幕開く者たち PV-10・戦闘前
銃声
目覚めたか、小童。
……
果たして、ウンベルトにとってより大きいのは、老いと病に飲まれゆく己が身の哀れさか、あるいは子らが代を追うごとに愚かさを増していく悲しみか……
人間とはまこと悲哀に満ちたものだ!
あ、あなたは――
もはや曖昧な記憶ではあったが、ルキーノはその声を覚えていた。
ウンベルトが彼の手を引いて郊外の農場からデ・モンターノに帰ったあの晩……
彼は、道具でいっぱいの作業台と部屋中に溢れる生地を見た――これからは、ここが我が家なのだ。彼はこの上なく馴染みのない感覚を覚え、ただぼんやりと椅子に座っていることしかできなかった。
ウンベルトが外で誰かと話していたかと思うと、不意に振り返り、窓越しに自分を指し示した。しかし、その会話の相手が誰なのかはルキーノにはわからなかった。
そこにいるのは、ルキーノの唯一の肉親たる祖父だ。ルキーノはひどく緊張していた。
その後、ルキーノは怒りと諦念を帯びた声を聞いた。「同じことを繰り返すとは、人間はなんと恥知らずなのだ!」
あなたはおじいちゃんの……ご友人ですか?
友人だと?
友人、師弟、主従、あるいは雇用関係……わしとウンベルトとの間柄はすでに定めようのないものとなった。
わしはこの荒野の主であり、おぬしの祖父はわしの牙なのだ。
だが、あやつの働きはあまりにもなっておらん……
……
どうやら私は、本当に年を取ったようですね。
以前なら、どれほど作業台の前に座っていようと、こんなにも夜を長く感じることはなかったものです……あまつさえ、あなたがいつ入ってきたかもわからないとは。
10分前だ。
申し訳ないのですが、作業をしながらお話しさせていただいても構いませんか?
つい先ほど、旧友が思いがけず訪ねて来たもので、少し遅れが出ているのです。このスーツはまだ、一番重要な裁断と縫合の工程が終わっていませんから、急がなければ……
最後の工程に関しては、ルキーノだけでも手探りで仕上げられるでしょうしね。
なぜだ?
何がです?
オマエからは少しも、狼の匂い、しない。
オマエ、匂いを隠してる、わけでもない。さっきから見ていて、わかった。
……オマエ、本当に、最後の真狼か?
「真狼」……なるほど、牙のことですか。
人違いではありませんよ。
……わしは長い間ウンベルトを見てきた。
あやつは、さまざまな人間のもとを商売のために訪れては、採寸の際に突然特製のハサミをのどに突き刺した。相手はほとんど血を流さずに倒れていたものだ。
イングリッドほど腕が立つわけではないものの、あやつはとても賢く、己の立場を利用する方法をよく理解しておった。
身を隠すことにも長けており、多くの時間をデ・モンターノで過ごしながら、殺し屋としてもサルトリアとしても実に良い仕事をしていたのだ。
ゆえにわしは、あやつを選び、狼主とゲームの存在を告げた。
おじいちゃんのお話は全部本当だったんだ!
物語の中の狼はあなたで……それなら、おじいちゃんがファミリーを抜けようとしたのも頷けます。狼主に選ばれた人間として、シラクーザで一番特別なサルトリアとして、冷静な判断をしたんだ!
それで、おじいちゃんは承諾したんですか?
狼主を拒める牙などおらん。
だが、ウンベルトは条件を一つ提示してきた。
じょ、条件?
長い歳月の間に、狼主に条件交渉を試みた牙はあやつが初めてというわけではない。わしには、あやつらを滅ぼし、新たな候補を物色する方法などいくらでもあると言うのに、身の程を知らぬことだ。
あの、おじいちゃんの提示した条件というのは?
ウンベルトは、わしを勝たせるその前に、まずは己の子を成人まで育て上げたいと願った。
あやつの妻は病死しており、ルッカと名付けた子供はまだ幼かった……ゆえに、自分が離れれば生きては行かれぬだろうと言うのだ。
それ以外には、何も?
