空想の花庭 HE-ST-3・幕間
導き行かせ給え
おい、そこの翼持ち。
お前に言ってんだ……っておい! 逃げんな!
仮にその翼持ちという言葉がサンクタに対する呼称なのであれば、ここにはそれに符合する人物が複数います。
……俺が呼んでんのはお前のことだ。フェデリコっていう名前なのは知ってるよ。
分かりました。
チッ、ほんと腹立つ野郎だな。
無駄話してる暇はねぇんだ。
あのオレンとかいう奴──あいつに聞いたんだがよ……ジェラルドの旦那は、お、俺らの、俺とフォルトゥナのために……
ありゃ本当なのかよ!? 旦那は、本当に──
はい。ジェラルドさんは死亡しました。
……
こんなに「はい」っていう答えを聞きたくねぇと思ったのは生まれて初めてだ。
あり得ねぇだろ……どうしてそんな……
……申し訳ありませんが、これは事実です。
ハッ……何でお前が謝るんだよ?
ふぅ……
あっち行けよ、翼持ち。向こう見て目ぇ閉じてろ。絶対にこっち見んじゃねぇぞ。
ただちょっと……お前の光輪が眩しすぎて目が痛ぇだけだ。すぐに治る。
……分かりました。
ジェラルドの旦那がお前にナイフを渡したのは、あの人の選択だ。俺に……否定する権利はねぇ。
だがそのまま持って行かせるわけにはいかねぇんだ。
知らねぇとは言わせねぇぞ。サルカズの傭兵の武器を受け継ぐってのがどういう意味なのかを!
名前の継承ですか?
そうだ。だからナイフを……旦那の名前、それに尊厳も全部、俺がお前から取り戻す。
お前に決闘を申し込むぜ。
あなたでは勝てません。
勝たなきゃならねぇんだよ。
俺が生きている限り、必ずお前を探し出し、勝つまで戦いを挑んでやるからな。
俺を甘く見るんじゃねぇぞ。
お断りさせていただきます。
はぁ!? 断る!?
てめぇ、俺がどんな思いで決闘を申し込んでるか──
ジェラルドさんはただの猟師でした。私が渡されたナイフに、何かを伝承するような意義はありません。
……どういう意味だ?
言葉通りの意味です。
あなたが求めているのがサルカズの傭兵の名を冠したナイフなら、私はそんなものは所有しておりません。あなたの挑戦は単なる時間の無駄になります。
猟師ジェラルドのナイフを求めているなら、それは確かに私の手元にありますが。
てめぇって奴は……
今すぐにお渡ししましょうか?
……冗談はよせよ。
それはジェラルドの旦那が一番大切にしてたナイフだ。俺みたいな奴が軽々しく受け取れねぇよ。旦那だってきっと認めねぇだろ。
だからそれはお前に預けといてやる。
俺が……旦那みてぇに、みんなを連れて新たな道を切り拓けるようになるまで待ってやがれ。
そうなって初めて、俺はそいつを受け取る資格が得られる。その時が来たらまた会いに来てやるよ。
……
分かりました。
それまで、私があなたに代わって保管しておきましょう。
ライムント……
ほら、もういいでしょ。彼ならきっと大丈夫だよ。
それよりあなた、もう銃は握れなくなったって言ってたけど……今は祈りを捧げてるの?
うん……
何だか、これがまた私に応えてくれる気がして。
──スプリアさん、私、まだこの銃を使えるかな?
当然でしょ。ちょっと古いけど、私の腕を信じなさいって。
私は元々遺産銃の研究者になるつもりだったの。ヴィンテージ好きだからね。
だけど最近は……やっぱ新しいものの方が面白いかもって思うようになってきたよ。
新しいものが……怖いとは思わないの?
怖がってたってしょうがないでしょ。怖くても、理解を深めたいと思うよ。
それに……
技術とは人のためにあるんだよ。昔先輩がそう教えてくれたの。
その時はよく分かんなかったけど、今は……
今は?
ちょっとは分かってきたかも。技術者である以上、自分が手掛けた武器には責任を持たなきゃね……
さて、この話はここまでにしましょ。それで……
きっとサルカズと一緒に旅立とうと考えてるお嬢さんに訊きたいんだけどね。支度はもう整ってるのかな?
えっ……! 知ってたの!? い、いま話そうと思ってたのに。
直接感じることはできなくても、あなたの考えてることなんてその辺の共感可能なサンクタよりずっと分かりやすいからね。
そう考えると、共感能力なんかなくたって別に大したことじゃないよね。そう思わない?
