アテヌス復讐記 ME-7・戦闘後
急襲
では、答えてみて。リターニアで栽培されている細尾草は単葉でしょうか、複葉でしょうか?
さあ。
だったら、これは? 紅錦葵(コウキンアオイ)の抽出方法はいくつあるでしょうか? その中でも、精神疲労の緩和効果を最も保持できるものはどれでしょうか?
知らないわ。
それなら、あなたが植えたこのボロニアについて……
ラナ姉さん、私はあくまで土を耕すのを手伝ってるだけで、それを植える理由だとか、植え方については何一つ知らないのよ。
だけど、これは全部、そのうち試験に出ることなのよ。
英雄フローラを崇拝する私たちアソプルー家は、先祖代々、調香や薬草の作成、品種改良といった植物関係の仕事を生業にしてきたんだから。
一族の年長者たちは家業をすごく重んじているし、あと何年かしたら、あなたも伝統に従って、一族の後継者選抜の儀に参加しないといけないのよ?
アソプルー家の後継者になるのはラナ姉さんだってことは、周知の事実でしょ。
ステロス伯父様は誰かに会うたび、自慢の娘の話をしているもの。「ラナこそアソプルー家のフローラだ」って、相手の手を取って語りかける勢いでね。
リディア、あなたに対するお父様の扱いは、確かに不公平だと思うけど……
いいえ。早いうちに両親を亡くした私を引き取ってもらっただけでも、十分すぎるほど良くしてもらってるわ。それに、知っての通り私は草花にあまり興味がないから。
はぁ……でも、お父様は来週も試験を用意しているのよ。あなたがそれに受からなければ、また罰を受けることに……
大丈夫よ。伯父様のノートをこっそり読んだんだけど、タイムの収穫量が予想を下回っているみたいだから、多分この数日のうちに、伯父様はコリニアに行くはず。仕入れ先に、調達をしにね。
コリニアに? そんな話は聞いていないけれど――
ラナ、お前はまた、庭にしゃがみこんだりして……いいか、私は少し出かけてくる。一週間後には戻るからな。それまで、リディアの面倒をよく見るように。自分の身体にも気を付けるんだぞ。
わぁ……
ね? ラナ姉さんにとっての植物の見分けや調香と同じように、私にも得意分野があるってことよ。
はぁ……はぁ……誰か! 誰かいませんか!
*ミノススラング*な伝統のせいで……! アソプルー家は、どうして……こんな辺ぴな場所で、後継者選抜の儀をやってるの!?
希少な植物を採った候補者こそが、英雄フローラに認められる、だなんて……バカげた話だわ!
誰か!! ケガ人がいるんです! 医者に診てもらわないと……それに、急性感染抑制剤を、打たないと……!
……リディア、声が枯れちゃってるわよ……私を背負ってるだけでも大変でしょ……もう、下ろしてちょうだい……
本気で負担を減らしたいなら……その、バカみたいに重たい草を捨てちゃってよ。そんなのなくても、後継者はラナ姉さんでしょ……少なくとも、私からすればあなた以上の人なんていないわ!
そうね……これはもう、私にとっては、意味のないものになってしまったわ。
アソプルー家のフローラが感染者だなんて、あってはならないことだから……お父様は、お認めにならないでしょう。きっと、戻ったら……私は、すぐにアテヌスを、離れることになるはずよ。
あの人が、実の娘を平気で捨てるような人間なら……そんなクズに認めてもらう必要なんて、ないじゃない。
でも、アソプルー家には、信頼に足る後継者が必要なのよ……
……
リディア、覚えておいて。この植物はムラサキ目、ムラサキ科、ルリソウ亜科、ワスレナグサ属で……
何を……どういう意味!? そんなこと言うのはやめて。私にはわからないし、わかりたくもないわ!
