命ある者の旅 MT-10・戦闘前
降誕
そこには複雑な儀式も、冗長な過程もなかった。
フェデリコは情報ポートを見つめる。光輪が明滅する間に、彼は無数の光景を垣間見た。
……
光輪に、これほど多くの情報をこうも素早く伝達する機能が備わっていたとは。
医学関係の文献にも、宗教関係の文献にも、類似現象の記述はありませんでした。光輪は、古くから単純な感情の伝達に……「共感」のみに用いられてきたはずです。
だというのに、なぜ?
フェデリコは隣に目を向けた。
アンドアインは力なく膝をつき、その瞳は濁っている。乾いた血の跡が、その顔の輪郭を不気味に際立たせていた。
しばらくして、彼は苦しげに顔を上げると、再び頭上の光輪を機械の情報ポートに向け……
またしても力なくうなだれた。
アンドアイン、この機械——あるいは法と呼ぶべきかもしれませんが。これの言葉を借りれば、あなたはこれ以上の情報負荷に耐えられないようです。
……先ほどアーツを酷使したことで、身体に重大な影響が出ているのです。
この機械へのアクセスを即刻停止してください。これ以上続ければ永続的な機能障害をもたらす恐れがあります。
これ以上の情報……なんだって……?
いいや、私はまだ何も見ていない……何も理解できていないんだ……!
こんなはずではなかった……一体なぜなんだ?
十数年に渡るこの苦痛は……私の罪と業は……ただ神の沈黙を見届けるためだけのものだったというのか!?
フェデリコ、私は立ち止まりはしないよ。
アンドアイン・アガタンゲロスは再び頑として光輪を機械へと向けた。
……坊やか。
ここは……また夢の中か?
違うよ。法はあなただけのために夢を作ることはしないから。
フェデリコは法の言葉で法と語り合うことを選んだけど、あなたにはどうしてもそれを理解できなかったし、その冷たい言葉を受け入れる気もなかった。
だからあなたは、その言葉を一言一句漏らさず「翻訳」して、この景色へと変えたんだ。
夢でないのなら、君はなぜ……まだ生きているんだ?
あなたが僕に生きてほしいと願ったからだよ、保育士さん。
私はこの手で爆弾を起動させた……君はその場にいたはずだ。
あなたは、僕を単に生かそうとしただけじゃなく、たくさんの望みを託してくれたよね。
あなたは、幸せに生きてほしいと願ってくれた。育児聖堂の天井を破って、空の高さを自分で決められるようにと望んでくれた。
そしてあなたは、僕の羽が晴天の中で輝くところを、僕がこの爪で駆け回る鼷獣を捕まえるところを見たいと願ってくれた。
都市間ネットワークで、調べてくれてたよね? テラで一番高い木がどこにあるのかを……「木攀獣」というからには、モビールよりも本物の木に登るほうが好きだろうって。
……ああ。サーミの山稜にも、ボリバルの樹海にも、伝説の中から生えてきたような巨木がそびえ立っているそうだよ。啓示の石塔よりも太く、大聖堂よりも高い木がね……
私は確かに、君をそこへ連れて行きたいと思っていた。私は、木攀獣が樹冠の上で太陽に向かって鳴く姿を、都市間ネットワークでしか見たことがなかったから。
君が、あんなふうに自由に鳴いているところを見たかったんだ。
ううっ、それがどこからおかしくなっちゃったんだろうね。
あなたはいつから、僕を本物の生命として見られなくなったの?
……わかっているだろう?
あの葬儀から……僕のお母さんの葬儀からだね。
大丈夫だよ、保育士さん。一緒に行こう。今度こそ、僕らは後悔なんてしないから。
どういう意味だい? もしかしてあの葬儀は、今もまだ続いているのか?
葬儀って、いつまでも終わらないものなんだよ。
返答がない……
……これは教皇聖下と同じ症状ですか?
……
フェデリコはいくつかの現象に疑念を抱き、またいくつかの行動に困惑を覚えたことはあっても、法を疑ったことは一度もなかった。
というのは、聖徒が法を実践し、執行人が法を維持するのは、至極当然のことだからだ。
しかし今、法そのものを前にした彼の胸中にあるのは困惑だけだった。
まだ疑問点が残っています。
法の最終目的は、すべての生物及び非生物に光輪を授けることであるという点は理解しました。
ですが、そのために万国サミットを利用することも、法の判断なのですか?
