相変臨界 17-7・戦闘前
理性の喪失
若将軍の容体はいかがですか?
もうお休みになりました。
つまり、命の危険は脱したということですか?
……はい。
では、あなたもお休みください。以降私が夜警を務めますので。
若将軍のために尽力していただき、感謝いたします。
いいえ……私はただ、助けを求めるすべての人へ、平等に癒やしをもたらしたいだけです。
それに、まだ疲れてはいませんから。もしかすると、ここにはまだ私の助けを必要としている方がいるのではないかと思いまして……
私は、もう少しだけ一人で外の様子を見てこようと思います。
我々にあなたの行動を止めることはできませんが……若将軍には、あなたを傍に留めるよう命じられております。
若将軍がお目覚めになった時、あなたがいないことにお気づきになれば、ひどく機嫌を損ねるでしょう。
お約束します、ほんの少し離れるだけです。どうか私に機会をください……私自身の心を満たすために、もう少しだけ何かしたいのです。
わかりました。ですが、くれぐれもお気をつけて。
現在、街にはますます多くの感染者が入ってきています。あの粗暴な者たちがあなたに無礼な振る舞いをしないという保証はないのです。
……気をつけますね。
お願いです! 私の友人は今とても危険な状態で、どうしても薬が必要なんです!
言ったはずだ、夜間は誰であろうと住居から出てはならない。
お前にできるのは、申請書を提出して通達を待つことか、あるいは病人を我々に任せることだけだ。後者を選べば、彼女を治療できる場所へ送ってやる。
ですが、あなた方は付き添いで入ることを許してくれないじゃないですか! もう時間がありません、今すぐにでも――
日が昇るまではダメだ。規則だからな。
……
ウミャ……
えっ?
諦めろ、嬢ちゃん。
あなたの後ろ、草むらにいる……あれは何ですか?
そんな手は通用しな――
ギャオォォ――!
ナベレジナヤ区にて目標の痕跡を発見した。第三エリア付近だ。
了解。付近の巡回部隊が応援に向かう。
……いや待て、あの化け物は、まさか――
誰か、誰か来てくれ!
衛兵は慌てて振り返り、すぐに建物付近の警備についている仲間を呼んだ。
アーミヤは最後に草むらを駆け抜ける黒い影を一目見ると、迷う暇もなく、即座に別の方向へと走り出した。
ゼルグラード中心部
1102年1月21日 01:25
(ふぅ……)
(この通りは、昼間に来た時は多くの人が歩いていましたね。)
(えっ――)
――すみません、本当にすみません!
工場でボイラーの温度をチェックしてて遅くなったんです、すぐ戻りますから――
規定違反の夜間外出につき、罰金および拘留処分とします。
連行してください。
どうか見逃してください、労働時間を減らすわけにはいかないんです――
――
(どうやら、あのサーチライトを回避して進む必要がありそうですね。でもここでは、どうしてこんなに厳しく夜間外出禁止令が敷かれているのでしょうか?)
(アーツのオーバーロード反応を抑制できる薬が、もっと見つかるといいのですが。)
(Raidianさん……)
街灯が並んでいるにもかかわらず、夜のゼルグラードはまるで双月や星明かりにすら見放されたように暗かった。
アーミヤは容赦なく辺りを照射するサーチライトから身を隠すように通りの隅を走りながら、立ち並ぶ建物の看板を次から次へと確認していく。
グルルッ?
――!
あなたでしたか……あなたを追っていた人たちも近くにいるんですか? 彼らはなぜあなたを捕まえようとしているんでしょうか?
(すり寄る)
(アーミヤのワンピースの裾を引っ張る)
え……私についてきてほしいんですか?
ごめんなさい、今は急いでいて――
ウミャ!
暗がりの中、「雲獣」はワンピースの裾を引っ張り続け、近くの薄暗い路地の奥へと誘い込もうとしていた。
アーミヤは、それが「案内」する方向を見やった。サーチライトも頻繁にそちらを照らそうとしていたが、影に覆われた場所までは届いていない。
えっと――
やっぱりついて行ってみましょうか。
これは……一体?
サーチライトが届かない暗がりに身を潜め、壁にもたれかかるその姿は、すでに「人」と呼べる領域を逸脱していた。
全身の皮膚のほとんどが包帯で覆われているが、その隙間から露わになっている部分は、ぞっとするほど透き通った緑色に染まっている。
片腕の皮膚とわずかに残存する筋肉組織は、まるで苔の塊のように固まっており、無残にも剥がれ落ちている。
彼は己の腕を、さらに何重にも包帯で巻くしかなかったのだろう。皮膚や血肉が朽ち果て、体から落ちていくのを、それで少しでも食い止められると信じ込むかのように。
(しゃがれたうめき声)
その――いったい、お体に何があったんですか?