おとなしくラテラーノに行くつもりがあるなら、こんな時に真面目な顔して私に会いに来たりしないでしょ。
……ごめんなさい。
あなたたちの監視下に置かれることも、自分の罪に応じた罰も全部受け入れることもあなたに約束したのに……今の私は逃げ出そうとしてる。
だ、だけど……
見逃してほしいって?
うーん、どうすると思う?
えっと……
はぁ……あなたの立場は厄介だから、ラテラーノに行ったらずっと頭にフードを被って生活しなきゃならないのよね。
やっぱり……
もちろん、他の場所でも大差ないだろうけどね。少なくとも上層部はそう言ってる。
あなたの角や容貌、それに銃……どれもあんまり多くの人に見せるわけにはいかないしね。
まっ、今後もあなたの監視役は私が担当だよ。どこで暮らすことになるにせよ、生きている限り私に連絡をちょうだい。
あなたなら私に迷惑かけたりはしないよね?
──えっ、あ、うん。
……見逃してくれるの? そ、それじゃああなたはどうなるの? 私を見逃して、責任を問われたりしないの?
平気だよ。最悪でも教皇庁に辞表を出すだけだし。
──あっ、今のは冗談だからね。
まぁでも、今回の件は帰ったら報告書を提出することになるから、書いてて嫌になったら本当に退職を検討するかも。
とにかく、私に対しての借りはハーブピッツェルだけじゃなくなったからね。
う、うん……あの……本当に、色々とありがとう。
私たち……まだ同族って言えるかな?
うーん、それ重要? 同族だろうとなかろうと、私は甘い顔したりはしないよ。
だから次に会う時には、おいしいピッツェルを忘れないでね。
物資輸送隊がもうすぐ到着するそうだ。燃料補給が終われば、修道院はすぐにでも出発できるだろう。
はぁ、今回はラテラーノから遠くない場所での外勤任務だったのに手を焼かされたな。修道院のベッドでも借りて一眠りすべきだと思わないか?
そう言う割には、大してくたびれてるように見えねぇのはどういうわけなんだ、リケーレ?
ずっと知らんぷり決め込んでやがったくせに。
ま、お前が横着して深海教会に関する証拠を下水道に捨てなかっただけでも感謝すべきか?
いじめるなよ、オレン。
あのサルカズ傭兵の関連書類なら、俺よりもフェデリコの方が覚えてるだろうし、深海教会に関する事案なら、お前とレミュアンの方がよく知ってるはずだろ?
ところでさ、お前が共感を拒絶し始めてから、俺たち意外とうまくやれてる気がするんだが、お前はどう思う?
……いきなりどうした?
いや、何でもない。ただふと思ったんだ……たまには他人のことをあまり知らずにいるってのも悪くないんじゃないかって。射撃の時に片目を瞑らなきゃいけないのと同じでさ。
あー、これだけははっきり言っとくぜ。レミュアンからこの修道院と深海教会に他に何か接点がないか調べろって言われた時は、ちゃんと真面目に仕事したからな、俺は。
結果から言えば、まあ安心して一眠りできる程度の関係だったよ。
お前は……いや、俺たちは運が良かったってことだな。
修道院も補給を受けた後はスムーズにラテラーノへ戻れるし、中の住民もさほど動揺はしてねぇ。
あの堕天した女の子はサルカズと一緒にここを出て行くようだが、今後必要とあらば、ラテラーノは彼女やあのサルカズたちの位置を特定できる。
全体的に言えば、ラテラーノの外交政策に大した影響は及ぼさねぇだろう。
こんな幸運はなかなかあるもんじゃないぜ。
今、祈りを捧げたところなんだ。ラテラーノへの旅路が、盗賊たちに襲われたりせず、無事であるようにとね。
ラテラーノへ到着することさえできれば、俺たちの生活は何の心配もなくなるだろう。
そう願いたいわね。ラテラーノの使者さんは食料に困ってなさそうだし、服だってピカピカだし……ほんと羨ましいわ。
あの人たちどうやって農作物を育ててるのかしら? それとも全員に銃を配って、みんな狩りで生活してるのかしらね?
さあな、どのみち俺たちにゃ想像もつかんことだろうよ。家の修繕したり工具をかき集める時間が短くなったら……何をすればいいのかも分からん。
ちょっと震えてくるわね。興奮からなのか、それとも恐怖からなのかすらよく分からないけど……
じゃあ祈ればいい。この先どうなろうと、信仰はきっと俺たちに加護をもたらしてくれるさ。
さて、とにもかくにも、俺たちは頑張った。そうだろ?
最終的な結果がどうなるかは……うーむ……
……お兄ちゃん、ママがどこに行ったのか知らない?
ん? えーと、みんなこの近くに集まってるんじゃないのか?
