塵影に交わる残響 LE-6・戦闘前
死者の舞踏
二人は薄暗く広い下水道の中を歩いている。
足音に混じって、時折、滴る水の音が響いた。それは純粋な静寂よりもなお、不気味だった。
まっすぐじゃありません、ここを右です。
よく知っているんだな。
もちろんです。
密偵の基本スキルか?
基礎の基礎ですね。
君はもう随分長くここで仕事をしているんだろうな。
懐柔でもする気ですか?
ただの好奇心だ。
それは機密事項です。
チッ。
……
どうして止まるのですか?
あそこに何かいる。
そんな使い古された手口で逃げ出そうとしないでください。
違う――あそこを見ろ、何かが動いている。
ビーグラーは武器をウルティカ伯爵の背中に押しつけると、彼が指差している方向を見た。
ただのオリジムシです。オリジムシすら見たことがないのですか?
本当に……ただのオリジムシなのか?
名高いウルティカ伯爵ともあろうお方が、まさかオリジムシ程度に怖気づいて歩けなくなるとは……予想外のことも多いものですね。
やはりどこかおかしい……
いいから、早く歩いて!
……わかったよ。
いや、待ってください。
このオリジムシの数……
……尋常ではない! これはまずい!
走って! 早く!
何をする――
早くしないと大変です! 急いで!
ビーグラーはエーベンホルツの腕をしっかりとつかみ、下水道の中を駆け出した。
ハァ、ハァ……
君の頭の中に下水道の地図でも入っているのか……?
皮肉を言う暇があるなら、呼吸を整えたらどうです?
皮肉……そういうつもりはない。私には本当にどの分かれ道も同じように見えるだけだ……
休憩は終わりましたか?
待て、もう少し――
逃げますよ! 走って!
(息を切らす)
もう……ダメだ……
ちょうど良かった、探し人が見つかりましたよ。
こんばんは、ミスター・ラハマン。
こんばんは、ビーグラー店長。
店長?
はぁ、何も知らないくせに、何にでも首を突っ込もうとするとは、マジでめんどくさいヤツだな。
そう思うだろ、ビーグラー店長?
そうですね。
ですが今一番面倒を起こしているのはあなたですよ。
ここのオリジムシは明らかにあなたの影響で、地上へと押し寄せています。
下水道に住むオリジムシが有毒な臭気を放つことをご存じないとは言わせませんよ。あなたがやっていることは、アフターグロー区の感染者にとっては毒ガス攻撃と同じです。
毒ガス攻撃? 私たちには特に影響がないようだが?
このガスは、あなたよりも感染者たちに対して効果的なのですよ、ウルティカ伯爵。
ということは、ツェルニーにハイビスカス……
クライデも……!?
よろしい、状況を理解できたようですね。
ミスター・ラハマン、今すぐオリジムシたちを鎮めて、元の状態に戻しなさい。でなければ、私はこのままあなたを撃ち殺す正当な資格があります。
無理な相談だな。
火ってのは一人でも簡単に起こすことができる。だが起きてしまった大火災を一人に消火させるのは、たとえ刀をそいつの首に押し当てたとしても不可能だ。
こんなことをして、あなたたちにどんなメリットがあるのです?
メリット? そんなこともわからないのか?
回りくどい駆け引きは不要です。
「虫どもが暗がりから湧き出し、壊滅の前奏が響き渡る。」
一字一句逐一説明してやろうか?
……その予言を実現させることに、どんなメリットがあるのです?
お前が気にすることじゃない――
どういうつもりです? 口封じですか?
気絶させただけだ、親愛なる三白眼の密偵殿!
オリジムシをコントロールする方法はあるか?
そんなものがあるなら、彼と無駄話はしていません。
ならば早く行こう、手遅れになるぞ!
(鋭い目つき)
まったく、人は見かけによりませんね、ウルティカ伯爵。
いいでしょう。私が彼を背負います、あなたは私の後について――
待って、あれは――
ビーグラーの視線を追って、エーベンホルツも「それ」を見た。
ラハマンが倒れた場所、下水道の壁に、何やら銀色に光るものが見える。
鍵穴ですね。
ひょっとしたら中にオリジムシを操る装置があるかもしれない! 扉を破壊して――
まずは鍵をこじ開けられないか試してみます。
万が一、何か重要なものまで壊してしまったら大変ですから。
開けられそうか?
難しいですが、この程度なら問題ありません。
では今のうちに教えてくれないか、予言の内容は一体どんなものなのだ?
