背理分光 16-16・戦闘前
真を示せ
(あくび)
気を抜くな。交代までまだ二時間あるぞ。
*ウルサススラング*……こんな極寒の地じゃ、裂獣一頭さえ出やしねえって。
待て……何か聞こえなかったか?
何って――
兵士が振り返り、何かを言おうとした瞬間、矢が仲間の頭を撃ち抜いた。
あっ? あっ、ああ――!
ランキン! 下は全部片付いた! 今から突入する!
待て! 不用意に動くな! 戻れ!
坑夫たちは歩哨所の下に集い、頭上で明滅するサーチライトを睨みつけていた。
上からの攻撃に気をつけろ!
うっ! ぐあっ!
見つかった! 奴ら梯子を外そうとしてるぞ!
正面から突破するしかない。
第三隊、すべての爆薬を持って俺に続け。目標はただ一つ、歩哨所の門を突破することだ。
もし俺が倒れたとしても立ち止まるな。そのまま突っ込んでくれ。
第四隊と五隊は引き続きクロスボウを撃ち続けろ。援護を頼む!
残りの者は包囲網を維持してくれ。兵士は一人足りとも逃すんじゃないぞ。
了解!
俺の合図を――
サーチライトの光が一行を捕捉し、続いて雨のような射撃が降り注ぐ。
ランキンは絶えず身体の位置を変えながら移動し続け、可能な限り歩哨所に近づくと、クロスボウを構え、頭上の忌々しいサーチライトに狙いを定めた。
うっ――!
突如、ランキンの額に鋭い痛みが走り、左目が真っ赤に染まった。
鮮血が額をゆっくりと流れ落ち、頭の奥で鈍い音が響く。
ランキン? ランキン!
退くな! 残りの者は俺に続いて上に登れ!
クソッタレ、前も後ろもどうせ行き止まりなら、死んでも何人かは道連れにしてやる!
傍にいる者たちの叫び声が、近いようで遠くに聞こえる。矢が人間の体に突き刺さる音、周囲で次々に人が倒れていく音が聞こえた。
倒れるわけにはいかない。勝利を目前にして、こんなところで倒れるわけにはいかない。
彼は最後の力を振り絞って己の四肢に命令し、再びクロスボウを構えると、頭上のまばゆい光源に向けて、引き金を引いた。
火力が弱まった! 早くついてこい!
今だ、爆薬を準備しろ――
よし、門が開いたぞ――みんな、突撃しろ!
坑夫たちの声がどんどん遠のいていく中、ランキンは必死に彼らの足取りに追いつこうとした。
生と死が入り乱れる戦いの中で、ランキンの異常に気づく者はいなかった。
彼は爆発で崩れた瓦礫にもたれながら、少しずつ上へ登っていく
意識が少しずつ回復し、身体も痛みに慣れてきたようだ。
彼は一秒前まで生きていた者たちの亡骸を踏み越えていく。螺旋状に上へと続く階段は最上部の出口へと伸びており、その小さな穴はウルサスの極夜に輝く最も美しい一筋のオーロラを縁取っていた。
朦朧とする意識の中、彼はふと坑道を思い出した。エレベーターに乗って上へと昇っていたあの時も、こうして頭上に輝く唯一の光を見上げていた。
最後の一段を跨ぎ、彼はオーロラの中に立ち、星々の下に立ち、仲間たちの元へ戻ってきた。
ランキン、大丈夫か!?
……ああ、平気だ。
ランキンは額に滲んだ血を拭うと、周囲の仲間たちを見渡した。
半数にまで減ったか……
……でも俺たちはやり遂げた。
ああ、やり遂げたな……
遥か彼方を見渡せば、サンクト・グリファーブルクの方角は、今も重なり合う針葉樹林に遮られており、巨大な氷原はまるで彼らの挑戦を嘲笑っているかのように見えた。
俺たちは暗い坑道から地上まで這い上がり、今や軍の哨戒所の上に立っている。
これから氷湖を越え、森を越え、俺たちはさらに多くの地に旗を掲げるだろう。
ランキンは瞳に炎を宿し、己の信念を一人一人に伝えようとしていた。
皆の顔も勝利への喜びで満ちている。彼らはこの日を長い間待ち続けていたのだ。
ようやくだ、ニクト――
ランキンは、いつものように無意識に隣へと目を向けた。だが傍らに、あの見慣れた姿はなかった。
……ニクト?