ああ。ゆえに、わしはそれを認めた。
人間の社会には、荒野ほどの危険はない。子供一人を育てるだけのことに、あやつがあれほどの時間とエネルギーを費やすことになろうとは、当時のわしは考えもしなかったのだ。
わしは、あやつが嘘をついてはいないかを確かめるため、あの店を定期的に訪れていた。
その後、ウンベルトは殺し屋を辞めて、すべての時間をミシンや布と、日に日に成長していく子供に捧げるようになっていった。
されど、あやつのハサミを振るう手つきは健在で、その眼差しも依然鋭いものだった。それゆえ、わしは約束を守ることにした。
わしが必要としているのは折れない牙であって、いつ気を取られて喉笛を噛み千切られるともわからぬような獲物ではないからな。時間は山とあるのだから、あやつにそれを与えることはできた。
でもお父さんは……
わけもわからぬうちに死んだ。
そこで、いくらか失意に沈んでいたウンベルトに、わしは気持ちを整理させるための十分な時間を与えてやった。
結果として、ウンベルトの当初の計画とは多少異なる形だったが、あやつの気がかりは消えた。ゆえにある晩、わしは再びあやつを訪ね、約束を果たせと要求した。
だが、わしの牙はまたも条件を提示してきおった――
狼主はふと言葉を止め、若きサルトリアに目を向けた。
まさか……
あやつは、わが子がその血筋を残していたことを思いがけず知ったのだ。この世にまだ唯一の肉親がいるとわかった時……あやつは、狩りを始める前に、おぬしを成人まで育て上げたいと望んだ。
「同じことを繰り返すとは、人間はなんと恥知らずなのだ!」
ぼくがあの夜聞いたのは……
わしは今度は認めはしなかった。されど、あやつは己の卑しい身分を、わしとの関係を忘れておった!
ウンベルトを訪ねれば、そのたびにあやつは、己の人生の大半が再び繰り返しているかのようだと語っていた。それでも、わしとの約束は決して違えないなどと恥知らずにも口にしたのだ。
……
ですが、ぼくが物心ついた頃にはもう、おじいちゃんはあまり身体が良くありませんでした。
あやつは牙としてわしのために勝利を手にするどころか、個人的な厄介ごとすら解決できなくなり、己の身を守ることも難しくなってしまった……
わしは長らくの間、ウンベルトがそうした厄介ごとから抜け出すのを待っていたが、結果として得られたのはあやつの老いだけだ。
実は、おじいちゃんは――
わかっておる。
あやつが本当に気にかけているのは、一貫して己の店であるデ・モンターノとスーツ、そして周りの人々のことだけだ。
ゆえにこそ、あやつは本来自分には出来もせぬようなことを率先して行っていたのだろう……ウンベルトは実に愚かな人間だ。わしはあやつを見誤っておったのだ。
……
狼主さんは、なぜぼくにこんな話をするんですか?
わしは無駄骨を折った挙句、ゲームのルールまで破ることになり、それゆえ今後は群狼からの終わりなき嘲笑に耐えねばならなくなったのだ。
あやつの孫であるおぬしには、罰を受けてもらわねばならぬ。
ば、罰って……
おぬしが武器を壊したがっているにせよ、この船を爆破したがっているにせよ、今宵は何をしたところで、上手くはいかんだろうな。
己が胸元を見るがよい……
ルキーノは言われるまま胸元を見た。コートの襟は開き、よれよれになっている。先ほどの混乱でボタンが外れてしまったのだろう。
おぬしがどのような人物になりたいと願うにせよ、それを目指す前にまずは己のボタンを縫い付けよ。
今すぐに、ウンベルトのもとへ戻るのだ!
……
下手な演技ねえ、バーゴ。
わざと声を荒げてみせるなんて……私たちにあの子を傷つけさせたくないのかしら?
あやつは本来、我らのゲームとは無関係な――
つい先ほど群れが下した決定を忘れたの?
このゲームが終わるまで、狼主は全員甲板に留まり、いかなる干渉もしてはならないのよ。でなければ……
わしはもう負けたのだ、カエサル。
銀色の狼主が不意に顔を上げた。
彼は都市内のある方向を見やる。カルネヴァーレの喧騒の中、夜空は白昼の如く明るい。この時、一つの雲が消えたことに気付いた者はいなかった。
……確かに、よく知る匂いを風が運んできたわ。レッドがやり遂げたようね。
わしはザーロのように無様な真似はしない。群れの決定に反した以上、どのような罰でも受け入れよう。
あなた、牙に同情しているの?
