狂人号 SN-ST-5・幕間
上陸地点
はぁ……しかし何なんだ、この気色の悪い地面は。
これも恐魚どもの仕業か?
ティアゴ。
……アマイア。
一体何が起きたんだ? お前の話じゃ、深海教徒は出てきやしないはずだろう? なのに、あの連中は町を滅茶苦茶にして……
――あなたに、お別れを言いに来ました。
……なんだと?
時間も近づいていますし、今しかないと思ったものですから。
それはどういう……
……聞いてください。
町に、審問官が。三人訪れました。
――!
ジョディは彼らのもとにいます。
ッ、ばかな……!
落ち着いてください。彼は自らの意志で町へ戻ってきたのです。その上相手は三人の審問官……あなたに、何ができると思いますか?
あいつ……! 裁判所に見つかるってのがどういうことだか、まだわかってないのか!?
あなたが何度も言い聞かせていましたから、きっとよくわかっているでしょう。
論理的に考えれば実害を避けるべきだったとしても、人はその複雑さゆえに、違う選択を取ることもある……そういうものなのです。私には、ジョディが愚かだとは思えません。
なっ……今は道徳の話なんぞしてる場合じゃないんだぞ!
これは性質の話であって、道徳の話ではありませんよ。
人は本質的に美徳を備えているものです。この事実は、時間にさえも否定することはできません。
……何が言いたい?
――裁判所が憎いですか?
……俺は……
確かに今、恐魚の姿は町中にありますけれど……どうか思い出してください。
あの雨の夜――懲罰軍が町へ来て、私たちの家を壊し回った時のことを。絶え間なく悲鳴が響き渡り、雨音さえもかき消して……
っやめろ、それ以上言うな……
――それと比べて、現状はどうですか?
海の痕跡は町に広がりつつありますが――誰かの悲鳴が聞こえることはないでしょう? 理由なき殺戮や、狩りを目にしてはいないでしょう?
そう……そんなものは、どこにもありません。
……
今のグランファーロには――
――静謐が残るばかりです。
海って、こんなに広いものなんだ……
潮風が吹き抜ける。
ジョディは、信じがたいという面持ちで目の前に広がる景色を眺めていた。彼はこれまで、水平線がこの空の果てなのだとばかり思っていたのだ。
しかし、果てしなく広がる海をその目で確かめたことによって――このエーギル人はふと、疑問を抱いた。
人類はどうして、ここを探索しようと思わなかったんだろう……
……だって、星が法則性を持って地図代わりになるか、双月が光で信号でも送ってこない限り、この広大な海で方位を確かめるなんて無理な話でしょ?
えっ? 星の動きって、法則がないものなんですか?
知らないわよ。天文学者に聞いてちょうだい。
ええと、それじゃあ……エーギルが本当に海の下にあるのなら、どのくらい大きな国なんでしょうか? ……もしかして、イベリアよりも大きかったりして……
そういうのは、あそこにいる本物のエーギル人に聞いてみたら?
でも、皆さん真剣な顔で、考えごとをしてるみたいなので……
何を聴いているの?
……風の音です。
潮風の中に、血族からの贈り物が混じっていて……心が安らぐものですから。
……彼女、海に近付くほどこうなっちゃうのよね。
サルヴィエントの時は正気に戻ったのに……
……
なぜだかわかる?
私の推測はあなたの判断を鈍らせるだけよ。戦いを目前に控えた、この状況においてはね。
――陸へ運良く上がったあとに、海へ帰ろうと試みたことはある?
もちろん。でも、上手くはいかなかったわ。
少し先まで泳いだところで、体力が持たなくなったの。あいつらはいくらでも現れて、私を取り囲んでくるから。
何度も試してはみたけど……
それでも、あなたは生きている。
……
私たちは皆、自分の身体に起きた変化に気付いているのよ。あなたもそうであるようにね。
確かに、サメはダメージを受けてはいるけれど――あの子は私の部下ですもの。そんなにか弱い子じゃないわ。
私たちと同じでね。
「スペクター」は、深海教会の被害者だったそうだな。源石は海には存在しないものだが、現在の彼女は、その源石に様々な影響を受けていると聞く。
なぜ、そんな不確定要素を持ち込んだ?
あなたには関係ないでしょう。私たちは故郷へ帰るだけですもの。
「故郷」? ……エーギルの状況は、イベリア以上に芳しくないはずだろう。
――灯りを掲げてくださいな。迎撃準備と参りましょう。
……来たか。
最後に一つ聞かせてもらおう。
アビサルハンターは本当に、三人しか残っていないのか?
ほかにいるとすれば、私がとっくに見つけているはずですけれど。
……どうしてそんな質問を?