知らないのですか?
……まあいいでしょう、どうせすでに広まっていることです。
「高い山を越え、悪魔が黄昏の只中に足を踏み入れる。
血中の悪疾は隠れ潜んで、静かに死を蔓延させるだろう。
虫どもが暗がりから湧き出し、思い思いに壊滅の前奏を奏でる。
終曲の和音は遠くに薄れ、災いが最後の陽光を連れ去るだろう。」
……和音……災い……?
ええ。
正直、今も最後の文が何を意味しているのか気になります。
そこまでの文はすべて解読できました。
一つ目の文は、ロドスのハイビスカスがアフターグロー区へ来ることを指してる。二つ目は、疑似回復現象の広がり……
そのことまで知っているのか?
密偵の仕事を何だと思っているのです?
……
三つ目の文も今わかりました。残るは最後の文だけ――
開きました。
これは……
実験室!?
あぁ、あなたでしたか。司会をよろしくお願いしますね――
ツェルニーさん、外が大変なことになっています!
下水道から悪臭を放つオリジムシが大量に現れました! たくさんの人が中毒になって、街はもう滅茶苦茶です!
みながこれを予言の一部と捉えていて、アフターグロー区はパニックに陥っています!
なぜそんなことに?
パニックはひとまず置いておいて、中毒になった人たちの状況は?
予断を許しません……特に最近鉱石病の病状が好転していた人たちの反応が著しいです。
すでにいくつかの病院に連絡をしましたが、アフターグロー区のことだと聞くと、どこも消極的でして……
なんですって!?
今から病院へ行って交渉してきます。
外は今、とても危険です! せめて電話にしましょう!
あなた方が電話して消極的だったなら、私が電話したところで何も変わりません。私自身が出向かなくては。
コンサートは明日です、もしあなたまで中毒になれば……
予定通りコンサートを開催したところで、こんなわけのわからない事件で死傷者が出たあとに、人々が心から音楽を楽しめるはずがないでしょう。
私は事態をそこまで悪化させたくはありませんし、ましてや何事もなかったかのように、自分を偽って作り笑いを浮かべながら音楽を奏でたくはありません!
なんでオリジムシがこんなにいるの!?
くっせ! 何の臭いだよこれ……
支えてあげるから、早く逃げよう。
どうやら……予言は本当だったみたいだな……
オリジムシなんて大っ嫌い、来ないでよ!
クラウザー、クラウザー! 立って――ゴホッ、ゴホッ……
助けて! 誰か、助けてよ!
チェロの音……オリジムシが音のする方へ向かっている?
そこのあんた、ありがとう、助かったよ!
クラウザー、ほら立って、私の肩につかまって……
……
……私につかまって、急いで逃げるよ!
(小声)どういたしまして。
チェロの音が、クライデを中心としてアフターグロー区の狭い路地に沿って広がっていった。
音が届く場所では、オリジムシが次々と向かう先を変えた。
囲まれていた人々はこれで終わったのだと思った。毒ガスを吐くムシケラはチェロの音に導かれて、暗い排水溝の中に帰ったのだと。
しかし、そうではなかった。
彼らが見える場所で、そして見えない場所でも、オリジムシたちがクライデに向かって押し寄せていた。
ハァ、ハァ……
ようやく……外に出られた……
これから……どうする? アーツで直接この虫どもを爆破するか?
――変ですね。
今度はなんだ、親愛なる密偵殿?
オリジムシが一箇所に集まっています――
チェロの音……!?
クライデ、何をしている? やめろ――ゴホッ、ゴホゴホッ!
おやめなさい、叫んでも意味がありません。余計にガスを吸い込むことになりますよ。
手を貸してくれ、向こうに行く!
叫ぶなと言ったでしょう。
叫んだところで彼は止まりませんし、言われずとも手は貸します。
二人で道を切り開き、クライデの所へ向かうぞ!
ダメです。私は反対方向へ向かいます。
喫茶店へ帰るというのか?
その通り。ここで協力して道を切り開いた後、別の道を行きます。
喫茶店へ帰って、実験室で見つけた紙切れの分析をする、そういうことだろう?
実に素晴らしい。「音」の研究ノートの方が、毒ガスの被害者よりも重要だということか。
クライデの件は、あなたご自身が引き起こしたことです。ご自分で解決してください。
それと、この研究ノートと計画書の中で、一つでもあなたが書いたものがあれば、どうなるかわかりますよね。
期待している。
無駄話は終わりです。
三つ数えます、一気にやりますよ!