いいから、最後まで聞いて。
この品種は、テラ全体で見れば、珍しくないけど……沼地の近くにしか、育たないもので、ミノスでは……未発見の種類なの。
私は、これを見て……あなたを、思い出したのよ。
一族の伝統を嫌い……植物や薬草に、まるで興味がない……アソプルーの人間らしくはない子……だけど、あなたは観察と交渉が得意だから、きっと立派な後継者になれると、私は思うの……
その地位はラナ姉さんのものでしょ、私には必要ないわ……
ねえ、賭けをしない? 子供の頃みたいに……
しばらくの間、この希少な植物を預かっておいてほしいの。仮に一族のお年寄りたちが、私の病気を問題にしないのなら……二度とあなたを、あの「退屈な」庭園へ、無理に連れて行ったりしないわ。
でも、仮にお父様が、私の傷口を見て、それを厭うような表情をしたら……この「バカみたいに重い草」を見つけたのは、自分だと言いなさい。
大丈夫よ、リディア。後継者になれば、もう誰もあなたを虐げはしない……お父様であってもね。
あなたなら、アソプルー家をもっと良くできる……私はそう、信じてるわ。
……
リディア……
どうしてこの公共庭園で会いたいなんて言い出したの? 昔話なんて必要ないでしょう。
用があるなら手短に話して。まだやるべきことが山積みだから。
交換の儀はもうすぐ始まってしまうの。出席者リストの確認に、儀式を滞りなく進める手配、それから――
クサントスさんたちがミノスの文化財を故意に盗み、損壊したとして、国家反逆罪の罪に処されたことを、アテヌスの民に発表する、かしら?
……
調香師から医師に転職するだけじゃ飽き足らず、今度は弁護士にでもなるつもり?
今は両国の国交を築く重要な時期なのよ。私は監督官として、あの人たちが思い付きで起こした盗難事件一つですべてを台無しにされるわけにはいかないの。
百年に及ぶ戦争にすらミノスを壊すことはできなかったのよ。それなのに、あなたは何を気にしているの? アテヌスの民の利益? それとも、自分の持つ監督官の肩書を失わないかということ?
ありきたりな道徳の話で揺さぶるつもり?
監督官の肩書を失いたくないと考えるのは当然でしょ。
ロドスがこの短期間でアテヌスに進出し、事務所を設立できた理由は何だと思ってるの?
古典を抱えた祭司に、混乱した議事堂、冗長な投票の儀……そうした「伝統的な手続き」を経ていれば、姉さんの出した申請書の処理は一年先送りにされていたでしょう。
ケレセイラ第一神殿の件だって――「古のやり方にならって」進めようだなんて、笑わせるわ。
サルゴンから来た彼女が、現代的で効率的なプロジェクト管理方式で仕上げ作業に介入していなければ、今日あの場所で交換の儀が行われることもなかったでしょうね。
……
だから、自分の物差しだけですべてを推し測って結論を出してもいいとでも言うつもり? あなたの行いは、一人一人の人間の人生に影響することなのよ。
だったら、人々のためを思ってなんでも譲歩しろっていうの? それがあなたの奉じるルールだってこと?
いいえ、私は取り返しのつかない事態になる前に、全力で解決策を探しているだけよ。険しい道のりを行くことになろうとも、仲間たちが支えてくれるしね。これはルールを奉じているというより……
自分が医者であるということを、あらゆる仕事の基礎として捉えているから、そうしているの。
……
二人の立つ地面がかすかに震え、大型動物のいななきが次第に近づいてくる。
そうして、数十頭の駄獣が唸り声と共に柵や長椅子を飛び越えて、公共庭園へと突っ込んできた。
獣の大群は広い庭園の芝生を踏みしめ、遠くにそびえ立つ建物へ向けて駆けていく。その動きは、己の行き先を理解しているかのようだった。
駄獣の織り成す奔流の中、一匹の幼い駄獣が立ち止まり、傍らの光景に目を向けた。
その穏やかで好奇心に満ちた目にはしばし、真剣な二人の人間の姿が映る。けれども駄獣はすぐに興味を失うと、群れに追いつき、舞い散る花びらだけを残して去っていった。
草花の豊かな香りが、アソプルー家の二人を包み込む。
彼女たちはその優れた嗅覚と、幼少期より受けていた訓練のおかげで、傷ついた花の種類を容易に嗅ぎ分けることができたが、互いの本心を見抜くことはできなかった。
お互い、説得はできないでしょう。子供の頃からそうだったもの。
でもね、ラナ・アソプルー。あなたにずっと聞きたいことがあったの……
どうしてあなたは、いつもそんなに「立派」なの?