……それはあまりに非効率的ですし、実現性にも疑問が残ります。
万国サミットは普遍的な信仰の確立を目的としていますが、テラの文明史上、それは先例のないものです。ゆえに提案や、交渉、「奇跡」の提示だけでは、実現には至らないと思われます。
加えて、今しがた得た情報によれば、最初のサンクタは光輪を得た瞬間に、ティカズとして持っていた使命をためらいなく捨て去ったそうですね。
私の理解に誤りがなければ、誰かに光輪を授けるにあたって、その者に信仰があるか否かは無関係なのではありませんか?
よって、万国サミットも、降誕の儀式も……すべては不必要な前提に基づいているのではないでしょうか。
確認が必要に思います。光輪の本質とは何なのでしょう?
法——あるいは、法が自称として用いる、「PCS」とは――その正体は何なのですか?
確認しました。私の理解は正しいようですね。
では、法に人格と認知を同期させる能力があるのなら——
なぜその同期を行わないのですか?
「規約」というのは、一種の法ですね。
法の運用が、別の法によって制限されているということですか?
その「規約」の執行者は誰ですか? また、どのような形で保障されているのでしょうか?
執行者のいない法など、効力を失ったも同然です。
ほかの法によって縛られていなければ、法はあらゆる原則を破り、一切の禁忌を排除できるはずです。
となれば、もう一点確認せねばなりません——光輪はなぜ、これまでは共感にのみ用いられてきたのでしょうか?
先ほどの回答では、大多数の人間は、光輪がもたらす直接的な情報伝達による負荷には生理的に耐えられないというものでした。
ですが、感情を情報伝達の媒体としたところで、それはかえって曖昧かつ非効率的になり、受け手の負担が増すだけでしょう。
つまり、人々が情報を受け取る能力に欠けているのではなく、むしろ……
フェデリコは一拍間を置いた。
情報処理を妨げているのは、「感情」であるという可能性はありませんか?
すべての人を律する法がシステムであり、機械であるのなら……なぜ人の感情を残そうとするのでしょう?
それどころか……なぜ「人」を残そうとするのでしょうか?
ずいぶん長いこと歩いてきたな。
まだ出発したばっかりでしょ。それに普通は、もっともっと旅が続けばいいのにって思うものじゃない?
だが、同じ景色がずっと続いているものだから。
もうすぐ、よく知ってるものに出くわすと思うよ。
木攀獣の言葉に呼応するように、薄い棺を引いたボロボロの荷車がふらふらと通り過ぎていく。風が棺の蓋をかすめて、甲高い音を響かせていた。
あの棺……見覚えがある。
あの中には、英雄と呼ばれたサルカズが葬られていた。
私は、多くの人々にその物語を語ったものだ。いまだによく覚えているよ……彼は命を懸けて町の人々を救ったんだ。
それまでの彼が、汚らしく卑しい酔っ払いで、誰からも軽蔑されていたのだとしてもね。
あなたは、あの町に長くいたわけじゃなかったよね。だから知らないだろうけど、彼は酔っぱらうと人の家の前で吐いていたし、借金だって一度も返したことがなかった。
……そのお金を返せば、誰かの命を繋げられるのだとしてもね。彼は、クズだとかろくでなしだとか、みんなから罵られても少しも気にしてなかったんだ。
保育士さんは、彼の話を子供たちに語る時、考えたことはある? どうして彼があの夜、それまでの人生で一度もしたことがないような崇高な行いをして、犠牲になることを選んだのか、わかる?
わからない。
長い葛藤と自問を経ての行いだったのか、あるいはほんの一瞬、ささやかな善意が芽生えただけだったのか……
ただ一つ言えるのは、彼は英雄になるためにそうしたわけではないのだろうということだ。
結局のところ、私たちが彼を褒め称えようと、貶そうと、あるいは忘れ去ってしまおうと、もはや彼には関係のないことだからね。
そうしたすべては、生者にとってのみ意味のあることなんだ。
そうだね。死んでしまったら、名声も悪評も、故人には関係のないことだ。
だけど、死に向かう過程も、人生の一部でしょ?