……
ただ少し、敗北を苦く感じたまでのこと。
オバアサンの助けがなければ、レッド、オマエを見つけられなかった。
「おばあさん」?
自分の狼主をそう呼んでいるのですか? 彼らは皆おぞましい物言いをするものだとばかり思っていましたが……
しかし、実際のところバーゴはとっくに私の嘘に気付いていたことでしょうね……はぁ、つくづく言葉と裏腹に、情に脆い奴ですよ。
……
オマエも、抵抗しないのか?
お前「も」、と言いますと?
レッド、前にも真狼殺した。その時、彼女も抵抗しなかった。
ただ、不自由な足を抱えて、レッドのナイフ、胸に刺さるのを見てただけ。
レッド、彼女のため息、聞いた。「これでもう怯えて暮らさなくていい」と、つぶやいてた……
それを聞くに、その方にとって死は解放だったようですね。
あなたの腕前であれば、私にはナイフを振り上げるチャンスすらもないでしょう……それに、私はあなたとお喋りがしたいのです。やり合うことになってしまえば、このスーツが台無しですからね。
ふぅ――こんなところでしょう。
採寸、裁断、縫合、それから形を整えて……四枚の生地が最後にはシワ一つないジャケットとスラックスになりました。
スタンダードなシラクーザ式スーツには450余りの工程があるのですが、心静かに一つ一つ仕上げていけば、実のところそれはあっという間のことなのです。
……
ミシンの音がようやく止まった。
老サルトリアは余分な糸のすべてを丁寧に切り取ると、立ち上がりウルフハンターのそばを通って、その新しいスーツを壁にかけた。
それから長い溜息をつくと、彼は疲れ切った目をもんでから、ゆっくりと隅のソファに歩み寄り、横になった。
少し横になっていてもいいですか? 年を重ねると、長時間仕事をした後はめまいと目のかすみがひどいのです。
オバアサンの言う通りだ。真狼、偽装が得意。
オマエの身体から、狼の匂いがしない理由、わからない。でも、オマエたちがオバアサンにしたこと、隠せない。
オマエたち、オバアサンの目と、腕と、心臓を、食べた……
答えろ。どうして、こんなに残酷なゲームを、する?
……
なるほど。あなたの認識においては、ゲームはそういうものなのですね。
前に殺した牙にも、同じことを聞いたのでしょう?
私も彼女と同様、答えを持ってはいませんよ。我々は皆、偶然運命に見いだされてしまっただけなのですから。
どうあれ、我々に付き添っているものが真実であろうと虚構であろうと、すべては一つの終わりを迎えようとしています……そうなった時、あなたはどうするつもりですか?
もう一匹の真狼、探す。あいつ、レッドから逃げた。
あいつの弓、弱い。レッドの敵じゃない。
そうではありません。私が聞いているのは、すべての「真狼」を殺したあとのことです。
ゲームは終わり、オバアサンは救われる。
ごほ、ごほっ……では、あなたはどうなるのですか? その時あなたはどこへ行き、何をすることになるのでしょう?
……
……
あなたは、長い間ただ真狼を探し、狩り続けていたのですか?
(耳を動かす)
違う。レッド、ケルシー手伝っていた。ロドスには、レッドの助けが必要なこと、たくさんある……
ウルフハンターは下を向いた。
レッド、時間をたくさん、無駄にした。
レッドの袖の中で、冷たい光が走った。それは彼女がずっと握りしめていたナイフだ。
真狼、怖くないのか?
