アテヌス復讐記 ME-2・戦闘後
定められた終点
はい、「あー」と言ってみて。
……あー……
うん、気道も発声器官も異常なしね。肺の結晶からの逆行性感染は起きていないわ。
となると、数日前急にロドスの事務所に来て、何も言わずにうちの医療オペレーターを睨みつけてたのは、病状の悪化で言葉が話せなかったからではなさそうね。
これなら、私が来る必要もなかったかしら?
お時間を取らせるつもりはなかったのです。あなたはアテヌスの感染者を深く気遣ってくださいますし、ロドスの薬は以前用いていたものより遥かに効果があり、皆とても感謝しておりますので。
でも、ただ検査するだけじゃダメなのよ。
確かにミノスは感染者に対して比較的寛容な政策を取っているわ。聖職者などの特別な職業には就けないということを除けば、日常生活に大きく制限を受けることはないもの。
だけど、「鉱石病はミノス人から英雄的精神を奪う」と信じている人はたくさんいるでしょう。そのせいで、自分の病状に無関心な態度を取り、意図的に隠そうとする患者さんも少なからずいるの。
さあ答えて、リュケイオンさん。これは何本に見える?
四本です。
ご心配いただかずとも大丈夫ですので、お戻りください。私は軽度感染ですし、視力にまで影響は出ていませんから。
だったら、この半月の間に四回も事務所を訪れたのはなぜ?
それは……
嘘をつくのは苦手なようね。……あなたの師であるクサントスさんが、ロドス製のサーベイランスマシンを身に着けてるのを見たの。
あなたは、彼のために診察を求めていたんでしょう?
はい……
先生には日々の心配事が多いもので、定期健診をお忘れになることも多々あります。それゆえ、私が代わりに薬を取りに来るのは理にかなった判断だと思っています。
でもそうすると、事務所には彼の名前が登録されないわよね。それはつまり、治療の記録が残らないということなのよ。
先生は私の命を救い、水文学の知識や戦闘の技術を教えてくださった恩人です。尊敬すべき先達であるあの人のために、このことを多くの人に知られてはいけないと思ったのです……
彼が「英雄的」な人物でないとは思われたくなかった、と?
……
感染者治療センターに出入りすることは、クサントスさんやあなたに対する他人からの評価には影響するかもしれない。でも、あなたたち自身の選んだ道を変えてしまうような行動ではないわ。
カサンドラさんと違って、私は人を慰めるのはあまり得意じゃないけど、あなたたちにはすぐに適切な治療が必要だってことはわかるから……
感染者治療リストの優先度を調整して、二人の病状をしっかり追わせてもらうわよ。私はしつこいから覚悟しておきなさいね、頑固者さん。
あなたは……見た目の印象ほど話しやすい方ではないのですね。
もしあなたが、その弓の上に留まっている羽獣のように、コーン数粒で懐柔できるような人だったら、私もここまで口出ししないで済むんだけど。
すみません……
ところで、クサントスさんはどうしてるの?
あなたが前に持ってきた報告書がすべて彼のものなら、あの時も話した通り……近頃は体内の源石密度が大きく変動しているようだから、十分な休息を取ってもらわないと。
そのことは、もう先生に伝えました。ですが……
まさかまた渡し場に行っちゃったの?
要件は手短に言ってくれ、ヘカデモス。農家と職人たちの船の手配が終わっておらず、今は忙しいのでな。
……リュケイオンは手伝いに来てないんですか? いつもなら、あなたのそばを少しも離れないのに。
家にロドスの医師が来ており、リュケイオンは診察を受けている。だから休暇を取らせた。
往診に来たってことですか?
(前にもらった薬も効かなかったのか? まさか……もう歩けないくらい悪化してるとか?)
リディア監督官の「助言」を伝えに来たのなら、帰ってくれ。渡し場の件は俺が対処する。心配は無用だ。
いえ、監督官が俺を寄こしたのは、渡し場の問題がもう解決したとお伝えするためです。
なに? パラスにしては随分と動きが速いな。
それが、解決策を提示したのは彼女じゃないんです。
では誰が? カサンドラさんが人々をなだめたのか、あるいは監督官が小細工でも弄したのか?
そのどちらでもありません。
職人と農家の争いを解決したのは、サルゴン使節団の大使です。黒い耳をした小柄なフェリーンの方ですよ。
黒い耳のフェリーン……
先日の朝、渡し場で会った「クルビア人」か……
彼女は、サルゴンの使節だったのか?
古のミノス人は純白の大理石に美を見出し、くさびとノミ、やすりを使って……伝説や叙事詩を作り上げてきたのよね。
『ケレセイラ記』には、建国の英雄ケレセイラは三十足もの靴をすり減らしながら、戦争と疫病を越え、山に抱かれし花園へやって来たと書かれていたわ。
そして彼女は、のちに旧第一神殿を建てることになる地で岩が裂ける様を目にして、そこで神託を授かったそうね。
その優しさと叡智を宿した顔はアテヌスの曙光を浴び、彼女は付き従う難民たちを守り、鋭い刃で異邦人を駆逐して、そのリラの音は――
「英雄の物語のためにこそ鳴り響くのだ!」
『ケレセイラ記』にも随分とお詳しいのですね。
大好きな物語だから、何度も読み返してるの。私の中にある、ミノスの英雄に対する最初のイメージは、この長編叙事詩に描かれたケレセイラから来ているのよ。
「英雄とは、正義感と思いやりを持つ者であり――」
「運命が訪れた瞬間に、それを正面から受け止めて、責務を担う勇気を持たねばならぬもの。」
あなたは本当にこの作品への造詣が深いですね。
でも、印刷された書物をいくら眺めたところで、自分の足でケレセイラの彫像のそばに立つ経験には及ばないわ。
この彫像の作者は、ケレセイラが起こした奇跡を意図的に誇張して表現しているけど、それが彼女の本来のアーツとは異なるものだとしても――
こうした芸術的な誇張表現があるからこそ、この彫像は躍動感に溢れているんでしょうね。私には、この彫像が千年以上後にもこの豊かな大地に立ち続ける姿すら想像できてしまうわ……
もしやあなたは、ケレセイラ第一神殿がこの彫像と同じレベルの物として完成するのなら、あと十年以上待たされようと構わないとお思いなのでは?
