塵影に交わる残響 LE-7・戦闘後
浄夜
倒れなさい!
寝ぼけたことを!
まだ余裕がありますの……?
今度は本気を出すぞ、ミズ・ストロッロ!
あなた――これまで実力を隠していましたの!?
どうした、お前にも思い通りにならない時があるのか?
なにをおっしゃっているのかしら! どうせ「音」に頼っているだけ……アーツのコントロールという点では、あなたは未熟ですわ――
ハァッ!!
ハァ、ハァ……
た、倒したか……
……フッ、ウルティカ伯爵。まさかこの私があなたに負けるとは。
お前でも負けを認めるのか?
フン、負けは負けですわ。認めなければ、私の勝利になりますの?
お前は……なぜそんなに余裕でいられるのだ?
当たり前でしょう……あなた方が私に何ができるといいますの?
私はこの都市の領主ですわ。そしてあなた方は愚かにも、深夜に私が管理するコンサートホールに侵入し、私が承認した合法的な改造を施した機材を取り壊そうと企んだ不逞の輩ですわ。
あまつさえそれを止めようとした私を傷つけた――
ウルティカ伯爵、ロドスのオペレーター、それとツェルニー、自分の身を心配すべきなのはそちらの方ですわよ。違いますかしら?
ゲルトルーデ、やはり卑劣な人ですね。
卑劣な人? それが十年以上もあなたに資金援助をしてあげているパトロンに対する態度ですの?
ツェルニー、あなたにこのホールを使わせてあげているのは、私ですわよ。
ただの感染者でしかなかったあなたが今の地位につけたのも、この私が与えたからですわ。
そしてあなたが心の底から大切に思っているアフターグロー区も、私の慈悲深さがあったからこそ今日までなんとか命を繋いで来れましたのよ。
お忘れなきように。
なっ――!
お引き取り願えますかしら、皆様方。
……
それはどうだろうな。
ウルティカ伯爵の身分は、リターニアでは一種の恥を意味する。
だがそれは同時に、私のいる場所には、女帝の監視の目が必ずあることも意味するのだ。
だから何ですの? 言いましたでしょう、ホールを破壊しようとしたのはあなた方です。
たとえ女帝陛下の密偵がここに現れようと、逮捕されるのは私ではなく、あなた方ですわ。
ビーグラー、いるか!
すべてを見ていただろう?
まだ高みの見物を決め込むつもりか!?
私が見たのは、ウルティカ伯爵ともあろう者が、深夜に人を引き連れてコンサートホールに押し入ったことです。それ以外には、何も見ておりません。
彼女の陰謀に関する話を聞いていなかったのか!?
それはストロッロ伯爵の陰謀の件ですか、それともウルティカ伯爵とストロッロ伯爵の共謀の件ですか?
君……
確かに聞きました。
ですが、たとえ先ほどの会話をすべて録音していたとしても、何も証明はできません。
証拠ですよ、ウルティカ伯爵……何事にも証拠が必要です。彼女が女帝に叛意を持っていると立証できる証拠はありますか?
証拠? この期に及んでまだそんなことを言っているのか……
そうだ、「塵界の音」!
私たちが下水道で発見した「塵界の音」の研究ノートだ!
……何ですの?
フッ。
どうやらそこまで愚かではないようですね、ウルティカ伯爵。
研究って何ですの? 何のことだかさっぱりですわ。
今さら知らぬふりをしても無意味ですよ、ストロッロ伯爵。
確かにあなたは、下水道の実験室にあったノートや計画書とは直接な関係がないかもしれません。ですが我々には我々のやり方というものがあります。
下水道の手がかりから、あなたが持つ他の拠点を見つけ出すのはさほど難しいことではありません。
さて、あなたには陛下が禁止している「塵界の音」の研究を行った疑いがあります。一緒に来ていただきますよ。
……
待て、「塵界の音」を研究したという容疑だけか!?
重ねて申し上げましょう、ウルティカ伯爵、そしてそちらの方々。
確かな証拠によって、あなた方の言う悪い結果が確実に発生すると証明できなければ――
彼女に対する非難はただの中傷でしかないのです。
では、その研究ノートを見せてください。私なら詳しい証明ができます!
残念ですが、あれはリターニアの機密事項に当たりますので、外からやってきた組織に渡すわけにはいきません。
そんなの理不尽じゃありませんか!
この大地には思い通りにいかないことがたくさんあるのですよ、お嬢さん。
でも……!
