墟 AT-7・戦闘前
冷月
テレビ局の最上階から見下ろせば、夜空へ花火がまばらに打ち上げられては、ゆっくりと下に落ちていき、やがて見えもしない地面に消えていく。
花火大会はまだ正式には始まっていない。これは単なる予行演習に過ぎなかった。
フィディアはガラス窓に映った自分と、その背後にある鍛え直された般若を見つめていた。
……般若か。
二十年が経った今、お前はようやく俺の手中に収まったが……もはや遅すぎたな。
鉄斎に代わりこの儀式を承認する存在として飾られる以外、お前に何ができるというんだ?
彼は般若を興味深げに眺めていたが、ふとその内側の持ち手に粘着質な何かの跡があることに気づいた。恐らくは、テープか何かが長年巻かれていたのだろう。
内側には手を付けなかったのか?
……確かに良い盾ではあるが、それだけだな。
澪!
式が始まるまであとどれくらいだ?
一時間ほどです。
わかった。俺は下に降りて、外の空気でも吸ってくる。
ですが三船さん、星熊が会場を襲撃してくるかもしれません。
俺はあいつを待っているのさ。
と仰いますと?
星熊が来るとすれば、あいつは狂気に駆られているか、あるいは鉄斎の死を経てもなお冷静さを保てているかのどちらかだ。
だが、いずれにせよ、俺の縄張りであれば、俺のカメラの前であれば、テレビに映るあの女は単なる狂った殺人鬼だ。
となれば、そんな殺人鬼など、狂気に陥った敗者として継承式を彩る飾りに過ぎん。確かに、直接やり合えば奴には敵わんかもしれんが、俺の元に辿り着く前に上の人間が始末をつけてくれるだろう。
萌々香のことは……
情けをかけたいと?
まあいい、もうしばらく生かしておいてやれ。徹底的に搾取するんだ。あいつに言うことを聞かせる手段など、いくらでもあるしな――
おっと、それなら萌々香が完全に絶望しないように、あの吉星という女も生かしておけ。奴の始末はまだつけていないな?
はい。
ならいい。
そういえば、哲也はどうした?
……
澪?
……目を離した隙に逃げられてしまいました。
お前が? 目を離しただと?
三船の声が突然残忍なものへと変わった。
正直に言え。
……私が逃がしました。
奴にも同情したのか?
そうです。
理由はそれだけか?
それだけです。
お前には失望した。
罰はお受けいたします。
もういい。今は人手がいる時だ、咎めずにおいてやろう。ただし、お前の任務は変更とする。
星熊が本当に攻め込んで来た時は、お前が相手をしろ。
はい。それも私の仕事のうちですので。
そう返答を焦るな。
あいつが生きて俺の前に辿り着いた時は……お前がどんな末路を迎えるか、わかっているな?
……
……はい。
よし。この先は、二人忍者をつけてお前を監視させておく。妙な真似はするなよ。
俺は少し出てくる。どんな事態にも備えておくよう、全員に伝えておけ。
花火大会まではまだ少しあるだろ。今は予行演習ってとこだ。もう少しこの辺りを見て回ろうぜ。
ううん、それより川向こうにある花火大会の会場へ向かったほうがいいわ。この辺りは危険だって、都市間ネットワークでも言われてるし。
噂では、金石会の会長が亡くなったんですって。怪談話に出てくるあの青鬼が殺したらしいわよ。
えっ――それ、メディア業界の大物とかいう、金なんとかって人?
違う違う、それは三船さんでしょ。亡くなったのは鉄斎さんって人らしいわ。
えっ? いつも表に出てるのは三船さんのほうだから、てっきりあの人が死んだのかと思ったよ。
とにかく、鍛冶町のほうでもよくない噂があるし、最近は北院のスパイがどうとかって話もあるし……いいから対岸に行きましょ。
怪談を流布させ、議題となるものを設定し、世論を操作する。
そうした一連の流れを、三船はこの上なく熟知していた。
御机で語られる怪談すべての発端は、議員候補の件を持ち出して脅してきた島須を、三船が斬ったことに過ぎないなどと、誰に想像できるだろうか?