リディア……?
あなたは、アソプルー家の誰からも疎まれていた子供と頼まれてもないのに仲良くして、自分の愛する庭園を独りよがりに案内して、その子が興味を示してもない植物の知識を教え込んだりして……
挙句、継承権を左右する植物を押し付けて、その子なら一族をより良くできると思い込み、一人で勝手にアテヌスを去ったじゃない。
あなたは私の得意分野なんて気にも留めなかったし、私があの家に留まる理由が、責任でもなければ、後継者の座が欲しいからでもないってことを考えもしてなかった……
私は、あの庭園が嫌いだったわけじゃないの。
だけど、あなたは庭園を残そうとせず、没落した一族から取り上げて、公共施設に変えてしまったでしょ。
それこそが、私たちの根本的な違いなんじゃないかしら?
アソプルーの名を等しく嫌っていようとも、あなたはいつでも何かを懐かしんで、それを取り戻そうとすらするでしょう。だけど、私は振り返らないの。
あなたが私を呼びだしたのも、どうせあの囚人たちのために私を引き留めて時間を稼ぐのが目的か、あるいは別の思惑があってのことでしょう。
正式に一族の後継者になって以来、丸二年かけてその身分を捨て、今ようやく自分のやりたいことをできるようになってきたけど……
その間は、あなたの言う通り、私を虐げる人はいなかったわ。だから、この十数分あなたに捕まってあげたのは、私からの最後の贈り物だと思って。
これでもう、あなたへの借りはなくなったわね。ラナ姉さん。
……
そうね。
灰色の髪のヴァルポは、ゆっくりと遠ざかるラナの姿を見つめていた。かつては、彼女との再会を思い描いたこともあり、またラナがアテヌスに戻ってからは、別れの瞬間を想像したこともあった。
だが、これほどはっきりと、別れを実感したことはなかった。
そこにいるのはロドスのオペレーターであって、いつも優しく、けれど強引に植物の知識を与えようとしてくる面倒見のいいラナ姉さんではなかった。
彼女はすでに自分の理想と志を持ち、己の居場所を見つけている。そしてそれは、一族とも、リディアとも関係のないものだった。
ふと、無根拠な考えがリディアの脳裏に浮かびあがる。
この先もラナがアテヌスに留まり、感染者のために奔走し、監督官執務室とも関わりを持ち続けるのだとしても……
彼女と面と向かって会うのは今回が最後になるだろう、と。
はぁ……はぁ……ここに隠れてれば、駄獣はやり過ごせそうだな。
だが、先生とはぐれてしまった……
第一神殿のほうへ向かうのが見えた気がするし、きっとカサンドラさんに別れの挨拶をしに行ったんだろ。後で何とか合流するから、そう気を揉むな。
それにしても、なぜ駄獣が通りを駆け回っているんだ? お前は書記官だろう。状況の確認に向かわなくていいのか?
警備官が追っていったし、すぐに片付くさ。
それに、俺はもうそんなこと気にしなくていいんだ――辞表を出してきたからな。
我々を獄中から助け出すためにか? そこまでする必要はない。私たちは――
俺抜きでも逃げ出せたって? まあ、お前のことだから、そう言うだろうと思ってたよ。でもいいんだ、どうせ辞めるつもりだったから。
……
なあリュケイオン、お前たちの計画を聞かせてくれるか?
