悪兆渦流 13-3・戦闘前
息つく間もなく
デルフィーン、何をぼうっとしている?
何でもありません、お母様。
ただ、その……
こんな角度からロンディニウムを眺めたことなんて、滅多にないものですから。
誤魔化さなくても、君が上の空の時の表情はよく知っている。
後方からのごちゃごちゃした報告が退屈か?
いえ。ただ……ノーポート区でのことを思い返していたんです。
すまない。こうも短期間でロンディニウムでの状況がここまで悪化するとは、私も予想していなかった。
もっと早く、君たちを全員撤退させるよう手配すべきだった。
ロンディニウムで起こったことは大小を問わずすべて分析報告書を作成したんですけど……持ち出すことは叶いませんでした。
謝らないといけないのは私たちの方です。
気にすることはない。大多数の物事は、何の影響もありはしない。
おそらくそれらのほとんどは、カスター公爵が責任を負うことになるんでしょうね。
もちろん分かっている。今頃うちのトランスポーターの前で恥ずかしい思いをしていないといいのだが。
ですが……あれらの情報が後の作戦でどれだけ価値あるものとなっていたかも分からないのに……
君よりも価値があるものなどない。肩の力を抜け、デルフィーン。
私も来たことだし、「ガラヴァエ鉄盾」も付近に待機している。リンカルダンに戻れば、すべて元通りになるだろう。
私が戻す。ロンディニウムも、ヴィクトリアも。
はい。
お母様、私は……
私はあそこで死ぬかと思いました。
君は私の娘だ。そんなことはこの私がさせない。
ここ数年、君はよくやってくれている。細部への心配りと我慢強さは父親譲りだ。
だがああいった仕事を君がやる必要はない。私の継承者であるのだから、なおさらリンカルダンに留まるべきだ。
我々とリターニアとのにらみ合いから学べることは多い。君はああいう業務にこそ慣れておくべきだ。それに私も……話し相手が欲しかったところであることだし。
あの時は、私ならもっとうまくやれると思っていたんです。
……ごめんなさい。
「ウィンダミア公爵」たる者ならば、多くの物事に気を配り、鋼のように強い人間であるよう己を律すべきかもしれない。
だが君がそれを背負う必要はない。少なくとも、今はまだな。
母である私が老いて衰えるまでは何なりと頼ってくれていいんだ。
はい……ありがとうございます、お母様。
あと四、五時間もすれば我が家に帰れる。君が領地に置いていったものは、侍女に頼んですべて持って来させてある。
パジャマや、枕、ベッド、バスタブなんかをな。
どれも私がロンディニウムに来る前のものですね――
それほど背も伸びていないようだし、まだ使えるだろう。
その他にも、君のために用意した良いものがいくつかあるのだが、今はまだ秘密だ。
帰ったら、ひとまずゆっくり眠るといい。
だが油断するのは早いぞ。我々にはまだまだやるべきことがたくさんあるから。
……
どうかしたか?
お母様、私はロンディニウムに、とても長い間いましたね。
以前は多くの仲間たちがいたんです。みんな本当に優秀で、本当に学ぶべきところがたくさんありました。
混乱する都市の中で、私たちは崩壊する日常にひたすら耐えていました。ですがあの時は、全員が自分たちの成すことを信じていました。本当に誇りに思っていたんです。
でもその後で……状況は変わりました。諜報員たちがどんどんいなくなっていって、サルカズたちが堂々と都市を接収して……
孤立無援となった私にできたのは、ただ……もっと平凡な人たちと共に生きていくことだけでした。その時初めて、彼らがどう暮らしているのか、ヴィクトリアをどう思っているのかを知ったんです。
そして……その後、彼らの多くが死んでいきました。生き延びた一部は、今まさにこの船の下層に集まって、お母様からの沙汰を待っています。
私のパジャマやベッドやバスタブの百メートルも下のところで。
……ふむ。
お母様には本当に感謝しています。ですが私はお母様の――
我が娘よ。君は十分によくやった。私の想像を超えるほどにな。
下の部隊の様子を見に行ってやりなさい。彼らとはもっと関わっておかねばならんだろう。
お母様!
まだ何かあるなら、また後で話そう。
お母様は、ここへ自ら足を運ぶべきではありませんでした!
こんなこと……危険すぎます!
リターニア人を軽々に信じてはいけません! それに、サルカズたちの次の計画だって分からない!
私たちの情報の遅れは――
持ってきた食糧は後どれくらい持つ?
この軍艦には、これだけ多くの難民を受け入れる用意はなかったようだな。
だからって放っとくわけにはいかねぇだろ?
さっきだって、エミールが俺の手を引っ張ってきて、でも何も言わないで、じっとこっちを見つめてきて……
こんなの……もう耐えられねぇよ! デルフィーンの奴のところに行こう!