ママがいないんだ……けど、昨夜は確かに帰って来てたんだよ!
うん。ママがあたしたちにプレゼントをくれたの。眠ってたおじさんに貸しちゃったけど……
眠ってたおじさん……?
うん! すごくよく眠ってたから、きっと良い夢見てたはずだよ!
移動区画の上に建てられ、十数年座礁したまま、その地とほとんど一体化しつつあった修道院が、再び新たな場所へ移動し始める……
なんと壮観な景色だろうか。破滅と新生が交わり合う様子は、深く印象に残るものだ。
ええ……
なんだか気分が優れないようだが……どこか具合が悪いのかね? 我慢することはないよ。
君の身体はまだ完全な状態には変異しきれていないからね……我が同胞よ、これからの旅路は少し辛いものになるかもしれない。
大丈夫です。
彼らは……
ラテラーノは、あの子たちを大事にしてくれるでしょうか……?
きっと大丈夫さ。ラテラーノの現教皇は穏健派だからね。何か不測の事態が起きない限り、あの子たちは今後養子として適切な家に引き取られ、そのままラテラーノの地で育っていくはずだ。
それに、あの堕天使の少女もいることだし、教皇庁のサンクタたちの監視もある。君の同族たちが裏で始末されることはないだろう。
ならよかった……
けど、一つ間違っている。アウルス……司教。
私は、もう彼らの同族じゃないの。
君がそう思うのなら、それが事実なのだろう。
……
さて、荒野に捨て置かれた楽園も遠くに旅立った。我々もそろそろ出発しなくては。
あらためて……君を歓迎するよ、ハイマン。
司教はこれからどうなさるおつもりですか?
私のような罪人に、選択の余地などあると思うかね?
一度は加害の意思を持ったとはいえ、結果から見れば損害をもたらすことはなかった……
個人的には、何ら問題があるようには思えませんけどね。ですが、イベリアが関わっているとなれば、ヴェルリヴあたりが厳しい顔をするかもしれませんが……
ああ……しかしあなたご本人が、そういった弁護を受け入れられないようですね。
……特使よ、まずはこれまでの非礼をあなたにお詫びしたい。
あなたのお心遣いは理解できます。お詫びは謹んでお受けします。
それと同時に、私には分かります……あなたが本当におっしゃりたいのは、そんなことではありませんよね。
……己に判決を下すのは容易なことではない……
私は一度絶望の底に沈み、心中に潜む悪意に頭を垂れた。この事実を否定することは許されないし、看過すべきでもない。
そうですね……善意に基づく加害と、行動を伴わない悪意、どちらが罰せられるべきかと言えば……
私は前者の方だと思います。
我々の脳裏に浮かぶ考えは、一瞬の閃きと共にすぐになくなる時もあれば、心中の奥深くに根を張り、発芽を黙々と待ち続けている場合もある。
此度のことが一瞬の気の迷いだと何故言い切れる。私の奥底に根付いているかもしれないのに。
もしも今日、私がもう片方の道を選んでいたとしたら……特使よ、この場所は今どのような光景になっていたと思う?
脳裏に深く根差す妄執を全て打ち払ったとは言えないのだ。私は……我々の「法」をいまだに信じていると言い切ることさえもできないのだから。
ですがあなたはまだそれを感じ取ることができる。そうでしょう?
ああ、感じるとも……
私は常に祈りを捧げている。この地に住まう人々が真っ当な対価を得られるようにと。この狭き楽園が、我が手によって崩れゆくことのないようにと。
しかし私は、あまりにも長く待ちすぎた……
待ちすぎたのだ。信仰の存在とは単なる自己欺瞞に過ぎないのではないかと、疑いを抱き始めてしまうほどに……
それはどのような感覚なのでしょう?
絶望や、恐怖、悲しみ……それから? その感情は一体どんな……
不合理で、バカげている、そんなものを前にした時の感情だ。
どうすれば、己が頭の中に存在するものを疑うことができるのだろうか?
それはつまり、自分自身を疑い始めるということだ……そういった疑惑は、払拭できなければ恐ろしいことになる。
信仰が偽りだという可能性があるなら、ここにいるステファノという存在はどこまでが真実であると言うのか?