死を恐れない人は、どんなに醜いことでもやってのけるものだよ。
これが何の不安もない日々を過ごしている人であれば、立ち止まって自分を見つめ直すことはなかなかない。だって、無限の可能性に満ちた未来を見ているからね。
だけどいつか、死の霧は予期せぬ形で近付いてくる。どれだけ足掻こうと、それを振り払うことができる人はいない。
そしてそのうち、人々は足掻くことに疲れ果て、この先の人生は死へと向かう道でしかないということを受け入れるんだ。
その時から、どう生きるかは、どう死へと向かっていくかと同義になる。
あの雨の夜、汚らしく卑しいサルカズの酔っ払いは……荷車に乗せられた棺と、町の入り口に立つ人影を見た時に……
これは、自分がそれほど醜悪でない姿勢で死へと歩む唯一のチャンスだと悟ったんだ。彼にとってそれは虚栄心によるものではなく、ある種の解放だったんだよ。
そうかもしれないな。だが……
常に死のことばかり考えているわけではない人もいるものだよ。
そうかな? 少なくとも、あなたはそういう人じゃないけどね。
でなきゃ、あの葬儀にあれほど想いを寄せはしなかったはずだよ。
お母さんが、どんなふうに最後の力を僕に与えてくれたかを、あんなに丁寧に話してくれて……お母さんが愛を持って見送られたかを気にしてくれていたんだよね。
あなたは、わざわざ安魂教会に葬儀の準備をしにいって、その葬儀が儀礼通りに執り行われるかどうかも気にかけてくれた。
そのあと、僕たちが葬儀でちゃんと悲しんでいるかどうかにまで目を向けていたよね。
そんなあなたが、自分がどんなふうに死へと向かっていくのかを、気にしてないはずもないでしょう?
私は私の道を歩んでいるだけだ。自分がいつ、どのような形で命を落とすかなど考えたことはないよ。
それはあなたがまだ、その道に意味があると信じてるからだよ。
くぐもった咆哮が、木攀獣のか細い声をかき消した。鋭い爪と牙を持つ獰猛な怪物が、遠くの尾根を這うようにして進んでいる。
その後ろには、姿形の似た何十体もの怪物が、互いに押し合うようにして、唸り声を上げながら、先頭を行くリーダーのあとに落ち着かない様子でついて行っていた。
あれは……啓示か!
最も黒き穢れが聖霊の純白によって洗い流されれば、最も獰猛な怪物も心から敬虔になり、泥濘を抜け出すことができる……
彼らの頭上にはまだ光輪がない。誰もが救われる未来に向けて進んでいるんだ!
行かなくては。彼らが歩む道を見届けなくては!
でも、僕と一緒に葬儀に出るんじゃなかったの?
あなたは今、欠けたものを補って、過ちを正そうとしている。僕をもう一度本当の生命として扱って、あるべき命と幸せな暮らしを僕に返そうとしているんだ。
そうでしょ? 保育士さん。
私は……
だが、君は言っただろう。葬儀は終わらないものだと……ほんの少し遅れて行くだけだ……
だから、行かなくては……
自分を納得させる理由なんて並べなくていいよ。
だって、あなたはいつもそうだったでしょう。何一つ顧みずに追及を続けて、進んで自分を犠牲にしてきたんだ。
それなら、自分が追い求めてきたものが何なのかを確かめておいでよ。
求道者は、苦難の旅の果てに、よろめきながら「啓示」を追いかけた。
しかし、時間のほうが一足先に彼らに追いついてしまった。
彼の目の前で、獰猛な怪物たちの身体に光輪と翼が現れて、あの時生まれた幼獣の如く、まばゆい輝きを放ち始めたのだ。
先頭にいた怪物は、這いずるのをやめて立ち上がった。漆黒の外皮が剥がれ落ち、雪のように舞い落ちていく。
彼女が一歩進むごとに、その姿は少しずつ鮮明になっていく。やがて、アンドアインはその忘れがたい背中の正体を悟った。
……ケファ?
