悪兆渦流13-3・戦闘前息つく間もなく
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ウルサスカジミエーシュクルビアリターニアヴィクトリアイェラグシラクーザサルゴンミノスラテラーノシエスタイベリア

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悪兆渦流 13-3・戦闘前

息つく間もなく

報告がひっきりなしに届いてくる。

ノーポート区を離れてからというもの、情報網からはまるで雪崩のように、この孤立無援の軍艦に向けて知らせが飛んでくる。

東のリターニアが浮足立っていること。南西のサルゴンに異常が見られること。西のイェラグでは曖昧な信号がキャッチされ、南では……変わらず沈黙が保たれていること。

飛び交う情報たちで窒息してしまいそうだ。私の神経は、これらの情報に四六時中すり減らされている。

だけど……母は動じない様子で、ただ淡々と一つ一つ指令を下している。

もちろん、あの公爵たちが次々と「祝賀の暗号電報」を入れてきた時には、お母様も思わず眉間にしわを寄せていたけど。

これがお母様の生活だ。

お母様がいるこの場所こそ、私の故郷、リンカルダン。

私は帰ってきたんだ。

……

いやいや、集中しろ、デルフィーン。ちゃんと報告を聞かなきゃ。今は余計なことを考えてる場合じゃない。

お母様が着けている眼帯の位置が変わっている。しわを隠すためかな?

……ここの天気はリンカルダンとは全然違うなぁ。空気が淀んでて重苦しいし、いつも雨が降ってたり濃霧が出てたりで、どんよりしている。

はぁ、本当――

???

デルフィーン、何をぼうっとしている?

デルフィーン

何でもありません、お母様。

ただ、その……

こんな角度からロンディニウムを眺めたことなんて、滅多にないものですから。

ウィンダミア公爵

誤魔化さなくても、君が上の空の時の表情はよく知っている。

後方からのごちゃごちゃした報告が退屈か?

デルフィーン

いえ。ただ……ノーポート区でのことを思い返していたんです。

ウィンダミア公爵

すまない。こうも短期間でロンディニウムでの状況がここまで悪化するとは、私も予想していなかった。

もっと早く、君たちを全員撤退させるよう手配すべきだった。

デルフィーン

ロンディニウムで起こったことは大小を問わずすべて分析報告書を作成したんですけど……持ち出すことは叶いませんでした。

謝らないといけないのは私たちの方です。

ウィンダミア公爵

気にすることはない。大多数の物事は、何の影響もありはしない。

デルフィーン

おそらくそれらのほとんどは、カスター公爵が責任を負うことになるんでしょうね。

ウィンダミア公爵

もちろん分かっている。今頃うちのトランスポーターの前で恥ずかしい思いをしていないといいのだが。

デルフィーン

ですが……あれらの情報が後の作戦でどれだけ価値あるものとなっていたかも分からないのに……

ウィンダミア公爵

君よりも価値があるものなどない。肩の力を抜け、デルフィーン。

私も来たことだし、「ガラヴァエ鉄盾」も付近に待機している。リンカルダンに戻れば、すべて元通りになるだろう。

私が戻す。ロンディニウムも、ヴィクトリアも。

デルフィーン

はい。

お母様、私は……

私はあそこで死ぬかと思いました。

ウィンダミア公爵

君は私の娘だ。そんなことはこの私がさせない。

ここ数年、君はよくやってくれている。細部への心配りと我慢強さは父親譲りだ。

だがああいった仕事を君がやる必要はない。私の継承者であるのだから、なおさらリンカルダンに留まるべきだ。

我々とリターニアとのにらみ合いから学べることは多い。君はああいう業務にこそ慣れておくべきだ。それに私も……話し相手が欲しかったところであることだし。

デルフィーン

あの時は、私ならもっとうまくやれると思っていたんです。

……ごめんなさい。

ウィンダミア公爵

「ウィンダミア公爵」たる者ならば、多くの物事に気を配り、鋼のように強い人間であるよう己を律すべきかもしれない。

だが君がそれを背負う必要はない。少なくとも、今はまだな。

母である私が老いて衰えるまでは何なりと頼ってくれていいんだ。

デルフィーン

はい……ありがとうございます、お母様。

ウィンダミア公爵

あと四、五時間もすれば我が家に帰れる。君が領地に置いていったものは、侍女に頼んですべて持って来させてある。

パジャマや、枕、ベッド、バスタブなんかをな。

デルフィーン

どれも私がロンディニウムに来る前のものですね――

ウィンダミア公爵

それほど背も伸びていないようだし、まだ使えるだろう。

その他にも、君のために用意した良いものがいくつかあるのだが、今はまだ秘密だ。

帰ったら、ひとまずゆっくり眠るといい。

だが油断するのは早いぞ。我々にはまだまだやるべきことがたくさんあるから。

デルフィーン

……

ウィンダミア公爵

どうかしたか?