当時、彼は島須の死の真相を隠し、立ち上げたばかりのテレビ局に話題を供給し、そして繋がりを持ったばかりの有力議員に手腕を見せる必要に迫られていた。
そこで三船は腹を決め、星熊と新安芸市の「沈黙の佐原」を混ぜ合わせ、例の幽霊屋敷を一週間トレンドニュースとして報道した。結果的にそれは、大きく話題を呼び――
クオリティの高い映像は野次馬市民たちの疑念を打ち消して、三船に後始末をつける余裕を持たせ、さらには民衆をミスリードする余地すら残させた。
怪談話がもたらす熱狂は金へと変わり、その金が議員を動かし、警察を縛りつけたことで、金石会は鉄斎にすら口を挟ませずに済むほど三船の思い通りになった。
その後は、何もかも歯止めが利かなくなっていった。幽霊屋敷は、邪魔者を処分する絶好の場所となったのだ。
とはいえ、そんな手がいつまでも通じるはずもない。人々の興味は薄れ、幽霊屋敷の怪談からの収益は減り、鉄斎の疑念と世論の圧力だけが日ごとに増していく。
そこで、議員候補の件の真実を知る最後の組員を処分した後、三船は「怪談」の範囲と仕入れ先を広げることにした。
神も、事故も、怪談話の元になり得るうえに、実際には何も起きておらずとも、誰かが魅力的で背筋の凍るような話をすれば、それもまた怪談となるのだ。
三船自身、御机の住民がなぜこれほど怪談に食いつくのかと疑問に思ったことがある。
民衆は暮らしの中に潜む危険を恐れていながらも、それが彼らの心を惹きつけてならない魅力を持っているかのように、好奇の目を向けることをやめられないのだ。
どうあれ、そうしてテレビ局が金石会に絶え間なく収入をもたらしていき、逆に素子結晶産業を牽引し始めたことで、彼は鉄斎にとって不服ながらも切り離せない存在となっていった。
そしてその時には、彼にとって鉄斎はすでに、単なる……
……!?
緊急速報……
なんだ? 地震か!?
北院軍が!? そんなバカな!
ひ、避難施設? そんなのあったか?
昔は誘導があったらしいが、い、今は看板を頼りになんとか探すしか……
地上の出来事など関係ないというように花火が打ち上がる中、仁田街のみならず、御机中が、突然無数の赤い光にかき乱された。
それはもはや忘れられていた恐怖だった。
血峰の戦いの後、南北間の衝突は頻発するようになっていったが、その反面、経済が著しく発展していくあまり、人々の耳には国境の砲声が届かなくなっていった。
九十年代以降となっても、御机と鎖川は互いを仮想敵とし続けていたが、双方の市民はそうした可能性を完全に頭から消し去っていたのだ。
そんな時に、長らく忘れられていた、されど誰も無関係ではいられない恐怖が、御机の人々の心をどんな怪談よりも強く、潰れんばかりに締め付けたのである。
三船さん!
何事だ!?
何者かが金石テレビの放送ネットワークをハッキングし、政府から渡されていた緊急時用の映像を改ざんして……御机中に流したようです!
その人物は、我々にも詳細のわからない技術を駆使して、一部他局の放送ネットワークまで間接的に操っているようで、多くの同業他社も影響を受けています!
そのうえ、他社はこの事態を我々の公式的な動きだと思い込んでいて……電話回線がパンクしそうです!
もしもし? 一体どういう状況――
議員先生!?
森内さん、そちらの潜入は順調か?
