解離結合 15-7・戦闘前
臨界の時
ドクター、私は今まで黒い王冠を使ってドクターの思考に触れようとしたことはないので――
……わかりました。
彼女が傍らに視線を向けると、優しく白い光がそっと彼女の手を引いてくれた。
彼女は目を閉じ、長く息を吐いた。
ドクター、この旅でどこへ向かうかはわかりませんが、私が必ずドクターを守ります。
アーミヤは「魔王」がじっと見つめる中、あなたの額に柔らかく触れた――
ドクターの記憶と感情が流れ込んできています。
……変な感覚です。
波動はこんなにも静かで、穏やかで、記憶の果てはそう遠くないというのに……
当時のテレジアさんは一体何を見たのでしょう――
アーミヤはあなたを、ケルシーを、自身を、そしてロドスのたくさんの人を見た。
彼女はより深くへと歩んでいく。記憶の境界は、すでに手の届く所にあった。「好奇心」と「心配」から、彼女は自身の目的を忘れかけ、その境界に……
あなたの記憶の始まりに触れようとする。チェルノボーグ、石棺、そして弱々しく手を伸ばすあなた――
……
他にも何かの記憶があるようですね……どうしてぼやけているのでしょう?
――!?
あれは――
あなたの手がアーミヤを掴んだ。
……迷ってしまったのか?
わ、わかりません。誰かの思考にこれほど深く触れるのも初めてなので、この感覚は……とても不思議です。
しかし、幸いにも君は成功した。
はい、ドクター。今はドクターの微かな感情一つ一つまで感じ取れます。
自分も、君を感じることができる。
リラックスされているんですね。
アーミヤがいれば、何も心配する必要はないからな。
我々はこれからどうすべきだろうか?
ドクター、しっかり手を握っていてください。
ここから先の道は、私がドクターを守りながら進みます。魔王に関することを全て、テレジアさんがあの日に教えてくれました。
その道の前で、すでに「彼女」は私たちを待っています。
「いつか、アーミヤが君に同様の質問をするかはわからない。だが暗闇の中で、私が彼女のために照らした方向を見つけてくれることを願っている。」
ケルシーはそう答えたわ、アーミヤ。
……ケルシー先生の全てのアクセス記録を出してもらえますか?
もちろんよ。
彼女の疑問、頑張り、そして落胆による離脱を、余すことなくあなたたちに見せるわ。
アーミヤ、あなたもかつて「文明の存続」の奥に入ったことがあるわね。だけれど今回、あなたが探しているものは果ての遥か外にある。
そこは、テラの生命が今のところ足を踏み入れることのできない領域。だけどあなたたちのものではない知識にアクセスするチャンスが、あなたにはあるかもしれないわ。
あなたの同行者――Dr.のおかげでね。
……自分の?
すぐに私の言葉の意味がわかるでしょう、Dr.。
ついてきて、アーミヤ――
「文明の特異点」。
純白の巨大な廊下が、捉えられない点――「特異点」を取り囲んでいる。
秩序のない膨大な情報の流れが、絶えず特異点からあふれ出している。あなたたちに捉えることのできるものは、全てあなたたちが理解し得る知識だ。
アーミヤにはここに来るまでに辿った道が見えなかった。しかし、廊下に沿って歩き続ければ計り知れないほどの時間を浪費した後、アーミヤは結局原点へと戻るだろう。
気付いたのね、アーミヤ。
文明の発展の停滞とは、その場で足踏みすることを意味するものではない。時間は依然として線形の軌道の上で不可逆的に前進をしているわ。
だけど生命が創造し発見した全ては抜け出せない循環に陥るしかない。
数学、物理、哲学、神学など各理論と実践では、もはや希望を創造することはできない。
上へと向かう螺旋はすでに効力を失い、生命は方向を失った道の上で自身の未来を無駄に費やすことになる。
つまり……ここがもう境界ということですか?
テラが現在触れることのできる知識の境界であるというだけよ。それは制限であり、保護でもあるわ。
保護?
ある種の思考認知の保護……
思考認知?
動物に海流の法則の計算ができないというような?