デルフィーン

お母様、私はロンディニウムに、とても長い間いましたね。

以前は多くの仲間たちがいたんです。みんな本当に優秀で、本当に学ぶべきところがたくさんありました。

混乱する都市の中で、私たちは崩壊する日常にひたすら耐えていました。ですがあの時は、全員が自分たちの成すことを信じていました。本当に誇りに思っていたんです。

でもその後で……状況は変わりました。諜報員たちがどんどんいなくなっていって、サルカズたちが堂々と都市を接収して……

孤立無援となった私にできたのは、ただ……もっと平凡な人たちと共に生きていくことだけでした。その時初めて、彼らがどう暮らしているのか、ヴィクトリアをどう思っているのかを知ったんです。

そして……その後、彼らの多くが死んでいきました。生き延びた一部は、今まさにこの船の下層に集まって、お母様からの沙汰を待っています。

私のパジャマやベッドやバスタブの百メートルも下のところで。

ウィンダミア公爵

……ふむ。

デルフィーン

お母様には本当に感謝しています。ですが私はお母様の――

お母様は私の言葉を遮った。

そうして私の頭に手をやった。撫でてはくれなかったけど、私は知っている。これはお母様にとって思いやりを示す方法だと。

ウィンダミア公爵

我が娘よ。君は十分によくやった。私の想像を超えるほどにな。

下の部隊の様子を見に行ってやりなさい。彼らとはもっと関わっておかねばならんだろう。

公爵閣下が離れていった。お母様はいつも行動が早くて、私に何か口を挟む隙を与えてくれない。

私は少し乱れた髪をまさぐった。

デルフィーン

お母様!

ウィンダミア公爵

まだ何かあるなら、また後で話そう。

デルフィーン

お母様は、ここへ自ら足を運ぶべきではありませんでした!

口をついて出たその言葉に、私自身ですら驚いた。

お母様が助けに来てくれたのは……私がここにいたからではないか。

そんなことを言う必要なんてどこにもない。

デルフィーン

こんなこと……危険すぎます!

リターニア人を軽々に信じてはいけません! それに、サルカズたちの次の計画だって分からない!

私たちの情報の遅れは――

お母様は手を左右に振り、私の話を遮った。おそらくは、余計なことを考えるなというサインだろう。

彼女の背後には変わらず鋭い影が伸びている。私が心配しすぎなだけで、お母様なら全てを解決してくれるんじゃないか。何だかそう思える気がした。

はぁ、そうだ、お母様が正しい。

確かに私は、ここ数年間あまり背が伸びていない。


シージ

持ってきた食糧は後どれくらい持つ?

この軍艦には、これだけ多くの難民を受け入れる用意はなかったようだな。

インドラ

だからって放っとくわけにはいかねぇだろ?

さっきだって、エミールが俺の手を引っ張ってきて、でも何も言わないで、じっとこっちを見つめてきて……

こんなの……もう耐えられねぇよ! デルフィーンの奴のところに行こう!

ダグザ

落ち着け、ハンナ。私たちは今、他人の戦艦に乗せてもらってる身なんだぜ。

インドラ

俺はただ――

モーガン

吾輩、後でまたみんなのところへ行ってくるよ。お年寄りの人たちも見知った顔を見れば、少しは安心すると思うし。

シージ

私も同行しよう。

デルフィーン

お待たせしました。補給官と話をつけてきました。

食糧は、すぐに一番必要とする人々に配られることになります……私の権限ではこれが限界です。

シージ

……感謝する、デルフィーン。それとウィンダミア公爵にも。

デルフィーン

母は哀れな人々を、心から助けたいと思っていると、娘である私は身勝手ながら、そう願っています。ですが……

シージ

分かっている。理由は私……あるいは私の身分だろう。

だが、共に逃げてきた者たちを救えるなら、私はそれでいい。

デルフィーン

順応するのが早いんですね、ヴィーナさん。

シージ

我々が自儘に動いている場合ではなくなったんだ、デルフィーン。

船には私を頼りにする者たちがまだ大勢いる。その対象がヴィーナだろうと、シージだろうと……いずれにせよ、私は彼らに対して責任を背負っている。

周りから視線が向けられる。ヴィーナは常に忙しそうだ。

お母様のこの船は、ヴィクトリアのあらゆる戦艦の中でも特に巨大だと言える。けどこれは元々平民の避難用には設計されていない。これほど数の多いケースはなおさら想定外だ。