うまいこといったで。みんな混乱しとるし、局内も人がドタバタ出入りしとるから、潜り込むんは簡単やったわ。
わかった。ところで更紗、やり方は少し考えてくれ。こういったデマを流せば、予想外の結果を招くかもしれん。
大丈夫だよ。花火大会の会場みたいなもともと混雑してるとこや、病院、学校、あとは老人ホームとか、心臓弱い人たちがいるとこは避けたからね。
それに、何度か警報を流したら、さっきのは誤報でした~って説明も流れるようにしてあるしさ。
じゃ、先に萌々香と吉星を連れて継承式の会場に向かってるね。
次は君がひと騒ぎ起こす番だよ、星熊。
了解。
星熊は混乱する民衆の波に逆らって、テレビ局のほうへ向かっていく。
すると更紗の言っていた通り、大半のテレビは「誤放送のお詫び」を流し始めており、パニックに陥っていた群衆も徐々に落ち着きを取り戻しつつあった。
道すがら、彼女は群衆の中に自分が期待するような反応が見られないかと思っていた。
夢から覚めたような様子や、平和に思われた今に存在する危険に気付いた様子を見せるほど、深刻な反応でなくとも構わない。
彼女はただ、彼らが身震いする様を見られたらそれで十分だった。恐怖という物を幸福な日常のスパイスと軽んじず、思わず身震いをするような現実として捉える感覚があればと思ったのだ。
しかし、彼女の耳に届いたのは、多くの人々が興奮気味に繰り返す単語――
「怪談」だけだった。
……着いたな。
局内はパニック状態に陥っているようだ。入口の警備がこれほど手薄になっているとは。
一本角の鬼は、躊躇いなく室内へ足を踏み入れた。彼女が一人、二人、三人とスタッフの横を通り過ぎても、誰も彼女には気付いていない。
そうして、四人目の横を通り過ぎた時……
青鬼!?
青鬼だ! 金石会の人を呼べ!
全員、道を空けてくれ。そうすれば事は穏便に済む。
……
退かないつもりか?
星熊の周りを大量のヤクザと忍者が取り囲む。しかし、どういうわけか、彼らは恐怖を感じていた。それはまるで……
取り囲まれているのは、自分たちのほうであるかのように感じたからだ。
二十年前、「金石会の青鬼」が御机でしたことを聞いたことがある者ならわかるだろう。私はお前たちのために言っているんだ。
今や私たちは兄弟分とは呼べず、さらにはそちらの親分が……鉄斎の叔父貴を手にかけたとはいえ、私はやはり、お前たちと戦いたくはない。
退け、私は金兵衛に会わねばならないんだ。邪魔をしてくれるな。
い、行かせないわよ!
金石会はあんたを「破門」してもなければ、「絶縁」してもないんだから、あんたは今も金石会の一員でしょ! あたしたちに手を下すってことは、家族に手を下すのと同義なのよ!
……お前は本気でそう言っているのか?
答える者はいなかった。
星熊は何事もなかったかのように、ビルの中へと歩みを進める。
背後からついてくる足音はなく、ただ小さな何かが空を切る音だけが響いていた。
しかし、彼女はそれが何かを確かめようともしなかった。飛んでくるのがドスであれ、フラッシュドライブであれ、手裏剣であれ、あるいはただの豆粒であれ、もはやどうでもよかったのだ。
ドスを投げるならもっと力を籠めろ。それでは鬼を相手に豆まきをしているのと同じだぞ。
鬼は外、福は内、とでもいうような具合にな。
おとなしく従えば、本当に豆まきで済ませてやってもいいんだぞ。俺たちに因縁はねえからな。
ハッ、そうかもしれんな。だが、一つ言わせてもらうと、私が居た頃の鍛冶町での豆まきは、今言ったのとは真逆だった。
当時私たちはこう言っていたんだ。福は外……
鬼は内、とな。
彼女は刀を抜いた。
青鬼の悪名を耳にしてきたヤクザたちは思わずたじろいだが、まだ若いであろうヤクザが一人だけ、この命懸けの場面で見せ場を作ろうと歩み出る。
……いいだろう。
その時、一本角の鬼が何をしたのか、視認した者はいなかった。ただ蒼い光が迸り、気付けば若き極道者は脚に真っ赤な一筋の傷を刻まれ、地面に崩れ落ちていた。
ひ……怯むな! 野郎ども、かかれ!
俺たちは……天下の金石会だ! 奴の目にもの見せてやれ! 看板に泥塗るんじゃねえぞ! 三船会長に恥をかかせんな!
ようやく、ヤクザらしくなってきたな。
そうして、一人進む鬼に向け、人々が波の如く押し寄せてくる。
だが、鬼は意に介さず、ただ一歩一歩前へと進み続けるばかりであり、やがて彼らが間近に迫ったその時――
蒼い火花が再び煌めき、今度は誰もが目の当たりにした。もはや怒りを抑えることなどやめたその鬼の真の姿を。
刀が振り下ろされていく。
やがて、致命傷を負った者こそおらずとも、立ち上がれる者もなくなり、ただ一本角の鬼の影だけがそこに立っていた。
……哀れだな。