聖山降臨1101OS-6・戦闘前翡翠の緑
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カジミエーシュクルビアリターニアヴィクトリアイェラグ
ウルサスカジミエーシュクルビアリターニアヴィクトリアイェラグ

名前

聖山降臨1101 OS-6・戦闘前

翡翠の緑

「グレーシルクハット」

あとどれくらいかかるんだ?

ヴィクトリアの執事

そう焦らないでください、ベリンガムさん。

ご存知の通り、公爵様は近頃ご多忙で、毎日何人ものお客様とお会いになられているのです。

「グレーシルクハット」

あなたも覚えているだろうが、以前私がここへ来た時には……

ヴィクトリアの執事

はぁ……

「グレーシルクハット」

とにかく、聞いておきたいのだが、最近の彼女のご機嫌は?

ヴィクトリアの執事

大抵はご機嫌でいらっしゃいますよ。ここ数日で、カジミエーシュとの交渉も大詰めを迎えましたので――

彼の言葉が終わるやいなや、うなだれた様子の紳士が、「グレーシルクハット」の横を通り過ぎていった。

「グレーシルクハット」には、その紳士が報道局のデレック部長であるとわかった。近頃は世論が芳しくないせいか、汗を拭う彼の手はぷるぷると震えていた。

ヴィクトリアの執事

……どうやら、今日は例外のようですね。

カスター公爵

そこにいるのはベリンガム? そんなところで待たせないで、中に入れておあげなさい。

執事がうなずくと、「グレーシルクハット」は少し逡巡した後、部屋の中に入っていった。


室内では、カスター公爵が中央に腰かけており、その傍らに若い貴族が立っていた。

カスター公爵

……もう一つ聞かせてちょうだい。あなたが会う予定のカジミエーシュの使節というのは、どんな人物かしら?

ヴィクトリアの貴族

彼は商人です、公爵様。

カスター公爵

そう、カジミエーシュの……

だったら、こう伝えて。私の条件を飲むのなら、輸出を禁じている工業設備の一部について、特別に許可を出してもいいと。

彼らからすれば、安価な鉱物資源を手に入れる方法は他にいくらでもあるのだから、イェラグは決して代替不能な存在ではないでしょう。

ヴィクトリアの貴族

ええ、技術と設備の両面で彼の要求を満たせるのはヴィクトリアだけだと伝えます。特に源石は――

カスター公爵

いいえ。

あなたはカスター家の人間なのだから、具体的な情報は使用人から伝えさせなさい。私たち自身は、常に柔軟に動く余地を残しておくべきよ。

カジミエーシュ人は我々の持つ資源についてほとんど何も理解していないのだから、彼には少し想像力を働かせてもらいなさい。いいわね?

ヴィクトリアの貴族

かしこまりました。必ずこちらの味方につけてみせましょう。

カスター公爵

「約定は何があろうと違えない」。それが守れないのなら、口を閉ざしておきなさい。

カジミエーシュの使節に対してもそうだし、私に対してはなおさらよ。

さあ、あなたも下がって構わないわ。

ヴィクトリアの貴族

はっ……失礼します、閣下。

カスター公爵

また出来の悪い子を叱っているところを見せてしまったわね。

ベリンガム。

「グレーシルクハット」

……公爵様のご信頼に感謝いたします。

カスター公爵

早速だけど、本題に入りましょう。さっき外へ出て行った紳士は見たわよね?

「グレーシルクハット」

見間違いでなければ、報道と世論担当のデレック氏ですね。

カスター公爵

今日、彼は本来なら、「イェラグでもヴィクトリアでも、ネガティブなニュースはすでに抑え込んだ」とだけ報告すべきだったのよ。

それなのに、自分には不可能だとか、派遣した撮影班との調整に時間がかかっているとか、送られてきた映像を見てほしいとか、あれこれ言い訳をしてきてね。

「グレーシルクハット」

……

カスター公爵

時間が足りないと言うけれど、彼は私の我慢にも限度があることを理解すべきだわ。

それで、あなたのほうは? 何か良い知らせはあるかしら?