ムル……
ムル、どこにいるんだ?
ウミャ……
「ムル」? ……この子のお名前ですか?
サーチライトのわずかな光を頼りに、アーミヤはようやく自分のそばにいた「雲獣」の姿をはっきりと確認できた。
――!?
ウ……ミャ――
奇妙な生物は低い呻き声を何度か漏らすと、アーミヤがその人物に気づくのを確認したような様子で、あっという間に姿を消した。
見えない……何も見えないんだ! ムル、どこに行った?
……ムル――!
奇妙な人物が、よろめきながらゆっくりと歩いてくる。包帯の下で縛りつけられた、どろりとした皮膚と肉が、ぞっとするような摩擦音を立てていた。
もう少し歩を進めれば、彼はサーチライトの照射範囲に入ってしまう。彼が何も知らないまま自分の身を晒してしまう前に、アーミヤは駆け寄って呼び止めるしかなかった。
そこで止まってください――!
誰だ?
誰なんだ……
失礼ですが、あなたは……どういったご病気ですか?
私に――何かお手伝いできることはありますか?
そんな、あなたの手は……
倒れ込む男を、アーミヤは無意識のうちに受け止めた。四肢が激しく痙攣するとともに、腐敗した沼のような異臭が、男の体からひっきりなしに立ち上ってくる。
それは紛れもなく、死の気配でもあった。
ムル……ムルカ!
お前たちは……皆……
……俺を残して……
二度と会えなくなった。
二度と……
「二度と会えなくなった。」
目の前にいる人物の戸惑いと痛みの中で、アーミヤは再び、自らを苦しめる感情に触れた。
黒い王冠が虚空に浮かび上がる。
ほんのわずかな意識の接触。その中で、彼女は質素な家屋を、家を出たきり二度と帰ってこなかった女性と子供を、窓枠から飛び降りる雲獣を見た――
そして、化け物を連れ帰った一人の男の姿も。
「先日、新しい工業区画の基盤構造の施工不良による崩落事故が発生しました。隣接する区画の学校では、教職員および生徒合わせて十九名が死亡し、三十四名が負傷しています。」
「……なお手元の情報では、このニュースの発表時点で、遺族への補償金の支給はすでに完了しているとのことです。この度の事故に関しまして、我々は深く哀悼の意を表するとともに……」
もう窓は開けないぞ、ムル。隙はやらないからな。
ウミャ?
俺も、もう二度とドアを開けない……
誰が来ようと、開けたりはしない。
ここを、お前と俺だけの場所にするんだ。
俺たちだけで、永遠に……
「……工業区画の実験動物が行方不明になりました。緊急の際は、番号10103までご連絡ください。畜産局に情報を提供された方には謝礼を……」
ウミャ……
もうどちらかが離れることもない、奴らはこれ以上俺から何も奪うことはできない。
そうだ。そうなんだ。
キリル!
キリル、家にいるのか!?
もう一週間も工場でお前の顔を見ていないが大丈夫か?
もし無事なら、現場監督に一言、休暇を取ると正式に伝えてくれないか? 俺が言っても聞き入れてもらえないんだ――
キリル……
聞こえるなら覚えておいてくれ。お前にはまだ俺たちがいる。
俺たちはチームだろ、忘れたのか?
……
あなたの症状と、「ムル」、それにあの扉の向こうからの声――
これらは一体……?
はっ――!
(しまった、見つかってしまいました!)
(でもここまで来るにはまだ時間があるはず、なんとかしてこの人を連れ出さないと。)
(もう気を失っていますし、早くしないと――)
目標を発見しました。
抵抗はおやめください。
第三エリアの巡回部隊、配置についてください。
(ダメです、捕まるわけにはいきません、事態がもっと複雑になってしまいます。まだこの人の状況をはっきりさせていませんし、これこそゼルグラードが隠したいことなのかもしれません――)
――!
(そうだ。接続エリアで会ったあの人は「粉」や「感染」という言葉を伝えていました。そしてここに来て、奇妙な症状の人……間違いありません、きっとそうです!)
ごめんなさい、私はどうしても――
抵抗はおやめください。
抵抗はおやめ――
早く、ついてきてくれ!
こっちだ!