はぁ……はぁ……
最初の矢が放たれた瞬間、僕はすぐに逃げ出した。
恐れることは恥なんかじゃない。恐れを知らない奴こそが本当の愚か者だ。
ランキンは正気じゃない。あいつについていく奴らもそうだ。
本当なら僕は彼らを引き止めるつもりだったけど、そんなに死にたいなら、勝手にすればいい。
僕はまだ死ぬわけにはいかない。
靴直しから教師へ、それから伯爵の養子にまでなった。僕がこれだけ多くのことを成し遂げてきたのは、ここで軽々しく命を投げ出すためじゃない。
死んだら、何もかもおしまいだ。
何としてでも生き延びないといけない。
この先が、ヴォルグラード……
……また一からやり直しだな、ニクト。
*ウルサススラング*……
あれは……何だ……
そうだ、松明だ!
松明を灯して、俺たちの勝利を他の皆に知らせよう! ここへ集まれって!
ああ……そうだな。
火を灯そう。
遠くから鈍い低音が伝わってくる。氷原全体に響いたその音は、全員の鼓膜と心臓を揺らした。
何の音だ!?
あ、あれを見てみろ……!
人々が坑夫の指差す方向へ目を向けると、巨大な高速戦艦が地平線からゆっくりと姿を現していた。あまりの巨大さに、それが艦船なのか、それとも大型移動都市なのかさえ判然としなかった。
先ほどの分厚い針葉樹林は風に吹き払われたかのように跡形もなくなっており、星々も赤い光に覆われている。
雪も樹木の幹も一斉に空中に巻き上げられた。それらはもはや一切の区別なく、引き裂かれ、吹き飛ばされていった。
この時になって……
彼らは初めて、自分たちが相対しているのが何なのかを知った。
ウルサス。
これこそがウルサスなのだ。
そうか……
はっ、そういうことか……
――!
Raidianさん……?
さっき公共放送の情報を受信したよ。
ウルサスの源石鉱脈が全面的に枯渇中だって……
それと、この情報を完全封鎖するために、少なくとも一軍がクライニ・セーヴェルにやってきてる……!
……!
ドクターたちの送った情報でしょうか?
わからないけど、その可能性が高い。きっとドクターから私たちへの警告だよ。
鉱脈が枯渇ということは、まさか……
ですが、よくわかりません。ウルサスはこの情報を完全に封鎖するつもりだということは、まさかクライニ・セーヴェル地区でこの件を知る人全員を口封じに殺すつもりですか!?
……やはりね。
源石鉱脈枯渇の噂は事実だった……クライニ・セーヴェルでこれまで起きていた数々の異変には、すべて痕跡があったのよ。これこそ彼らがずっと隠蔽したがっていたことなんだわ!
想定済みだったみたいだね?
さっきまでは恐ろしく悲観的な予想でしかなかったわ。
だけど今は、それが事実だと信じるだけの理由がある。軍の一部がこんな手段に出ることも、疑ったりしないわ……
今や、この大地でクライニ・セーヴェルよりも危険な場所はないわよ。急いで退散しなくては。
ですがまだドクターたちとの連絡が――
向こうから警告が届いたということは、少なくとも情報面では、あちらが私たちより優位に立ってるってことよ。
それに、今から戻ったところであの人たちが見つかるとは限らないわ。時間を無駄にするだけよ。
アーミヤ、Mon3trならドクターを守ってくれているよ。むしろ大部隊で動くのと比べたら、かえって狙われにくいはず。
だけど、アロイジウス「軍曹」。軍がウルサスを代表してこの情報を封鎖しに来たのなら、あなたの言うサンクト・グリファーブルクが安全な場所だって話をどう信じればいいのかな?
まだ私のことを信じてくれていないのね。
……あなたの言葉が信頼に値するという……
……
「ケルシー」。
――!
……
少し前に、ウルサスは再びその名に注意を向けたわ。かの謎めいた女性がウルサス――そして大地全土に残した痕跡は、あまりに奇妙なものよ。
彼女に関する情報はウルサスにとってほぼ最高機密に近く、それゆえに一部の者たちは、ウルサスが現在直面する問題を彼女が解決してくれることに期待しているわ。
アロイジウスさん、あなたは一体……どういった立場なのですか?
改めて自己紹介をさせていただくわ……
アロイジウス・ヴァシリエヴナ・ゴルシコワ、ウルサス近衛軍帝室直属大隊中尉。私の上官の一人は……ヴィッテ議長よ。
私は今回クライニ・セーヴェルへ二つの任務を帯びてやってきたの――中心鉱区の変異感染者に関する調査、及び……
……ロドスと接触すること。
……
これが遅すぎる告白だというのは理解しているわ。初めはこの秘密を最後まで隠し通そうと思っていたというのも偽りのない事実よ。
あなたたちが信じようと信じまいと構わないけれど、もし私に敵意があったら、あなたたちはブレスク市内でとっくに牢獄に閉じ込められていたはずよ。
ロドスはこういう協力の仕方を望んではいません。ですがあなたの立場は理解できます。
納得できない部分はひとまず置いておきましょう……アロイジウスさん、あなたの撤退案を聞かせてもらえますか?