ノーポート区の人々は、本来弾薬や武器の保管に用いられる船室に身を寄せ合いながら、何とかして比較的清潔な場所を見つけ、そこに腰を下ろすしかなかった。

あまりに危険な軍備は士官たちの手で別の場所へと移されたがここは相変わらず理想的な休憩場所とは言えなかった。ヴィーナたちはここの秩序維持に尽力してくれている。

難民の一部が、陰で彼女の身分について噂していた。船上の士官たちはそれに見向きもせず、ヴィーナも、彼らが「陛下」や「殿下」と呼んでくる声には一切反応しなかった。

だけどいずれにせよ、彼女はすでにこの場所の柱となっている。

平民たちは気付いていないかもしれないけれど、彼らがヴィーナを信頼しているのは、特殊な身分のためというよりも……むしろ、慣れない環境下で彼女だけが唯一頼れる存在だからだろう。

シージ

外の戦況は今どうなっている?

デルフィーン

こちらに上がってくる戦況報告の数が桁外れです。不確定要素が多すぎます。

まとめると、ウェリントン公爵の攻勢は不安定で、私たち自身の防衛線もかなり押されている、といった感じでしょうか……

公爵たちがいまだ全力を出していないとしても、兵力的には圧倒的に優勢なはずなのに。この戦争はもはや、現代戦争理論の範疇を遥かに超えています。

「ナハツェーラーの王」……あいつらについては、古い書物や考古学の文献の中くらいにしか関連する記述を見つけ出せません。

ヴィクトリア……いえ、テラ全体で見ても、真のサルカズの大軍と相対するなんて、もう長い間なかったことです。

奴らの巫術はどんな連鎖反応を起こすんでしょうか? 奴らのやり方は、本当に文献で貶されているような原始的で遅れたものなんでしょうか?

私たちの見えないところで、異なる種族のサルカズたちは、結集してどれだけの力に膨れ上がっているんでしょう? 奴らはなぜ共に立ち上がるんでしょうか?

シージ

……

デルフィーン

けど、そう心配しすぎることはありません。お母……ウィンダミア公爵とウェリントン公爵が、共にこの戦争の指揮を執っていますから。

カスター公爵も明確な意思を表明しました。膠着状態も長くは続かないでしょう。

「ガラヴァエ鉄盾」に戻れば、物資補給も前線支援も――

モーガン

うわっ! なに?

デルフィーン

今、峡谷を越えているところみたいですね……良い兆候です。もうすぐ戦場から離れられますよ。

峡谷。

嫌な予感が募っていく。

お母様の自信がどこから来るものかは分かっている。ウィンダミアの誇るソードガードが今まさにこの船に乗っているからだ。

もしもサルカズたちが、今回の行動をウィンダミア公爵の無謀な賭けだと誤認したとしたら? 奴らはただ、四皇会戦から今に至るまで研ぎ澄まされてきた鋭い刃に、迎え撃たれるまでだろう。

だけど……私たちは本当に、そこまでサルカズのことを理解できているのだろうか?

ダグザ

……シージ、軍艦の速度が落ちてないか?

シージ

そうだな。それに外の天気も……待て、今は何時だ?

ノーポート区を離れてからどれくらいになる?

デルフィーン

え? 数時間くらいじゃないでしょうか?

シージ

この峡谷は、ただの峡谷なのか?

デルフィーン

えっと、特に変わったところは何も。荒れ果てた工業区があるだけで……

荒れ果てた工業区。そうだ、ロンディニウムが混乱に陥るよりも前にこの辺りへと廃棄された場所。

理由は、天災だった。

ならば、天災が残した巨大な源石クラスターが……

インドラ

おい、お前、気をつけろ!

ヴィクトリア士官

……

インドラ

おい、お前に言ってんだよ!

ヴィクトリア士官

……

変だ。

空気に何か別の匂いが混じっている。

私は思わず辺りを見回した。船室内の軍人が――精鋭たちが全員いなくなっている。

おかしい!

デルフィーン

その人から離れて、ハンナさん!

ヴィーナさんが私より一歩先に彼女を引き戻した。

私ははっきりと目撃した……その兵士が……私に向かって笑いかけるのを。

デルフィーン

――警戒!

すでに遅かった。

通路の天井の隙間から滲み出た鮮血が、ぽたりと偽物の目の中に滴り落ちる。

ぽたり。

溶け込み。

広がる。

血?

一体どこから?

シージ

危ない!

ヴィーナが私にぶつかってきた瞬間、血の霧が背後で弾け飛ぶ。

直後、船室全体が一面の真紅に覆われた。

デルフィーン

ち、血の霧? これは、サルカズの巫術!