「グレーシルクハット」

……はい、公爵様。

ライン生命観測所に派遣した内通者からの情報は確かでした。イェラグとカジミエーシュの共同採掘場には、極めて不審な点が見られます。

私の部下が彼女の提供した手がかりをもとに、採掘場への潜入に成功し、いくつかのデータファイルを入手しました。

カスター公爵

「要点」を聞かせてちょうだい。

「グレーシルクハット」

こちらと、その次のページをご覧ください……

前者は当該採掘場の一日の採掘量、後者は買い付け量または輸出量で、最後のページは採掘場の財務報告書です。特に純利益の項目にご注目をください。たとえばこの二ヶ月ですが――

カスター公爵

差額が大きすぎるわね……この採掘場は赤字続きで、そのうえ鉱物資源の採掘量が増えるほど、損失が膨らんでいるわ。

「グレーシルクハット」

仰る通りです。さらに、この採掘場の輸入記録も見つけました。ご覧ください……

カスター公爵

あら? 大規模な採掘場でありながら、同じ鉱物資源を追加で輸入しているなんて……

「グレーシルクハット」

つまり、これは初期の推測を裏付けるものと考えます。

この「共同採掘場」は、実際にはカランド貿易の軍工場なのでしょう。

カスター公爵

……

これが切り札というわけかしら? しかも、そんなものが外国との共同出資で作った採掘場の中に?

「グレーシルクハット」

ゆえにこそ、私も含め、工作員たちは当初この区域を見過ごしていたのです……常識で考えれば、ここまで無謀な手を打つ者がいるとは考えがたいですから。

カスター公爵

……死角に駒を打つなんて、あの子らしいわ。

けれど、もう一歩足りないわね、ベリンガム。

認めたくはないことだけれど、ウェリントンがあんな行動に出た以上、我々の自己強化は急務となってしまった。

この状況下では、イェラグは貴重な資産なのよ。

戦力が拮抗して両者に損失が出てしまったら意味がないわ。エンシオディスが我々の想定を超える軍備を整えていないことを確かめなくては。

切り札の正体を知ってこそ、イェラグに対してどう動くかを事前に計画できるのだから。

「グレーシルクハット」

ウェリントン公爵に対抗するとなりますと……

確かに、イェラグをカスター家の支配下に置き、その人材と資源を掌握することは緊急の課題ですね。閣下のご意向通り、採掘場に対して全面的な調査を実施する方向で進めさせていただきます。

カジミエーシュは公爵様の条件を受け入れるはずですから、彼らがイェラグから手を引くのは時間の問題でしょう。

この採掘場を手に入れ次第、真っ先に使節を派遣いたします。

カスター公爵

書類への署名前に動くとしたらどうかしら? カランド貿易に証拠隠滅の時間を与えるわけにはいかないわよね。

「グレーシルクハット」

でしたら、買い付け人を装って……蔓珠院のほうから口実を借りるのはいかがでしょう?