落ち着け、ハンナ。私たちは今、他人の戦艦に乗せてもらってる身なんだぜ。
俺はただ――
吾輩、後でまたみんなのところへ行ってくるよ。お年寄りの人たちも見知った顔を見れば、少しは安心すると思うし。
私も同行しよう。
お待たせしました。補給官と話をつけてきました。
食糧は、すぐに一番必要とする人々に配られることになります……私の権限ではこれが限界です。
……感謝する、デルフィーン。それとウィンダミア公爵にも。
母は哀れな人々を、心から助けたいと思っていると、娘である私は身勝手ながら、そう願っています。ですが……
分かっている。理由は私……あるいは私の身分だろう。
だが、共に逃げてきた者たちを救えるなら、私はそれでいい。
順応するのが早いんですね、ヴィーナさん。
我々が自儘に動いている場合ではなくなったんだ、デルフィーン。
船には私を頼りにする者たちがまだ大勢いる。その対象がヴィーナだろうと、シージだろうと……いずれにせよ、私は彼らに対して責任を背負っている。
外の戦況は今どうなっている?
こちらに上がってくる戦況報告の数が桁外れです。不確定要素が多すぎます。
まとめると、ウェリントン公爵の攻勢は不安定で、私たち自身の防衛線もかなり押されている、といった感じでしょうか……
公爵たちがいまだ全力を出していないとしても、兵力的には圧倒的に優勢なはずなのに。この戦争はもはや、現代戦争理論の範疇を遥かに超えています。
「ナハツェーラーの王」……あいつらについては、古い書物や考古学の文献の中くらいにしか関連する記述を見つけ出せません。
ヴィクトリア……いえ、テラ全体で見ても、真のサルカズの大軍と相対するなんて、もう長い間なかったことです。
奴らの巫術はどんな連鎖反応を起こすんでしょうか? 奴らのやり方は、本当に文献で貶されているような原始的で遅れたものなんでしょうか?
私たちの見えないところで、異なる種族のサルカズたちは、結集してどれだけの力に膨れ上がっているんでしょう? 奴らはなぜ共に立ち上がるんでしょうか?
……
けど、そう心配しすぎることはありません。お母……ウィンダミア公爵とウェリントン公爵が、共にこの戦争の指揮を執っていますから。
カスター公爵も明確な意思を表明しました。膠着状態も長くは続かないでしょう。
「ガラヴァエ鉄盾」に戻れば、物資補給も前線支援も――
うわっ! なに?
今、峡谷を越えているところみたいですね……良い兆候です。もうすぐ戦場から離れられますよ。
……シージ、軍艦の速度が落ちてないか?
そうだな。それに外の天気も……待て、今は何時だ?
ノーポート区を離れてからどれくらいになる?
え? 数時間くらいじゃないでしょうか?
この峡谷は、ただの峡谷なのか?
えっと、特に変わったところは何も。荒れ果てた工業区があるだけで……
おい、お前、気をつけろ!
……
おい、お前に言ってんだよ!
……
その人から離れて、ハンナさん!
――警戒!
危ない!
ち、血の霧? これは、サルカズの巫術!
ここは民が多すぎる。
モーガン、ダグザ、インドラ。
下へ向かいましょう! 階段は北です!
デルフィーンさん!
あなたは、船医の方ですね?
本艦は巫術の襲撃を受けています。従軍術師たちでは、短時間でこの巫術の謎を解くことはできません。公爵様は――
クソッ――こいつらいつの間に――
危ない!
(サルカズ語)ブラッドブルードの巫術が発動した。
貴様らのその格好、見たことがあるぞ。ドクロの面を着けたサルカズ……
(サルカズ語)諸王の息……不確定要素は減らさねばなりません。
(サルカズ語)混乱を生み出し、異族は排除します。己の血を惜しまぬように。
(サルカズ語)ん?
貴様らは、我ら塔楼騎士への包囲攻撃作戦に参加していたな……!
おっと、危ねぇ!
(サルカズ語)ヴィクトリア人よ、お前たちの王と共にここで死になさい。
(サルカズ語)やれ。
(お母様は甲板だ。けど下にはまだ市民や仲間たちがいる……私は……)
デルフィーンちゃん、左!
うっ!
気を付けて。
すみません、ありがとうございます。
相手の数はさほど多くありません、我々なら制圧できます。このドアの向こうが防護室です、まずは平民の皆さんを――
いや、貴様にはより優先すべきことがある。
あの者たちは私について避難してきた。私は彼らの安全を保証することを約束した。
ウィンダミア公爵はおそらくまだ知らないはずだ。この下層で……最悪の事態が起きていることを。
彼女にここの状況を伝えに行け。貴様らの援軍が来るまで、我々が持ちこたえてみせる。
ですが私は――
貴様らの軍は完璧な指揮系統の下で統率されている。我々が短時間でその系統に順応するのは不可能だ。この任務は私たちの方が適役だ。
ヴィーナ……
行け!
