悪兆渦流 13-5・戦闘前
わだかまる苦厄
この地の環境は不穏であるぞ、ドクター。我らは、先刻まで森の中におったであろう。
しかるに霧が色を濃くするにつれて、眼前の景色もすっかり様変わりをした。
一面の……河谷に。
これは全て幻覚なのか、Logos?
幻とは虚無より来たるものであり、人々の頭蓋の内にある虚構の光景に過ぎぬ。どれほど真に迫っていようと、それはただ偽りとしか見なされぬだろう。
なれどこの地はさにあらず。
この地のあらゆるものが、かつて真実、存在しておったのだ。
かくの如き「幻」を作り出すには情報のみならず、時間と空間をも要する。
まこと難儀なことよ。
骨笛の音?
左様、バンシーたちの骨笛である。必ずしもアーツを放っておるとは限らぬぞ。
我らが幼少のみぎり、よく河原で骨笛の習練に励んでおった。草むらに腰かけ、じっと待つのだ。小虫が鱗獣に呑まれ、鱗獣が羽獣に捉われるまで。
骨笛の音はまさにその時に鳴り響くものである。
どうしてこの地にはこんな光景が広がっている? 我々はどうやったら戻れるんだ?
今試しておるところだ。
アーツでないとすれば、残る可能性はただ一つ。より古き力に関しておるに違いなかろう。
しかしこの戦場に、ロンディニウム周辺に現れないはずなのだが。
音も景色も、どれも本物と見分けをつけるのが困難だ。我々が本調子ではない以上、警戒を高めていかねば。
……母上。
Logos、どうした?
……いいや、何も。
この景色を直に引き裂いてみるとしよう。いささか危険を伴うが、それが最善の手段であろう。
この場を離れる行為が安全か否か分からぬゆえ。アスカロン。
我は明日、バベルへ向けて発つ。
うむ。
そなたは今やバンシーの王庭の主である。テレジア殿下に妾からの伺候を伝えること、ゆめ忘れぬよう。
我は今もって何一つ実感が湧いておらぬのだ、母上。
王庭の主としては、我は若輩である。
何を言う、そなたの傑出した才は誰の目にも明らかであろう。
受け取るがよい。
これは……
そなたの骨笛だ。妾が調律し、王庭の紋章を刻んでおいた。
無論、魔力に満ちた口づけも施しておる。
……うむ。
骨笛が鳴り響く時、あらゆるサルカズは知るのだ。それが弔鐘であると。
……
母上、バンシーの主とは何を成すべきであるのか?
そなたがそうと固く思うことを成せばよい。
母上にかつて我は……戯けた話を語った。
縛られしサルカズに退路はなく、母上が以前我に賜ったあの編み首飾りの如く、ただ崩れゆく途にあると。
翻って我らを縛するものは、まさに我らの身分であり、また所属である。
「王庭」、あるいは「魔王」である。
……
さるに、母上はなおも我にこの地位を我に預けた。
滅亡の終点にひとたび辿り着いてしまえば、朽ちた躯は永劫蘇りはせぬ。
されど……これこそが曲がらぬ定めなのだ。
妾たちはあらゆるもののために弔鐘を鳴らす。他者のためにも、そして己のためにも。
しかしながら、それには責任が伴うのだ。
仮に、妾たちが太古の伝承はとうに新生の踏み台と成り果てたと考えておるのならば、そなたは己の足で出向き、確かめるべきだ。
そうしてなお、考えが変わらぬのであれば――
――「新生は滅びより生まれる。」
……スゥ――
あなにえや。
新たなる若きバンシーの主よ、そなたが初めて奏でるいとけなき弔鐘は、誰がために鳴らすものか?
……我自身のため。
あらゆる朽ち果てていった王庭、そしてこれから朽ち果てるであろう王庭のため。
……
「停滞した景色に如何なる意味があらんや?」
これは……
ブラッドブルードの巫術である。
なれど、あやつに先ほどの景色を作り出すことはできぬ。おそらく別の存在の力を借りたのであろう。
ブラッドブルードはこの法陣で何を企んでいる?
この地の回路は完全とは言えぬが……いくつか読める象徴がある。
「純化」。
……これは我らの血脈に対し影響を及ぼそうとしておる。サルカズの血脈に、だ。
この術式は……サルカズの力と関係があるようだ。
ちょっと!
――
待て!
だから言ったっしょ、この人たちは本物だって!