ネヴァ湖の南西岸、ここから約十キロの地点に、予め用意した車両があるわ。
十分な数とは言えないけれど、ここにいる全員を乗せて移動することは可能よ。
まずは全員を秘密裏にサンクト・グリファーブルク郊外の村に避難させてから、機を伺ってサンクト・グリファーブルクの庇護下で都市に入ることにしましょう。
Mantraさんが言うには、ここに残った坑夫の方たちはいまだ佯狂者の影響下にあるそうです。まずは彼らを佯狂者の支配から解放しなくてはいけません。
……佯狂者を見つけることはできるのに解決手段はないというの?
アーミヤさん、私は悲劇を傍観するつもりは毛頭ないけれど、己の使命を忘れることもないわ。我々の中から必ず誰かは生き延びて情報を持ち帰るようにしなければならないの。
あなたがどうしてもここにいる全員を一緒に連れていくと言うなら……
私が待てるのは、せいぜい一時間ね。
了解した。急ごう。
突破口は見つかったと思う。
Mantraは自らの感覚をこの場所の隅々にまで広げた。
思考がほぼ完全に停止し、一切の乱れが消えたその時に、彼女はかすかな違和感を捉えた。
……おばあちゃん……
ここから……出ましょう? ここから、離れようよ、ね?
おばあちゃんが、立ち上がれば、みんな……一緒に、来てくれるから。
南へ、サンクト・グリファーブルクへ、それか……別の場所でもいいよ。どこでも……
ここさえ離れられれば。
……ね?
ヴェトチキは片膝をつき、祖母と慕っている幻影の前に跪いた。彼女はMantraの視界には存在しない両手を取ると、頬をすり寄せる。
少女の頬を伝う一筋の涙を見た時、Mantraはこの信頼がどれほど恐ろしいものかをようやく悟った。何の返答も得られていないにもかかわらず、少女はやめる様子がないのだ。
……
MantraはRaidianの言葉を思い出した。
「ヴェトチキの両親は、ボイコットを組織したことで死刑に処された。あのおばあさんが唯一の肉親なの。」
「鉱区の誰もがナディアを知ってる。衛兵でさえ例外なくね。」
「みんなが彼女に対して助けを求めるの。移動医療隊に頼るよりもずっと頻繁に。病気の時は慰めを、心が傷ついた時には癒しを求めて、最後には彼女の言葉の中に奇妙な安らぎを見出す。」
「……もっと早くおかしいと思うべきだったよ。ただの人望の厚いおばあさんだとばかり思ってた。」
おばあちゃん、お願い……
……
Mantraは目の前の少女を見つめながら、声をゆっくりと彼女の脳内に響かせた。
彼女は、あなたたちはここで安らぎを得られると考えている。
あらゆる希望が潰えたその後で。
誰ですか――
ヴェトチキ。
ヴェトチキは振り返った。だが、そこにいたのは口をつぐんだフィディアだけだった。
あ、あなたは、わたしの名前を知ってるんですか? だけど……教え、たことないのに……
影響を強く受けているのであれば、話し方が異なっているはず。
だがあなたはいつも通りだ。つまり、影響はさほど深刻でないということ……
まだ目を覚ませるかもしれない。
え?
ナディアはあなたの家族か?
はい。わたしの……おばあちゃんです。
唯一の、家族でも、あります。
それは確かか?
もちろん、です。わたしの、おばあちゃんです。
つまり、あなたの祖母が今、全員に苦痛を耐え忍ぶことを求めている。
者どもの生きる意欲を喪失させただけではなく、苦痛を終わらせるために自ら死を選ぶことすらも禁じている。
ち、違います――おばあちゃんはそんなことしません!
おばあちゃんはただ、疲れてるだけです。みんなと同じく……みんなもただ、疲れてるんです。
わたしたちは、生き延びたいと思っています。そんなの当たり前です! だけどいつも、誰かが邪魔を……
いつも誰かが……
それは誰だ?
か、監視隊です。
あなたたちは監視隊を撃退した。
それでも、衛兵と……研究所の、人たちがいます。
彼らもここにはいない。
わ、わたしは――
他にあなたたちが生きることを許さないのは誰だ?