チッ……石頭め、手が痺れたじゃないか。
*サルカズスラング*……
(サルカズ語)まあいい。「諸王の息」も戦果としては悪くない。
(サルカズ語)皆の者、あのアスランを包囲せよ。
全員、準備はいいか。やるぞ。
図に乗るのもここまでだ。
デルフィーン!
デルフィーン!
お母様?
デルフィーン様……これ以上前に出るのはおやめください。
怪我をしているんですね、あなた――
あなたでは足手まといになってしまいます。そして、私も。
この……忌々しいものに呑まれる前に、私を殺してください。
ソードガードと公爵様が、あのサルカズを殺してくれるでしょう。
デルフィーン様……無茶はおやめください……あなたでは……
うっ……もう、痛みすら感じない……
私をお助けください。そしてどうかこれ以上進まないでください。
お嬢様――どうか、生き延びて。
……助けて……いただき……感謝……します……
これが……サルカズの……
……お母様。
……ふむ。
レディ、逃げてはなりません。
そのように青ざめた顔をしていては、もしもこの血があなたの顔に跳ねた時――
より美しい絶望の化粧で彩られてしまうことでしょう。
ふん。
血を弄ぶのが貴様らの習性か、ヒルめ。
何百、何千年も生きている割りには、ちっとも進歩が見られんようだな。
ご覧なさい。
死に逝くには相応しい天気です。
公爵様、これは計画的な襲撃です。
想定通りだ。
しかし、まさかサルカズの王庭の主が自ら足を運んでくるとは……ふん、まあいい。
下の状況は楽観視できそうにありませんので、士官たちに守りを固めさせています。
案ずるな。我々の脅威は奴だけだ。
リターニアの高塔芸術にはうんざりしていたところだ。
ブラッドブルードの脊髄というのは、どんな形をしているかな?
ふん。
ヴィクトリア人、あなたはとても強い方だ。あなたは、自分が引き下がることなどないと思っているのでしょう。
しかし、血液はあなたの意に背きます。
創造主は人類のため、生命の橋を造りたもうた。そして私は、その橋の上に立っているのです。
ほう?
厄介さにかけては、高塔の狂人どもとさして変わらないな。
哀れですね。
あなたはいまだ、あることに対し非現実的な幻想を抱いている。
なぜあなた方の軍艦が突然内部から突破されたのか、あなたならば答えを察することはできるでしょうか?
……
目の前の任務に集中しろ、ソードガード。
迎撃態勢を崩すな。
はい。
お前たちの使命はウィンダミアの敵を排除することにあり、ウィンダミアの命を守ることにあらず。
サルカズの力を確実に削り取れば、ヴィクトリアは自らの財産を奪い返せるだろう。
くっ。
確かに少しはやるようですね……ふむ。それも当然でしょう、あなたはヴィクトリアの公爵なのですから。
一体どれだけのサルカズを貪り食ったのですか?
生憎とそのように吐き気のする趣味は持ち合わせていない。
いいえ。
あなたとその先祖たちは戦場に君臨していました。カジミエーシュからリターニアに至るまで。
ウィンダミア公爵はかつてサルカズの軍隊を所有していました。この大地全土にまで波及しかけたあの戦争、四国戦争で……
あなたは……あるいは、あなたの先祖は、如何にして彼らを利用しましたか?
……
狡猾な小細工、盗み出した巫術、そしてナハツェーラーが好むやり口を用いて、あなた方は彼らを束ねました。
サルカズの血肉は戦場にばら撒かれ、あなた方の誉れ高き戦艦が往く航路上にそびえる砦に仲間入りしました。
そう……あなたは彼らを残らず食らい尽くしてしまったのですよ。
貴様は敵討ちに来たのか、サルカズ?
ええ、もちろん。
私が生み出したアーツを、鮮血の王庭に属する財産を、あなた方はよくもまあ弄べるものですね?
……あの血が、死傷者の血が、奴を強化しているのか?
違う。
あれはもう血管を流れる体液ではない。もはや呪いの一部と成り果てたのだ。
反撃のアーツを準備しろ。
私が……
――!
……まさか……いや……軍隊を移転させるアーツなんてそもそも聞いたこともない……軍艦が攻め込まれたのは、内部から……
あの感覚……
……けど、ブラッドブルードは? 巫術を使って士官たちを襲撃できるなら、どうしてターゲットに直接手を下さないんだろう?