はは、もちろん怖いですとも。ここにあなたがいなくても、その気持ちは変わりません。
以前から、私の身体は日に日に悪くなるばかりなのです。己の命が長くないことをはっきりと感じると、やはり恐ろしくなるものですよ。
ですが、私は少なくとも、あなたが語った「真狼」とは……長い時間を生きながら、死を待つしかできなかったその人とは違います。それは死ぬこと自体より、よほど恐ろしいことです。
こうして思えば、私は実のところ、この一生で何一つ成し遂げてはいませんね……
後先も考えず血にまみれた道を歩んだ殺し屋であり、わが子の死をただ見ているしかできなかった父親であり、孫のしつけ方もわからぬ祖父であり、ゲームに関わりもしなかった牙であり――
それでも、少なくとも腕利きのサルトリアであり、幸運な老人でもあったと言えるでしょう。
一生続けてきた仕事を、死に際になってもまだ続けられる者は、多くはないでしょうからね……
仕上げは任せたよ、ルキーノ……
レッドはナイフを振り上げなかった。というのは、もはやその必要がなかったからだ。
ソファの上の老人には、もう息はない。それはまるで、たった今あの服を作り終えたことで、命が抜き取られてしまったかのようだった。
レッドは目を凝らして、老人の顔をじっと見つめる。
彼女は多くの死者を見てきたが、彼らは皆、死に際に突然マスクを被ったように表情を変えていた。
あの死を待っていた足の不自由な真狼ですら、レッドが押し入った時には恐怖しており、死の瞬間にようやく安堵したような表情を浮かべたのだ。
龍門の廃墟にいたレユニオンの構成員も、ロドスへの侵入を試みた悪党も、死に際には罵声を口にし、あるいは恐怖して、その表情は常に歪んでいた。
だが、レッドがデ・モンターノに足を踏み入れてから見ていたこの老人の表情は、ずっと変わらなかった。彼は己を偽ってなどいないと、レッドはようやく確信した。
彼は本当に、オバアサンが言っていたような人なのだろうか?
……
真狼はウルフハンターの前で死んだが、ウルフハンターが手を下したわけではなかった。
レッドの心は疑問で満ちていた。
「その時あなたはどこへ行き、何をすることになるのでしょう?」
オバアサン……レッド、わからない……
裁判所広場にパレードが到着するまであと15分
1100年11月9日 p.m. 11:30
……ラップランド、お前は私よりもよほどシラクーザを嫌っているようだな。
アハハッ、ボクが何かの報復のためにこんなことしてると思ってるの?
違うのか?
ボクはもう、自分の過去に別れを告げたんだよ。
それらしい儀式なんてしてないけど、その厳粛さは少しも損なわれてなかったんだから。
……
そういえば、どうしてボクがタクシードライバーをやってるか話してなかったよね?
尋ねてもいないがな。
アハハハ。
ザーロと荒野にいた時に、廃車寸前のタクシーを拾って――
お前たちは一緒に行動しているのか?
そんなふうにボクの言葉を遮れる人なんて多くないよ? さすがはテキサスだね――ともあれそう、その通り! 彼は今ボクの従者をやってるんだ。まあ、それはさておき……
あのタクシーには、数人のシラクーザ人が乗り込んでいた。彼らは一緒にヌオバ・ウォルシーニに来たものの、不思議なことに荒野で大立ち回りをして、車はボクのもとに転がり込んできたってわけ。
つまりは、シラクーザがボクを招待してくれたんだよ。だからボクはここに帰ってきたんだ。キミが去年、ウォルシーニに帰ってこなきゃいけなかったのと同じようにね。
それは、深夜のラジオドラマか何かの内容ではないのか?
むしろ、この物語をラジオ局や映画会社に提供してあげてもいいくらいだよ。良いドラマ、あるいはロードムービーになりそうだからね。
一年前、ボクもグレイホールのあの円卓に座って、キミたちと一緒にシチリアの婆さんからこのとびっきり新しい移動都市を手に入れたわけだけど――
理想に満ちた若き俊英が、これまでとはまるで違ったシラクーザを作り上げようと大望を掲げたのに対して、ボクも投資をしたってことになるよね?
そして今、一周年を迎えたヌオバ・ウォルシーニは、この国で一番特別な存在になった。こんな時はボクだって当然戻ってきて、みんなと一緒にお祝いするよ。
……
カルネヴァーレの円滑な進行のため、ボクはひそかに厄介ごとを片付けてあげてるんだ。
それは武器を広場にばらまくことを指して言っているのか?