ゼルグラード中心部 地下生活層
1102年1月21日 02:16
街に誰もいません……でも、地下の空間にはたくさんの人がいるんですね。
さっき感染者の方が教えてくださった道は、ここに通じているのでしょうか……?
この先で事件があったんだよ、早く人を呼んで――
おっと、お嬢ちゃん? どうしてこんな場所にいるんだい?
すみません、前方で何が起きたのでしょうか?
酒場の店主、プロホルが死んだんだよ! どうやら強盗に遭って、殺された後に下水道へ投げ捨てられたみたいなんだ。まさかゼルグラードでこんなことが起きるなんてね。
水道の清掃員が見つけたんだよ。今から何人か呼んで、死体の引き上げを手伝ってもらわないとね。夜が明けたら、警察も呼ばないと……
はあ、あんたにこんな話をしてもしょうがないね! お嬢ちゃん、ちょっとどいてね、こっちは急いで人を呼びに行かなきゃならないんだよ。
確かに力仕事については、私ではお役に立てそうにありません……ごめんなさい。
気にしないで。
(ここが、死体が見つかったという場所でしょうか?)
(誰かいます……)
こんにちは、あの――
人手は見つかったか?
って、子供じゃないか。親御さんはどこだい? ここは子供が来ていい場所じゃないよ。
こんにちは。道を尋ねたいのですが……助けを必要としている方の居場所を、ご存じないでしょうか?
感染者、またはその他の病に苦しんでいる方々の居場所を……
変なことを言う子だな。でも、言いたいことはだいたいわかるよ。病院を探してるんだろ? 家族に何かあったのか?
病院……それでも構いません。
だが、今外に出たら捕まっちまうぞ、お嬢ちゃん。もし急ぎで医者に診てもらわなきゃいけないなら、一つ場所を教えてやろう……
金さえあれば、あの人はどんな病気も診てくれる。
……
「赤い丸が描かれた大きな鉄の扉から外に出て、地上に着いたら、街灯もなく、サーチライトに『注目される』こともない道を進むんだ。」
「ずっと奥まで進んで、壁に突き当たったらしゃがんで、そこを押してみろ。緩んでるところが、押し開けられる『扉』になってるから。」
「扉を開けると荒れ果てた工場が見えるだろう。君が探している診療所と医者は、その中だ。」
先生……先生……
助けてくれ、この痛みを止めてくれ。俺の「配給券」を全部やるから! もう本当に耐えられないんだ、あの石が俺の皮膚の中でどんどん増えていくのが聞こえてきて――
先生が言ってたじゃないか。薬に頼っちゃいけない、ある程度の痛みが出るまで待たなきゃ使えないって。そうすれば耐性がつきにくいし、効果も長続きするんだ。
もう少し、もう少しだけ待とう……今日の薬を打ったら、昼間は工場に戻って働かなきゃならないんだ。今のうちに少しでも休んでおきな。
もう立ち上がれもしない……
幻覚だって! 痛みが強すぎて、それしか感じられなくなってるんだ。どれ、この痛みの具合だとレベルは――
おっ、もう薬を使ってもいいんじゃないか?
早く、聞いてきてくれ――早く!
私に見せてください。
あんたは誰だ?
誰でもいい、俺を助けてくれ――頼む!
何を言ってるんだ! この子が何者なのかもわからないんだぞ。もし――
ヒアダは歩み出ると、担架に横たわる感染者の両手を握った。
その手は氷のように冷たく、脚と同じように、至る所に細かな源石が生えている。ひとたび発作が始まれば、死んだ方が楽だと思わせるほどの、絶えずじわじわと続く痛みに襲われるだろう。
あんた、何をするつもりだ!? 先生を呼ぶぞ! 先生――ナデジダ先生!
はあ……はあ……
……おい、待て。こいつの体の源石、なんか色が変わってきてないか?
私にできることは多くありませんが、少なくとも――彼が苦しまないようにすることはできます。
……こいつ、死んじまったのか?
いいえ、そんなはずは――
誰が……死んだって?
*ウルサススラング*! てっきり――てっきりあんた、あのまま運よく空の上に行っちまったのかと思ったよ!
本当に痛くなくなった……ありがとな、あんた。
あんたが誰で、何でそんなことができたのかはわからん。だが、こいつが俺の心配をしてくれたことに免じて、こいつのことも治療してやってくれないか――
こいつは失礼な奴なんだ、すまんな。俺が代わりに謝るよ。
おい!