シージ

ここは民が多すぎる。

モーガン、ダグザ、インドラ。

彼女たち四人はわずかに目配せし合うと、一糸乱れぬ動きで示し合わせたかのように、驚愕する群衆の周りに立ちはだかった。

呆然が恐慌へと変わる。一番隅にいた人々は何が起きたのかすら分からないまま、ただ周りに合わせて叫び声を上げた。

デルフィーン

下へ向かいましょう! 階段は北です!

シアラー少尉

デルフィーンさん!

デルフィーン

あなたは、船医の方ですね?

シアラー少尉

本艦は巫術の襲撃を受けています。従軍術師たちでは、短時間でこの巫術の謎を解くことはできません。公爵様は――

クソッ――こいつらいつの間に――

ダグザ

危ない!

死が彼の喉元の一寸先にまで迫った時、メタルクローの一閃がその致命の剣戟を振り払った。

血の霧が広がり、再び収縮しては、凝集してどろどろと粘り気を帯びた影となっていく。

そして、血の色をした影の中、サルカズが再び姿を現した。

聴罪師直属衛兵

(サルカズ語)ブラッドブルードの巫術が発動した。

ダグザ

貴様らのその格好、見たことがあるぞ。ドクロの面を着けたサルカズ……

聴罪師直属衛兵

(サルカズ語)諸王の息……不確定要素は減らさねばなりません。

(サルカズ語)混乱を生み出し、異族は排除します。己の血を惜しまぬように。

(サルカズ語)ん?

ダグザ

貴様らは、我ら塔楼騎士への包囲攻撃作戦に参加していたな……!

インドラ

おっと、危ねぇ!

聴罪師直属衛兵

(サルカズ語)ヴィクトリア人よ、お前たちの王と共にここで死になさい。

(サルカズ語)やれ。

デルフィーン

(お母様は甲板だ。けど下にはまだ市民や仲間たちがいる……私は……)

モーガン

デルフィーンちゃん、左!

デルフィーン

うっ!

モーガン

気を付けて。

デルフィーン

すみません、ありがとうございます。

相手の数はさほど多くありません、我々なら制圧できます。このドアの向こうが防護室です、まずは平民の皆さんを――

シージ

いや、貴様にはより優先すべきことがある。

あの者たちは私について避難してきた。私は彼らの安全を保証することを約束した。

ウィンダミア公爵はおそらくまだ知らないはずだ。この下層で……最悪の事態が起きていることを。

彼女にここの状況を伝えに行け。貴様らの援軍が来るまで、我々が持ちこたえてみせる。

デルフィーン

ですが私は――

シージ

貴様らの軍は完璧な指揮系統の下で統率されている。我々が短時間でその系統に順応するのは不可能だ。この任務は私たちの方が適役だ。

デルフィーン

ヴィーナ……

シージ

行け!

チッ……石頭め、手が痺れたじゃないか。

聴罪師直属衛兵

*サルカズスラング*……

(サルカズ語)まあいい。「諸王の息」も戦果としては悪くない。

(サルカズ語)皆の者、あのアスランを包囲せよ。

シージ

全員、準備はいいか。やるぞ。

ほんの一瞬だけ、私も彼女らの横に立てたらと願った。

「スロバーノッカー」に加わったばかりの時のように。一人ぼっちの身から、再び共同体の中に戻ってきた時のように。

カドール、私、それにベアード……

私たちは一緒だった。

シージ

図に乗るのもここまでだ。


鋼鉄のハンマーによる一撃が狭い通路の空気を圧縮する。私の背後で衝撃波が激しい音を立てた。


……

……

液体の粒が私の顔にぽつ、ぽつと落ちてくる。

視界がかすんでいる。

???

デルフィーン!

人影が一つ、私に近付いてくる。

???

デルフィーン!

デルフィーン

お母様?