アハハ、もちろんそれだけじゃないさ。
たとえば?
たとえば、ボクの最愛のお父様はこの新都市に対して、色々と分不相応な望みを抱いているんだけどね。
アルベルトはもう勾留されたのでは?
キミは我が家で長い時間を過ごしたんだから、サルッツォのドンがどういう悪党かなんてよく知ってるでしょ。
ウォルシーニでの失敗を経験しようと、ヌオバ・ウォルシーニのシティホールと裁判所にどれだけガードを固められようと、あの人は物事が自分の制御下を離れることを許さないんだ。
お前は何をしたんだ?
いくつかの物事を、お父様の制御下から外れさせただけだよ……まあ、すぐにわかるさ。
本当に、報復のために動いているわけではないのか?
アハハ、そう思ってもらっても構わないよ。
そういえば、広場のマスクを被った連中のことだけど。前に裁判所で見たあいつらのボス――にこやかに話すペッローのことは覚えてる?
ヴェネツィアの跡継ぎか……
ゲームを軽蔑している人間ほど、そのルールをよく理解しているものでしょう。
あのペッローもヴェネツィア自工も、『新都市管理法』に違反したことはないし、彼自身「若手優秀実業家」として選ばれる栄誉を二度も得ているくらいでね……
多分彼は、ボクたちよりもシラクーザを嫌っている一方で、大抵の狼よりもよっぽど、天気への対応方法や、泥沼の中でのやり過ごし方を心得てもいる。
でも……
でも、何だ?
彼って髪をべたべた撫でつけてるでしょ? ボクあれ嫌いなんだよね。
それに比べれば、特段狼に似てもないヴァルポのほうが好きだな。
とあるヴァルポの母親が、思いがけず鉱石病に感染してしまった娘のために、はるばるシラクーザまで帰ってきて、正義の鉄槌を下そうとしている……感動的だと思わない?
何よりボクは、その母親と知り合いだったんだよね。
それで、今度は何をしたんだ?
ボクにできたのは、犯人を見つける手伝いくらいさ。
キミが同じ立場だったとしても、きっと助けてあげるでしょ?
……今聞いた限りでは、シティホールはお前にも「勇気ある善良な市民」としての行いを称える賞でも与えるべきだろうな。
じゃあ、今夜にでももらえないかな? キミにボクの受賞を祝うプレゼンターも頼めるしね。
……
ああでも、やっぱりやめとこうか。そんな賞を受け取っちゃ悪いよね。
だって、これだけ走り回ってかき回してやっても、結局はこの状況にまで発展しちゃったわけだし。
それじゃ、賭けの話に戻ろうか。
広場にはピリピリした狼の群れが二つ……もうすぐ時間が来るよ、テキサス。
裁判所広場にパレードが到着するまであと10分
1100年11月9日 p.m. 11:35
……イングリッドさん。あなたがついていてくれるのなら、安心です。
サルッツォの白い狼に計画を邪魔されましてね。緊急事態に対処するため、港へ向かわなければ、ヌオバ・ウォルシーニでヴェネツィアが積み重ねてきたすべてが無に帰してしまうのです。
私はもう、ヴェネツィアの紋章を返した身だからね。家のことなんて関係ないんだ。
これ以上知らんぷりをしても無駄だよ、アントニオ。私がここに現れた理由はわかっているんだろう?
……
リサの怪我が私に関係していると、いつから疑っていたのですか?
君がその真相を知っていると告げた時からだ。
とはいえ、本当に確信を得たのはさっきの反応を見てのことだけどね。
何しろ君は、私が現れただけで、あのシチリア人が裏切ったと思い込んだんだから。
ハハッ……私ははめられたわけですか。
これははめた内に入るのかな?
