ダーティマネー CV-1・戦闘前
孤独の地
ジェシカは慌てながらも、瞬時に腰の銃へと手を伸ばした。しかし恐怖のせいか彼女はホルスターに指を掛けたまま、曲げることができなかった。
冷たい風の中、かすかな血の匂いがした。
動くな。
林から出てきた一人の狩人が、ジェシカの視界へと進み出た。帽子の広いつばが彼の目元を覆い隠し、その手にある銃の銃口からは煙がまだ立ち上っている。
振り返って背後を見ると、野獣の死体が雪の上に横たわっており、その頭部の傷口からは鮮血がどくどくと流れ出ていた。
ここじゃもっと用心することだな。
……助けていただき……ありがとうございます。
事のついでだ。
老人は銃をしまいながら、野獣の死体へとまっすぐ向かう。
彼はナイフを取り出すと、正確な角度で野獣の腹部を切り裂いた。そのため余計な血がこぼれることはなかった。
そして、彼は両手を死体の腹の中へ突っ込むと、長いためいきをついた。
しっかしクソみてぇに寒いな。
……お爺さんは、この近くに住む狩人さんですか?
まあそんなところだ。
でしたら、デイヴィスタウンへの道はご存知ですか?
……あそこに何の用だ?
そこで仲間と合流しようと思っています。
一人で来たんじゃないのか。
はい。野盗からの人質救出任務にあたっていました。仲間とは別行動を取っていて、任務終了後にわたしの通信機が壊れ、林の中で迷子になってしまって……
人質? そいつはどんなやつだ?
ご年配のフォルテの男性ですが……
……そうか、お前たちが。
なら、ついて来い。
ど、どちらへ行かれるんですか?
デイヴィスタウンに行きたいんじゃなかったのか?
それはそうですが……
ま、来るか来ないかはお前の自由だ。
そう言うや否や老人はジェシカには目もくれず、野獣の死体を肩に担いで立ち上がり、足早に林の奥へと去っていった。
ま、待ってください!
はぁ、こんなところでジェシカを一人にして、ほんとに大丈夫?
心配なのはわたしだって同じだよ。でもここ数年一緒に戦ってきてわかるんでしょ、彼女なら自力で対処できるって。
あたしはただ野盗の残りがいないか気になってるだけ。二人三人なら問題ないけど、別で動いてる連中がいたら?
ジェシカがこれまでに経験した戦いは、あんな烏合の衆の相手よりもはるかに危険なものだったよね。
……
矢がすぐ頭上を通り過ぎたり、鋭い刃が喉元をかすめたり。
高濃度の活性源石粉塵に囲まれた環境に置かれたこともあった。防護服に少しでも穴が開いたらそこでゲームオーバーってレベルの、ね。
それでも彼女は毎回見事に任務を達成してきた。わたしたちの同行なしでも、わたしたちが見ていなくとも。
たった一人で、何でも上手くこなしてきたでしょ。
……それについては否定しないけど。
でも、そのたびに目の周りを真っ赤にして帰ってくるのも事実じゃない。あたしたちに会う前にわんわん泣きじゃくってるんなら、その時誰かしらそばに居てあげなきゃって思わない?
ジェシカが毎回目を真っ赤にしてる理由までは考えないの? いつも涙を拭いてから会いに来てるからだよ。つまり、彼女は泣いてるところを誰にも見られたくないんだって。
だけどあの子はまだ二十三歳よ――
そうだね、まだ二十三歳。しかもこの三年のうち、二年半も戦場で過ごしてきた……
お爺さん、近くで何か爆発しませんでしたか?
いや。
また聞こえた気が、このすぐ近くです……わたしの幻聴でしょうか……
ありゃ爆発じゃない、木だ。
木?
寒すぎるせいでな。樹液が凍って膨張し、木の幹の組織を破裂させてああいう音が鳴るんだ。
なんだか……遠くで戦っている音のように聞こえます。
お前は一体何者だ? 軍の者か? 傭兵か?
傭兵です、もう五年ほどやっています。
家が借金でも抱えてるのか?
いえ……わたしはただ……家族に守られて、敷かれたレールの上を歩きたくなかったので……
それで傭兵なんかになったのか?
は、はい……
フッ、ならお前は戦場に何を求めてる? 富か、名声か、それとも栄誉か?
いえ、わたしがやりたいのは危険の排除や、衝突の解決、それに窮地から人々を守ることです……
ほう……傭兵ってのはそういうことをするようなもんだったか? 初めて知ったな。
お爺さん……わたしたちはただの傭兵企業ではなくて、わたしたちは……
一つ忠告しておく、ジェシカ。お前は傭兵だ。行っている任務はビジネスであり、ボランティアではない。
わたしたちは……
もういい。俺はそんな御託には興味がない。
ちょっといいかな? 二人とも。今話してたのは五年の実戦経験を持つ「ベテラン」傭兵のことだよね?
あら、何か言いたいことでもあるのかしら、ローラちゃん。
ジェシカちゃんと一緒に仕事してきた時間はキミたちの方が長い。彼女の能力も限界も、キミたちの方があたしちゃんよりもよく知ってるはずでしょ?