計画? 何のことやら。
とぼけるなよ。古典劇の授業の時、演技に関しちゃ一度も合格したことなかったくせに。
今のお前は、鉱石病にかかって、祭司学院に退学届けを出した時と同じ顔をしてるぞ。
思えばあれは、ディベート大会の前日だった。いつもみたいに、二人で草原に弓の訓練に行った時だったよな。
お前は俺よりずっと腕が良かったから、俺は悔しくなって、わざとお前の弓を一杯に引き絞って遠くに矢を放ったんだ。その矢を探してる最中に、お前は事故に遭って……
そのあと、お前を背負って山を下りている時に、ちょうどクサントスさんに会ったんだよな。あの人は、腕利きの鉱石病専門医に連絡して、船も出してくれたけど、結局お前は感染しちまった。
そのせいで、二人とも七度目のディベート大会出場を逃したりもしてさ。俺たちそれまでは、三勝三敗の引き分けだっただろ。
この状況でなぜそんな話をする?
ここがテーロスの神殿内だろうと、酒飲みが騒ぐ路地裏だろうと同じさ。ミノス人は討論の場所なんて選ばないもんだろ?
俺はあの時、きっと翌年にはまたお前と一緒に大会に参加できるはずだと思ってたんだ。なのにお前は、こうして逃げちまったじゃないか。
なあリュケイオン、あれから長いこと経ったけど、俺たちの決着はまだついてないよな。そろそろ、最後の討論をさせてくれないか。
……
論題は?
感染者は英雄になれるのか、だ。
ヘカデモス!
それは論題として不適切だ。
なんだよ、この件はお前のほうが身を以て実感してることだろ?
「鉱石病は英雄的精神を奪う」。俺たちは子供の頃からそう聞かされてきた。賢い子供が反論しようと、年寄りどもは色んな英雄譚を引き合いに出して、自分たちの正しさを証明しようとしてきてさ。
ミノスの英雄が鉱石病を患ったって記述のある叙事詩なんて存在しないし、神殿にも、源石結晶がついた英雄の彫像は一つもない。
だからこそ、お前は――英雄に憧れを抱く学生だったお前は、規則によって阻まれる前に、祭司になる機会を放棄した……
その行動の一つ一つが、この論題に対するお前自身の態度を示してるんじゃないのか?
挑発しても無駄だ。この論題であれば、私が負けることなどあり得ない。それはお前もわかっているだろう。
私自身、一からやり直せたらとも考えたし、先生もそれを応援してくれた。だが、その時初めてわかったんだ。自分に未来がないことを知った人間は、何事にも本気で打ち込めなくなるということを。
抑制剤の定期注射に、規則正しい生活、そして今なら、ロドスがもたらした新たな治療法……そうしたものがあれば、最大限延命することは可能だろう。
だが、私にできることなど、ただ生きていること以外にないと感じるんだ。それでも、それだけに満足することはできないし、そう感じること自体、私にとっては屈辱的だ。
鉱石病の恐ろしさは、肉体が受ける苦痛ではなく、あらゆる夢や志に、決して塗り替えられない期限を刻みつけることにある。
鉱石病が英雄的精神を奪うものではないのだとしても、感染者が祭司になれるのだとしても、かつての私に英雄となる可能性があったのだとしても――
今の私にはもう無理なんだ。わかったか!
そうか、わかった。
ならば、残念だが最後の討論は……私の勝ちだな。
誰がこの討論は終わりだなんて言ったんだ?
なに?
俺はただ、お前が自分の態度を行動で示してきた以上、俺もそうすべきだと思っただけさ。だから、俺は――リュケイオン、お前をミノスの英雄にして見せる。
お前……自分が何を言っているか、わかっているのか?
ああ。だってこれ以外、お前に勝つ方法なんてないだろ?
何せお前は、クサントスさんに励まされたり、ほかの感染者の行動に胸打たれたりはしても、心のどこかで、英雄的精神と感染の有無を結びつけて考えちまってるんだから。
それなら、お前を「英雄」にするのが一番手っ取り早い方法だろ。
俺は仕事を辞めたわけだし、この先お前がどこへ行こうとついていくつもりだからな。どんな手を使ってもお前を生かして、もっと多くの人に出会わせて、大きな事業にだって参加させてみせるさ。
お前は一体何を企んでいるんだ? 新手の罰ゲームか何かでやっているのか? そんなことをしてお前に何の得がある?