もういい、ハイビスカス。
彼の考えは変わらない。私たちの発見ではストロッロ伯爵を有罪にするには不十分だ。
そして彼が現れたのは、ストロッロ伯爵を有罪にできる別の証拠を見つけたからだ。
むしろ無遠慮に大声で呼んだにも拘らず姿を現した彼に、私は感謝をすべきなんだろうな。違うか、ビーグラー。親愛なる密偵殿?
まぁ正直、あなたとストロッロ伯爵のような貴族を比較するなら、私はあなたの方が好きではありますがね、ウルティカ伯爵。
それと、ミスター・ツェルニー。
ん?
現在ストロッロ伯爵は我々の管理下にあります。たとえあなた方が心配していることが事実であったとしても、コンサートにもう危険はありません。
とは言え、このコンサートは取りやめることをお勧めしますがね。それが最も安全な方法です。
明日のコンサートはすでに禁止されたものかと思っていました。
開催するか否かはあなた次第です。
さて、ストロッロ伯爵、女帝陛下に対するあなたの忠誠心は信じております。ただ……朝食にお招きしたいというだけです。もちろん応じていただけますよね?
フン、深夜の朝食? いいでしょう。
ウルティカ伯爵、私を裏切ったことを後悔しますわよ。
私は多くのことで後悔するだろうが、この件だけは、絶対に後悔しない。
行かせちゃいましたね……
ゲルトルーデ……
まだ彼女に言いたいことがあったのか?
下品な言葉もそれに含まれるのであれば。
クライデはまだ目覚めていない……
私に任せてください。すぐに彼をロドス本艦へ連れて行きます。
彼を連れて行くのか?
はい、ロドスでないと適切な治療を受けられません。
ダメだ。
どうしてですか?
彼の病状を安定させることはできるかもしれないが、「音」はどうする?
君たちの治療の腕は疑ってはいない。だが本当に「塵界の音」の問題を解決できるのか?
……保証はできません。
ですがもう他に選択肢はありません。
ゲルトルーデさんが言った、合奏することで「塵界の音」を取り除く方法をまだ信じているんですか?
信じるほかない。
そんな――
教えてくれ、ヴィセハイムからロドス本艦まで、どれだけかかる?
……
答えられないのは、クライデがそれまで持たないかもと思っているからだろう。
……ゲルトルーデさんが言っていたことが本当だったとして、あなたは自分を犠牲にしてまでやるつもりなんですか?
できるのであれば、なぜしない?
ハイビスカスは唖然とした。
青年の目は、初めて出会った時とはまるで違っていた。
彼は本気だ――ハイビスカスはそう感じた。
わかりました。私も協力します。
ですが、私の「音」に対する知識はごく僅かで、しかもすべてあの伯爵の口から聞いたものです。真偽のほどはわかりません。力は惜しみませんが、でも……
間に合ったようだ。
お爺さん、あなた……
もしも「塵界の音」についての情報が必要なのじゃったら、ここに計画書があるぞ。
……!?
お爺さん、あなたまさか……
まさか貴殿もビーグラーと同じ……
そうだ。
あんたらも知っての通り、クライデは当時の計画の生き残りだ。
女帝陛下がそんな不安要素を野放しにすると思うか?
ですが、あなた方は共に十年以上さすらっていたのでしょう!
だからこそ他人から疑いを向けられぬのだ。
でもビーグラーさんはそれは機密事項だって――
だからあいつの所から盗んできた。
クライデを救えるのであれば、こんなクソみたいな計画なんぞ、人に見せたところでどうってことはない!
ゴホゴホッ、ゴホゴホッ。
こ、興奮なさらないでください。まだ身体が弱ってますから……
計画書は私が確認をします。ハイビスカスさん、あなたはご老人を休ませてあげてください。
……わかりました。
……お爺さん、クライデさんは、知っているんですか?
話してはおらん。だがあの子は賢いからな、きっと薄々勘付いておるだろう。
こんなの、彼にとってあまりにも残酷すぎます。
残酷か。
フッ。
お嬢さん、わしがどうやって感染者になったか知っておるか?
……いいえ。
聴いたことがあるだろう。女帝陛下が政権を握る前、リターニアの古典アーツへの探求は、他国の追随できぬレベルに達しておった。
はい。
では、それほどのレベルに達するために、リターニアがどのような代償を払ったか、知っておるか?