私は目元を拭おうとした。

すぐ目の前に、二つの目が見えた。

その目からは、赤い色が流れていた。

ヴィクトリア士官

デルフィーン様……これ以上前に出るのはおやめください。

デルフィーン

怪我をしているんですね、あなた――

ヴィクトリア士官

あなたでは足手まといになってしまいます。そして、私も。

この……忌々しいものに呑まれる前に、私を殺してください。

ソードガードと公爵様が、あのサルカズを殺してくれるでしょう。

デルフィーン様……無茶はおやめください……あなたでは……

うっ……もう、痛みすら感じない……

私をお助けください。そしてどうかこれ以上進まないでください。

私は無意識に短剣を抜いていた。

彼女の意識はまだ失われていない。こんなことすべきじゃないんだ。だけど彼女の目には、安堵の色が浮かんでいた。

彼女は私の短剣をぎゅっと握り締めた。それからそれを、事もなげに自分の身体に突き刺した。

身体が震えて、前がよく見えない。

ヴィクトリア士官

お嬢様――どうか、生き延びて。

……助けて……いただき……感謝……します……

視線を下ろすと、そこには真っ赤に染まった両目があった。

彼女は微笑みながら、呼吸を止めた。

デルフィーン

これが……サルカズの……

……お母様。

私は一歩も動けなかった。憂慮、不安、それから、恐怖。

この場所の灯りはすでに消えている。私は唯一光がある、甲板の上に目をやった。


死体の間に、ただ静寂だけが流れている。雨が瞬時に凍り付いた。

それから重力に逆らって上に向かい、蒸発し、凝集する。

黒く赤い太陽がゆっくりと、空高く上昇し、もう一つの白日を遮った。

黒い日輪の中から蒼白の顔が浮かび上がる。その顔には、血のシミ一つ付いていなかった。

その男は、今まさに黒色の太陽から下りて来ている。

私は奴を直視しないよう、頭を下げた。

奴を恐れているというの?

なんて屈辱……

ブラッドブルードの大君

……ふむ。

レディ、逃げてはなりません。

そのように青ざめた顔をしていては、もしもこの血があなたの顔に跳ねた時――

より美しい絶望の化粧で彩られてしまうことでしょう。

ウィンダミア公爵

ふん。

血を弄ぶのが貴様らの習性か、ヒルめ。

何百、何千年も生きている割りには、ちっとも進歩が見られんようだな。

雨が再び降り出した。

ぽたり、ぽたり。

ブラッドブルードの大君

ご覧なさい。

死に逝くには相応しい天気です。

ソードガード

公爵様、これは計画的な襲撃です。

ウィンダミア公爵

想定通りだ。

しかし、まさかサルカズの王庭の主が自ら足を運んでくるとは……ふん、まあいい。

ソードガード

下の状況は楽観視できそうにありませんので、士官たちに守りを固めさせています。

ウィンダミア公爵

案ずるな。我々の脅威は奴だけだ。

お母様……ウィンダミア公爵が、侵入者であるサルカズの首領に軍刀を向けた。

表情はよく見えなかったけど、私が知るいつものお母様じゃないことは分かった。

さっきの戦士が言っていたことは正しかった。私じゃただの足手まといにしかならない。

ウィンダミア公爵

リターニアの高塔芸術にはうんざりしていたところだ。

ブラッドブルードの脊髄というのは、どんな形をしているかな?

ブラッドブルードの大君

ふん。

ヴィクトリア人、あなたはとても強い方だ。あなたは、自分が引き下がることなどないと思っているのでしょう。

しかし、血液はあなたの意に背きます。

創造主は人類のため、生命の橋を造りたもうた。そして私は、その橋の上に立っているのです。

ほう?

ウィンダミア公爵

厄介さにかけては、高塔の狂人どもとさして変わらないな。

青い剣閃が血の雨を切り裂いた。

小さな雨粒がお母様の頬を引っ掻く。

あれは……赤い雨なのか、それとも滲み出た血だろうか? よく分からない。

お母様の表情に変化はない。けど……お母様が怪我をしたところなんて、初めて見たかもしれない。

ブラッドブルードの大君

哀れですね。

あなたはいまだ、あることに対し非現実的な幻想を抱いている。

なぜあなた方の軍艦が突然内部から突破されたのか、あなたならば答えを察することはできるでしょうか?

ウィンダミア公爵

……

目の前の任務に集中しろ、ソードガード。

迎撃態勢を崩すな。

ソードガード

はい。

ウィンダミア公爵

お前たちの使命はウィンダミアの敵を排除することにあり、ウィンダミアの命を守ることにあらず。

サルカズの力を確実に削り取れば、ヴィクトリアは自らの財産を奪い返せるだろう。

ブラッドブルードの動きが少し鈍くなった。

いや、ソードガードたちの動きが速すぎるんだ。

私は専門の軍事訓練を受けたことがある。決して何の準備もなしにロンディニウムに留まったわけじゃない。

だけどこの時、「ウィンダミア公爵」という言葉の重みを唐突に理解した。

目の前で戦うこの母は、自分が知る本当の戦場を、娘に見せたことなんてなかったんだ。

ブラッドブルードの大君

くっ。

確かに少しはやるようですね……ふむ。それも当然でしょう、あなたはヴィクトリアの公爵なのですから。

一体どれだけのサルカズを貪り食ったのですか?

ウィンダミア公爵

生憎とそのように吐き気のする趣味は持ち合わせていない。

ブラッドブルードの大君

いいえ。

あなたとその先祖たちは戦場に君臨していました。カジミエーシュからリターニアに至るまで。

ウィンダミア公爵はかつてサルカズの軍隊を所有していました。この大地全土にまで波及しかけたあの戦争、四国戦争で……

あなたは……あるいは、あなたの先祖は、如何にして彼らを利用しましたか?