俺は子供の頃から向上心がなかったし、大人になっても定時退勤が信条の、努力と無縁の男だからな。「英雄」とはかけ離れた人生を送ってるうえに、英雄への憧れはあってもなりたいとは思わない。
だが俺は、お前のことを誰もが認める本物の英雄にして見せるぞ。それをやって俺が得る「得」と言えば――
最後の討論で、お前に勝つことだけだがな。
……どうかしているな。
お褒めにあずかり光栄だ。同意は得られたってことでいいか?
ああ、でもお前の病気はもう末期に近いんだよな? となると俺にはかなり分が悪そうだ……本当に、目も良く見えなくなってきてるのか? 頭もぼんやりしてるとか?
何の話だ? 私は軽度感染だぞ。そこまで重い症状が出るはずがないだろう。
軽度感染だって? だけどお前はしょっちゅう薬を受け取りに行ってるし、ラナさんにも自宅まで往診に来てもらってただろ。厨房に突っ込んだのだって、標識が見えなかったからじゃないのか?
それは誤解だ。病状が深刻なのは……先生のほうなんだ。
クサントスさんが?
ああ。私たちには、最初から大それた計画など存在しなかった。
先生が私を連れて脱獄したのは、まだ余力が残っているうちに、成すべきと信じることを成し遂げたいと思ったからだ。
あの人は、そのためなら命すら惜しまないだろう。
クサントスさん、あなたはここへ来るべきではありませんでした。皆さんこの神殿へ集まり始めていますし、運よくここまで来られても、帰りは厳しい道になりますよ。早く行ってください。
……あなたに別れを告げに来たのだ。今日を過ぎれば、再び会うことは難しくなるだろう。
大切なのは、顔を合わせて別れを告げることではなく、あなたの心の平穏です。どうか故郷へお帰りください。
そうして、かつて目にしていた川を見に行くと良いでしょう。仮にそれが涸れてしまっていようとも、いずれ山雪が融けて流れ出すことや、あるいは別の水源が土地を潤すことがあるかもしれません。
ああ、わかっているとも。エンディミオン神殿の祭司殿はいつも、我々一人一人の心を気遣い――
偽りの希望を与えてくださるからな。
……あなたが初めてアテヌスを訪れたあの雨の夜のことは、いまだに覚えています。あの日、あなたはイサコスの血に染まった衣服を抱えて、我が神殿の扉を開かれましたね。
当時のあなたは打ちひしがれていながらも、彼を戦地へ送り出す際の約束について語ってくれました。その後は渡し守を務めながら、彼を神殿へ送り届けるご自分の姿を思い描いていたのでしょう。
それこそが希望の火なのです。か細く、弱弱しく見えようと、それはなおも揺らめいていたのですよ。その火は私が与えた偽りの希望ではなく、あなたの心に確かに存在していたのです。
確かに、かつてはな。
いいえ、今もそれは存在しています。あなたが暮らしの中でそれを育んでくれたらと期待していましたが、現実には、あなたは繰り返し反芻するうちに、それを別の物へと変えてしまいましたね。
だからこそ、今故郷へ戻れば、もっと昔の記憶を思い出せるかもしれないと思うのです。故郷の変わらぬ風の中で、かつて聞いたような音を聞き、傷を癒してもらいましょう。
では、サルゴン人のことは?
あなたが気にかけている交換の儀のことでしたら、すでに神託通りの手配が整いました。
ミノスのリラの音が再び鳴り響けば、人々はいずれ結束し、ケレセイラがあらゆる異邦人を駆逐することでしょう。
……また神託か。
人の心を慰める祭司よ、ずっとあなたに聞きたいと思っていたことがある。
神託とは何だ? それはなぜ、人を死地へと赴かせるに足るものとなるのだ?
……
それは信仰であり、信じる力であり、千年にわたってミノス人をミノス人たらしめてきた理由であり、英雄への憧れが凝縮されたものです。
我々には、異邦人が言う「神」はおらず、英雄の一人一人を神として崇拝してきました。
我らが英雄ケレセイラも、かつてはただの人間でした。
ですが、神託の導きを受けて、彼女は英雄譚を歌い上げ、苦難の中にあったミノス人を結束させ、やがて今の我々を作り上げるに至ったのです。
神託とは、人々の心の奥にある真の願望が姿を現したもの。ゆえに信じれば、それはあなたを英雄へと変え、行くべき道を示してくれることでしょう。
つまり、イサコスは死を望んでいたと言うのか?