この幽霊たちは本物なんだってば!
君は……
えーと……
あんた、あの「ドクター」? ハイベリー区の軍事工場で見かけたことあるっす!
どうしてこんなとこに?
それに気絶したコータスと……サルカズ?
君はノーポート区で難民たちに物資を提供していた。
なんで知ってんすか!?
い、いや適当言うなし! うちはただ、その――
そこのコータスの子、かなり具合悪そうすね? あんたの腕も……
あんたら、その、サルカズと一緒にいても……問題ないんすよね?
元の場所に戻って来れたみたいだけど、今回は本物なの?
俺は、二度とあの頭に光輪のついた怪物には会いたくない。どう考えたっておかしいぜ。
パプリカ、なんで幽霊たちと話してるのよ?
フードを被った奴に、気絶したウサギ、それにサルカズか?
ちげーって! 運転手さん、この人らは本物の人間なんだってば!
本物?
もし。
うわっ!
ちょっと坑夫、あんたも見てよ。やっぱり本物だわ!
お前の着てるその服……かなりの値打ちもんだよな?
何を言ってるんだ、よく見てみたまえ! まあ、ウルサスから来た田舎者に分かるはずもないか。
この小金持ちが、いちいちカズデルの有名人か何かみてぇに気取るんじゃねぇ! お前なんざただの雑貨屋の店主だろうが!
おっと忘れてた、あの店は売っ払っちまったんだったな。ただここに戦争しに来るためだけによ、ハッ!
言葉に気をつけたまえ! この方の前で騒ぐのはよすんだ!
こんにちは、あはは……あなたもひょっとしたらカズデルで僕を見かけたことがあるかもしれません。ちょっとした評判のあるお店でしたから……
あなたは……王庭の方でしょう? 服を見れば分かります……土石の子ですよね?
……我はバンシーだ。
男のバンシー? バンシーって大体女性なんじゃないの?
左様。
へぇ、カジミエーシュでは男のバンシーがいるなんて聞いたこともなかったけど……あら、ちょっと失礼だったかしら……
パプリカ、あんたこんなすごい人と知り合いだったの!?
……いや、知り合いってほどじゃ……
うぬらは荷を運んでおるのか?
うぬらはこれらの物資をどこへ運ぶつもりだ? どうやら儀式の材料のようだが?
えっと……いいのか分かんないけど、うちらは単にルートに沿って巡回してるだけなんすよ。壊れてる法陣があったら、うちらが修理することになってるんす。
高貴なるバンシー様、このままでは我々が生きて戦場を越えるのは不可能です。いっそのこと、あなた様の手で我々を楽にしてください。
……
……
うぬらの輸送隊は我が徴用しよう。我らは目下極めて特殊な任務に就いておるところだが、生憎と襲撃の憂き目に遭ってしもうてな。うぬらの力添えは、我の胸にしかと刻まれるであろう。
ははっ、王庭の者のお役に立てるのでしたら誠に幸甚に存じます、閣下!
ただ……死を告げるバンシーの胸に刻まれるというのは……何だかあまり縁起が良くないような気が。どうかその……
これが報酬である。
ははっ、ありがとうございます!
けどうちらの輸送任務は……
後ほど我の方からうぬらの上役に説明しておこう。
特殊任務だって? それならなんで異種族の奴らを二人も連れてんだよ?
……この者たちは我の捕虜だ。
捕虜? けどあんたらは……
……
まあ分かったっす……けど終わったら、うちらと一緒にマンフレッド将軍のとこに行って説明してもらうから。
じゃあ、うちらはひとまず片付けて場所を空けてくる。
Logos、何とかしてアスカロンに車を一台分けてやれないか。
聴罪師たちの襲撃は単純じゃない。奴らはブラッドブルードと行動を共にしていたが、アーミヤをあの船から連れ去った。
ドクター、うぬは案じておるのか?
クロージャたちと自救軍の中には、この状況に適した戦闘要員がいない。ケルシーは手負いで、シャイニングについては聴罪師たちがきっと対彼女の策を用意しているに違いない。
……承知した。
アーミヤの容態はおそらく薬で治るものじゃない。今の彼女に必要なのは、目覚めるまで二度と聴罪師たちの視界に入らないことだ。
この小隊と共に行動していたほうが、かえって安全なはずだ。
アスカロンはケルシーの応援に向かわせるつもりだ。ここには君がいるからな。
それに……
これらの結晶は……単なる源石ではない。