いえ、問題ありませんよ。
ご心配なく、私はそのために来たのですから……
彼女は静かに語りかけながら、傍らに座る感染者の手を取って握り締めた。
たちまち、あの神秘的な力が再び作用し始める。目が眩むような温かい光の中で、彼はまるで生まれ変わったかのように感じ、そのまま床から立ち上がった。
なんて不思議なんだ……! あっという間に治っちまった。どんな特効薬よりも効果があるなんて、どういう理屈なんだ?
あんた、一体何者――
あっ、ナデジダ先生! いえいえ、先生の薬が効かないなんて思ってませんよ、絶対に!
えっと……
ナデジダ先生……
(おそらく地下層のあの人が言っていた医者ですよね……?)
ヒアダが振り返ると、廊下の突き当たりにある閉ざされていたはずの小さな扉が開け放たれていた。
扉の前には白衣を羽織り、手袋とマスクをつけた中年の女性が立っており、扉の内側からは手術室特有の白々とした光が漏れ出していた。
あ、先生……
医師が首を横に振る。彼女はタオルで手を拭き、手袋をつけ直してから、ヒアダに手招きをした。
あなたが、アーツで鉱石病の痛みを取り除けるという噂の人ね。
私のこと、知っているのですか……?
ええ、私の患者をかなり減らしてくれたから。そのうちここに来るだろうと思ってたわ。
客観的に言えばあなたは病を治したけれど、私の主観で話すと、あなたのおかげで多額の収入を失ったと言えるわね。
あなたは、医者だと思うのですが……
医者だってご飯を食べないと生きていけないのよ? それに法律的には、私はもう医者じゃないわ――免許を剥奪されたから、今はここに来て無免許で医療行為をしてるの。
もう一度免許を取るための費用を工面するためにね。ねえ、私の飯の種を奪った相手を今どうするべきだと思う?
あなたの境遇に関しては同情します。それでも……私は助けを必要としている患者さんたちを、放っておくことはできません。
少女の緊張した表情を見て、マスクに隠された医師の表情がいくらか緩んだようだった。
ふふ、ごめんなさい。今のはちょっとした冗談だから、気にしないで。ただでさえここは辛気臭いったらないんだから、明るくいきましょ。
とはいえ、どうやってそんなとんでもないことができたか興味があるのは本当よ。すごいアーツを使えるのに、佯狂者のように布教をするばかりで一銭もとらないなんて理解できないわ。
私の力について、説明することはできません……ただ、私に悪意がないことだけは、信じてもらえないでしょうか。
ふぅん、そう。確かにあなたは可愛らしいけれど、私のこれまでの経験からすると、見返りを求めない人間は信用できないわね。
子うさぎちゃん、あなた本当は何をしにここへ来たの?
ナデジダ先生! 早く、急患です!
今回のは全く見たことのない症状で、病状もかなり深刻に見えます――
あれ? ヒアダさん、どうしてあなたもここに?
あ……数日会っていない間に、顔色が良くなったようですね。
お喋りはそこまでよ。まずは患者を見せて。
……
ボリスラフ、すぐに防護服を着て、手術の準備を手伝ってちょうだい。
わかりました!
……
……いいえ、先に代謝遮断薬を一本服用しなさい。それからどうにかして、すぐにトーニャに知らせて。
手術は私が一人でするわ。
ストレッチャーがヒアダのすぐ近くを通りかかった時、彼女は患者の弱々しくも苦痛に満ちた呻き声を聞いた。
彼女は無意識に手を伸ばし、これまでと同じく救いを与えようとしたが、それで相手が慰めを得られることはなかった。
患者は呻き声を上げながら、手術室へと運ばれていく。彼女は生気のない手を握ったまま伴って歩いたが、最後は手術室のドアの前で手を離して見送るしかなかった。
よかった……なんとか辿り着けました。
あなたが患者さんを見つけたのですか?
ありがとう……ございます……
自分にできることをしたまでです……あなたもここのお医者様ですか?
あの患者さんの容体はとても奇妙でした。あんな鉱石病の症状は、これまで見たことがありません……いえ、そもそもあれが鉱石病なのかどうかもわかりません。
もしご存知でしたら――
私は医者ではありません……そうだったらよかったんですが。
私にはあの人たちを治せないんです。私ができることなんて、ほんの少しだけで……
ごめんなさい、私の早とちりでした。どうやら、あなたは修道士の方のようですね。
謝らないでください。私も気がついていなかったので……あなたもすごく重い病気を患っているなんて。
私の病気、ですか? ……どうして私の病状をご存じなんですか?
いいえ……あなたはあの方々とは違います。あなたは重い病気に蝕まれていますが、救済を求めてはいません。だから、私からは何もするべきではないんでしょうね……
ですが、それほどの苦痛を背負っていながら、どうして平気な顔で耐えられるのですか……?