データと公式を与えることができたとしても……
強制すればその生物の脳はダメージを負う。
あなたの直感はとても鋭いわね、ドクター。でも完全に正確というわけではないわ。
DWDB-221Eは単に未来の断片を探求者の眼前に示して、自然法則と倫理に反した進化の飛躍を引き起こすのではなく、生命が着実に未来へ向かうよう啓発する。
アーミヤ、知識は不可逆的なものよ。一度でも本当の空を垣間見れば、何も知らないまま大地で眠ることを望む理想家はいないわ。
そして文明自体の思考認知限界を超越した情報は、彼らに現実を無視させて、破滅へ向かわせる毒となるだけであり、その文明を深淵へと引きずり込んでしまう。
そこで、境界が誕生したのよ。
ですがなぜ境界の構造は……膨大なデータサーバーから成る牢獄のようなのでしょう?
それは、あなたが受け入れることのできる形態で現れるの。 DWDB-221Eが物質界では黒い王冠の形であなたに付き添っているようにね。
ごく小さな虫にしてみれば境界は頭と尾とが連なった激しい川であり、永遠に海に合流することはできない。
寿命が幾億年単位の天体にしてみれば、境界は一生を共にできる重力場である。それは捉えることも、逃れることもできない。
虚空からほんの一歩の距離の断面へとあなたは歩み寄る。遥か遠くの中心の「特異点」があなたを引きつけている。
情報は波のごとくあなたのそばをそっとかすめていくが、多くの目新しい光景が十分垣間見られた。
それは、一瞬にして消えるあなたの過去――あなたが失った後に忘れ去った生活。
「見知らぬ時代」の幻影。
……
ドクター、危ない!
アーミヤが、張り詰めた様子であなたの手を引いた。
境界から落ちればどうなるかわかりません――
これが……ドクターの見たものですか……?
……「オリジムシの卵鞘(らんしょう)」「星々を跨ぐ一本の橋」――
……あの物語は全部実在していたんですね。
……
私が小さかった頃、とても大切に思う人に出会いました。
その人はひ弱なのに、頑なに私を背負って源石の破片で満ちた道を越えようとしたんです。
熱で頭が朦朧として、それでも悪夢をみるのが怖くて眠れなかった時、その人は嫌な顔一つせず私の聞いたことのない物語を話してくれました。
狭くて暗い坑道の中で、苦労して見つけた鉱石のサンプルをためらいなく砕いてくれて――
それから、光る小石を周りの岩壁にはめて、星や空の上にある楽園の物語を話してくれました。
……
ドクター、その人が語ってくれた物語を聞いてくれますか?
ある人が、いつも一人でオリジムシの卵鞘のような不思議な乗り物に乗って、星々を跨ぐ一本の橋を渡っていました。
どんなに物寂しい夜でも、年老いた星から光る雲を案内人が借りてきて、丸い鏡を作って道を照らしてくれるんです。
橋の向こう側では、尖塔が大気の潮汐の中で見え隠れし、星の額に載せられたお花の冠などがあります。
そうしてお花の冠に降りると、そこが大きな大きな遊園地であることに気付き、可愛らしい良い子たちがそこに集まって思う存分遊ぶんです。
ですが、乗り物を操縦する人は止まるのが難しい……
その人は一番奇妙な乗り物に乗り換えて、長い歳月を走りました……
そして歳月の果てには、誰もいない。
自分一人だけになったんです。
アーミヤがあなたの手をしっかりと握り締めた。
はい。
感染したせいで、当時はあまりたくさんのことが覚えられず、物語も理解できないところが多くありました。
ですが、ドクターが話してくれた物語を頑張って一つ一つ思い返して、何とか覚えようとしました。
それらのお話は、私だけの物語だからです。ドクターがくれた物語だからです。
……それを忘れたくありません。
ドクター。まさか今日になって、ドクターがくださった贈り物をこうして分かち合い、返すことができるとは思いませんでした。
今回、私たちは共にこの目で見届けました。私もドクターも、過ぎ去った時間の中にある日々を改めて知ったんです。
ありがとう、アーミヤ……
ドクターはそのような生活に憧れますか?
無理もありませんね。ドクターと同じで、初めてそうした不思議な生活を考えた時には、私も憧れましたから。
私には、どうやっても本当の意味では触れることのできない生活です。
思わずこっそりとテレジアさんに話して、二人で色んな不思議な想像でたくさんエピソードを加えたんです――
それが初めのものとは似ても似つかないような、まるで手の届かない物語になるまで……
でも、この目でほんの少し垣間見た今はかえって、ドクターの過去の日々がすごく遠いとは思わなくなりました。
Dr.、私たちのこの大地もいつの日かあのように素晴らしいものになると信じていますか?