グギュ……ジュジュジュ……
この船、針路は精確と考えてよろしいのかしら。
ああ。
……では、イベリアの眼に近付いたことで、恐魚が敵意を見せてきたということになりますわね。
となれば、あの場所はすでに奴らの巣になっているのでしょうし……船上で戦うのは時間の無駄ね。
スカジ、それにサメ。あなたたちでこの船を守ってちょうだい。ついでにあの原始的な信号式航行システムも見張っておくようにね。
私は海へ行ってくるわ。
それなら、私も一緒に。
いいえ、任せて。海中のほうが実力を発揮できるというのはわかるけれど、それは相手も同じことよ。海で血を流すのは危険すぎるしね。
ど、どうしたんでしょう……!? また怪物が襲ってきたとか!?
み、見えないからわかんないわよ! 水中で何が起きてるかなんて……!
でも、凄い音ね……! あの人、この下で戦ってるのかしら?
違うわ。
彼女はただ……移動しているだけ。水の中なら、いつも以上に素早く動けるから。
……水中で地上より速く動けるはずないじゃない。一体どうやって……
慣れじゃないかしら。それか、コツがあるとか。
……恐魚が離れていく。彼女に引きつけられたようだな。お陰で道が開かれた。
アイリーニ、お前はブレオガンの末裔と共に、舵を取り続けろ。
急げ、奴らに囲まれる前に行動するんだ。
船が出た以上、海は穏やかでなくなることでしょう。
彼らが心配なのであれば、早いうちにこちらの仕事を済ませなくてはな。
もとより、グランファーロは灯台奪還の前哨基地なのだから、我々はここを在るべき姿に戻せばいいだけの話だ。
それにしても、イベリアがエーギルの技術を用いて、溟痕の侵食に対抗できるほどになっているとは思いませんでした。
奴らの進化は、どんな科学者の頭脳を以てしても追いつけぬほどに速い。勝つためには、手段を選んではいられないのでね。
軍隊の動員も、その手段のひとつということですか。
……確かに、この地は目立ったところのない小さな町だ。
裁判所が注力して取り戻すべき戦略的要地が、もっとほかにあるのかもしれない。たとえば、より戦いに適した場所や、立派な防壁を備えた要衝がな。
しかし、時には手近な場所から始めてみても良かろうさ。
命を懸けて波濤に抗うイベリア人は皆、我らの戦友なのだから。
それでは、掃除を始めるとしようか。
ジュ……グジュ……グギュギュ……
ちょっと……! まだ着かないの!?
か、海図によれば、もう見えてくるはずなんですが……!
上官! これ以上深入りするのは――
いいや。
あれを見ろ。
え……? 何のことですか? 一面真っ暗で、何も……
ま、待ってください……暗いのは、天気のせいじゃなくて……あれは……!
案の定、あの場所は奴らの巣窟と化しているようね。海岸の近さを思えば、恐魚が多いのも頷けるわ。
どれだけいようと、切り刻んでやればいいだけよ。昔みたいに。
……ええ。昔みたいに、ね。
サメ、どうかしたの?
……
あれは……彼らの眼でしょうか? なぜ、こんなにも懐かしく感じるのかしら。
――あの眼は……
汚れにまみれていたせいで、長いことまぶたを開けられなくなっていたようね。
私が道を開こう。ついてこい、ジョディ。
あっ、は、はい……僕でお役に立てたらいいんですが……
役に立てたら、ではなく、役目を果たさねば、と考えろ。
でなければ、我々は作戦を変更し、裁判所の技師の安全な到着を実現するために行動する。
この戦場において、勝手についてきたエーギル人の生死を気にかける余裕など、我々にはない。
わ、わかりました……!
随分焦っていらっしゃいますのね。
お前には、この島に再上陸を果たしたことの意義が理解できないのだろうな。
意義、ですか?
……裁判所は、懲罰軍が灯台の発する信号を発見して以来、十七回上陸を試みて、そのうち八回この岩礁まで足を踏み入れることに成功したの。
だけど、ここへ辿り着いた数百人の戦士と、三人の審問官は、誰一人として生きては戻らなかった。
……まさか、エーギルの「優れた」道徳には、英雄を敬い、偲ぶ心を捨てろだなんて教えがあるのかしら?
……
上官と私……イベリアの人間は、この海で亡くなった人たちに敬意を表するわ。
あなた方の道徳に口を出すつもりはありません。けれど、この海に相対する時、私たちは所詮無力な存在ですのよ。
どのような心持ちでいらしても構いませんが、時間が差し迫っているということだけはお忘れなく。
岩礁へと足を踏み入れる。
暗い風の中に、巨大な何かが佇んでいる。それを見上げて目を凝らせば、ようやく鈍色の空にその輪郭が見えた。
イベリアの眼。
固く閉ざされた、一対の眼がそこにある。
……なんて大きいのかしら……
町にあったあの彫刻、実物のスケールに全然追いついてないじゃない……
……
……上官。
ああ。
これが、かつて我々のものだった……
そうだな。私も、この目で見るのは初めてだ。
文献や記録の中にしか残っていない、この壮大な景色を前にして、二人は暫し黙り込んだ。
アビサルハンターに見下され、国家の均衡まで崩れ始めているにもかかわらず――「今もなお、現実のイベリアは強靱で、教わってきた通りの姿をはるかに超えたものなのね。」と、アイリーニは思った。
だが、この灯台はある種の象徴でもあった。過去の風説と野心、そして欲望と未知なる傲慢を表す、象徴だ。
今、お前の心の中でどんな感情が渦巻いていようとも――
この灯台を、折られた剣を、破壊された灯りを、岩礁を、そして海を……
人類が戦いの中で築いてきたすべてを、心に刻んで忘れるな。
犠牲への畏敬の念がなければ、天秤は意味をなさないものだ。
わかりました、上官!