大量の感染者を含む、無数の人の命です。
そうだ、感染者だ。
あの時代には、一定数の感染者たちを定期的に引き渡すことを規則としていた選帝侯もおったほどだ。
だが感染者とて人間……黙って死を待つはずもなかろう。
それで、最終的に何が起きたと思う?
まさか……!?
理解したようだな。
……腕を源石でひっかいてやれば、そいつはもう立派な感染者だ。
わしはそうやって感染した。
旋律……この旋律は――「塵界の音」は巫王が残したものだったのですか!
そういうことだったのか……
いや、そうとしか考えられない!
巫王はリターニアで最も強大な術師であるというだけでなく、最も恐ろしい音楽家でもあります。
彼は音楽への造詣が非常に深く、彼の音楽の探求はアーツの研究と同レベルだと話す人もいます。
ですが、彼がこの世に残した曲には、テンポや調性、質感……これら音楽の美を構成する要素はなく、どれも激しい侵略性と破滅性で彩られています。
リターニアでは、彼の作品群はとうの昔に禁じられている。もしこの「塵界の音」が巫王の残した旋律だとすれば――
だとすれば、「塵界の音」は紛れもなく巫王が世に残した作品で、あなた方は彼の作品の延長ということになります。
私たちはあいつの作品などではない!
否定する必要はありませんよ。それに、もしそうだとすれば……
方法があるのか?
オリジムシを追い払った時の合奏を再現してもらいたいです。
その時にご自身の「塵界の音」を理解した……そうですね?
合奏? 今か?
今がどんな状況か、わかっているのか?
わかっています、あなたよりもはっきりと!
しかし――!
エーベンホルツさん、ツェルニーさんの言う通りにしましょう。
クライデ、大丈夫なのか? 一人でここにきたのか?
アンダンテさんが送ってくれました。
もう「塵界の音」の旋律に沿って弾くのはやめてくれ。ただでさえあの時の君の様子がおかしかったんだ……
僕は、できることをせずに終わりたくないんです。
それで……ツェルニーさん、何を思いついたんですか?
もし「塵界の音」が旋律であるなら、かつてあなた方を使って実験をした巫王派の残党にしろ、ゲルトルーデにしろ……
彼らがやりたかったのは、これらの旋律に含まれているアーツ――あるいは、このアーツに流れる旋律を誘導することです。
つまり、「塵界の音」に対する彼らの探求目的は、その中にある神秘を掘り起こすことにあります。
わかりやすく言い換えるのならば「塵界の音」をより「鮮明」に、より「美しく」奏でることです。
それと、一つだけ明確になったことがあります――
「塵界の音」を「移す」方法は、この計画書のどこにも書いてありません。
……もう驚かないさ。
ですがそれは困難だからというわけではありません。むしろ逆で、それが彼らにとって単に無駄であるからというだけです。
なぜなら、巫王が残した旋律はどれも別々の時期に作られており、それぞれがまるで違う感情や思考を含んでいるものだからです。
二つの全く異なる楽曲を一つに合わせてみたところで、どんな意味があるというのです?
この前あなた方が合奏した時と同じく、探求するほど、その演奏はひどいものとなります。
オリジムシですら逃げていったのも、恐らくあなた方の演奏が相当耳障りだったからでしょう。
彼らは多分似たような研究をして、あまり効果がないと気付いた……そういうことではないでしょうか。
その通りです。
ですが、二つの旋律が完全に異なっていたとしても、しっかり下地を整えてやりさえすれば、完璧に融合させることは可能です。
そこで、『夕べの夜明け』を演奏してほしいのです。
そして、夕方にやったのと同様に、曲の中から自身を掘り起こしていただきたい。
あなた方の身体に残る「塵界の音」の旋律を感じて、私が新たな曲を作ってみせましょう。
待ってください。いずれにしても、「塵界の音」を移すというのであれば、結局は「器」が必要です。
二つの「塵界の音」を一人の人間に移植する実験は……確か失敗に終わっていますよね。
自分がその「器」になる。そう言いたいのだろう?
その程度の決心で自分を犠牲にしようなどとは思わないことです、若者よ。
私が曲を作り出して、できる限りあなた方の身体の中にある「塵界の音」を引っぱり出します。
もしできなければ、私がその「器」となります。可能ならですが。
……なぜ私たちのためにそこまでする?
……
私の記憶が正しければ、『夕べの夜明け』は、あなたがフルートを学ぶきっかけでしたね?
だったら何だ?
