に、すべての事情をお話しします。
約束だ。忘れないでね。
……生きて帰ってきてくれ。