淬火煙塵 11-8・戦闘後
停滞
――
まだ追ってくるか。
あ……あなたは先に行ってください。あなたのような身分の方が、俺たちのために危険を冒してはなりません……
もし隊を率いているのがアラデルやクロヴィシアさんであっても、貴様はそう言うのか?
……あなたは違いますから。
かがめ。
え?
ハンマーがシージの手により半円を描くと、自救軍戦士の頭をかすめながら重く振り下ろされた。
レンガが砕ける音に伴って、壁に大きな穴が現れた。砕かれて凹んだレンガの中には、サルカズ術師のアーツユニットを持つ手も見える。
……私は違う、そうだな?
あ……えと……
ついてこい。戦場で人を待つのは慣れていない。
……まだ撒けないか。
このサルカズたち厄介すぎます。
制服は同じだが、サディアン区のサルカズ兵は、素人集団のようなものだったな。
こいつらは全く違う。
ではどうしますか? 街を走り回って意味ありますか?
貴様は以前内勤勤めをしていたろう?
え? は、はい。以前は会計士でしたが……それが?
外出する時は何を使っていた? 車か?
えっ、そうですけど……
貴様はロンディニウムの路地が一般的にどれだけの広さか、ウェリントン通りの端から端まで走ってどれだけかかるか、区画ごとに下水道の入り口がどれだけあるかを知っているか?
……知りません。
あいつらは知っている。
誰がですか?
ヴィーナ、こっちだ!
ターゲット発見!
まだ敵が隠れているぞ!
……ヴィーナ、こっちこっち!
セーフハウスの方から爆発音が聞こえた。
自救軍の動きが遅い。皆の撤退を援護しなければならない。
チッ、こっちの道に変えるよ!
シージ!
ダグザ、自救軍の様子はどうだ?
クロヴィシア指揮官がほとんどの人を引き連れて撤退した。アラデルさんは……
……んっ、私は平気。
アラデル、負傷したのか。
自分の面倒くらい見れるわ。
殿下、あなたは戻ってくるべきではなかった。
奴らは中に隠れている。
滅ぼせ、全員殺して構わん。
僭越ながら言わせてもらおう、シージ、あなたはやはり……
……貴様も、私が戻ってくるべきではなかったと思っているのか?
いや、常に最前線に立って敵を防ごうとすべきではない。
時には、私がそばに立つことを許していただきたく思う。
いいだろう。来い、ダグザ。
……
アラデル、貴様は休んでいろ。
カンバーランド公爵の娘が、マンチェスター伯爵の娘に負けてられないでしょ。
私にとってはアラデルとダグザの方が親しみやすい。
じゃ、あなたの友人のアラデルとして、私も肩を並べさせてもらうわよ。
そこの戦士、貴様は? まだ立てるか?
俺は……大丈夫です……
なら武器をしっかり握れ、共に戦うぞ。
ロンディニウム……この鋼鉄のジャングルは私たちのものだ。獲物は誰であるかをサルカズに知らしめてやる時だ。
貴様の身分は貴様を救うことはできんぞ、アスラン。
俺たちからすればそんなものはどうだっていい。
サルカズの明日はすでに来たんだ! 貴様らは、過去に葬られるべきだ。
待て……
総員警戒しろ、棚の裏に待ち伏せがいるぞ!
存外、鋭いな。
ほら、振り返りな、こっちだよ~。
違ぇって、こっち見ろや。
シージ、やるぞ!
わかった。
危ない!
見掛け倒しだし、くだらねぇ。
遊びは終わりだ。貴様ら武器を下ろせ、楽に死にてぇならよ。
そうすりゃ、互いに手間が省けるってもんだろ。
……ごめんね、油断したわ。
謝る必要はない。
サルカズはシージを見て、シージはアラデルを見ている。
彼女がゆっくりと両手を上げる。ゴンという音が鳴り、ハンマーが地面に落とされた。
彼女はアラデルに目配せした。アラデルがかすかに口角を上げる。
待て……風? ここは室内だぞ……
これは……クソが、アーツだ! 反撃しろ!
ヴィーナ、受け取って!
ああ。
うっ――!
大丈夫か?
少なくとも気分は良いわ。
倉庫が崩れる、ここを出るぞ! 外でこいつらを包囲する!