そんなことないわよ。文化財の交換を終えてミノスを離れる前に、少しでも多くのものが完成した姿を目にしておきたいから。
もうケレセイラの彫像も完成したし、観客席の石段も調整し終えたのよね?
ええ、あなたの提案のおかげです。農家たちは採石隊に加わってからというもの、リンゴの木に一日でも早く日を当てたい一心で、職人たち以上に働いてくれましたから、石材にも余裕ができました。
でも、まさか本殿の修繕に使われる予定だった石材が、野外劇場の整備に回されるとはね。本で読んだ知識はあったけど、ミノス人の演劇への情熱には驚かされるわ……
英雄とは民衆から生まれるものであり、民衆もまた、たとえ劇の中だけであっても、英雄になることを渇望するものですから。
ところで、この彫像が何に由来するものかはもうお気づきですか?
『ケレセイラと異邦人』――『ケレセイラ記』の第十一章ね。のちに古典的な悲喜劇の名作として改編され、神殿に英雄を招く祭祀でしばしば上演されたものでしょう。
ただ、不思議に思ったことがあるの。ここ数日、小型劇場をいくつか見て回ったんだけど、その演目には様々な悲喜劇が並んでいるのに、このお芝居だけは見当たらなくて。
もしかして、こういう祭祀用の演劇は、一般の劇場では上演できない決まりでもあるの?
いいえ。確かに『ケレセイラと異邦人』は、伝統的な儀式において度々上演される演目の一つですが、神殿においてすら、もう百年以上も上演されていないのです。
百年……それってまさか……
お察しの通り、サルゴンによる占領期に、上演が禁じられたからです。
元々この劇は、ミノス建国以前の物語であり、異邦人というのも、古アガモン王国以外から来る者を指す言葉にすぎませんでした。
ですがサルゴンのパーディシャーがこの劇の上演を禁じたことにより、劇中でケレセイラに処刑される異邦人には、実体を伴うイメージがついてしまったのです。
今やその禁令は解かれていますが、それでも、この劇において異邦人を演じることは、サルゴン人を演じることを意味しています。アテヌスにはその役を買って出る者はおりません。
本当に残念なことね……
そうかもしれません。ですがミノス人にとって演劇というものは、単なる観賞用の芸術ではないのです。
上演を禁じられようと、劇場を焼かれようと、台本に記されているのは歴史と伝説であり、その行間も英雄的精神に満たされていますから、それは意図して忘れ去れるようなものではありません。
たとえ誰もそれを演じようとせず、その劇で奏でられる旋律が街角で聞けなくなったとしても、アテヌス人がその作中でもっとも有名な一節をそらんじることができるなら、それで十分です。
いいえ……
……?
第一神殿が戦火の中で損壊したことも、『ケレセイラと異邦人』の上演が禁じられたことも……どんな言葉で取り繕っても、サルゴンがミノスに多くの災いをもたらしたのは事実よ。
パーディシャーが私にミノスの文化財を返還せよと命じたことは、微々たる償いの表れというより、政治家としての意思表明の意味合いが強いでしょうし……
私は文化財を護送する役目を負っただけの使節で、家柄も取り立てて良いわけではないし、経歴も浅いから、正直に言うと、できることなんて限られているわ。
だけど、私はバルジャバンダバード博物館の館長でもあるの。その知識は、私を決して裏切らないわ。
だから、私が持ってきた文化財にはケレセイラとの深い関わりがあり、ミノスにとって重要な意味を持つことはよくわかってるの……これは単なる政治的な取引材料であってはならないものよ。
彼女は顔を上げ、神聖で美しいケレセイラ像を仰ぎ見た。その手はリラを爪弾いている。
ティティには、英雄のためにこそ鳴り響くというリラの音が耳元でこだましているようにすら思われて、彼女の良く知る伝説や物語が目の前に現れたかのように感じられた。
実際には、この場所は完成したばかりの劇場にすぎず、その傍らには足場や幕が乱雑に積み上げられていたが、それでも彼女はその向こうに、何か特別なものを感じ取っていたのだ。
そこには、叙事詩の中に記され、大理石と職人の手に宿り、百年以上の歴史を経てなお何物にも屈しなかった、ミノスだけが持つ何かがあった。
文化財交換の儀は、この場所で執り行いたいわ。
ふむ、悪くないアイデアですね。しかし……
ここはケレセイラ第一神殿ですので、事務手続きについてはまず、神殿祭司にご相談いただかねばなりませんね。
カサンドラ? この現場までやって来るとは、今日はいつもより時間があるようですね。
親愛なる大使さん、お話中にお邪魔をして申し訳ありません。少しパラスと二人で話させていただいてもよろしいでしょうか。