真っ黒の……怪物……
それから……それから……
変です。思い……出せません。
改めて問おう。
あなたが手を握っているその人物は、あなたの家族か?
――?
振り向いてみなさい、ヴェトチキ。
ヴェトチキは振り向きたくなかった。振り向かなければ、自分が握るこの冷たく干からびた両手は、いつまでも記憶の中の姿を保っていられるから。
教えてくれ。あなたは何を見た?
振り向いてはいけない。振り向いてはいけない。振り向いてはいけない。
彼女は自分にそう言い聞かせた。
だが最後に、彼女はやはり振り向いた。
すると、祖母が目の前にいた。子守り歌を口ずさむ祖母が。
見えます……ナディアおばあちゃんが。
いいや。よく見るんだ。
祖母が目の前にいる。冷たい両手をした祖母が。
わ……わたしは……
今は、何が見える?
丸いのが……見えます。それと――
――赤いのが。
ヴェトチキは首を横に振り続ける。
どうして……
いつも赤なの?
座っている祖母、立っている祖母、身体が不気味な色に染まっていく祖母。
己の死を定め、血だまりに沈む祖母。
はぁ、まったくウルサスの天候ときたら。寒くてたまらないわ! これのどこが秋なのかしら……
野外での宴会なのに、芝生もなければ、ピクニックテーブルもないじゃないの。こんなところに招いて、一体何を楽しめと言うのかしら?
カジミエーシュでお金を積んでもお目にかかれない見世物ですよ。そこでお待ちください。
ふん、どうせ命を弄ぶ見世物というところでしょう。道中で見かけたあの坑夫たちを使うのかしら? あの臆病な様子じゃ、騎士競技のクオリティには遠く及ばなさそうね。
騎士競技ならば、毎年開かれますし、毎年観られます。ですがブレジェノイの女大公統治下では、ここ十数年間死刑判決は出ておりませんよ! 今回は来て大当たりだったのですね。
死刑が見世物なの? 誰のかしら?
感染者を扇動してボイコットを呼びかけた坑夫の二人組です。声をあげていたその場で取り押さえられました。
まあ、それはそれは……
ええ、極めて悪質な事件です。女大公はこの死刑判決を承認した際に涙を流されたそうですよ。
しかし、ここでは感染者に対し人道的な死刑を行った前例はありませんよ。さっさと沼にでも埋めるくらいなら当然可能ですが、それではせっかくの貴重な死刑判決が無駄になるでしょう?
ですから、我々はここにいるのです。
段取り通りなら、最初は鞭打ちの刑からです。我々のように観覧料を払った賓客であれば、鞭の種類まで選べるとか。たとえば刃を付けたり、塩水を塗っておいたり……
もし力加減を誤って死刑囚どもが唐突に死んで、身体の石が私の目の前で爆発したらどうするつもり? このドレスは今回の旅行用に新調したものなのよ。
そうはなりませんとも! 奴らの感染の進行はまだそこまでじゃありませんからね。何もなければ、病死までは何年もかかるんです。
それに先ほどおっしゃっていた宴会や、ピクニックといったあるべき催しは全て揃っておりますよ。まあ、すぐに見られるでしょう。
さあ、まずは焚火の傍で暖を取ろうではありませんか。
まだ息があるの?
お、女のほうがまだ不敬な口を叩いています……
男の方はもう死んだ?
昨日、舌を切ったところです。
どうして女の方も切らないの?
昨日の客たちが、そ、そう言いませんでした。
女の悲鳴を聞きたがっていましたから――
悲鳴は上げたの?
い、いえ! 一度も叫びませんでした。ひたすら「要求」を繰り返していただけです。「鉱区で死んだ子供たちのため」とか言って……
ひと言も理解できません! 奴はきっと正気じゃないんです。
正気じゃなければ、全員にボイコットを呼びかけたりしないわ。
はぁ、女の舌も切り落としてしまいなさい。
はっ!
あの子供、昨日もあそこに立っていたのではなかった?
はい。保安官は彼女に、両親が事切れるまでその場に立って見てろと言っていました。
なら両親が事切れたら、坑夫宿舎へ連れ戻しておきなさい。
しかし採掘場で生まれた以上は、あの子供も坑夫です。両親が死んでも、母親のカンテラと番号を引き継いで、坑道で働かないといけません。
……彼女はカンテラを持ってる? 手にカンテラが見えるの?
い、いえ!
なら*ウルサススラング*終わったら宿舎に連れ戻しなさい!