カランド貿易がカジミエーシュの不審な動きを嗅ぎつけようと、今から慌てて撤収すれば、必ず痕跡を残すものと思いますが。

カスター公爵

蔓珠院はあくまで使い捨ての駒よ。あなたたちのここまでの仕事は荒っぽいものだったから、今のエンシオディスは間違いなく目をつけてくるわ。

「グレーシルクハット」

……では、エンシオディスが行動を起こす前に、蔓珠院の価値を搾り取っておくとしましょう。

カスター公爵

それが最後の一手というわけ? もう少し切り詰めて、よく考えなさい。

今の大長老は一貫して、私の善意を受け取ろうとはしないから、蔓珠院の力すべてを利用することはできないわ。それを踏まえて、実現性を検討しなければ。

「グレーシルクハット」

ですが、彼は我々が中下層の修道士に取り入ることを止めはしませんでした。

あるいは、蔓珠院の傲慢さゆえのことかもしれません。となれば付けこむにはうってつけです。

カスター公爵

もしくは、エンシオディスの失脚は、イェラグの宗教家たち全員にとって拒みがたい贈り物となるかもしれないわね。

……

「グレーシルクハット」

でしたら、閣下のお考えは――

カスター公爵

蔓珠院内の使える人員は好きに動かして構わないわ。採掘場に何を隠しているのかを、必ず突き止めてきなさい。

そうしてエンシオディスの反応を待ちましょう。もしかしたら、私たちがイェラグに介入する理由をもう一つもたらしてくれるかもしれないわ。

「グレーシルクハット」

はっ、かしこまりました。

カスター公爵

……そうだわ、一つ頼みがあるの。

デレックさんが残していった「人員リスト」があるのだけど、ついでにそちらの対処を頼めるかしら。

うちの記者には、外国とのやり取りとなるとお喋りが過ぎる人がいるみたいだから。


ヴィクトリアの記者

カメラはこちらに置いて構いませんか?

ありがとうございます……では、準備がよろしければ始めましょうか。

……

ヴィクトリアの記者

アドソ大長老、このたびは取材を受けていただき、誠にありがとうございます。私自身と、イェラグに関心を寄せる多くの人々のためにも、ぜひ色々な質問にお答えいただけますと幸いです。

始めにお伺いしたいのは、近頃多くのイェラグ人が疑問に思っているだろうことについてです。

イェラグの方は、イェラガンドがこの土地を守護していると信じていますが、今回の天災はどう説明をつけるべきだと思いますか? これはイェラグが神の加護を失ったということでしょうか?

アドソ

イェラガンドがこの土地を守護しておられることは確かです。

しかし主は過酷な命令を下す暴君ではなく、忍耐強く教え導く師であらせられるのです。ゆえにイェラグへのご加護も、多くの人々が思い描くような単純なものではありません。

真の生き方というものを深く理解しておられる主は、かつて、この災厄に満ち、思慮に欠ける大地と如何に向き合うべきかを、イェラグの民に示されました。

その時より、イェラグ人には魂が宿り、数多の災いに悩まされることもなくなったのです。

ヴィクトリアの記者

そうだとして、真の姿を現さず、「奇跡」という存在の証明すらも失った神が、いかにして人々の信仰を集めることができるのか、私には強い興味があります。

そのような信仰は理論による支えを持たないようにも感じますが。

アドソ

はっはっは……遠方からのお客人よ、あなたは己の傲慢さを隠さんとして言葉を選んでおられるようですね。

イェラグの信仰を表層をさらっただけの論理へとまとめ上げ、それを批判することで、ご自分の正しさと知恵を証明しようとお考えなのでしょう……

ヴィクトリアの記者

いえ、そんなつもりは……

アドソ

いやいや、構いませんとも。

でしたら、一つお尋ねしてもよろしいでしょうか。信仰を持たないヴィクトリアの方々は、如何なる規範に従って生活しておられるのですか?

ヴィクトリアの記者

それはもちろん、ヴィクトリアには自国の法律が――

アドソ

その法律は、誰が制定したものでしょう? また、その人物に法律を制定する資格を与えたのは誰ですか?

ヴィクトリアの記者

ヴィクトリアの政権の正当性をお疑いなのであれば、歴史的な背景をお話しすることもできますよ。

最初にヴィクトリアの土地を支配していたのはドラコですが、約三百年前、サルゴンから来たアスランが反乱によって統治権を掌握した、という経緯で現政権はあるのです。

アドソ

つまりあなたは、力こそが正義だとお考えなのですね。

アスランはその強さゆえに「正しい」とされ、ドラコはその弱さゆえに「正しくない」と定義される。いわゆる正義というものの天秤は、戦争の結果次第でどちらにでも傾くものです。

その理屈で言うならば、カズデルから来た魔族たちは、他国の領土を侵したことを恥じるのではなく、ただ最終的な勝利を掴めなかったことのみを恥じるべきということですね。

ヴィクトリアの記者

……それは横暴な結論です。

アドソ

無論、自らの正当性が暴力に基づくものであるなどと宣言する政権はありますまい。何しろ彼らは、暴力はいずれより強大な暴力に打ち砕かれるものであると理解しておりますからね。

政権にせよ、個人にせよ、永遠に若く強大であり続けることは叶いません。ゆえに彼らは他者に憐れみを示すことによって、己が弱り果てた時にも同じ憐れみを得られるように望むほかないのです。

ではここで、先ほどの問いに戻りまして……我々がごく普通に受け入れている法律や、この大地の様々な文明に普遍的に存在する美徳とは、何故存在するのでしょうか?