つまり、ジェシカなら自力で解決できるって言いたいのね?
もちろん。だってリスカム隊長の言う通り、この三年、あの子はここよりもずっと危険な場所で任務にあたってきたんだし。
目をうるうるさせてるジェシカちゃんの姿を思い浮かべると、あたしちゃんも思わず心配になっちゃうけど、本当は大丈夫だってことくらいみんなわかってる。そうでしょ?
彼女自身を除いてみんな、ね。
そ、わかってないのはジェシカちゃんだけなんだよねぇ……
だけどあの子が必要としてるのは、きっと一つのきっかけにすぎないんだよ。自分自身への認識をはっきりさせるためのね。
それで今回がそのきっかけだって?
え、いや……そーいうわけでもないんだけど……
あの、お爺さん……お爺さん!
なんだ、騒がしいぞ。
ごめんなさい、そんなつもりじゃ……あそこを見てもらえますか……
ジェシカは遠くの木のそばにある狩猟罠を指さした。
そこには、前足をがっちりと罠に挟まれた一匹の幼獣がいた。幼獣は苦しげに鳴き続け、挟まれた部分の傷から血がゆっくりとにじみ出ている。
それを見た老狩人は、野獣の死体を下ろして木の下へ向かい、狩猟罠を解いて幼獣をそこから掴み上げた。
まだ子供です……逃がしてあげてもいいかもしれません。もし母親が近くにいたら、すぐに探しに来るでしょうし……
冬の間は、親子の野獣を見つけても見逃すんですよね? 獣の群れが繁殖できるようにと、そう聞いたことがあります……
こいつの母親ならもうここにいる。
先ほど殺したのがこの子の母親ってことですか?
そいつが子供を連れてる姿を何度も見かけたことがあるからな。
デカい方が死んで、小さい方もどこぞの馬鹿がしかけた罠にはまっちまったか。ったく、毛皮もダメになった。
じゃあ……この幼獣はどうするんですか?
首を折って、苦しまないように殺してやる。
そんな……!
ならどうしろと? 母親を亡くし、足も折れた。こいつはすぐにでも死ぬ運命だ。
別にここに残してゆっくり息を引き取らせたいというのなら、それでも構わない。俺は何も言わん。
……この子はもう生きられない、そうなんですね?
そうだ。
なら、その子をわたしに……
お前がやるのか? 好きにしろ。
よしよし……大丈夫だよ、おチビちゃん……大丈夫だからね。
ジェシカは幼獣を腕の中に抱え、毛の流れに沿って優しく撫でた。
彼女はそれ以上何もせず、幼獣の鳴き声が次第に弱まっていくのをただゆっくりと待ち続けた。それが完全に消えるまで。
この子を救うことはできません。ですが少なくとも……温かい抱擁の中で逝かせてあげることはできます。
傭兵がターミナルケアだと? それも初めて見た。
……この子をここに置いていってもいいですか? 獲物なら……大きさで言えばその母親で十分かと思いますが。
なんだ? 俺にこいつを埋めて、葬式でも挙げてほしいってか?
いいえ、冬の林に住む動物は、みんな常にお腹を空かせてるでしょうし、ここに置いていけば……そういった動物たちがお腹を満たせるかもしれないと思って。
……
わたしは確かに情に脆いタイプですが……だからといって、何の分別もつかないわけではありません。
そうか。ならさっさとついてこい、傭兵の嬢ちゃん。林の中でまた迷子になりたくはないだろ。
風のおかげで霧が晴れた……マイルズさん、ここで止まってほしいと言ったのはデイヴィスタウンを眺めたかったからですか?
……若い頃、わしは区画近辺の高い場所から、自分の住んでる町がどんな姿なのか見るのが好きだった。
当時はどんなふうだったんですか?
賑やかで、輝いてて……もっと活力があった。
……
今はもう……あぁ、昔には戻れない……もう戻れないんだ。
ううっ……ほんと寒い。あたしたちの目的地は……こんな所だったのね。
フランカちゃん……
なに?
いや……ふとジェシカちゃんのことが……
なんで? さっきまで大丈夫だって言ってたじゃない。
……さっき話した「きっかけ」について考えてて。
ああ、「自分自身への認識をはっきりさせるきっかけ」ってやつ?
うん……そのきっかけも、今の風みたいに急にやってくるかもしれないよね。そしたらあまりの冷たさに、ジェシカちゃんも風の中でブルブル震えちゃうかもしれない。
でも、目の前に広がる霧もその風で吹っ飛んじゃうだろう。視界を遮るものがなくなって、すべてがはっきりと目に映るんだ。
その時、彼女の目に映るものが……わたしたちの目前の光景と同じではないことを願ってるよ。
霧が晴れて現れたのは、折れた木や枝でできた巨大な轍(わだち)が山の斜面に沿ってうねるように、谷の中心まで伸びている光景。
その果てには、座礁した区画が鎮座している。
遠く離れてはいたが、区画の中心に高くそびえるエネルギータワーが力なく白い息を吐き出しているのが誰の目にも見て取れた。
それは、危篤状態の病人のように、苦しそうに息を切らしていた。