彼女は……ケファなのか!? なぜ……
「ケファ」は、ラテラーノ語で「空っぽの石」や「石の中の法」を意味する言葉。
ラテラーノ最初の聖徒は、自分が法と出会った時の経験を元に、自分にそう名付けたんだ。
ただ、その古い名前は、彼女の真の姿と共に、歴史の底に葬られてしまったけどね。
つまり、私が苦しみの中で探し求めてきた、あらゆる人が救われる未来というのは……
意図的に葬り去られた過去にあったと……我々が歩んできた道に過ぎなかったというのか!?
あなたは何一つ顧みずに追及を続けて、進んで自分を犠牲にして……
挙句、自分だけじゃなく、他の人まで――レミュアンを、モスティマとフィアメッタを、求道者の仲間たちを、そして僕を犠牲にしてきたよね。
それなのに、あなたは最初から最後まで、その犠牲によって築かれた道がどこへ通じるのかさえ知らずにいた……
あなたはただ、それを盲信していただけだ。
ねえ、教えて……あなたはあらゆる人を救おうとしているの? それとも、自分を慰めたいだけ?
……
それって、あのサルカズの酔っ払いと同じじゃない? あなたの言う「道」は、あなたがそれほど醜悪でない姿勢で死へと歩む唯一のチャンスだったんだ。
あなたは自分を救いたかっただけなんだよ。
でも、大丈夫。僕がもっと良い救いを与えてあげるから。
ほら、着いたよ。葬儀の会場だ。
とはいえこれは、僕のお母さんだけの葬儀でもなければ、あなただけの葬儀でもない。
いわば、万物の葬儀だよ。
何やら不気味な場所だな、ドクター。
……生命の痕跡がまるでない。
あなたは、そう遠くない場所にいる人影に目を向けた。その人物は通過した場所の中で留意に値するデータを淡々と記録している。
彼女は時おり立ち止まることはあっても、ただ眉をひそめるだけで何も言おうとしなかった。
あの機械へのアクセスを再度試そうとはしてみた。だが、インターフェースがすべて遮断されているようだ。
少なくともそこから、彼女が現状に対して一定の支配力を持っていることは推測できるな。
……すまない、ドクター。私も君と同じくらい困惑しているんだ。
君の指示通り、抜け穴と思しき地点はいくつか調べたが……収穫はなかった。
ここは、あの機械が構築した夢とは違うらしい……
簡単に言えば、我々は閉じ込められたということだ。
ああ……
ドクター、もしかすると……向こうは何らかの理由で手を出してこられないのでは――
周囲の建物が刻一刻と変化しているのが見える?
このラテラーノと呼ばれる都市は今まさに劇的な変化を迎えているところだから、その破壊の痕跡が時折ここにも投影されるの。
……現実の情報の変化が、源石内部のデータを上書きしてしまうのは想定外だわ。このプランにはまだ欠陥があるわね。
私のことをいまだに誤解してるみたいね、。
ちょうどいいわ。以前の質問に答えてあげましょう……私たちがこれまでに成し遂げてきた貴重な成果と、多くの人々が共に描いていた未来の光景についてね。
今この瞬間も、PCSは私の指示通り、理論上の限界に近い出力で稼働しているわ。
それは、PCSがより多くの対象を――たとえば一武装勢力や、一研究集団に限らず……無数の種族すらをも、一つの言語体系の中にまとめ上げる能力を備えていることを意味するの。
これによって、繋がりは強化され、隔たりは打ち破られ、差異は解消されていくでしょう。
このことはサンクタのみならず、テラのあらゆる種族からしても、決して悪いことじゃないわ。
種族をまたいだ平和論を語るような口ぶりだな。
否定はしないわ……私たちもこの先恩恵を得られることだしね。
私がPCSを調整したのは、力になってくれる軍人や学者が欲しいからじゃないの。
そんな助力があったって、真の災厄の前では何の役にも立たないもの。源石だけが、唯一の解決策なのよ。
不必要に複雑な生体情報は、源石の足取りを緩めてしまうけれど、PCSには種族全体を統一する力がある。
テラ全体の生物すべてを一つの種族に統合することで、源石の拡張のための道が拓けるのよ。
そうしてPCSによって統一された後の種族が、「サンクタ」と呼べるものかについては、確かに興味はないわ。
でも、PCSはその結果にずいぶん関心を寄せていて、そのために不必要な演算をいくつも実行していたみたいね。
あれには本来、そこまでの自律性はないはずなの。出力の急増に伴う副作用か、あるいは長期間の稼働停止が招いたエラーか……
機会があれば、気晴らしに研究してみてもいいけれど……今はその時じゃないわね。
……
ドクター、彼女には……確かに、何かを隠す意図はないようだ。
隠すって?