我々はどこへ問いを向けるべきなのでしょう。人として生まれたことは我々に「崇高さ」をもたらしたのか、我々の人生には生まれながらの目的があるのか……

ヴィクトリアの記者

すみません……そういった哲学的な思索は専門外なのですが、我々の生活からはかけ離れたことのように聞こえます。その問いかけには、一体どのような意味があるのでしょう?

アドソ

生活と仰いますが……自らの生活を真剣に振り返れば、実のところこの大地に信仰を持たぬ人などいないということに容易に気付けるでしょう。

人は皆、何かを信仰しているものなのです。それは金銭、暴力、知識、名誉、高尚な献身、享楽の喜びなど多岐にわたり……

そうした中に正しきものなど存在せぬと心から信じ込んでしまった人は、糸を絶たれた人形のように身動きが取れなくなってしまうでしょう。

そしてイェラガンドの信徒とは、自らに問いかけ、主の存在の痕跡を辿ることで、永遠の魂の安らぎを得んとする人々なのです。

ヴィクトリアの記者

興味深いお考えですね……外の人々が一般的にイェラグに対して抱いている印象とは少し違うように思います。

アドソ

お聞かせいただきたいのですが、天災が引き起こした惨劇を目の当たりにする前までは、あなたの思い描くイェラグはどのような姿をしていましたか?

「大地に残された最後の浄土」でしょうか? あるいは「神が守りし片隅」? 「純朴にして善良、貧しくも幸福な民の地」?

ヴィクトリアの記者

観光客向けの宣伝文句をよくご存知なのですね……

アドソ

そうしたすべてを、源石の力を発見し、悪用することで台無しにしたのはあなた方です。そちらが巻き起こした波に、数多の普通の人々が飲まれていったことはご存知でしょう。

ゆえにあなた方は、ある種の罪悪感から様々な幻想を想像上のイェラグに託したのです。ここは代償を支払わずして、源石の恩恵を受けられる楽園であると。

あなた方は、その穢れゆえに清らかさを、その狡猾さゆえに純真さを、その浅ましさゆえに寛大さを、その空虚さゆえに敬虔さをイェラグに託しているのです。

そんなあなた方に、故郷を離れた農民や、不良在庫を山と抱えた職人、そして何も持たずして帰る狩人の姿などが見えるはずなどありましょうか?

ともすればあなた方は、そうした人々の存在を否定することさえあるでしょう。「野蛮人」の流した血と汗を飲みながら、平然と己の「魂の浄化」を果たすために。

ヴィクトリアの記者

……真実を伝えることは記者としての責務ですし、イェラグの真実を知りたいと望むヴィクトリア人は私一人ではありません。

アドソ

あなたは「イェラグの真実を大地に広めるため」と仰いますが、そのレンズは常に、より困難な苦境の中に置かれた、憐れむべき者を探そうとしているのではありませんか。

それは果たして「真実」でしょうか。あるいは、「絵物語」なのではないでしょうか。

ヴィクトリアの記者

……

そのお言葉には、恥じ入るばかりです。私にせよ、ほかの同僚にせよ……傍観者としての好奇の目を向けずにいることは難しいですから。

アドソ

では、イェラグの如何なる物であれ、ショーウィンドウに飾られたおもちゃではなく、そして、この国は施しや憐れみなど必要としたことはないということをご理解いただきたいと思います。

イェラグは永遠に、イェラガンドの民――イェラグ人の故郷なのです。

ヴィクトリアの記者

なるほど。今のお話を伺ってなんとか理解できたように思います。

では大長老は、この天災でイェラグ人の信仰は少しも揺らいでいないとお考えなのですか?

