翠玉の夢 DV-5・戦闘前
ドロシーの約束
……ミュルジス。
ぅ……うーん……
まさかこんなところにいるとはな。
すまなかった。
……え……?
ドクターの一声がなければ、そうと知らずにお前をこの手で殺していただろう。
奴は、君が昔の同僚を殺すところを見たかったのだろうか?
とも限らないがな。
私が手を止められたのは、ドクターの声があったことに加えて……彼女の言葉が気にかかっていたこともある。
「相手が何だろうと、敵と思い込まないほうがいい」――あれは暗にミュルジスのことを言っていたんだろう。
では、わざと送り返してきたということか?
それにしては、先ほどの状況は明らかに危険だったがな。ミュルジスが殺されずに済む保証などなかったはず……
となると……彼女には、ミュルジスの生死などどうでもいいんだろうな。
……パワードスーツの性能と合わせて、私とロドスの反応をも同時にテストしようというわけか。
であれば、バーでの発言はすべて、私を試す意図があった、と……
奴は今も、自らにとって有利なほうへと我々を誘導しているわけだな……
う、うう……っ
ミュルジス、大丈夫か?
奴らがお前に鎮静剤を打ったのは数時間前のようだ。パワードスーツの中にいる間に、意識はほとんど回復していたことだろう。
今感じているはずのめまいや痺れは、主に酸欠と精神的な恐怖が与えた後遺症だ。
応急処置はしてあるが、完全な回復まで30分ほどかかるだろう。
と……め……
……「止めて」、か?
一体……誰を?
お前をパワードスーツに閉じ込めた――
あの人物のことか?
いいえ……
不安のあまりにか、ミュルジスの額と手の甲からは玉のような汗が流れていた。
彼女が突然あなたの手を掴む。そして、その動作に伴い浮き上がった水滴が、次々とあなたの服の胸元を叩いた。
深い色をした布地に飛んだ水滴は、あるメッセージを浮かび上がらせる。
それはバーで会った彼女の名でも、「フェルディナンド」の文字でもなく――
……「359」……
359号基地か。
珍しいな。君が顔を出すとは。
別にいいでしょ? 臨時の社員証をくれたのはあなたじゃない。
「文献学顧問」なんて肩書きで、ね。――ライン生命みたいなテクノロジー企業に、こんな役職必要だとは思えないけど。
ともあれ、ご機嫌そうなところを見るに、実験は順調に進んでるみたいね。
今は実験の話などしないでくれ。
――10分……私のような人間には、一日に10分しか自分の時間がないんだ。
この時間で子供たちとビデオ通話をすることもできれば、エレナや皆と夕食を取ることもできる。
だが……何もせず、ただここに立ってすべてを眺めるほうが好きなのさ。
ここから見えるのは通りくらいのものじゃない。
ああ、それ以外に見えるものなどないがね。
あの通りを歩く彼らは、一日中働いて疲れ果てているに違いない。それなのになぜ、その表情に曇りはなく、足取りも軽快なままでいられるのか?
それは「チャンス」があるからだ。
自分の苦労が、家族全員により良い暮らしをもたらすチャンスに繋がるはずだと信じているからだ。
……都市の外にいる開拓者たちみたいね。
そう、彼らのようにな。
トリマウンツ、またの名をスリーバーデン……
かつて、七人の開拓者と三匹の駄獣がこの地に初めて粗末な入植地を築いた。
それが、今はどうだろうか? 足元に広がる通りを見たまえ。
ここには活力溢れる開拓者とその子孫が集っている。クルビアほどの向上心を持つ国はほかにない。
この国の繁栄は人々に自信を与え、人々の日々の進歩がこの国に活気をもたらしている。
クルビアが急速な発展を遂げ続ける限り、この地の人々一人一人の生活もまたそうあるはずだ。
――君たちが私をどう思っているかくらい知っている。君も、クリステンも、それからサリアも……皆、口を揃えて私のことを「投機家」と呼ぶことだろう。
チャンスをものにできる人は、みんな賢い人間よ。
それはどうもありがとう。
……眼下の通りではなく、この高みに立つほうが好きだということは否定しない。
だが、私は自らが得たチャンスに相応しい人間だ。
私のプロジェクトは富をもたらし、その富が次のプロジェクトを推し進め、その結果技術は向上し続ける――
我々は、ほかすべての国々の前に立ち、テラ全土を新時代へと導いていく存在なのさ。
時が来れば、後世の人が不朽の記念碑を建て、そこに我々の名が刻まれることになるだろう。
我々っていうと?