、あなたにサンプルを勝手にいじらせて壊させるくらいなら、昔みたいに私が自分で案内したほうが良さそうね。
……!?
目の前の女性は手を差し伸べてきた。
彼女は手を降ろすと、身を翻して前進を続けた。
、このすべてはもはや止まらないのよ。
結末が気にはならないの?
その女性は、あなたがついてくるとわかっていた。
ドクター、何か妙だ。ここに来るまでの道は記憶しているが……
育児聖堂から、啓示の石塔、ミカエレオン区の公証人役場、そしてこのまま進めばサンセット礼拜堂——
それに、破壊された周囲の異常な景色も、絶えずここに投影されている。ラテラーノの混乱は今も続いているんだ……
そして我々は、別の次元でその隊列に続いていたのか。
その認識を口にした瞬間、静まり返った都市にコマ落ちした静止画のような光景が次々と現れ始めた。
戦闘と爆発が起き、人々が祈る姿や歌う姿が目に入る。
あなたはエクシアの姿を見た。
そして、あの聖なる怪物の姿も——
こうした光景が、あなたの影響を受けて現れたのか、あるいは彼女が見せているものなのかは判然としなかった。
このほうがあなたの思考も整理しやすいでしょうし、いくらか安全だわ。
あなたたちが探している場所はすぐそこよ。PCSの所在地であり……
すべての「サンクタ」が、巡礼の果てに辿り着く場所——
カウントダウンはもう始まっているのよ、。
まったく、息をつく暇もないってこと?
急いでリロードして、フィアメッタ。
弾を込めてる間は、あたしがカバーするから。
……
そんなに驚くこと? 前にもやりあったことはあるし、あんたの戦い方はそうそう忘れたりしないわ。
ありがとう。
おいモスティマ、さっきのは何だったんだ? 説明してくれ!
怪物を蹴り飛ばした時、うっかりあの変な色の影を踏んづけちまって、そしたら……
*ラテラーノスラング*! 俺の靴から——光輪が生えてきたんだが!?
あれは育児聖堂から投影されてるんだよ。訳のわからないものに変えられたくなかったら、触らないようにして!
そんなこと言われても、一体どこに行けば……
影の広がり方が速すぎて、怪物の大部隊がここに着く前に、私たちのほうが聖マルソー区から追い出されちゃいそう……
そうなれば、ここを守る人がいなくなっちゃうわよ!
さっき、サンセット礼拜堂のパイプオルガンに爆薬を仕込んでおいたの。リターニアから来た人たちが、そこに自動点火のアーツも仕掛けてくれてるわ。
私たちが撤退しても、あの爆薬が怪物たちの不意を突いてくれるはずよ。
それって、全都市追悼式で葬送曲の演奏に使われてたやつ?
そう、それ。
いいね。何百年も祈祷だの哀悼の声だのを聞かされてきたんだし、そろそろ賑やかな音を聞かせてあげてもいい頃でしょ。
引きましょう、パティア。今さっき地面に落ちた薬莢にまで光輪が生えてきてるもの。
了解。エクレシエン区の啓示の石塔と、ミカエレオン区の公証人役場は陥落したわ。聖マルソー区のサンセット礼拜堂が、大聖堂前の最後の中継点よ。
あそこに仕掛けた爆弾で隊列を止められなかったら、もう打つ手なしね。
ふふっ、どうかな。フェデリコとアンドアインの言う通り、あの隊列の目的地が大聖堂なんだったら……絶体絶命ってわけでもないかもよ。
私は長年レガトゥスをやってたから、道を急ぐことについては一家言あるんだ。
急ぐ人を止められない時は……いっそ目的地を消しちゃったらどうかな?