アドソ

ふむ……

実のところ、イェラグの信仰がいま、重大な試練に晒されていることは確かです。

この天災が人々の心に陰りの種を蒔き、そのために人々は次第に暴力的で利己的になり、過去持っていた数多の美徳を失いつつあることは否定できない事実です。

しかし、天災だけがそうした状況を作り上げたのでしょうか? 種というものは本来、適した土壌がなければ芽吹かぬものです。

現在のイェラグの混乱は、天災が起きる以前より、すでに人々の信仰に変化が生じていたことを示しているにすぎません。そして、その元凶は……

エンシオディスにあります。

ヴィクトリアの記者

それは……カランド貿易会長のエンシオディスさんのことですか?

アドソ

ええ。この千年の間、神の定めた秩序に従うことによって、イェラグは天災から守られてきました。ですが、蔓珠院は決して外の方々が思うような杓子定規の組織ではありません。

蔓珠院蔵経閣の記録によると、三家の主権奉還より前の時代にも、イェラグの歴史上ほぼすべての変革には蔓珠院が関わっており、時にはそれを全面的に主導していたという話です。

ただし、その際我々は主が教えたもうた知恵と美徳を胸に、一歩を踏み出すごとにそれに背かぬ行いかを確かめて、常に己を戒めて参りました。

蔓珠院が主導してきたこうした秩序は、長き年月の中でその信頼性と安定性が証明されております。

その一方で、雪靴とスキー板を身に着けた者が雪山から滑り降りんとする時、条件や体力に恵まれずそれについてこられぬ人々を振り返ったことなどあるでしょうか?

どれほど振り返り、待ち続けたいと思っていたとて、降りしきる雪が視界を遮り、風が運ぶ爽快感が思考を塗りつぶしてしまうはずです。

ヴィクトリアの記者

つまり、現在のイェラグの変革は過激すぎるとお考えなのですね。

アドソ

その通りです。イェラグの現状に責を負うべき誰かがいるとするならば、それはエンシオディスを置いてほかにおりますまい。

ヴィクトリアの記者

では……蔓珠院の長老として、この現状に対してどのような変化を起こそうとお考えなのですか?

アドソ

いえ……私が自ら手を下し変化を起こすなどと軽々しく口にすることはいたしません。

ただ、私は信じているのです……この千年来、イェラガンドの敵となったものは一人残らず、歴史の風雪の中に消えていったのだという事実を。


……


エレナ

登録手続きに必要な資料は全部この中に入ってるから、この手紙をカランド貿易のノーシスさんに渡してね。

イェラグの郵便配達員

ご安心ください。うちはカランド貿易が設立した会社ですからノーシスさんとは顔なじみです。間違いなくお届けしますよ。

エレナ

そう、それは頼もしいね。

エレナは少し緊張気味に振り返った。天災発生後、イェラグ人は家にこもりがちになっていたが、一つだけ例外的な場所がある。それは市場だ。

民家、寺院、商店、露店などが並ぶそこには、数百人もの人々が集い、皆一様に曇天に相応しい憂いを帯びた顔をしていた。

そして、市場の外れでは、ジョアンナが口を大きく開いて手振りをし、急いで戻って来いと伝えている。

エレナ

すぐ行く!

(声を抑える)あっ――目立たないようにしないと……

エレナはうつむいて、人だかりに逆らいながら慌ただしく戻っていく。数多のイェラグ人が彼女とすれ違う中、ライン生命の社員がもう一人、群衆に混じって歩いていた。

カロリン

(声を抑える)よりによって、こんなに人の多い場所を指定してくるなんて……


人々は必需品の交換や救援物資の受け取りのため、この場所に集まらざるを得ない。恐怖を押し殺している彼らには着飾る余裕など今はなく、大抵は地元の簡素な衣服を身に着けていた。

カロリンは思わずコートの襟をきつく引き寄せると、人々の間を抜けて、寂れた小さな寺の門前で足を止めた。

彼女は塗料が剥がれ落ちた門の枠にもたれると、不安げに周囲の様子を窺った。この場所で待ち合わせをしている相手を探しているのだ。

カロリン

もう鐘も鳴る頃じゃない……!

私は研究を続けられる場所が欲しかっただけなのに、どうしてこんな仕事をさせられてるの?

苛立ちのあまり、彼女が壁を叩いたその時、しわがれた声がこう問いかけてきた。

年老いた修道士

イェラガンドの与えたもうた財産を、何故そのように扱われるのですか? 迷えるお嬢さん。

カロリン

……

申し訳ありません、どう償えばよろしいですか?