なんだよ、お前らの「セーフハウス」はあんま頑丈じゃねぇみてぇだな。
セーフハウスが永遠に崩れないお城だとは限らないのよ。
――ついてきて、こっちよ。
隠し通路は、建物が倒れて塞がれたはず。でも私たちも急いだ方がいいわ。
うっ……
傷の手当てをしなければならないな、アラデル。
だ、大丈夫よ……
ダグザ、こっちの戦士を自救軍の基地まで送り届けてやれ、別行動をする。
殿……シージさん。
あなたは立派なリーダーです。ハハ、次回は俺たち自救軍のすごさを見せてやりますから。
感謝します。
あんたはどこ行くの?
アラデルの傷を放ってはおけない、近くで……
待て、この辺りは見覚えがある……
ヴィーナ、この小道を覚えていたのね。
あなたとあの生き物たちが、「諸王の息」を持って帰ってきたあの午後のことを。
……何だって?
……何でもない、進みましょう。
ここが王宮から公爵邸に通じる道だと知ってる人は多くないわ。
ある方からの保証を得ているの。明日まで、カンバーランド公爵邸は安全よ。
この程度の傷を手当てするには十分。
……ヴィーナ。
私がいるのがわかっていたのか?
自分の部屋の外から聞こえるべき物音くらいわかるわ。
あなたがどんなに眺めようと、背中の傷が勝手に塞がることはないのよ、ヴィーナちゃん。
薬の交換を手伝ってくれる?
……ああ。
うぅ……
すまない、痛かったか?
大丈夫、大した傷じゃないもの。ただようやく周りの目がなくなったから、思わずね。
あんなに血を流していただろう……貴様はこれまでも多くの傷を受けてきたのか?
安心して、ほとんどがもう痛くなくなってるから。
もし私の反応がもう少し速ければ……傷が増えることもなかったかもしれない。
さっきは、あの兵士たちの手から逃れるだけでも、十分大変だったでしょ。
それに、ここ最近はずっとお礼を言う機会が欲しかったの。
あなたは自救軍の大きな力となってくれた。それに、私のためにあの古い蒸気甲冑を守ってくれた。
これは私がなすべきことだ、アラデル。私は……私は貴様がさらに多くのものを失うのを見たくない。
……
ハハ。
そんなの何でもないことよ、ヴィーナ。ここ数年でとっくに理解したもの、大抵の物事は私たちの思い通りにいかないって。
でなきゃ、今この瞬間、私たちがこの薄暗い小部屋に隠れる必要なんてそもそもないし、こんな臭い包帯に囲まれてもいないわ。
私たちは……
例えば私たちは……一緒に庭園に座って、お茶でも飲みながら詩や天気についておしゃべりするの。
そうだ、狩りに行くのもいいわね。今の季節、ロンディニウムの郊外にはたくさんの大角獣がいるのよ。走るのが速いくせに、人の群れに遭遇するとぽかんとするの。あなた狩りは好き?
……どうだろうな。
うん、実は私も忘れかけてるの。でも私が思うに、あなたはダンスが好きではないでしょう。社交シーズンの冗長なダンスパーティーは、少なくとも好みじゃないと思うわ。私も嫌いだけどね。
あんなドレスより、猟装の方がずっと動きやすいわよ。きつく締め上げなくちゃいけないし、パーティーで食欲がなくなっちゃう。
ハハ、想像に難くないな。
それに……
なに?
きっと、猟装の方が貴様には似合っている。
……ヴィーナ。
ん?
私たちは……もっといろんな場面で出会い、共に時間を過ごした記憶を持つはずだった。
運命は私たちの意思など顧みずに、美しくあるはずだった過去を、奪い去ってしまった。
だが幸い、私たちにはまだ未来がある……
どうしたの? なんだか驚いてるみたいだけど。
……私が未来について語るなんてな。
あなたからしたら珍しいことなの?
逃亡の日々の中では、今後どうなるかなど、ほとんど考えたことがなかった。過去は全て夢の中にあり、そして未来は……未来は霧の中にある。私には何も見えないんだ。
……ヴィーナ、それはあなたの欠点ではなく、長所よ。
低俗な貴族たちは、明日について語ることが大好きだけど、ほとんどの人は今日の食卓に何が乗っているかの方が関心があるの。
それは日々の暮らしが彼らを麻痺させているのではなく、今この瞬間がどれだけ貴重なものであるかを、彼らが理解しているからよ。
今みたいにか?