では、慎重に進むとしよう。
はい!
……
何をしているの?
私たち、帰ってきたのでしょうか?
いいえ、まだよ。
だけど、ここでケルシーと第二隊長の探しているものを見つけられたら、帰れるかもしれない。
だから……もう少しだけ、我慢して。
この場所、静かすぎるわね。
そうね。そこら中から嫌な匂いがするのに。
それも当然ね。岩礁いっぱいに溟痕のあとが残っているし、人工物の残骸もほとんどが腐り落ちてしまっているもの。
グレイディーアはゆったりと歩みを進め、暗い空にそびえ立つ塔を仰ぎ見た。
「イベリアの眼」が天を指すその様は、この限りある大地の上で、生命が未来を見ようと首を伸ばしているかのようだった。
陸の国々はブレオガンの遺産――灯台を再現するために全力を尽くしたけれど、所詮はこれもエーギルの技術を模倣しただけの物ね。
この何もない海で、この灯台は何を待っているのでしょう?
海を見ているのか、それとも陸を見ているのか……
第二隊長。
ええ、わかっていてよ。ここは本来恐魚の巣窟のはずなのに、奴らはまだ姿を見せてこない。もしかすると、防御型の巣なのかもしれないわね。
けれど、そろそろ出てくる頃でしょう。
グジュ……グギュウウ……
数は……そう多くもないみたいね。
ここまで来ると、元来た海岸は見えないけれど。
あら、陸が恋しくなったの?
いいえ。……ここで血を流すわけにはいかないってことよ。この場所は危険だもの。
奴らには、私たちの肌を貫くことなどできはしないのよ。この程度の数なら、私たちがステップを止めない限り、脅威になんてなりえないわ。
(この灯台……思った通り、町にある彫刻と同じ形だ。)
(やっぱり、家にあったあれは、父さんと母さんが遺したイベリアの眼の図面なんだ……)
(二人は、きっと……この場所で……)
ジョディは振り返り、海を見た。
これまで彼は、来る日も来る日も、記憶の中の薄暗い海岸を思い返してきた。活力を失ったその色と、希望を失った人々の姿が、そこにある。
「ああ、だけど……この灯台を見てよ。」――そう、彼は思った。
「ティアゴおじさんの言う通り、皆は英雄だった。敬われるべき人たちだったはずなんだ。」
……アビサルハンターはそう遠くない場所で休んでいる。戦闘には彼女たちも参加することになる。
だが、サルヴィエントで見たことを忘れてはならない。――彼女らの血は特別なものであり、ケルシー医師は裁判所にすべてを話したわけではないのだ。
わ、わかりました。あの人たちは信用できない、ということですよね……
お前は、裁判所の地下で何を見た?
――そ、れは……
「シーボーン」、です。
ならば、奴の歪みと生命力、そして――あの落ち着きを、お前も覚えているだろう。
サルヴィエントにおいて、彼女らはあれと同じような怪物と戦い、勝利を収めたということになる。
は……はい、理解しております。
お前は真実を目にした。となれば、己の過去を、このイベリアを、見つめ直すべき時だ。
思い込みを捨て、お前自身の考えで判決を下せ!
は、はいっ!
――グ、ギュ……ジュジュ……
奴らも準備を整えたようだ。巣にこもり、機を伺い――満を持して外敵を追い払うために出てきたといったところだろう。
ジョディ、状況はどうだ?
そ、それが……! 奇跡的に、外側についたコントロールパネルが反応したんですが、駆動原理がよくわからなくて……
い、今調べているところです! 家にあった研究ノートを持ち歩いていたので……!
……わかった。急げ。
はい! 多分この本に……って、うわっ……! どうしてこんなに濡れちゃってるんだろう、これ……!
上官! 奴らが来ます!
押し寄せる波は、激しく荒れ狂う。
海水は数十メートルもの高さまで傲慢に膨れ上がり、日々砕け散っては、岩礁と三つの月に屈していた。
一つの月は明るく、一つの月は暗い。その双月は太古の昔から、天上に吊るされている。
三つ目の月は、波間に揺れていた。
その月光は、かつての信仰の名に由来するものだった。
......