元々君を疑ってなかったわけじゃないんだ。たとえば、タンクレーディの人間が当時ヴェネツィアのドンの暗殺を試みたとして、一人の子供を通じて手を下すのは不確実性が高すぎるし……
どんなに周到に計画したとしても、半月前にリサが偶然観た映画を通じて気に入ったぬいぐるみに、事前に仕込みをすることなんてできるはずがない。
つまり、あの「暗殺」はそもそも存在しなかったんだ。キミの目的は初めから、リサの怪我を利用して私を錯乱させ、家から追い出すことにしかなかった。
であれば――
私がリサを家に連れ帰って以来、衣食住はすべて君が手を尽くして用意してくれていたね。おかげであの子は、君を幾度となく「やさしいペッローのおじさん」と呼んでいたよ。
それに、ヌオバ・ウォルシーニに来てからここしばらくの間、君は再三にわたり、ファミリーのもとに戻ってきてほしいと頼んできた……
君が付けているマスクは、本物そっくりだ。実に自然な演技だったよ、アントニオ。
いいえ、演技ではありません。すべては真実なのですよ。
私はリサを、あの可愛らしく聡明な子を愛していますし、彼女が私を「おじさん」と呼んでくれた時は心から嬉しく思ったものです。
しかし、当時あなたは私の進もうとする道に立ちはだかっていた。
私は、あなたが家にいる限り、私が報われる日など、ましてや今のような地位を手に入れる日など永遠に来ないと悟ったのですよ。
当時、ヴェネツィアとタンクレーディの対立はもはや何が起きてもおかしくない段階にありましたから、私はその好機を逃すわけにはいかず――けれどもあなたの弱点はリサ以外にはなかったのです。
あなたを追い出しておきながら、帰ってきてほしいと言ったことについては、なおさら理解に難くないでしょう……
時が経ち状況が変わったのです。ファミリーの中であれ、ヌオバ・ウォルシーニにおいてであれ、今の「次代のヴェネツィア」には腕の立つ助手がいないのですよ。
ですから私は、リサに万全の治療を施せるように、ヴェネツィア自工名義であのロドスという製薬会社に資金援助をする準備さえ整えてあります。
……
アントニオ。ドンに引き取ってもらって以来、私たちはヴェネツィアファミリーで十数年共に生活していたというのに、それでも君は一番身近な人を何とも思わず傷つけられるんだね――
はぁ……あなたはまた、私がファミリーの「ディチェンテ」を傷つけたと言おうとしているんですか?
ずっと気になっていたんですが、あなたはお義父さんのその言葉に心から同意しているんですか? それとも、愚鈍なふりをしているだけですか?
たしかに、我々は常々、自分たちがどれほど原則に則っており、愛情深く、ほかのファミリーと違うかを示すために、大げさなまでに「ディチェンテ」を強調しています。
ですが、実のところ我々もほかの連中と何の違いもない、ただの血にまみれたろくでなしの群れでしかない。どうです、違いますか?
あのウンベルトというサルトリアは、若かりし頃のお義父さんへの恩義から彼の傀儡となり、人を殺し、汚れ仕事をこなしていた……
ファミリーに本当に「ディチェンテ」が存在するのなら、彼がファミリーを抜け、一心不乱にスーツ作りに打ち込むことなどなかったのでは?
加えて、あなたの顔のその傷も。それは、あなたにとって栄誉の印か、あるいは恥ずべきものなのか……さらには、ファミリーの拡大過程でどれほどの人命が失われたことを意味するものでしょうか?
シラクーザの汚らしい泥沼の中で、本当に「ディチェンテ」を保っている人間などいるのでしょうか?
少なくとも我々の中にはいないでしょうね。
良い間合いだね。剣を抜くにはぴったりだ。
アントニオ、君は本当に正直者だね。
私はただ、お互いに非現実的な期待を抱くべきではないと思っているだけですよ。
シラクーザ人は皆、近しい人を含めて、いつすべてを失ってもいいという覚悟をしておくべきなのです。これこそが、昔私があなたに対して最も尊敬の念を抱いていた点ですしね。
……
突然、光が輝いた。
二人のいる路地は、裁判所広場と壁一つ隔てており、薄暗い街灯がいくつか灯っているだけの場所だ。ここに特別な光源はなく、それゆえその強烈な光は一瞬、イングリッドの目をくらませた。
これは……君のアーツ? 今までよく隠し通してきたものだ。
強い光を一瞬放つだけのものです……大して役には立ちませんし、少々滑稽ですら、あったでしょう……?