ならば、あの曲がどう生み出されたか聞いたことがあるでしょう。私は人に知られたくありませんでしたが、ゲルトルーデは頑なにそこを「セールスポイント」に仕立て上げたのですから。
貴殿は最も大切な友人を失い、悲痛の中でこの曲を創作した。
「悲痛」ですか。
その表現は適切ではありませんね。
「悲憤」と表現すべきです。
あの時私は、人生は思うようにならないということを初めて知り、自分にとっての音楽の意味を初めて理解しました――
それは、定められた運命に抗うことです。
普通の人を感染者にするなんて、そんなの残酷すぎます……
何度巫王の残虐さを呪ったかはわからん。しかし、おそらくわしの呪いが本当に誰かに届いたのであろう。
わしが実験場に送られる前に、女帝陛下が巫王を倒した。それでわしは救われた。
そしてわしは誓った。この命を陛下に捧げると。
それで密偵になったんですか?
そうだ。
密偵が普段どんな仕事をしているかは教えられんし、あんたが知る必要もない。
あんたはただ、当時「塵界の音」を研究していた巫王派の残党の居場所を突き止めた密偵が、このわしだということを知っておればよい。
その者たちを発見した時、すでにクライデの実験は失敗しており、今のような体質になっておった。
……あなたたちに彼を救うつもりはなかったのですよね?
どうしてわかる?
私の知る限り、双子の女帝は今の地位に就いてから、巫王時代のあらゆる研究を禁止していました。「塵界の音」に関する研究も当然それに含まれます。
でも、「塵界の音」が本当にそれほど強力なものなら、巫王が倒されてから今までの二十年間、それが誰の目にも触れていないなんてことはありえません。
ましてや、「巫王はそこに自らの痕跡を残した」「巫王は旋律の中に力を隠した」、これらの噂の主語はいずれも巫王です。
「塵界の音」に対する探求行為は、むしろ巫王本人に対する崇拝によるものでしょう。
そしてビーグラーさんの行動からも分かる通り、密偵にとっては女帝の利益を確保することが最優先事項です。
つまり、あなたたちから見て、「塵界の音」は女帝にとって何の利益もないと言えます。
お嬢さん、これまであんたは無鉄砲で体当たりな行動をするばかりだから、てっきりあまり賢くはないものと思っておった。
しかし実際は、ただ自分の知恵の使いどころを分かっておらぬだけのようだな。
ううっ。
あんたの想像通りだよ。どのみち計画書を持ってきたんだ、隠したところで仕方がない。
「塵界の音」は非常に特殊なものでな、あれは間違いなく巫王がこの大地に残した旋律であり、確かな力を秘めておる。
しかし、その中に巫王が自らの分身を残したと信じる者は、熱狂的な信者だけなのだ。
「塵界の音」が宿す力はとても独特で、普通の方法では使用することができない。
少なくとも現在宮廷にいる術師たちにとっては、「塵界の音」の研究価値は乏しいものでしかない。
そこで、エーベンホルツとクライデの処遇が問題となったのだ。
エーベンホルツさんはクライデさんに比べて条件がよかったから選ばれたのですか……?
そうだ。我々は、巫王派の計画が最終的に失敗したと宣言する必要があった。そして身体に問題のないエーベンホルツが最善の選択となるのは当然だった。
クライデはすでに身体に問題が生じていた。だから……処分する以外はなかった。
やっとの思いで残党の魔の手から逃れられたというのに、死ぬしか道がないなんて……あまりにも酷すぎます!
あんたからすれば、わしらのやり方は非情に見えるかもしれんな。
しかし多くの悲劇……非情になり切れなかった者が起こす、多くの悲劇を経験すればわかるだろう――
すべてに対して情けを掛けることなど不可能だとな。
あのビーグラーのことも……非情だと思ったろう?
確かにそう思いました。
だがな、あんたは知らんのだ。あいつはここで他の住民たちと共に生活して十数年……アフターグロー区に対する思いは誰にも劣りはしない。
あいつはゲルトルーデめを八つ裂きにしてやりたいと思っておる。だが、それができぬのだ。
あんたは、ゲルトルーデの言葉に一番腹を立ててるのは自分だとでも思っておるのか?
……
ビーグラー……さん、は……
それにクライデは、体質のせいで無意識に他人に危害を与えてしまうため、誰にも近づけない。過去があの子に普通の生活を送ることを許さない。
あの子には選択肢がないのだよ。
……でもあなたは彼に情けを掛け、死以外の選択肢を与えたではありませんか。
先の短い老いぼれと共に大地をさまよい、辛うじて学んだチェロですら、ろくに触れることができぬ。これが選択肢と言えるのか?