年老いた修道士

そう心配なさらず。すべてを捨て置き、私についてきてください。

よろしければ、寺院でしばし休憩を取られると良いでしょう。さすれば私が経典の幽玄なる教義を説き、あなたの焦る心を鎮めて差し上げます。

老人は寺の門の鍵を開けた。カロリンはためらいがちに周囲を窺いながら、寺の中へ入っていく。老人も後に続いて入っていき、すぐに門を閉じた。


カロリン

……彼らから話は聞いているわ。あなたが私を連れだしてくれる人ね。

でも、こんな場所で会うなんてリスクが大きすぎるんじゃない?

年老いた修道士

あの天災以来、人々の心には不安がつきまとっておりますので、人通りの少ない場所をうろつけば、かえって疑いを招いてしまうのです。

時間がありませんので、本題に入りましょう。

例の情報は手に入れたのですか?

カロリン

ええ、でもあなたには渡さないわよ。

それより、カスター公爵の部下の約束では、採掘場を押さえたあとはその内部鉄道を使ってイェラグを出られるって話だったわ。

あなたがどんな指示を受けたかは知らないけど、計画を実行するなら今よ。

年老いた修道士

今、採掘場はちょうど業務引継ぎの最中ですから、ヴィクトリア側の視察が終わり次第、あなたを彼らの元へお連れしましょう。

しばし辛抱なさい。忍耐は貴重な美徳ですよ。

カロリン

……

これが最後になればいいけど。


ジョアンナ

今の聞こえたか?

エレナ

何のこと?

ジョアンナ

雷みたいな音がしたんだ。変だな、山のほうから聞こえた気がするけど。

それに……は……はっくしょん! なんだろう、なんか冷たいのが鼻に当たったような……ん?

……おかしいな。どうして雪が降ってきたんだ?

エレナ

この季節なら、雪が降るのは普通のことじゃない?

ジョアンナ

いや、それでも雪が降る前には予兆があるものなんだ。

くんくん……

少女は顔を上げた。その表情は次第に険しくなっていく。

ジョアンナ

雪が降ってるのに、雪の匂いがしないなんて絶対変だ。

お年寄りが言うには、雪が匂いを失うのはすごく悪いことが起きる前兆なんだって。

イェラガンドが……あたしたちにまた警告してるのかも?

エレナ

……今重要なのは「神の意志」よりも、この雪がどのくらい降るのか、私たちに危険をもたらすかどうかだよ。

それに、今言ってた「雪の匂い」っていうのは……雪が降る前に空気の温度や湿度が変わるのを受けて、特殊な匂いがしたと錯覚することを指してるんだと思うけど。

それだけで天気を判断したり、占いみたいに扱ったりするのは……その……

合理的とは思えないかな……

ジョアンナ

そんなわけないだろ。雪の匂いは雪の匂いだ。ほかの匂いとは全然違う。

イェラガンドは猟師に鋭い嗅覚と暗闇でもよく見える目を与えてくださったんだ。雪の上なら、あんたらよりあたしたちのほうがずっと物知りなんだぞ……!

エレナ

わかったよ……キミの経験を疑うつもりはないけど、私も私で自分の「経験」に従って動くね。

エレナはそう言いながら観測装置を組み立てて、熱心にデータを記録し始めた。

少女は不満げに口を尖らせ、装置に目を向ける。その顔には典型的な昔気質のイェラグ人らしい表情が浮かんでいた。

ジョアンナ

その鉄の塊、ずっとピーピー鳴ってるし、重くてかさばるし……そんなの運んでなければ、とっくに着いてたかもしれないのに……

エレナ

だけど、これがあるから私たちは安全に進んでいけるんだよ。天災のあとは、源石の状況に注意しないといけないし――

その時、突風が吹いて転びかけたエレナを、ジョアンナが素早く抱き止めた。

エレナ

ありがとう――

ジョアンナ

……ふん。

雪を巻き込んだ寒風が顔に吹き付けて、あらゆる音が止んでいく。そうしてあとには、吹き荒ぶ風の音と刃のように突き刺す寒さだけが残った。

エレナ

急に気温が下がってきてる……これは一体?