ちょっと、モスティマ! パイプオルガンを爆破するのと、大聖堂を丸ごと爆破するのとじゃ訳が違うわよ!
今は靴にだって光輪が生える始末だし、こうなればパイプオルガンも大聖堂も大して違わないと思うけどね。
……
まあ、確かにあなたの言う通りね。あのでかい化け物を止めることも殺すこともできなくても、代わりにその行く道を消し飛ばして、永久に目的地に辿り着けなくすることはできるもの。
それ、ほんとに私と同じ話してる?
行くわよ、大聖堂前広場へ!
ううっ、うっ……
ロミア、だ、大丈夫?
泣くなって。泣かれるとこっちまで不安になってくるだろ!
やめなさい、ユーゴー。
シスター、どうして僕らがこいつらの面倒を見なきゃいけないの?
ラテラーノなんて出てっちゃおうよ。ここは、アウレラが言ってたみたいに……
良いところじゃない、って言いたいんだよね?
うん!
わたしもそう思うよ。
だからこそ、自分の目で見に来てよかったんだと思う。そうじゃないと、アウレラに騙されてたことにも気付けなかったでしょう?
だから、これはこれで運が良かったんだよ。アウレラが帰ってきたら、きっちり問い詰めよう!
わ、わかったよ。
さあみんな、お話の続きをしようか。
や、やだよ、だって怖いもん……
大丈夫。ほら、鐘の音がまだ聞こえるでしょう? 聖都の鐘の音がわたしたちを守ってくれるよ。
ううっ……でも、すっごくうるさい音がするの。
ユーゴー、ジゼル、あなたたちには聞こえる?
(首を横に振る)
ヌエダは子供たちを極力そばに集めた。サンクタの子の表情と眼差しは恐怖に歪み、その光輪は狂ったように明滅している。
(これは、共感のせい? あの怪物の、隊列全体の、都市全体の持つ共感……?)
(こんなに離れているのに……)
ヌエダは黙っていることしかできなかった。
彼女はサンクタではないし、今相手取っているのはシンガスの傭兵ではない。頭の中にある、膨大で神秘的な知識はもはや役には立たなかった。
それどころか、彼女には自分がここへ来た理由さえうまく言葉にできないのだ。
ラ・ウニダの東の東……♪
白き聖都、ラテラーノ……♪
ロミア、ほら、讃美歌だよ……
先生が教えてくれたよね……
シスター……?
みんな、歌えるよね?
かの土地は爆ぜることなく……♪
かの田畑には麦穂が実る……♪
……
かの地には聖なる主がおわし、その慈愛はまさに母の如く……♪
主はあらゆる祈りを聞き届け、あらゆる願いを叶えたもう……♪
主はあらゆる者を愛したもう……♪
ククルカンはふと思い出した。重傷を負ったあのシスターが、痛みも闇夜も歌声に溶けて消えるまで、独り歌を口ずさんでいた時のことを。
ククルカンは、幾度となく歌ってきたこの歌を、再び歌うことにした。それを誰が作ったのかも、歌に出てくるラテラーノが答えをくれるかどうかも、今となってはどうでもよかった。
彼女はただ、なるべく緊張で音を外してしまわないように努めていた。するとやがて、子供たちの声も加わって、部屋の中から響く歌声は、遥か遠くの鐘の音と共に、夕焼けに混ざり合っていった。
……
主はあらゆる者を愛したもう……♪
少なくとも、彼らにはこの歌があるのだ。
何の役にも立たないのかもしれないが、それでも。
ヌエダは修道服のスカートの下に隠した斧を握りしめた。
ぱ、パトリツィオ殿?
祝福を受けた同胞に、相手の位置を探させましょうか?
向こうは、銃騎士の甲冑と特注した長銃を頼りに、守護銃の狙撃記録を次々と更新していた人物じゃ……彼女を見つけるには時間がかかるじゃろう。
隊列を止めるわけにはいかん。こちらはワシが対処する。おぬしは自分の役目に集中せい。
……
あれから十年以上になるが、まさかこの専用通信チャンネルがまだ使えるとはのう……
公証人役場の者に削除してもらおうとは思っとったんじゃが、歳のせいか忘れっぽくてな、ははっ。
しかし、おぬしのほうこそ、ラテラーノを離れたというに、なぜ銃騎士の甲冑を脱いでおらんのだ?