はい、きっとみんなでその日が来るのを見届けることができますよね。
ロドスは、必ずその日を迎えることができるでしょう。
憧れない? どうしてですか。素晴らしいものではないんですか?
鉱石病の苦しみも、紛争や戦乱もなく、子供たちが心から楽しく過ごせる……
そうかもしれませんね。楽しさの裏にある残酷、苦痛の裏にある喜び、私たちは確かに体験してきました。
ですが、前にこっそりテレジアさんへ不思議な物語を話したことがあって、彼女も驚いていましたよ。
彼女はずっとカズデルが……いえ、この大地の一人一人がそのように暮らせる機会があることを望んでいました。そのために彼女は努力し続けていました。
私たちは後れを取るわけにはいきません、ドクター。
いつの日か、この大地でそうした素晴らしい暮らしが送られる様をロドスも目の当たりにすることができるかもしれません。
……
これからどうすべきだ?
「ディープダイブ」。
DWDB-221Eに保存される完全なデータは特異点を経由して解読され、合理的かつ適切な情報に出力されるわ。
アーミヤだけではその基底ロジックの制限を突破することはできない。
……自分は特例なのか?
まだわからないわ。だけど確かにその可能性はある。
ですがそうした情報にどうやって近付けばいいんでしょう?
ごめんなさい、アーミヤ。それについては有効なデータがないの。
だけど、ケルシーが残した手がかりを検索し続けて、あなたたちにとって有用であろう情報をソートし、見つけやすくしてあげることはできるわ。
橋を架けるといいかもしれない。
橋?
橋を架けたことがある人はいるんですか?
記録に前例はないわ。
……いずれにしても、試してみる価値はあります。
けれど、そうすることによって生じうるリスクは知っておいて。特異点に近付くほど、情報の密度は高くなり、情報の質量があなたたちの身に圧し掛かる可能性は高いわ。
情報に質量が存在するんですか?
ここでは、存在するわ。
それと、フィルターされ切ってない情報が激流のように襲ってきて、あなたたちの思考を粉々に可能性もある。
そして思考の消滅が意味するところは……
死か。
(未知の言語)旅人さん、あたしは再び起きた破滅を目撃しているにすぎないわ。
(未知の言語)ヒアダ、それがあなたの名前なのよね?
私の名前を呼んでいるんですか?
あなたの言語は理解できません。それに、あなたはどうして――
コータスは船窓越しに、深宇宙の中の人影が自分のいる船の方へとゆっくりと近付いてくるのを見たが、それはすぐに視界の外へと消えていった。
レイディストーターさん、あの人は誰ですか?
(激しい歌声)♪――♪――♪――
――どうしたんですか!?
苦手なんだ! 彼女のことを好きな仲間なんてほとんどいないよ!
ごめんね、旅人さん。彼女と同じ部屋にいるのは本当に耐えられないんだ。
仲間に見られたら、私は軽蔑されるだろうしね。
困惑するコータスが我に返った時、船室には彼女を除いて誰もいなかった。歓迎されない人物が訪れる予感を覚えて、全員すでに立ち去っていたのだ。
それからコータスは見た。
驚く必要はないわ。遠距離共鳴によって交流する技術は学んでいるわ。
少なくとも、あの奇妙な種族を滅ぼす前に、彼らの進化した独特な言語パターンは保存したわ。
……ほ、滅ぼす?
はぁ……
新しい客人さん、あなたも滅ぼすという行為を軽蔑するかしら?
私は……何が起きたのかよくわかりません。
複雑な話ではないのよ。あたしたちの種族はかつて星を呑み込むことで生きていたの。ほかの人が嫌っているのは、そうしたあたしたちの生存本能にほかならないわ。
だけど、今やあたしたちの過去は、巷で話されている怪談物語にすぎない。
あたしの種族はほぼ絶滅して、恐らくあたしが最後の一人なの。
ふっ、破滅を糧に生きていたっていうのに、最終的に本当の破滅が目の前に訪れた時、あたしたちは無力だった……
それからというもの、一人生き長らえた者として、あたしは何人かの天才の助けによって生存に必要なエネルギーの摂取方法を変えたわ――
聞く限り……あなたも新たな生活に溶け込もうとしているみたいですね。
ついさっき、あなたが深宇宙の中であの死んだ星を見つめていたのも、自分が経験した破滅に思いを馳せていたからですか?
思いを馳せる?
ははっ、そうじゃないわ。
ここにいるみんな、破滅が自分たちに追いつくことを平然と楽観的に受け入れるわ。
――!?