そう……
今みたいに。
エルシー。
おはようございます、アラデルお嬢様。荷物はすべてまとめてあります。
蒸気甲冑……どうしてこれを?
大きすぎて狙われるから、持っていくことはできないわ。
……左様でございますか?
アレクサンドリナ殿下は、すでにお発ちになられたのですか?
ええ、彼女にはまだ任務があるから。
お嬢様、その傷……
もう大したことないわ、殿下のおかげよ。
……お嬢様、そのように微笑んでおられるお顔を拝見するのは随分と久しゅうございます。
ハハ、戦争が目前まで迫っているのに、気楽すぎかしら?
殿下たちと肩を並べて戦うなんて……確かに久しぶりの気分だわ。
信頼を置ける人なんてね、ずっとずっと長い間、巡り合えてなかったの。
アレクサンドリナ殿下はこの甲冑を残してくださいました。私はただの執事ですが、いまだに恩を感じております。
これはカンバーランド家の栄光ですから。
栄光……か……
この甲冑とお嬢様の偉大なるご先祖様……お嬢様は、幼い頃彼らとよくお話しをされていましたね。
子供はすぐ幻想にふけるものよ。
でも、少なくともね。私は二十六年前にわかったの。これは英雄なんかじゃなくて、かさばるだけの壊れた鉄の塊だってね。
私たちは変わった。でもこの甲冑は過去のままみたい。
あなたは……アレクサンドリナ殿下が好き?
殿下はお優しい方です。あの方がお仲間にどのように接しているか見たことがあります。彼女たちは同じものを食べ、同じ部屋に住んでいます。
殿下は大多数の貴族とは異って、お仲間を卑しい下僕と見なすことがなければ、見捨てることもありません。
ヴィクトリアは幸運ね。
私たちの殿下は強い心を持っているわ。故郷を離れて、さまよい歩く程度の苦難では、彼女の実直さや誠実さを拭い去ることはできない。
ヴィクトリアの視点ではなく……お嬢様は? アラデルお嬢様、あなたはあの殿下をどう思われているのですか?
……
彼女には、明るい未来があってほしいわね。
ではお嬢様は……
昨夜、また手紙を受け取ったわ。一日の内で二通よ。
彼女は……焦っている。
ですが、あなたはもう殿下と再会されたのですよ!
二十六年前のことをまだ覚えていらっしゃいますか? 殿下は「諸王の息」を携えここに来られました。あれはきっと何かの兆しに違いありません。もうすぐ実現するかものしれないのですよ!
我々はこれだけ長く待ったんです、お嬢様……
あれは……
……
エルシー、私はとっくの昔に待つのをやめてるのよ。
ジムが去ってどれだけ経ったかしら?
あの件があった翌年に、彼は職を辞してペニンシュラ郡へと帰りました。
……二十五年。私たちの家には……もう二十五年庭師がいないわ。
私は小さい頃から、あそこに生えている低木が好きだった。よく足を取られたけど、咲いた花は金色で、小さくて、とても綺麗だったわ。
ジムが去った後の、最初の冬に、庭に元から植えられたものは全部枯れてしまった。
お母様は人に頼んで新しい種を探し回ったわ。そこで初めて、あれはミノスで最も貴重な品種であることを知ったの。あの種を買うだけでも、一般家庭が五年生活するに十分なお金よ。
低木を失ったとしても、お嬢様の庭園は美しいままですよ。
私は頑張った、エルシー。私たちは頑張ったわ。庭園を美しく保つため、冬の凍える日も夏の暑い盛りも、あなたはここで休みなく働いていた。
でもあの貴重な種がなければ……私たちの庭園が、最も美しい姿に戻ることは二度とない。
お父様が亡くなってから五年目の新年に、私は彼女に手紙を差し出した。
彼女の返信の中には、カンバーランド家ではとっくに買えなくなった花の種が入っていたわ。
……
だからエルシー、私たちはただ……ずっとこうやって、生きてきたのよ。
公爵様がここにいてくだされば……
……彼女には問題を解決するための手段がたくさんあるわ。
違いますお嬢様。私はあなたのお父上様のことを指して。
お父様……お父様。
お父様の声すら、もう思い出せなくなってきたわ。
この庭園に立っている時だけ、私は……私はどうにか思い出せるのかも。お父様がどうやって私の手を握り剣の振り方を教え、私を倒したと思ったら、抱きかかえて肩に乗っけてくれたことを……
……
何年も前に、私は残しておきたいと思ったのよ。エルシー、私はあらゆる手を尽くしたの。庭園に、甲冑……それにお父様の姿も。
だけど、「したい」というのは、嫌になるほど安くて簡単なの。
小さい頃、蒸気騎士に「なりたい」と思っていたのは、今でも覚えてる。
……
エルシー、時々、時々私は思う……
大人になることは本当に残酷なことよね、違う?