ウィンダミア公爵

……

ブラッドブルードの大君

狡猾な小細工、盗み出した巫術、そしてナハツェーラーが好むやり口を用いて、あなた方は彼らを束ねました。

サルカズの血肉は戦場にばら撒かれ、あなた方の誉れ高き戦艦が往く航路上にそびえる砦に仲間入りしました。

そう……あなたは彼らを残らず食らい尽くしてしまったのですよ。

ウィンダミア公爵

貴様は敵討ちに来たのか、サルカズ?

ブラッドブルードの大君

ええ、もちろん。

私が生み出したアーツを、鮮血の王庭に属する財産を、あなた方はよくもまあ弄べるものですね?

ソードガード

……あの血が、死傷者の血が、奴を強化しているのか?

ウィンダミア公爵

違う。

あれはもう血管を流れる体液ではない。もはや呪いの一部と成り果てたのだ。

反撃のアーツを準備しろ。


落ち着け。

深呼吸するんだ……

喉がかすれて声が出ない。肺一杯に空気を吸い込もうとしたけど、空気からは血の匂いしかしなかった。

ブラッドブルード、それに……聴罪師。

ここはお母様の旗艦だ。リンカルダンで最も経験豊富な指揮官が最も勇敢な船員たちが、最も忠実な戦士たちが集っている。

前にお母様が言っていた。戦争は、単騎で戦うものでも、ましてやヒーローごっこでもないと。指揮官は戦場全体を見据え、勝機を見出さねばならないと。

だけど――

私はふと思い至った。この船が援護のない状況下で、敵陣に乗り込んだ原因は――

私にあるんじゃないかと。

デルフィーン

私が……

違う……

今は後悔なんかしてる場合じゃない。

何か行動を起こすんだ。お母様の戦いに手を出せないんだったら……誰かがこの場の混乱を治めないと。

この場所には王庭の主が姿を現している。だけど、本当にそんな軽率に攻め込んでくるものだろうか?

諜報員としての経験が私に告げている。きっとまだ何か見落としてるんだ!

何か行動を起こさなきゃ。

考えろ、早く!!


デルフィーン

――!

……まさか……いや……軍隊を移転させるアーツなんてそもそも聞いたこともない……軍艦が攻め込まれたのは、内部から……

あの感覚……

変形者。

ノーポート区を離れた時に直接会ったことがある。アーミヤさんも、あの恐るべきサルカズ王庭の主のことを話してくれた。奴はあの時に敗北したはず……なのにどうして……

とにかく、それが最もあり得る答えだ。

この船には、王庭の主が二人同時に存在している。

……絶望的な結論だ。

デルフィーン

……けど、ブラッドブルードは? 巫術を使って士官たちを襲撃できるなら、どうしてターゲットに直接手を下さないんだろう?

いや……まず巫術で副次的目標を襲い、それから刺客に騒ぎを起こさせるなんて……そんなの、余計な手間がかかりすぎる……

けど、お母様とやり合っているあのサルカズは……

変形者は……ただヴィクトリア人に成りすまして、私たちの中に紛れ込んだだけなの?

もしも……

――しまった!


デルフィーン

お母様!

ウィンダミア公爵

デルフィーン!? 下がれ――

デルフィーン

そいつは偽物です!

ソードガードたちの剣がブラッドブルードの身体を刺し貫いた。

直後にアーツの光がサルカズの歪んだ顔に流れ込む。それはウィンダミアのソードガードたちが代々受け継ぐ、素朴だが残虐なアーツだった。

お母様は素早くターゲットに視線を戻した。

私は短剣を抜いた。

ソードガードたちに私の叫びは届いていなかったが、お母様は覚悟を決めていた。

ブラッドブルードが笑う。

巨大な血のアーツは発動する間もなく、音をたてて炸裂した。

粘り気を帯びた空気が一陣の爽やかな風に飲み込まれる。血生臭い雨と風が瞬時にして跡形もなく消え去った。

「死」は静かになった。そして真の恐怖が、ゆっくりと広がり始める。

鮮血がその人影の手の上で、凝集し……精巧な結晶へと変わっていく。そして……

もう一人の、本当の――

ブラッドブルードの大君

もういいでしょう。

二人目の私を目に入れるのは好みません。

ソードガードたちはたちまち剣を抜き、後ろへ下がりつつあった。

しかしそれでも二人の肉体が、一瞬の内に理解不能な状態へと変じた。

短剣を握る手が震え、息が詰まるのを感じる。この戦いは私の理解を超えている。

ブラッドブルードの大君

たかが小娘に看破されるとは。

腕が落ちたようですね、変形者。以前はもう少しうまく似せていたはずです。

変形者

……

……そうかな?