友人を作るどころか、人に近づくことさえできぬ。こんな日々を生活と呼べるのか?
でも彼は生き延びた。
……確かにな。
ガタガタ震えるあの子の姿を見ておると、わしの腕は今でも痛みを感じるよ。
巫王……巫王。
わしやクライデ、そして知らぬ間に感染した者、強制的に感染させられた者……
巫王がリターニアに残した傷口からは未だに血が流れておる。それなのに、今もなお彼の帰還を望んでおる者、さらには巫王派の残党たちを匿い、研究を続けさせる貴族さえ存在する。
恨めしいのだ……
奴らが全員死刑に処されるその日まで生きられぬのが恨めしい。
ゴホッ、ゴホゴホッ……
きっと生きられますよ。
慰めは必要ない、お嬢さん。
今日まで生きてこられただけで奇跡だ。あの子とこれだけ長い間、共に生きることができた……
あの子はわしにとって、本当の孫のようなものなんだ。
今回あの子をここへ連れてきたのは、ビーグラーに紹介し、密偵の仕事を世話してやろうと思ったからだ。
そうすれば、わしが死んだ後も安心だ。
……だが今、もう密偵などはどうでもよい。
わしはずっと、密偵として女帝陛下のためにすべてを捧げることが自らの運命だと思っておった。だがこうしてみると、そういうわけでもなさそうだ、フフフ……
お爺さん……
ドンッ――
大きな音が部屋の中から聞こえてきた。
!?
行きなさい。この老いぼれはもうしばらくここにいさせてもらう。あの子たちを助けに行ってやってくれ。
……気分が悪くなったら、呼んでくださいね!
初め、「塵界の音」には名前がなかった。
なぜなら、それは巫王に捨てられた旋律だからだ。
宮廷の音楽家たちは、巫王が気まぐれに書いた旋律を一つ一つ記録した。
巫王が完璧に作り上げた楽曲が深淵からの怒号であるなら、それらの断片は間違いなく未だこの世に属する旋律であった。
そうして、それらの断片は「塵界の音」と名付けられた。
しかし、ただの断片であっても、巫王の力は依然として非常に恐ろしいものだった。
……
エーベンホルツさん、以前あなたに、音楽における自らの純粋な姿を見せるよう要求しましたが、今は――
あなたの過去十数年の人生を思い出し、そこにある怒りをぶつけてほしいのです。
音楽とはあなたの人生の写しであり、足跡であり、大地をのぞき見る両目なのです!
感情に惑わされてはなりませんが、背いてもなりません。探求し、吐露することで、あなたの魂の奥深くの旋律を引き出すのです!
……!
み……見つけたぞ……
そう、その通り、それです!
それこそあなたの脳裏に刻まれた旋律です……あらゆるものを打ち砕く、破滅の旋律……
……
そしてクライデさん、あなたはその逆で――自分を抑えるのです。
あなたは自身の抱え込むすべてを打ち明け、経験したすべてを許容しています。しかし、知っていますか? その善良さこそがあなたの最大の弱点なのです。
妥協? なぜ妥協するのです? どうして妥協しなければならないのです? あなたに妥協を求める資格など誰にもありませんよ!?
多くの人があなたはもっと良い生活を送るべきだと思っています。ご自身でもそう考えたことがあるのではないですか!?
……僕は……
……
……この期に及んでも考えは変えないんですね?
まぁ、いいでしょう。
これで充分です。
あなたの旋律も、感じることができました――
それは虚無、すべてを呑み込む虚無。
うっ……
くっ……
耐えてください!