エンヤ

お二人とも、前方に無人の廃村がありますので、どこか屋根のあるところを借りて避難しましょう。

後ろで手記に目を通していたエンヤが、二人の間に割って入った。

そして、寒さで指先の赤くなった両手を差し出す。

エンヤ

さあ、私の手に掴まってください。

新雪は滑りやすいですし、この辺りの地形は急峻ですから、転んで怪我をしてしまったら大変です。

あら、お二人とも、躊躇っているようですね。

私と手を繋ぐのはお嫌ですか?

ジョアンナ

あたしはエンヤ様と手を繋ぎたくないわけじゃなくて、その……

エレナ

いえ、そんな。ありがとうございます。

一つの手が差し出された。

ジョアンナ

……エンヤ様がそう言うなら。

ジョアンナは顔を背けつつも、自分の手をエンヤの手に重ねた。


エンヤ

ふぅ、よかった。お寺には時折どなたかが修繕に来ているようですね。ほかの家屋よりずっと状態が良いように思います。

彼女たちは、上着に分厚く積もった雪を払い落とした。村に入ったあと、そう時間の経たないうちに外では雪が急速に強まっていた。

ジョアンナ

えっと……二人はここで休んでて。あたしは、ここの暖炉がまだ使えるか確かめてくるから。

村のお寺の裏手には大抵、薪用の小屋があるから、ちょっと見てくるよ。

エレナ

手伝おうか?

ジョアンナ

……いいから。

あんたは天気予報とかいうのをやるんでしょ? 自分の仕事をやってなよ!

エレナ

設定はもう済んだから、観測装置を置いておけば、近くのデータを自動で収集してくれるんだ。手は空いてるし、荷運びくらい……

ジョアンナ

いいってば、あたしについてくるな……!

エレナが立ち上がる前に、ジョアンナは慣れた様子で神像の後ろにある扉を見つけだした。

イェラグの寺の構造には、どれも大きな違いはない。少女は裏庭に駆け込んでいき、すぐに扉が荒々しく閉じられる音が響いた。

エレナ

……

怒らせちゃったのかな……?

エンヤ

恐らく、少しは。ですが、すごく怒っているというわけではないと思いますし、そこまで心配しなくても大丈夫ですよ。

彼女は優しい子ですから、怒っていても、あなたがちゃんと暖を取れているか気にかけているんです。私も少し前まで彼女に嫌われていましたが、その時ですら刺客の攻撃から守ってくれましたから。

とはいえ、あなたの考えや言葉は、悪意がなくとも、イェラグの多くの村人を時に傷つけるものであることは確かですね。

エレナ

ごめんなさい……ちょっと焦りすぎてました。

エンヤ

いいえ。これはあなたのせいでも、イェラグの民のせいでもなく、両者の間にある……距離のせいだと思います。

エレナ

……人と人との交流って、元々そういう距離があるものですよね。

実験室で一緒に働いて、同じ考えや目的を共有している仲間たちとすら、意見が食い違うことはありますし。

エンヤ

だからこそ、人々の交流と相互理解はとても尊いものなのですよ。

エンヤはマントを畳んで脇に置くと、そこに溶けずに残っていた雪の結晶を指差した。

エンヤ

ほら、見てください。

エレナ

雪の結晶……?

エンヤ

イェラグでは、こうして家に入っても溶けずに残った雪の結晶で占いをするんです。このように枝分かれしたままの結晶は、旅が順調に進むことの暗示なんですよ。

伝承によると、雪はイェラガンドの加護受けし使者であり、重要な真実や予兆を伝えてくれるのだそうです。

農業での収穫や、狩りの成果、職人の鍛冶、友人や恋人同士のケンカに至るまで、すべてを予言できるんですよ。

エレナ

ですがこの枝分かれした六角形の雪の結晶を見て、手本のような形をしており枝がはっきりと分かれているから幸運の象徴だと捉える人もいれば、砕けた縁の部分に凶兆を見出す人もいるでしょう。