……
私は理解したいと考え、実際に試みてみましたが……どうやら私は自分を買いかぶっていたようです。
……他人を完全に理解することは不可能です。共感能力という不正じみた力があっても「理解する」という行為はかくも尊く、かくも難しい。
……
ですが、多くの経験を積み上げた今になって思うことがあります。たとえ共感の能力がなくとも、人と人との間を伝わり、多くの人々の理解を得られる感情は、たくさん存在すると。
少なくとも、今の私であれば、とある人の考えが少しは理解できるでしょう。何かを感じ取ったからではなく、身をもって経験したから……
ステファノ司教、これをあなたにお貸しします。
それは……
かつてここで暮らしていた修道士の手記です。ですが、あなたなら読みたいと思うかもしれないと思いまして。
この人も……おそらく司教と同じで、多くの疑問に思いを巡らせ、多くの悩みを抱えていた人ですから。
……
特使よ、あなたは先ほど私に、今後どうするつもりかと尋ねたね。
その質問に答えよう。私はラテラーノへ向かおうと思っている……ただし、ここの者たちと共に行くのではない。
それは……単身ここを離れ、ラテラーノへ戻るということですか?
あなたのようなご老体でそのような行為は、おそらく……
どうか止めないでいただきたい。私は確かめねばならんのだ。私は……私の信仰を取り戻さねばならん。
もしもいつの日か己の罪を清算できたら、もしも本当に奇跡があるのなら……私は、再び私のラテラーノへたどり着けるかもしれない……
そうですか……
ならば、幸運をお祈りします。
いつかあなたが求める答えを得られますように。ステファノ司教。
……
かの楽園で、また会おう。
老人はそれ以上、口を開かなかった。
目の前の人物はあまりに老いすぎている。あの一夜を経た後、老いは彼の体にますますまとわりついた。
レミュアンが見守る中、ステファノ・トレグロッサはわずかに背中を曲げながら、ゆっくりと扉の外へ歩み出した。
執行人フェデリコ、任務の報告を行います。
詳細は以前に述べた通りです。両名の特使の生存は確認しました。二人とも健康状態は良好であり、命に別状もありません。近日中にラテラーノへ報告に戻ることでしょう。
アンブロシウス修道院は再起動の計画を立案しているところです。計画に従って航路を一新し、目的地をラテラーノ近郊に定めます。来春前には目標地点に到達する予定です。
移動区画の安定稼働、及び住民の生活必需品等を充足させるため、教皇庁に物資援助を申請いたしました。
修道院内の住民は合わせて百五十三名になります。うち四十一名が近日中に修道院を退去する予定であり、その動向の追跡及び記録はスプリアが請け負う運びとなっています。
それはあのサルカズたちのことだな?
元より予感はあったが、此度の事態が私の想像を超えたものであったことを、認めざるを得まい。
修道院内の状況も、深海教会の動向も、それからアルトリアの存在もな……
ご苦労だったな、フェデリコ。君はよくやってくれた。
……
いえ、私は教皇聖下のご依頼を完遂することができませんでした。
我々の介入によって修道院内の状況は悪化してしまい、当初の目標であった秩序の維持を達成できませんでした。
死者は……計三名です。
何か疑念を抱いているようだな、我が子よ。
……はい。
目の前に過ちが存在するのなら、私はそれを正すことができます。任務の対象が罪人であるなら、私はその人物を確保するための多くの手段を知っています。
ですが今回の任務では、明確に執行すべき水準に至っている過ちを見出すことができませんでした。
間違いがないのであれば、なぜ最善の結末に至れないのでしょう?
我らの法はいかなる状況にも適用し得るものではないのですか? そうでないとしたら、今後何を基準に行動すれば良いのでしょう?
私はこのような疑問を抱いています。
……
私がそれに答えることはできぬ。なぜならそれは、私の頭を悩ませている疑問の一つでもあるからだ。
だが私はとても嬉しい……君がその疑問を抱いてくれたことがね。
おっしゃる意味がよく分かりません。
焦ることはない。君は以前なら考えもしなかった疑問を抱き始めたのだ。これは大きな進歩だとは思わんかね?
ヴィンテージワインの栓を抜いたようなものだ。最も困難な作業はすでに終わり、後はボトルから望みのものを注ぐだけ……
それに私は今、とある友人を訪ねに出かけるところでね。確か君も知らない仲ではないはずだ。君の疑問も合わせて彼に聞いてみるとしよう──
その時には、彼が出した答えを君にも共有させてもらうよ。
人々の背後で、高々とそびえ立つ聖像が静かに沈黙を貫いている。朝の陽射しが外から注ぎ込む中、通信を切った執行人は、何か思うところがあるかのように顔を上げた。
柔らかな朝日の中で、年老いたサンクタがゆっくりと歩みを進めていた。その後ろ姿が、次第に光の中に溶け込んでいく。
扉の前に立って彼を見送るレミュアンは、ふとある予感を抱いた。
おそらく目の前の光景は、この老人を目にする最後の機会とはならないだろうと。
まさに彼自身がそう言っていたように──
彼ならば本当に、彼の求めるラテラーノへたどり着けるかもしれない。