いや……まず巫術で副次的目標を襲い、それから刺客に騒ぎを起こさせるなんて……そんなの、余計な手間がかかりすぎる……
けど、お母様とやり合っているあのサルカズは……
変形者は……ただヴィクトリア人に成りすまして、私たちの中に紛れ込んだだけなの?
もしも……
――しまった!
お母様!
デルフィーン!? 下がれ――
そいつは偽物です!
もういいでしょう。
二人目の私を目に入れるのは好みません。
たかが小娘に看破されるとは。
腕が落ちたようですね、変形者。以前はもう少しうまく似せていたはずです。
……
……そうかな?
それらのアーツは、聴罪師の劣悪かつ憎むべき模倣に過ぎません。
悪臭を放ち、優雅さに欠け、何もかもがお粗末なただの殺戮です。
デルフィーン。
は、はい!
直ちに真相を見破ったこと、見事だった。お前がいなければ、ソードガードは全滅していただろう。
だが今、お前は足手まといだ。
――わ、私は――
護送艦が接近しつつある。我々は艦隊との連絡が途絶えぬよう、通信塔の安全を確保せねばならない。
通信塔は……甲板の後方です!
敵の数はさほど多くない。行け。
……お前に任せたぞ。
……分かりました。
よかった。通信塔はまだこっちの手に――
軍艦が、減速してる!?
……エンジンだ! 奴らが機関室を攻撃してる!
――!
く、クソッ――!
――
手を伸ばしてください!
振り返らないで! 這い上がるんです!
ああ、ありがとうございます! あなたは、デルフィーン様――
再び攻勢を整えないと。援軍がもう間もなく着く頃です。
戦士の皆さん!
遠方に土埃が舞うのが見えました! 我々の援軍がここに接近しつつあります!
奴らの今回の計画は――
デルフィーン! 避けろ!
ハァ……ハァ……
無事か!?
はい、精神的なものなので……私なら大丈夫です。
下の敵は貴様らの部隊が抑えてくれた。応援に来たぞ。
それと悪い知らせだ。下で変形者の痕跡を発見した。
ええ、知っています。ブラッドブルードと変形者が、代わる代わる攻めてきているんです。
いや、待てよ……
デルフィーン、どこへ行く!?
チッ、面倒な!
……
(サルカズ語)血の匂いが変わりました。聴罪師様は目的を果たし大君もまた勝利を手にしたようです。
(サルカズ語)撤退いたしましょう。
(サルカズ語)自由に動けぬ者は、私の指示に従い、短刀を胸に突き立てなさい。
貴様ら――
……うっ。
……両腕の感覚が失われて、護衛たちも全滅した。
君は今、どんな形をした感情を抱えているのかな?
……
……ハァ……ハァ……
サルカズ……
彼は上手に隙を突いたね。
あの時に君が見せた一瞬の綻び、狼狽に乗じて……でも、一体どうしてあんな隙を見せたの? 僕たちには理解できない。
僕たちは……とても残念に思う。
……
……
もはや命運は覆りません。この強き戦士には、枯れ果てる命の味を一人噛みしめる暇を与えましょう。
もう行っちゃうの?
この者に残余されたのは卑小な死のみ。これでいいでしょう。わずかの興味もそそられません。
凡庸。これらの血は、千篇一律でしかありませんね。
君が求めてるのは何かな? 僕たちには……まだよく分からない。
……
屈辱の時代がもうすぐ終わりを迎えるのです。
怪我したの?
……些末な傷です。
お……お前たち……
……ああ、そこにいたんだ。
私たちを見破った人だな。
奴は私たちは腕が落ちたと言っていたが……前の私たちは、どれくらい似ていた?
これでどうだ?
やめろ――お母様の顔をするな――
……試してみる必要がある。
サルカズッ!!
(サルカズ語)次は、もっとうまくやりますよ。
――
……デルフィーン……
よく、見えないが……
奴らは、退いたのか?
お母……様……
奴らは……いなくなりました……
お母様、その……すぐに医者を呼んできます――
きっと大丈夫です。あなたはウィンダミア公爵なのですから! あなたは、私のお母様なのですから!
待っていてください、私――
まさか……しくじるとはな。
行くな……デルフィーン、ここにいてくれ。
顔を……よく見せてくれ。
泣くな。
泣いて……おりません、お母様。
剣を振るお前の姿を、見たぞ……デルフィーン……よくやったな。
お前は、手を怪我していて、剣の握り方が……いつも違っていた。あの頃の私は結果が早くほしくて焦りすぎていた。
お母様……やめてください、お母様……
お前の父が、最後に旅立っていった方角を……いまだに覚えている……
元々、お前に、サプライズがあったんだ。ずいぶん前から用意していた、お前へのサプライズ……
お母様……
デルフィーン、お前は――
もう少し……背が伸びていると思っていたから、大きめの服になってしまった。
デル……フィーン……焦らず、とも、いい……