ブラッドブルードの大君

それらのアーツは、聴罪師の劣悪かつ憎むべき模倣に過ぎません。

悪臭を放ち、優雅さに欠け、何もかもがお粗末なただの殺戮です。

奴は私と、続いてお母様に目を向けた。

身体の震えが止まらない。

ウィンダミア公爵

デルフィーン。

デルフィーン

は、はい!

ウィンダミア公爵

直ちに真相を見破ったこと、見事だった。お前がいなければ、ソードガードは全滅していただろう。

だが今、お前は足手まといだ。

デルフィーン

――わ、私は――

ウィンダミア公爵

護送艦が接近しつつある。我々は艦隊との連絡が途絶えぬよう、通信塔の安全を確保せねばならない。

デルフィーン

通信塔は……甲板の後方です!

ウィンダミア公爵

敵の数はさほど多くない。行け。

……お前に任せたぞ。

お母様は、傷付いた手で私の肩を叩いた。

だけど、今になって私はようやく気付いた。お母様には、私の知らない傷跡がもっとたくさんあっただろうってことに。

デルフィーン

……分かりました。


私は振り返ると、通信塔の方角に死に物狂いで駆けた。

誇り高い気持ちが、一瞬だけ恐怖を覆い隠した。お母様が私に「任せた」と言ってくれたんだ。

通信塔を爆破しようとする聴罪師たちと、いまだ抗い続ける兵士たちの姿が見えた。

デルフィーン

よかった。通信塔はまだこっちの手に――

軍艦が、減速してる!?

……エンジンだ! 奴らが機関室を攻撃してる!

――!

ヴィクトリア兵士

く、クソッ――!

デルフィーン

――

手を伸ばしてください!

振り返らないで! 這い上がるんです!

ヴィクトリア兵士

ああ、ありがとうございます! あなたは、デルフィーン様――

デルフィーン

再び攻勢を整えないと。援軍がもう間もなく着く頃です。

戦士の皆さん!

遠方に土埃が舞うのが見えました! 我々の援軍がここに接近しつつあります!

奴らの今回の計画は――

こんなにもあっさり失敗に終わったというの?

私は振り返った。

甲板の前方は一面が血の霧に覆われている。そこから見えるのは、剣閃とブラッドブルードのアーツだけだ。

どうしてこんなに不安を感じるんだろう?

私は――

シージ

デルフィーン! 避けろ!

目。二つの目ががこちらを見ていた。雨粒が止めどなく降り注ぐ中で甲板の血溜まりに映る影から。

奴の……ブラッドブルードの手が私の首の後ろを掠めようとしている。なぜ? 奴はお母様と戦っているはずじゃ?

ヴィーナが私を押しのけようとしている。けどもう間に合わない。

剣。そうだ、私にはまだこの剣がある。

私はお母様の娘だ。

お母様に任されたんだ。

血液によって作り出された真紅の巫術が消え去った。

デルフィーン

ハァ……ハァ……

シージ

無事か!?

デルフィーン

はい、精神的なものなので……私なら大丈夫です。

シージ

下の敵は貴様らの部隊が抑えてくれた。応援に来たぞ。

それと悪い知らせだ。下で変形者の痕跡を発見した。

デルフィーン

ええ、知っています。ブラッドブルードと変形者が、代わる代わる攻めてきているんです。

いや、待てよ……

さっきの一撃は変形者の陽動じゃない。あれは間違いなくブラッドブルードの巫術だった。

もしあの王庭の主が私を殺そうと思っていたのなら、私は今頃とうに死体になっている。

あれを防げたのは、決して私が強かったからではない。

相手には元から他の狙いがあったからだ。

私は再び、そう遠くない場所へ目を向けた。ソードガードの剣閃が変わらず輝いている。彼らの影が一つになっていく様がかすかに見えた――

いや、違う。

彼らは……一人、一人と続けざまに……倒れている。

後退しているの?

おかしい。

お母様は?

シージ

デルフィーン、どこへ行く!?

チッ、面倒な!

聴罪師直属衛兵

……

(サルカズ語)血の匂いが変わりました。聴罪師様は目的を果たし大君もまた勝利を手にしたようです。

(サルカズ語)撤退いたしましょう。

(サルカズ語)自由に動けぬ者は、私の指示に従い、短刀を胸に突き立てなさい。

シージ

貴様ら――


そんなはずがない。

偽物のブラッドブルードに消耗させられていたとはいえ、ソードガードとお母様たちがこんな簡単にやられるなんて。

だってあの伝説は聞いたことがあるもの。高塔を壊滅させる光の利刃、岩壁を貫くウィンダミアは、ヴィクトリアで最も鋭い二本の剣の内の一つだと。

子供の頃からずっとそう聞かされてきたんだ。

なのにどうして? あり得ない!