……
これを使うのは、人生で二度目です……当時、私がジャングルのぬかるみに膝をついた時……この光がなければ、あの弾丸は避けられなかった……
ましてや……我々を赦免リストから弾いた、あの貴族を捕らえて……首を斬り落とし、逃げ延びることなど……到底、不可能でした。
さっきの熱弁で私の怒りを刺激して、注意をそらし、この光でチャンスを作る――私を見た瞬間から計画していたんだね?
げほ、ごほっ――ぐっ……結局は……あなたが、腰につけていた、お守りを……刺しただけ、でしたがね……
君がどういう人間かを私が知ったその時から、君にはチャンスなんて残されていなかったんだよ。
……
笑えるよね。ここに来る途中、私は君の命までは取らずにいてやってもいいとさえ思っていたのに。
リサは確かに不治の病になってしまったけれど、今はロドスで気の合う友人に出会い、自分からオペレーターとして働く道を選んで、ほかの鉱石病患者のために奔走しているんだ。
前々から、リサの教育については悩ましく思っていてね。でも、奇妙な偶然が重なって、あの子の人生には別の巡り合わせが――
姉さん――イングリッド・ヴェネツィア! この期に及んで「ディチェンテ」で私を辱めようと言うのですか!?
あなたの腕なら、心臓から一ミリたりとも逸れるはずがない! げほ、ごほっ、私が、今も話せるはずがないのです……!
……
考えすぎだよ。
君の前に立っているのは、イングリッドという一人の母親でしかない。君は、その怒りを刺激することに成功したのさ。
ディチェンテという言葉を以て語るとすれば……君にはあまりディチェンテを保った死を迎えてほしくはないというだけ。
こうして息の根を止めずにおけば、君は少しずつ血を流して死ぬことになる。
これが君の受けるべき苦痛なんだよ、アントニオ。
また一つ、花火がほど近くの空へと上がってイングリッドの顔を照らした。それはパレードが間もなく広場に到着し、カルネヴァーレの盛り上がりが最高潮に達しようとしている合図だ。
壁一つ隔てたこの場所に、一人のペッローが倒れていることに人々が気づくまでには、随分と時間がかかることだろう。そう考えたイングリッドは、思わず冷笑した。
……
地面に倒れた人物をまたぐと、彼女はそのまま路地を去った。
裁判所広場にパレードが到着するまであと4分
1100年11月9日 p.m. 11:41
どういうこと? やっぱりアントニオさんに連絡がつかない――
カポネはどうしたの? なんであいつまでいないのよ! 肝心な時にヘマするなんて……シチリア人はやっぱり当てにならないわね。
これからどうする?
どうするもこうするもないわよ。これは映画の撮影じゃないんだから、上手くいかなくても撤収してご飯を食べに行くなんてことできないの。
こっちの企みはもう明るみに出て、私たちの本性だってシティホールにバレてるのに、今やめたところで「ヌオバ・ウォルシーニ人」に戻れるわけないでしょ?
アントニオさんの言いつけ通り任務をこなすしかないのよ。裁判所を占拠して、そのあと港と連絡を取るの。
増援は全員武器を確保した?
ああ。
ならいいわ。私が合図したら始めなさい。
全員に伝えて。一年近く武器に触ってない奴もいるでしょうけど、向こうのクソドライバーどもにしてやられたらお笑い種だってね。
エイレーネ……
結論はどうなった?
……
あたしたちの望み通りにはならなかった、って顔だね。
エイレーネさんにお伝えください。ソマーさんが亡くなったことについては、本当に残念に思っていると……
それでも、どれだけ検討する時間を与えられたところで、この判決文に署名することはできない、ということも。
ヌオバ・ウォルシーニはファミリーによる悪行を決して容認しませんが、ほかの人間がそれに乗じて己の目的を達成していいということではありません。
この一年、私は何度も友人からの手紙を受け取ってきました。彼らの中にはほかの都市で裁判官や弁護士になった人もいれば、とうに転職している人もいます。
どの人も、手紙の中でたくさんの提案をしてくれました。『新都市管理法』の法的根拠についてや、具体的にはどの条文が改善に値するものなのかということまで。
実のところ、私はその行間から、彼らの様々な感情を読み取ることができました。憂慮や困惑、期待、果てには羨望も……
『新都市管理法』はシラクーザでは特殊な存在です。この法はヌオバ・ウォルシーニが成り立つ上での拠り所であり、多くの人が注目し、そして多くの人が犠牲を払って作り上げたものでもあります。
時として、無力な法であることは認めましょう。けれどそう感じさせられる時ほど、それを空文化させてはいけませんし、他人に利用される道具にしてはならないのです……
ラヴィニアさんはやっぱりラヴィニアさんのままだな。
おい、エイレーネ。
なんだ?