九年前、イサコスは神殿へ、私を訪ねてきました。血染めの川の夢を見たと、それが神託か否かを教えてほしいと言ってきたのです。
本当は、神託ではないと言ってあげたかった。行ってはいけないと伝えたかったのです。けれど、そうはできませんでした。
神託は私の口から流れ出るものであり、それを止めることもできなければ、変えることもできません。私には、他者の願いを否定する権利などないからです。
そして、イサコスの場合は……
移動都市アテヌスの建造時に流された血と涙は、彼の一族の血脈の中で凝縮され続けていました。我々がともに神殿に仕えていた頃にさえ、それは彼の心に渦巻いていたのです。
彼は魂のはけ口を渇望していました。アテヌスの外に、自分が築き守ることのできる土地を求めていたのです。
けれども、その願いをかなえるには、死は避けられぬ代償でした。
あなたの言葉は真実かもしれない。だが、やはり俺には受け入れられない。
ええ、わかっています。苦痛はあなたの血管を駆け巡っているのですから、言葉の一つでそれを鎮めることなどできないでしょう。私が何を言ったところで、あなたには真の慰めとはならないのです。
しかしそれでも、あなたには――はぁ。
あなたがアテヌスを訪れ、我々が知り合ってから、もう五年ほどになりますね。
川上に身を置くあなたは、神殿には決して足を運んでこなかったので、イサコスの墓前以外で顔を合わせることは滅多にありませんでしたが。
祭司の啓蒙や導きなど、私には必要ないからな。
ですが、私はずっとあなたを気にかけていたのです。
あなたはイサコスの親友で、彼が生きた最後の証でした。あなたが穏やかに暮らしてくだされば、私も少しは慰めを得られると――それは、祭司ではなく私個人としてのささやかな望みでした。
……
あなたがアテヌスの川に少しずつ馴染んでいき、やがては弟子を引き取り、共に暮らしていく様を、私は見届けてきました。
リュケイオンさんは真面目で実直な子ですから、彼があなたを支えてくれると思うと、随分と安心したものです。
言葉では足りないということはわかっていますが――それでも、問わせてください。そうした暮らしの一つ一つ、細やかな物事に慰めを得たことは一度もなかったのですか?
それは、あなたが当初アテヌスに抱いていたイメージとまるで同じでしたか? あるいは、想像していたより良かったことが、何か一つはあったのではありませんか?
……そうかもしれないな。
ならばそれを思い返してください。そうして過去を振り返り、もっと大切な何かを忘れていないか、どうか考えてみてください。
どうあれ、イサコスのためにも……より良く生きるべきだとは思いませんか?
……
……外が……何やら騒がしいですね。少し様子を見てきます。
あなたはもう発つべきです。人目を避け、ここを離れてください。
……
ここから……どうやって、劇場の観客席まで回り込めばいいんだろう……この神殿、広すぎるよ……
コリニアの名前の長い祭司さんは、なんて言ってたっけ……「お先に失礼」? それとも、「しばらく外します」? また戻って来るのかな……
どうしよう……
ん? 何の音?
モォ!!
えっ?
セロリ――! オニオン――! エッグプラント――! 待ってってば!!
はぁ……うぅ……牧場から、街まで、追いかけてきたのに……一頭も、言うこと聞いてくれないなんて……みんな……一体、何がどうしちゃったの……? 何に驚いてるんだろ……
モゥ――
あっ、トマトちゃん! あたしを待っててくれたの? 君はやっぱりいい子だね。こっそりおやつをあげてたおかげで、懐いてくれたのかな?
ふぅ、ちょっと待っててね、一息つくから……ふぅ……
フンス!
あっ、待って――トマトちゃん! 走らないで、待ってってば!