私は血の霧に向かって飛び込んだ。どんどんと跳ねていく自分の心臓の音以外、何も聞こえなかった。

そしてようやく、人影が見えた。

ウィンダミア公爵

……うっ。

変形者

……両腕の感覚が失われて、護衛たちも全滅した。

君は今、どんな形をした感情を抱えているのかな?

……

ウィンダミア公爵

……ハァ……ハァ……

サルカズ……

変形者

彼は上手に隙を突いたね。

あの時に君が見せた一瞬の綻び、狼狽に乗じて……でも、一体どうしてあんな隙を見せたの? 僕たちには理解できない。

僕たちは……とても残念に思う。

ウィンダミア公爵

……

ブラッドブルードの大君

……

もはや命運は覆りません。この強き戦士には、枯れ果てる命の味を一人噛みしめる暇を与えましょう。

変形者

もう行っちゃうの?

ブラッドブルードの大君

この者に残余されたのは卑小な死のみ。これでいいでしょう。わずかの興味もそそられません。

悪魔は軽く横目でこちらを見た。それだけで、私の全身の血液が凍り付いた。

だけど奴は手を出してこなかった。

ブラッドブルードの大君

凡庸。これらの血は、千篇一律でしかありませんね。

変形者

君が求めてるのは何かな? 僕たちには……まだよく分からない。

ブラッドブルードの大君

……

屈辱の時代がもうすぐ終わりを迎えるのです。

変形者

怪我したの?

ブラッドブルードの大君

……些末な傷です。

奴は鮮血の中に溶け込み、完全に姿を消した。

デルフィーン

お……お前たち……

変形者

……ああ、そこにいたんだ。

私たちを見破った人だな。

奴は私たちは腕が落ちたと言っていたが……前の私たちは、どれくらい似ていた?

これでどうだ?

デルフィーン

やめろ――お母様の顔をするな――

奴はお母様の顔で私に笑いかけた。

変形者

……試してみる必要がある。

それから、一本の軍刀を――紛れもなく、お母様のと同じ軍刀を――

自身の胸に突き刺した。

デルフィーン

サルカズッ!!

私は狂ったように飛び掛かろうとしたが、激情に反して身体は少しも動かなかった。

変形者

(サルカズ語)次は、もっとうまくやりますよ。

奴が私の顔のまま、耳元で囁きかけてくる。

お母様の剣が、奴の胸に突き刺さっている。

……「私」の胸に。

奴は倒れた。その直後、既視感のある鮮血の巫術が奴の身体を覆い尽くし、そのまま呑み込んだ。

血がすべてを跡形もなく消し去った。まるで何事もなかったかのように。

私は、お母様の剣を拾い上げるしかなかった。

私には……

お母様の姿が見えた。

死闘の音が止み、風は弱まっている。軍艦は完全に停止していた。

青い髪が無造作に地面に広がっている。お母様が血を流している。

デルフィーン

――

ウィンダミア公爵

……デルフィーン……

よく、見えないが……

奴らは、退いたのか?

デルフィーン

お母……様……

奴らは……いなくなりました……

お母様、その……すぐに医者を呼んできます――

きっと大丈夫です。あなたはウィンダミア公爵なのですから! あなたは、私のお母様なのですから!

待っていてください、私――

ウィンダミア公爵

まさか……しくじるとはな。

行くな……デルフィーン、ここにいてくれ。

顔を……よく見せてくれ。

お母様の身体が冷たくなっていく。

私は手を離せなかった。

お母様の心音がどんどん遠のいていく。

ウィンダミア公爵

泣くな。

デルフィーン

泣いて……おりません、お母様。

ウィンダミア公爵

剣を振るお前の姿を、見たぞ……デルフィーン……よくやったな。

お前は、手を怪我していて、剣の握り方が……いつも違っていた。あの頃の私は結果が早くほしくて焦りすぎていた。

デルフィーン

お母様……やめてください、お母様……

お母様はいまだ遠くを見続けていた。あちらはロンディニウムの方角だろうか?

お母様は、いつも前線からヴィクトリアを望んでいた。

ウィンダミア公爵

お前の父が、最後に旅立っていった方角を……いまだに覚えている……

元々、お前に、サプライズがあったんだ。ずいぶん前から用意していた、お前へのサプライズ……

デルフィーン

お母様……

ウィンダミア公爵

デルフィーン、お前は――

もう少し……背が伸びていると思っていたから、大きめの服になってしまった。

デル……フィーン……焦らず、とも、いい……


雨が止んだ。