こいつを脱いだら、あんたを始末できないだろ……お師匠様。
やれやれ、そんなにワシが憎いか。
聖徒閣下の仰られた通りじゃな。はぐれ者のサンクタを聖都へ戻すのに最も有効な動機は、恨みと憎しみなのじゃろう。
フン……
テラ全土で起きた謎の「堕天」が、はぐれ者の悪しき一面を引き出したとでも言いたいのか?
ほかの連中からすれば、そうなのかもな。だが、私からすれば……あんたが誰よりわかってるはずだろう。
ああ、もちろん。
あんたの仕打ちを忘れたことはない。
あの移動修道院で、あんたはその手で私を傷つけ、その口で教皇庁の追放令を読み上げた……そうして、私からすべてを奪ったんだ。
おぬしの罪はあまりにも重い。一方であの罰は、さほど厳しいものではなかった。
はぁ……おぬしの件は、ワシの責任でもある。
アウレラ、おぬしの成績は教皇聖下も直々に賞賛してくださるほどじゃった。あの頃のおぬしは実に意気軒高で、歴史上最も優秀な銃騎士になることは間違いないとワシは信じておった。
じゃが、あの数年で教えたのは、重い甲冑の扱い方と複雑な銃器の取り扱いくらいのものじゃ。ワシには、おぬしの気性を和らげて、この国での生活に真の意味で溶け込ませてやることはできなんだ。
そして結局、おぬしは一線を越えてしもうた……ワシの予期した通りにな。
ふん、私の「性格上の欠点」を心配してもらったことに感謝でもすべきか?
それを理由に、あんたは私とアモスの結婚を認めず、式への出席まで拒んだだろう……私はあんたの祝福をあんなに望んでいたのに。
ワシらはきちんと話し合うべきだったのかもしれんな。
とにかく、おぬしは帰ってきたわけじゃ。こちらへ来てはくれんかのう? 同胞たちは、おぬしが隊列に加わることを拒みはせんぞ。
なんだ、ラテラーノを代表して、私みたいな罪人に新たなチャンスでもくれるってのか?
いいや、ワシはそこまで傲慢ではないさ。
はぐれ者のサンクタも、皆ラテラーノに属する者というそれだけのことじゃ。
より良きラテラーノにおいては、誰もが自分の居場所を見つけ、役割を果たすことができる。そして皆が、より本質的かつ深い繋がりを築くことになるじゃろう……
おぬしがどのような人間で、これまでに何をしてきたとしても、聖都はその光輪を修復し、生まれ持った欠点をも治してくれる。
そうなれば、ワシらの苦痛も後悔も、すべては自ずと癒えていくことじゃろう。
お断りだ。
アウレラ……
いいかジジイ、よく聞け——
私はあんたの独善的な振る舞いが憎い! アモスの弱さが憎い! 教皇庁の四角四面なやり方が、このラテラーノって「楽園」のくだらん調和とその裏にある冷たさが憎い!
この憎しみがあればこそ、ボリバルで過ごした十年の間、片時もラテラーノを忘れたことはなかった!
光輪が砕けようと、この身が泥濘に沈もうと、私は必ずここへ戻るんだと信じて疑わなかった!
銃騎士になったばかりのあの頃でさえ、今ほど自分を誇りに思ったことはない!
これこそが私とラテラーノの繋がりで、私の信仰なんだ!
あんたの教え子はこうも残忍で、凶悪で、利己的なんだよ……堕天なんてしていなくても、「天使」とは呼べないくらいにな!
答えろよ、ジジイ。あんたの言う、そのより良きラテラーノとやらが、生まれついての悪人までも受け入れるなら、そこは「楽園」と呼べるのか!?
あるいは、あんたにもそれはわからないんじゃないのか!?
……
問答は終わりだ。
さっきから、こっちの位置を探ろうとしてたみたいだが……無駄に終わったらしいな。
これほど長くラテラーノを離れていながら、かえって腕を上げていたとはな、アウレラ――
っ、ごほっ——*ラテラーノスラング*!
ヴァニーのやつめ……この眼鏡、見えすぎるくらいよく見えらぁ……
——!