ですから……最終的に何が起きようと、占い師は好きなことを言えるんですよ。

最悪の場合は、「あなたが以前出会った占い師は未熟者で読み取れなかったのだろうが、星々の流れはとうに真実を示していた」なんて言って、自分の権威を保とうとする人もいるでしょうね。

エンヤ

エレナさんも占いにお詳しいのですね。

エレナ

……家族の事情で少し触れたことがあるんです。

とにかく、ほとんどの占いは真相を示すものではなく、単に……自分を慰めたり、上辺だけの言葉をかけたりするためのものにすぎません。

エンヤ

――誰も行こうとせぬ場所に通じる道は現れぬものです。

同じように、存在しない問いに相応しき答えというものも、生まれはしないでしょう。

運命とは予測のつかぬもの。それと同じように、この大地には、制御も予測も不可能な事象が数多く存在していることは、あなた方の科学も認めるところであるはずです。

広い大地に生きる矮小な人間が、かすかな予兆や真実を掴みたいと願うことは……

「科学」による探究の起源と何も変わりません。知ることは人々に安心感をもたらし、このあまりに不確実な未来と向き合う力を与えてくれるものなのです。

偶然という見方も、確率論も、秘められた必然があるという考えすらも、ある意味ではすべて同じことなのです。運命は人の身に降りかかり、この雪は私のマントに落ちてきたのですから。

エレナ

……

プラセボ……思い込みの力も、有効な「薬」の一つだということはわかってます。

ただ……私は今のイェラグで、色々なものを見てきました。

私も昔は、こうした強い信仰を文化的なものと見ようとし、それをある種の儀式や、投影、自分の心を慰めるための手段と捉えようとしていました。

ですが、あなたたちにとって信仰とは、何なんですか?

彼女は小さな声で問いかける。外の風音は随分と静まっていた。

イェラグの巫女は祭壇に置かれたイェラガンド像を見上げた。雑然とした彫刻が施された石の下には、それとは別に、鮮やかな色の小さな人形がいくつも置かれている。

それは銀心湖での大典前後に作られた展示品だった。どうやら、この人里離れた場所に置かれたイェラガンドのために、誰かがわざわざそれをこの寺まで持ってきたらしい。

エンヤ

……

蔓珠院の修道士たちがよく言うことには――信仰とは、灯りを持たずに闇夜を行くことであり、暗く深い谷底へと、全幅の信頼を以て飛び込んでいくことだそうです。

そうした誰もが、主を渇望しているのでしょう。苦行を行う者も、敬虔な信徒も、戒律を忠実に守る者も、数多の人々がただ主の御許に辿り着くためだけに、苦難の旅を経てきたのです。

ですが……私にとっては……

彼女は必死に記憶を辿ったが、心の中に浮かぶそれは、今やコマ落ちした映像のように途切れ、黒いもやに覆われるばかりで、もがき続ける何かの欠片のように見えた。

激しい感情が再びエンヤの胸に満ちていく。

ジョアンナ

大変だ――!

大きく声を上げながら、薪を抱えたジョアンナが駆け込んできた。彼女の頬は、走ってきたせいか赤くなっている。

ジョアンナ

さ……さっき、麓のほうから……ヴィクトリア人の車がたくさん、採掘場に向けて走ってくのが見えたんです!

エンヤ

ヴィクトリア人が? この先にあるのはカジミエーシュとの共同採掘場のはずですが、何をするつもりなのでしょう……

エレナ

まさか、こっちの動きがバレたとか?

エンヤ

まずは落ち着きましょう。彼らが採掘場へ向かう目的が何であれ、時間を無駄にはできません。

荷物をまとめて、すぐに出発しなくては。ここからは、今まで以上に慎重に、隠密を期して動かなければなりませんね。

エレナ

ちょっと待ってて、観測装置を片付けなきゃ……って、嘘でしょ……

ジョアンナ

グズグズするな、早く片付けないとだろ! まったく、今手伝ってやるから……

え……これ、何?

「中度天災リスク」って書いてあるけど……これ、あたしが想像してる意味で合ってるのか?

エレナ

天災……

まさか、また天災が来るっていうの?