潮汐の下 SV-9・戦闘前
信仰者
スカジ、動けそう?
わからない。あの感覚を抑えるのは……難しいわ。考えないようにするのも一苦労よ。
それと指が動かせない。少しでも動かそうとすると、爪が手から離れていってしまうような感じがして……
神経細胞が急速に代謝を行っているのね。けど覚えておきなさい、スカジ。あなたはハンターよ。奴らではあなたをどうすることもできないわ。
そう考えれば、何かの役に立つの?
ええ。シーボーンになりたくないと思っていれば、そうはならずに済むわ。
そう……わかった。
なら、武器を手にするくらいは……できるかしら。
武器を持たぬ者、重傷を負った者、そして感染者……雑種風情に何ができるというのです?
それにその表情、一体何のつもりですか? 気高い身分にでもなったつもりですか?
……私のこと?
変なこと言うのね。何か勘違いしてるんじゃない?
私がシーボーンの言葉に少し心を痛めたからって、あなたまで調子に乗らないで。あなたなんて一瞬で斬り殺しておしまいよ。
――
あなた、本気でそれがサックスケースだと思っていたの?
それと……ねえ、人魚姫。あなた、いつまで眠っているつもりなのかしら? 目をお開けなさい。過去に閉じ込められるほど柔ではないでしょう?
……単なる実験台に向かって、何を!
もうとっくに起きてるんでしょ? ……サメ。
そ、んな……これほど高濃度の源石液を以てしても……
相変わらずのようで大変喜ばしいことね、サメ。
ああ……彼女がこういう性格だって、ほとんど忘れかけてたわ。
はあ、やっぱりまだ手に痺れが残ってる。
長くロドスにいるんだもの。なら、私にもこのくらいの準備ならできるわ。さあ、受け取って。
私、まだ心の準備ができてないのよね……ちょっとだけ、恥じらう時間をいただいてもいいかしら?
だって随分長いこと、お利口さんなシスターだったのよ? 「お二人にどんな顔で向き合えばいいのやら、私にはわかりませんわ」……なんてね、あははっ。
遊んでいないで、出てきなさい。
こんなに時間が経ったのに……私が慣れ親しんだ「あなた」は今のあなたなのか、それともあの殻にこもった頭のおかしいあなたなのか、自分でもよくわからなくなってくるわね。
わあ~、あなたとっても硬いのね。
戻ってきなさい、サメ! 彼はもうシーボーンになっていてよ!
第二隊長、スペクター……ひとまずここから離れましょう!
この……罪深き者どもが……滅ぼしてやる――
司教の身体が急速に膨張を始める。
彼の身体はどんどん肥大化し、洞窟の壁は彼の触手によって破壊された。
あなたたちは……ァアア……
己の運命を……過大評価……したのだ……
司教の頭が、目と目の間からばっくりと割れた。
まぶただった物が巨大な両目からずるりと落ち、その瞳はハンターが後ずさる姿を映し出していた。
無数の触手が痩せ細った彼の体から素早く飛び出し、彼にとって無価値と断ずる虫けらたちを薙ぎ払う。
すると今度は海水が洞窟に流れ込み、司教の体が膨張する度に水位が上昇していった。
彼は身を捩らせながら、洞窟中すべての機器を破壊した。その姿は最早シーボーンに近く、しかし人だった彼の怒りのためにこそ暴れ回っていた。
ゥ……アあ……んグ、ギゅ……
かなり大きくなったわね。彼、どうやってあれだけの肉を小さな身体に詰め込んでたと思う?
あはは、見て見て。頭が二つに分かれちゃってるわ。あっ、右は私の分だから、忘れちゃイヤよ? 二人とも。
ぐりゅっ……ギ、りゅ……
……あなたたち、どうしてそんなに急いでるの?
ァ、が……ユるさヌこロすほ、ロぼシてやル……rrr……
狩りは手早く済ませるべきではなくて? 獲物が逃げ出したり、他のハンターの手で死んだりする前に仕留めなくてはいけないもの。
あナた……
ガガッ、ガシャッ……こノ……
ベチャ……ビチャッ……つミぶカきモ、のどモ……!
ねえ、見た? あの人、よっぽど頭にきてるのね。上手く言葉が出てこなくなっちゃってるもの。
もう「人」と呼んでやる価値もなくてよ。この手の獲物はハンターに狩られる時にのみ、価値を得ることができるのだから――さあ行きましょう、教会まで上がるのよ!
……
うう……
なん……だ?
地面が揺れてる……海岸沿いの山から、何か……何か、落ちてくような? こっちの窓からなら……見えた! あれは……き、教会?
わわっ――揺れが、全然収まらない! 私の宝箱、それから食べ物と……ペトラおばあさん!
ごほ、げほごほっ、ごほっ……
皆さん、脱出しましょう! 先導します、ついてきて! 屋内にいるのは危険で――
……
……
はぁ……そうね、あんたたちにこんなこと言っても無駄よね!
いいから来なさい――
あっ、審問官が……ペトラおばあさんを抱っこしちゃった!?
ぼさっとしないで、あんたもよ! あんたは話が通じるの、知ってるんだから! これがどんなに古い家だかわかってるの? ぐずぐずしてたら一気に崩れるわよ!
今教会で何が起きてるかなんて私にもわからないけど、あの人たちが行ったからにはもっと大変なことになるかもしれないし……これだけで済むかどうかなんて保証できないわよ!