――勝利はすべての開拓者のものだ。
……
もうすぐ10分が過ぎる。
まだお喋りする時間をくれてないのに?
ここへ来た以上、君の伝えたいことはわかっている。
へえ?
だが、私は君のことを許そう。
……
クリステン、ミュルジス、サリア、パルヴィス……そして君。それぞれの些末な企みを当て推量している暇はないのでね。
ドロシーの実験は成功まであと一歩に迫っている。
私が欲しいのは、その最終結果だけだ。
さ、サニー……
ドロシーはここが一番安全だって言ってたじゃない。……どうして武器を構えてるの?
「安全」だって?
それは違うな。
最大の危険は、俺たちの目の前にあるんだ。
危険って……ドロシーのこと?
キミは話を聞いてくれると思ってたのに……
……申し訳ない。
あんたとお医者さんたちは離れててくれないか。初めから、俺たちのターゲットはあんたたちじゃないんだ。
でも……
エレナ。私たちはこの人に騙されたんだ。
さっきジョイスを守ろうとしたのだって、単なるパフォーマンスで……
これまで、怒りやためらい、そして踏み越えてはならない一線を尊重する姿勢を見せてきたのはこのためだったんだと思う。
彼はずっと、本気で罪を犯すつもりで準備していたんだ。
……
マイヤーズがあんなことをするとは思ってなかったよ。だがあんたたちの……特にウビカ博士の信用を得るために、同じようなことをもっと過激な形で、サムにやらせようとは考えてたさ。
……いや、こんなことはもうどうだっていいな。
俺たちは計画通りここへ辿り着いて、問題の原因を見つけたんだ。
……それって、私のこと?
誘拐を計画してまでここへ来たのは、私を殺すためだったの?
どうしてそんなことを……?
事ここに至れど、彼女の声はどんなに頑なな心にも染み入りそうな優しい声のままだ。
少し見開いて潤んだ瞳も――
驚いて、どこか傷付いたようにすら見える、いかにも罪のないその表情も――
すべてが、非難されるべきはそちらのほうだと訴えてくる。自衛のために武器を取ったのは彼らのほうであるというのに。
どうして、なんてことを俺に聞くのか?
決まってるだろ。俺はすべてを見てきたからだ。
あんたが生み出した化け物に追い回されて、仲間たちの血を奴らの餌にまでされて……
あんたは……とんでもない悪人だ……!
アレは化け物なんかじゃない! ただの実験の副産物だよ!
神経信号に敏感な特殊物質でできていて――
……エレナ。これはサニーさんの臆測なんかじゃない。
彼は、前にもあの銀色の何かを見たって言ってることになる。
それも……今よりたくさん。
……先生の言った通りだ。
三日前、俺は研究エリアに忍び込んで……あんたの元へ行こうとしていた。
俺は、その時……あんたに訊こうと思ってたんだ。俺も被験者にしてもらえないか、って……
おい、リーダー! 被験者になるのはすごく危険だとか、大企業の連中は俺たちを騙してるかもしれないとか言ったのはあんただぞ!
は、はは……はははっ……
悪かった、サム……俺は一貫性のないクズだ……
それでも、過去の過ちを正したい一心だったんだよ……
――聞いてくれ、みんな。
俺はその夜、銀色の化け物があの女のそばで一つの塊になっていくところを見たんだ。あいつはそれに向かって、ペットを相手にするみたいに話しかけていた。
ドロシー・フランクスこそ、すべての元凶だ。
僕が言ったこと、信じてもらえないでしょうか?
……あいにく、私はSF映画なんて好きじゃないの。
それなら、この手紙を読んでみてくれませんか。
手紙って……
一緒に電線の点検を終えたあと、サニーさんから預かったんです。恐らく自分の身に危険が及ぶことを想定していたんだと思います。
あの人は、「万が一俺の身に何かが起きたら、メアリー・バナーにこの手紙を渡してくれ」と言っていました。
ですが、きっと……その何かが起きる前に手紙を見せても、許してくれるはずですよね?