モォ――
ダメだよ。街中は人が多いから、そんなふうに突っ走ったら危ないでしょ。
特にこのケレセイラ神殿では、走ったり大声を出したりするのはマナー違反。
モォ。
うん、偉いね。素直が一番だよ。
……駄獣たちが……止まった……! 駄獣の頭にちょっと指で触ってるだけなのに……一番気性が荒いカリフラワーまで、言うこと聞いてる……!
ケレセイラが奏でるリラは、駄獣の子供たちにすら伝わってたって伝説……ずっと神話だと思い込んでたけど……
まさか本当に、駄獣と交流できる人がいるなんて!
君……一体何者? どうして駄獣と話せるの?
どうしてって……口を開いて言葉にするくらい、あなたもできてるよね……?
そうじゃなくて、どうして君の言葉が駄獣たちに通じてるのかなって――
通じてないと思うよ? 多分。
少女がカリフラワーの額に置いた指を離すと、荒ぶる駄獣はすぐに蹄を踏み鳴らし、突進しようと身構えた。
そこで少女は、再び額を指で押さえる。
わあ、まだ力が残ってるの? すごいね。
……
あなたは駄獣飼いさん? ちょっと待っててね。この子も、力を使い果たせばきっと落ち着くと思うから。
先頭の子が冷静になれば、群れ全体も冷静になるはずだよ。
えっと、じゃあ……君は、単に力だけでカリフラワーを押さえつけてるってこと……? 指一本で、大人の駄獣飼いが四、五人掛かりでも抑えきれない駄獣を、こんなに軽々……
へえ、あなたの名前はカリフラワーっていうの? かわいい名前だね。似合ってると思うよ。
ムゥ……
大変……カリフラワーが踏んづけてる石畳、割れちゃってるよ!
よし。こんなところかな。
少女が手を離すと、カリフラワーは地面に崩れ落ちた。
その後、彼女は駄獣を一頭また一頭と押さえつけていき、次第に群れの全体が静まっていく。
これで最後の一頭だね……ん? 角に何か引っかかってる。それ、なあに?
親愛なるラケダイモンの祭司、シィニスカさん。ようこそお越しくださいました。この度のお力添えに感謝いたします。
どうかお手元のそのリラを、こちらにお渡しいただけますか?
それこそが、我らの待ち望んでいた、ケレセイラのリラなのです。
ティティ! やっと見つけましたよ!
もしやあなたも、この走り回る駄獣を追って神殿に? 牧場で何があったのですか?
私……昨日は牧場で、いつの間にか……寝ちゃってたの。気付いたら、周りが騒がしくなってて、ミオに起こされたと思ったら、リラがなくなっちゃってて……
駄獣が麓へ駆け下りていくのがうっすら見えたから、慌ててついて行ったら、あの子たちがここに……もしかしてあの駄獣たちが、リラを広場まで運んできたの?
ええ……長らく待ち望んだ奇跡は確かに起きたのです! あれは、本物のケレセイラのリラですよ!
これで、第一神殿に英雄をお呼びする儀式に必要なものは、あとは演劇のみとなりましたね。
ですが、それも問題ありません。私は関連演目におけるケレセイラのセリフすべてを覚えていますので、演目さえ決めてしまえば、ほかの役者を決めるにもさほど困りはしないでしょう。
その件だけど……第一神殿再建業務の仕上げ工程責任者として、私に演目の指定を任せてくれないかしら?
……改まってどうしたのですか? 上演したい演目でも?
ええ。『ケレセイラと異邦人』を演りたいの。
それは……デリケートな題材を扱っているがゆえに、上演が禁じられ、解禁後も異邦人役を務めたがる者がいないがゆえに演じられてこなかった演目ですね。
ええ。かつては伝統的な儀式の中で最も多く上演されていたというあの古典劇よ。
異邦人役は、私が演じるわ。
……そこまで身を削ることはないのですよ。あなたの人となりは、皆よくわかっていますし……
いいえ、私はこれを、単に自分の身を削る行為ではないと思っているの。
昨晩、はっきりわかったのよ。これこそが、今この場所で私がサルゴン人として負うべき責務なんだということがね。