ほこり、レンガ、石柱、暖炉おじさん! 私の手を握って! そしたらほこりは、他の人の手も握って……
審問官のあとに続いて……外に出るの!
はぁ……
やっと終わったわ! 皆、揃ってるわよね?
山……教会。
食いもん……
食いもん。
宣教師……
この期に及んでまだあいつを……人の皮を被った異教徒のことなんかを気にしてるの!?
一体誰のせいであんたたちがこうなったか、ちゃんとわかってるのかしら……ほら、もう忘れなさい! って、そこのあんた、どこへ行くつもり!? 戻ってきて!
う……うぅ……
ペトラおばあさん……あっ、目を開けた? 私はここにいますよ、おばあさん……
そこっ、危ない!
や、屋根から……岩が――
あ、あれっ? 審問官……もしかして、助けてくれたんですか?
あんたね……
ペトラおばあさんが見てますよ、審問官。おばあさんは、あなたに感謝してるのれす。
……なら、好きなだけ掴んでなさい。
あっ……審問官、血が出てますよ。
ちっ……今のでぶつけたせいね。少し痛むわ。
ま、あんたも私のために、恐魚を倒してくれたもの。これでおあいこね。
それにしても……結局、私はなんでここにいるのかしら……あんたたちときたら、恐怖さえ理解してないのよね。命の危機に瀕しても逃げようともしないし……これで本当に生きてるって言えるの?
……
あの歌が……頭の中にあるから、かしらね。
審問官、歌い手さんがいないんです。何かあったんでしょうか?
「何か」? ふっ、別にあんたが気にするようなことは起きてないわよ。
それに、もし「何か」起きてるんだとしても、それは別段悪意あってのことじゃないでしょうし……だから、きっと悪い結果にはならないわ。
何にせよ、結果を知りたければ待ちなさい。そうすれば彼女は本当に……良い結果を出してくれるかもしれないわよ。
教会まで突っ込むわよ!
ええ! 向こうも、止まる気なんてなさそうね!
触手が伸び上がり、落ちてきた岩の一つ一つを粉砕する。砕かれた石は岩壁へとぶち当たり、ひびを入れていく。
スペクターの持つ丸鋸が低く唸る。そして、触手が彼女へ接近した瞬間、その「シスター」はにんまりと口角を上げた。
こんな獲物はいつぶりかしら? ちょっぴり、こういうのに餓えてたところなの。
彼女は両手で振りかぶり、丸鋸の柄を岩壁へと打ちつける。すると花崗岩の硬い岩肌に、大きな穴が空いた。
そのまま彼女は勢いに乗り、ひらりと身を翻す。同時に、丸鋸が彼女の体の下に重い灰色の軌跡を描き、触手の影と交差した。
耳障りな切断音と共に、触手がぶつりと断ち切られる。
髪を乱した「シスター」は階段だった瓦礫に触れると、それを力強く押しのけて、教会へと駆けていった。
振り向きざま、触手の断面を注視する。数本の小さな若芽のようなものが、透明に近いその白の中から頭を出していた。
ねえ、聞こえる? あれの体の中で、細胞が悲鳴を上げてるわ。よく似てるのね、私たちと。
感情があるのよ、元々はただのエーギルだったんだから……いや、そうでもないわね。今はもうエーギルじゃないし、前だってそんなことなかったわ。
怪物の触手の先にあるつぼみが突如として花開き、鋭く飛んだ液体が三人のハンターへと容赦なく突き掛かる。
スカジは剣の柄をくるりと回すと、大剣を体の下で盾にした。
液体で出来た三本の矢が刀身へと激突し、スカジは勢いよく数メートルほど押し上げられた。砕けた水飛沫は岩壁へと突き刺さり、細かな穴を開けて蒸発していく。
作業台で使ってるウォータージェットよりも速いわね。
私たちを見てるわよ、あれ。
なんとかしないと……そういえば、あれって無限に大きくなるのかしら?
「司教」の巨大な目が、突然異様な光を放った。
何なの、このエネルギー!?
その瞬間、グレイディーアの矛が「司教」の視覚器官を素早く切り裂いた。
硬い「膜」がすぐさま怪物の目を覆い、矛の切っ先がその膜に一筋の長い跡を刻む。
怪物は不満げに叫び声を轟かせた。グレイディーアはその爆音のさなか、上へと跳躍する。
そこは最早「建物の底」と呼ぶべき位置だった。教会の床はこの戦闘でとっくに崩れ去り、下からは怪物が迫っている――彼女たちが教会の天井にぶつかるまで、あとわずか数秒のところだ。
しかし、そこでグレイディーアは速度を緩めた。
あら、どうしたの? カジキ。
……こんなところね。あれの体格と重量からして、大凡の限界はこの辺りだわ。
準備なさい。
なゼだ……!?
今よ!
よくも好き放題してくれたわね……あなたの仕打ちに比べたら、こんなものじゃ全然足りないわ!
逃れられるとは思わないことね。
こんなに大騒ぎして……もううんざりよ、司教。
他のハンターを殺した罪は、あなた自身にはないでしょうけど……
私はこの剣を、かつてあなたたちに殺された家族と、海にいた、そして陸で得た、友人たちのために振るいましょう。
自分の愚かさを悔いるがいいわ。
――死になさい。