……見せてちょうだい。
…………
……何が書かれていたんですか?
あの男、一体どこへ行ったの!?
うわっ……!?
あなたはサニー・ロマーノのことを何も知らない。
クソみたいな保険のせいで、あいつの心は恨みでいっぱいなのよ。
また「保険」ですか……
ええ。クルビアの感染者なら誰しも、この言葉が頭に刻み込まれてるの。
もしかすると……外国人の多くは、クルビアが感染者に優しい国だと思っているかもしれない。
「医療保険に入っていれば、感染者でも普通の生活が保証される」――そう聞くと、まっとうな話に聞こえるものね。
サニーも、病気になってすぐの頃は同じことを言ってたわ。
でも、訪れた結果はどうかしら?
もしかして、その保険料が……高額だったってことですか?
仮に私が一生保安局で働き続けた上で、飲食費のすべてを削ったとしても払いきれないような額なのは確かね。
あれは感染者の命を守るための制度なんかじゃない……巨額の保険料に対して、彼らが受け取る薬は、それに見合うようなものじゃないのよ。
あんなのは実質的な罰金だわ。感染者たちに、決められた道を歩かせようとするためのルールでしかない。
それなのに、サニーは……ロマーノの奴は、いつまでも現実を直視しようとしない。
あいつを止めないと、本当に許されない罪を犯すかもしれないわ。
サニー、あなたが見たのは化け物でもペットでもないの。
確かに、私の実験には関係しているけれど。
……認めたな。
真実はあなたたちの役には立たないわ。
逆に、知れば知るほど危険が及ぶことになる。
……あんたらトップの人間たちは、他人に代わって勝手に何かを決めるのが大好きだからな。
まずは武器を下ろしてもらえない? ここにある機材はデリケートなの。
下ろすのが嫌なら、ここを狙って。
私は……撃たれても構わないから。
開拓者たちに向かって、彼女は一歩踏み出した。クロスボウの先が身体に触れてしまいそうな距離だ。
サニーの手が微かに震え、彼はその優しい両目から無理やり視線を外した。
これも悪人の策略のうちで、自分たちを服従させるためのアーツみたいなものだ、と自らに言い聞かせながら。
死ぬのが怖くないのか?
もちろん、怖いわ。
だけど、あなたたちが自分を傷つけてしまうことのほうがずっと怖いの。
サニー。あなたも、あなたの仲間たちも、人殺しなんかじゃない。よりよい暮らしを望んでいるだけの、ごく普通の人たちよ。
ねえ、あなたも私の実験に参加したいと思ってくれたんでしょう?
それならまだチャンスはあるわ。私たちの一員になってくれたら、あなたが何より望んでいるものを手に入れることができるのよ。
私は絶対に、あなたたちを拒んだりしないわ。
ドロシーは開拓者たちに手を差し伸べた。まるで彼らが握ってくれるのを待っているかのように。
彼らが彼女を殺しに来たということを理解していないかのように。
ドロシーを見てはいけない。その目も、その手も、彼女のすべては優しすぎる……サニーはそう感じていた。
荒野を歩むことを余儀なくされたのち、都市やそこに住む人々のほとんどは、彼らを冷たく拒絶してきた。
それに対して、彼女は――この態度で、開拓者たちをコントロールしている。彼女はこうして、意志の弱かった可哀想な仲間を操ってきたのだ。
けれど……「チャンス」という言葉が胸を打つ。
「俺たちはもう長いこと、そんな言葉自体聞いてやしない……」
……
っ……
――
アレは……!
一体どこから? 気付かなかったよ……!
……サニーさんは正しかった。
この実験室こそ、アレが生み出された場所なんだ。……それにあの動き、何か変だと思わない?
アレは……ドロシーを守ろうとしてるように見える。
やめて……! 傷つけあってはダメ……!
――!
来やがった!
リーダー、向こうからもっと来てるぞ!
何とか切り抜けろ!
ドロシー・フランクスを捕まえないと――いや、まずはこのラボを壊してからだな!
あの化け物を始末するには、悪の温床から破壊するしかない!
お願い、やめてちょうだい!
それだけは、許すわけにはいかないの……!
実験は、続けていかないと――
これは、あなたたちとの……彼らとの約束なんだもの。