二つの全く異なるアーツの力が室内で絡み合い始めた。二人の青年の顔にも苦悶の表情が浮かびつつある。
ツェルニーは理解していた。今がその時だと。
焦らず演奏を続けて。もし身体に異変を感じたらすぐに中断してください。
ですが、もしも問題がないようならば――すべてを私に預けてください。
ツェルニーはピアノの前に座ると、一度深く息を吸い込み、演奏を始めた。
しかし、二つの全く異なる力を整えようとした時、彼は自分の無力さに気付いた。
それは強大で、憤怒と恐怖に満ち、悲壮で、血まみれの叫びのような――
しかし、知らず知らずのうちにその中に引き込まれる旋律。
ある瞬間、彼の心は巫王に対する憎しみに満ちたが、次の刹那には心の底からの憧れを抱いていた。
ある瞬間、自分が生まれたばかりの赤子のように感じたが、すぐに歳月が自分の身体を流れていくのを感じ、次の刹那にはもう老いがのしかかっていた。
わずかに残った理性を用いて自身の姿を保とうとした時、彼はまるで果てしない荒野を進んでいるように感じた。激しい砂嵐に、目を開けることすらできない。
全力を尽くして砂嵐の中を突き進むと、空の果てまで続く高い壁が目の前に現れた。壁には何もない。苦痛も、怒りも、死も。
純然たる壁だった。
彼は一瞬で理解した。それは越えることのできない障壁だと。
その瞬間、あふれるほどの恐怖が彼の心を満たした。
うっ!
ツェルニーは激しく咳込み、口から血を噴き出した。
あまりに酷い咳に、彼は水を飲もうと立ち上がったが、よろめいてそばにあった譜面台を地面に倒した。
おい、大丈夫か!
ツェルニーさん!
中から物音が聞こえましたが、何が起きたんですか?
……些細なことです。
やっと理解しました。私と同じ試みをした人がいないのではなく、恐らくそうした者は皆死んでしまったのでしょう。ハ、ハハッ……
ハハハハハハ!
何を笑っている!?
ツェルニーさん、口元に血が……拭いてあげましょう。
先程、あなた方はどのように感じましたか?
……「塵界の音」を引き出していた時、強烈な……引き裂かれそうな感覚があった。
ですがあなたが加わってから、かなり負荷が減りました。
つまりそれは、少なくとも私の方法が有効だということを証明しています。
でもあなたはもう……
少し血を吐いただけです。自分の体は自分がよくわかっています。
続けましょう。
死んでしまうぞ。
私が今日まで生きてこられたのは、ゲルトルーデが私に利用価値を認めて、金銭を費やして薬を与えることを厭わなかったからです。そのおかげで、普通の感染者より猶予があっただけです。
ですが、もし今日この曲を完成させることができなければ、それは私にとって、死と変わりありません。
もし私を無意味に死なせたくないと思うのならば、フルートを取りなさい。
……
クライデさん、もっと大胆に。
ですが……
私に気を遣う必要はありません。あなたにその資格はない!
これは私ではなく、あなたの生死に関わる問題ですよ。自己犠牲は美徳だなどと思わないでください!
時に犠牲は相手の負担になることもあるのですよ!
叫びなさい。心が命じるままに動き、あなたが持つべき尊厳を勝ち取るのです!
……わかり……ました。
今、私の相手は私自身です。
……ゴホッ、ガフッ。
ツェルニーさん、また血が!
……
(私の声が全く届いていない……)
……
僕たちは休みましょう、エーベンホルツさん。
だが――
ここにはもう僕たちは必要ありません。
僕たちがすべきなのは、体力を養いつつ、ツェルニーさんが新曲を書き上げるのを待つことです。
……ハイビスカス、彼のことを頼む。
……絶対に私より先に倒れさせはしません。行ってください。
ツェルニーの敵は巫王ではない。
たとえ巫王が数多くの罪を犯していたとしても、たとえ巫王が唾棄すべき存在だとしても、遺された音楽そのものは善悪で定義すべきでないと、彼はそう認めざるを得なかった。
彼の相手は、今この瞬間の自分自身だ。
彼はもうあの絶望の壁を登ろうとしない。
演奏を始める。
足元に現れた足場が、彼を空高く持ち上げ、雲を突き抜けた。
壁の果てが見えずとも、彼はもはや気に留めはしない。
沸き上がる力が体内でうねり、彼は堪えきれずにまた幾度となく血を吐いた。
そばにいるハイビスカスはツェルニーの姿にとある錯覚を抱いていた――
彼女にはまるで、ツェルニーの命がすさまじい速度で流れ行くように見えた。それと同時に彼の書き記した音符が叫んでいるかのように感じた――
持って行け、すべて持って行くのだ! 彼のすべてを持ち去れ!
今日こそ、ツェルニーの命日だ!
だが、ツェルニーの音楽は永遠に死ぬことはない!
ゴホゴホッ、ゴホ、ゴホッ……
で……き……た……
やりましたね! ツェルニーさん――
音楽家は立ち上がろうとしたが、彼の上半身はピアノに倒れ込み、夜明け前の部屋に不協和音を響かせた。