私の話をよく聞け。
奴らはすでに武器を手にして、本物の狼へと戻った……状況は完全に制御不能だ。
私は子供の頃、シラクーザにいた時に、マフィアたちのやり方を目にしたことがある。奴らはたった30分で私の叔父一家を皆殺しにしたんだ。
このあと、煙が奴らの視界を遮ったら、全員に撤退を命じてくれ。暗号であれジェスチャーであれ、何か方法はあるんだろう。
私も一度にこれほど広範囲に煙を放ったことはないし、どれだけ効果があるかも、どれくらい持つかもわからない。だから、迅速にやれ。
トラックは私たちの後ろだ。運転席に退避して、そのまま広場を離れろ。
私はあの晩、ソマーのそばにいてやれなかった。あいつの死に対しては責任がある……
私のようなツイてない奴にできることなど多くない。だが、家族同然の仲間たちが死んでいくのを、指をくわえて見ているわけにはいかないんだ。
……
おいよせ、それは銃なんだぞ! レンチとは違うんだ! こっちに向けるんじゃない――
……
自分にも向けるなっての!
つ、使い方がわからないんだよ……
それなら前に向けろ、ペドロ。
……
でも、向こうには――
暴発するんじゃないかって心配も、アーツユニットのスイッチに間違って触るんじゃないかって心配もしなくていい。
さっきラヴィニア裁判官と連絡を取った。『新都市管理法』に則って、このファミリーの連中は特級犯罪者として扱うと判決が下ったんだ……
たとえ、誤って奴らを傷つけてしまっても、みんなが責任を問われることはない。
だから武器をしっかり持て。あたしたちはラヴィニア裁判官と、裁判所、そして自分たち自身を守るためにこうしてるんだ。
エイレーネ、彼女はそんなこと……
あれを聞いてくれ。
何をだ?
歓声だよ。すごく近づいてきた。
あと数分もすれば、盛大なパレードが裁判所広場に到着する。
都市の民衆は自分たちが見た光景をどう解釈すると思う? 本当の意味で判決を下すのは彼らだろう。
法律は事実を重んじるものだ。違うか?
……
エイレーネの声は震え、明らかな緊張が見て取れたが、クロスボウを握るその手つきはしっかりとしていた。それを見ていたリュドミラはふと、そこにいる彼女が誰なのかわからなくなった気がした。
獣のマスクをかぶった群衆とトラックドライバーたちが二つの陣営に分かれて立つ、それはまるで二つの川のようだった。
地面にはバラバラになった箱だけが残されており、武器は人々の手にわたっている。
……ほど近い場所から、天を突くような音が聞こえてくる。
巨大なフロート車が走るくぐもった音や、音楽隊の即興演奏、そしてパフォーマーが張り上げる大声……カルネヴァーレを謳歌する隊列がこちらへと向かってくるのだ。
そのあと、小さくも、よりはっきりとした物音が彼らの周りで響いた。それは銃に弾がこめられ、アーツユニットが起動し、クロスボウの安全装置が解除された音だった……
ここには隠れられる場所もなければ、退避できる場所もない。
まだ誰も行動を起こしてこそいないが、たった一つの銃声で二つの川は決壊し、激しい潮流がすべてを飲み込むことだろう。
……
口を開く者は一人としておらず、全員の神経が極限まで張り詰めていく。誰もが周囲の音を、そして狂ったように早鐘を打つ自分の心音を聞いていた。
ヌオバ・ウォルシーニが、間もなく新たな一日へ足を踏み入れようとしているのは明らかだ。
しかし、夜はかくも長かった。