ヴェトチキ……ほら、これを持っていきな。バター、ひき肉、チョコレート……そうよ。
その……
ご、誤解しないで! うちの亭主があなたの両親を売ったわけじゃないからね! これは私が坑道で働いて、自分で稼いだのよ!
これからあなたの家族はおばあちゃんだけなんだから、きちんとおばあちゃんの面倒を見てあげるのよ。いいわね?
さっきあの人がハサミを借りていったけど、それも返さなくていいから。何かあったら、私のところへ来なさい……
できることは何でも手伝うわ。
……
はぁ。私の子供が今も生きていたなら、あなたと同じくらいの年頃だったでしょうにね。
彼女はその後何かを言っていたけど、わたしは返事をしなかった。
あの時、喋れなかったから? それとももうそこから離れて、お家に向かっていたから?
とにかく、わたしはそれから赤いのを見た――
灰色がかった白いプラスチックの上を流れる赤を。
わたしはてっきり外へ戻ってきたんだって、あの空地に戻ってきたんだって思った……だけど、違う。そうじゃなかった。
それはおばあちゃんだった。
あ――ああ!
ああ……
昨日そして今日を経て、私は人の体内の赤に終わりがないわけじゃないことを知っていた。それは流れ続ければいつか尽きるし、人に痛みと、死をもたらす。
だから周囲に流れていく赤いのを手で押し留めようとした。子供の頃に、友達とやったあの遊びみたいに。
「見て、一番たくさん水を掬えた人が一番幸せになれるんだよ。」
「袋の中に一番たくさん風を閉じ込めた人が、一番自由になれるんだよ。」
うっ、うう――
ダメ――ダ、ダメ!
わたしは留められなかった。
留めなきゃいけなかったのに。
留められな――
おばあちゃん……
おばあちゃん。
冷たくなった身体が、目の前でプラスチックの中に、泥の中に沈んでいく。わたしは顔を上げた。「それ」を見た。
真っ白な、直立するおぼろげな影を。
わたしは叫んだ――
ああ。
……おばあちゃんは、前に言ってた。耐えろって。赦すんだって。
生きるためにね、そうだよ。
でも、まだ……耐えなきゃいけないの?
今……耐えて、他の人の苦痛を背負っても、ただ死ぬだけ。死ぬんだよ。
耐えるって、ただ……何もかも失うためにすることなの?
何かを欲する渇望は、罪業を生み育むだけだ。あんたの苦しむ魂には今こそ永遠の安らぎが必要なのさ。
さあ、あたしの胸においで。
……おばあちゃんも、赦したの?
そうとも。
あたしたちはウルサスが賜った生を受け入れなきゃいけないんだ。ウルサスが賜う死を受け入れるように。選ぶことなく、あがくことなく。
お母さんを、お父さんを……おばあちゃんの子供を、殺したのに。それでも赦すんですか?
ああ。赦すよ。
「赦す」?
……違う……
そんなの……違う。
あなたは、ナディアおばあちゃんじゃない。
おばあちゃんはそんな風に、赦したりしない。自分が安らぎを得るために、赦したりなんかしない。
おばあちゃんは赦さなかった。耐えなかった。おばあちゃんは死んで、泥の中に……埋められたんだよ。
あなたはおばあちゃんじゃない。
違う。
違う――
違う?
■■、従わぬ■■■■■……
……破滅へ■■。
■■。
ヴェトチキ、下がれ!
あの人は、違います! ナディアおばあちゃんじゃ、ありません。
そう、あれは違う。
……でも、おばあちゃん、じゃないなら。
一体誰なんですか?
Mantraの周囲にアーツの特殊な光が浮かび上がる。それにより、敵の真の姿が露わとなった。
だがそれで終わりではなかった。そこからさらに、自身と目の前の存在を周囲の一般人から隔絶するため、意識空間での防壁を築かねばならない。
それが完成するまでの間、彼女は真実を伝え続けた。
「佯狂者」。
それこそが、あなたの尋ねた佯狂者。その名を冠する悪魔の創造物だ。
かつては人間だったのかもしれないが、今やそうした概念とはかけ離れた存在だ。
よくわかりません……
わからずとも問題はない。
かつて、ごくわずかな可能性ではあるが佯狂者になり得たかもしれない私でさえ、あれの本質を理解できたことはないのだから。
あなたはただ誤った時にそれを見てしまい、呼んでしまった。それだけだ。
誤った時?
それって……初めから、間違いだったってことですか?
■■■、■■■■■■■■……■■■■■。
あなたの過ちではない、ヴェトチキ。
ここから先は、私が引き受けよう。