とても運に恵まれた人でもない限り、私たちは最終的に疲れ果てた平凡な大人になるしかないの。
びくびくしながら慎重に歩いて、心にもないことを口にして、激しい浪の中でどうにか藁を数本掴んだら、二度とそれを手放せやしない。
エルシー、あなたは子供の頃、何になりたかったの? 落ちぶれた家の執事になることではないのは確かよね。
いいえ、お嬢様のおそばにいられて私は光栄です……
嘘は嫌よ。
その……幼い頃は吟遊詩人のお話をたくさん聞いておりました……
あら、吟遊詩人エルシーさんね。
からかわないでください。
それに、大人になるというのは、子供の頃に掴めると思っていたあらゆる可能性の山を、少しずつ諦めて、すりつぶし、最終的に見る影もないものにしてしまうことよ。
そういう道のりを経て、私たちはここにたどり着いた。
私に、カンバーランド家の栄光をとどめておくことができる? エルシー、そんなのとうの昔に無理よ。
私はもう今のアラデルになってしまったの。
……ですがお嬢様にだって、未来のアラデルがどこにいるかはわからない、そうでございますでしょう?
未来……
私は老いました、お嬢様。たとえ今楽器を握る機会が本当にあったとしても、心地よい曲を奏でることなどできません。
ですが、お嬢様、あなたは約束してくださいました。
もしかすると、あなたは子供の頃の戯言だと思っていらっしゃるかもしれません。
ですが私は今でも、あなたなら成し遂げられると信じております。
チャールズ・リンチ卿よりも偉大な、あなたのご先祖様よりも偉大な蒸気騎士なると。
お嬢様は、その姿を私に見せてくださるのですよね?
エルシー! もういいわ! 彼女が許すはず……
では、あなたはどうされたいのです、お嬢様?
あなたがいかような決定をされようと、私は変わらずお嬢様の味方です。
私は――
急かすつもりはございません。お嬢様は常に正しい決断ができますから。
お嬢様……もう一度この庭園を回ってきてもよろしいでしょうか。
たとえ過去の断片だとしても……これは私にとって最も大切なものなのです。
アラデルは言葉を継ごうとする素振りはみせたが、ついに口を開くことはなかった。
生まれた時からずっと一緒だったその女性が庭園の奥へと行くのを彼女は見ていた。彼女たちは最も苦しい歳月を共に過ごし、そして歳月によって想像したこともなかった姿へと変えられた。
アラデルもふと、このように笑っているエルシーを見たのは随分と久しぶりだと気付いた。
心の底から湧き上がる、久々の平穏を感じた。
もしまだ機会があるなら――
突然、アラデルの視界は遠くで跳ねるオレンジがかった赤色に吸い寄せられた。
その色は急速に拡大し、空気が熱くなっていくのを感じられる。
エルシー、早く――
瞬く間に、公爵邸全体が火の海へと変わった。
……大君殿。
お静かに。
この美しい光景を鑑賞する妨げです。
かつての絢爛たる歴史が今まさに灰へと化す。貴族たちご自慢の邸宅が焼け焦げた骸となるのです。
数百年の時を費やして、丹念に彫刻を施したレンガが一つずつ剥がれ落ちる。大地各地から集め育てた草花がとぐろを巻いて死んでいく。
……私が受けた命は、これらの貴族を審査することです。
なるほど、私の行為がご不満のようですね、「指揮官」。
あなたはこの炎がお嫌いなのですか? 血液が煮え立ち、空気へと溶け込む音にご興味ないのですか?
「プツプツ、プツプツ」、耳を傾けてごらんなさい。その音色を味わうのですよ、レト、私の友人よ。
私は責務を全うし、一滴一滴の血を確認しているのですよ……
……
あなたの審査に協力し……裏切り者を逃さないよう確保します。
それが私の責務です。