すみません、意味がよくわから――
小柄なコータスは、壁一枚を隔てた手術室に視線を移した。
苦痛を……私はたくさんの苦痛を感じ取っています。
もう自分は苦痛など感じることはないと思っていました。ですが、苦しむ人々を見ると、やはり感じてしまうんです……とても、とても重い苦痛を。
なぜ……神は人々に苦痛を与えるのでしょうか?
このような苦痛で人々に試練を授けるのは……苦痛だけが神の法則だからでしょうか?
アーミヤは不思議に思った。
目の前にいる、自分より年下に見えるコータスは、年齢とはまったくそぐわない悲しみと憐れみの雰囲気を纏っているように思えた。
「魔王」の力が、ふたたび無意識にアーミヤの意識を傍らの少女と繋ぎ合わせる。今度は黒い王冠が浮かび上がることすらなかった。
はっきりとした感情が伝わることはなく、感じられたのは乱れた雲や霧、あるいは暗い流れが渦巻く海のような手触りのみ。少女の意識に根ざす果てのない悲哀が、彼女を吞み込もうとしていた。
アーミヤは、それ以上深入りする気にならなかった。
ですが、私の知る限り、その試練はラテラーノの法が提唱しているものではないような……ごめんなさい、あなたの信仰を冒涜するつもりはないのです。
私は、あって当たり前の苦難が存在するなんて信じません。強いられた苦痛は、私たちが全力を尽くして抗うべきものだと思います。
苦しむ人々を助けて、害を及ぼす人々に打ち勝つこと……それこそが私たちのすべきことです。
だけど、どうしても救われない人もいます。
苦しみ続ける人は必ずどこかに存在していて、苦難に終わりはありません……私たちがしていることに、本当に意味はあるのでしょうか?
あなたは、絶望しないのですか?
……
する、かもしれません。
もし私が一人だったら、きっと絶望して、その絶望に打ちのめされてしまっていたと思います。
ですが、私はいつだって一人ではありませんでした……
私に理想を語り、この大地の別の姿を描いてみせてくださった方がいました……人々は隔たりを乗り越えられると、この大地はすべての人々にとっての家になりうるのだと。
彼女の理想は多くの人を励まし、団結させました。その思いが受け継がれているのを私は見届けましたし、これからももっと多くの人が受け継いでいくと信じています。
どうすれば苦難を完全に消し去ることができるのか、私にはわかりません。それはきっと「神」にしかできないことです。
苦難を終わらせることはできません。ですが希望もまた、絶えず続いていくものです。
すべての人々にとっての……家。
……
先生、彼の容体はどうでしょうか?
彼をどこで見つけたの?
第一エリアの、工場の側の路地です。
……キリルの自宅は、そこからかなり離れた場所のはずよ。
自分がもう長くないことを悟ってたんでしょうね。きっと死んだ後に、知り合いに見つかりたくないとも……可哀想なトーニャ、まだキリルを探しているのに。
ということは……
最善を尽くしたけれど、生命維持に関わる生理機能がすでに手遅れなほど壊れてるわ……私にできるのは、少しでも彼の痛みを和らげてあげることだけよ。
……
私たちに、他に何かできることはありますか……?
……いくら不思議なアーツを使えても、人の生理機能が死に向かうのを止めることはできないでしょうね。
でも、もし彼が目を覚ましたら、あなたのアーツで痛みを和らげてあげてみて。
アーミヤちゃん、薬は見つけた?
クロージャさん――
たった今、お医者様を見つけたところです。もう少し待っていてください。
ナデジダ先生! こちらにアーツのオーバーロード反応を抑制できる薬はありますか?
アーツのオーバーロード反応というと? 四肢に力が入らない症状とか、脳疲労の類い? 患者にみられた症状はどっち?
アーツの使用後に気を失ってしまいまして……私たちの持っている応急薬では足りなくなってしまったので、少し分けていただけませんか?
気を失った? どうやらかなりの重症みたいね……
そのレベルの重症に対応できるほどの薬は、簡単に出してあげられないわ。まずは状態を確認しないと。患者が今いるところに連れて行って。
わかりました……
先生――
代謝遮断薬よ、あなたはこれを使ってちょうだい。さっきの提案は冗談で言ったわけじゃないわ。もしよければ、残って彼を助けてあげて。
断りたければそれで構わないわ。このまま帰ってくれたらいい。
ボリスラフがトーニャを連れてくるはずよ。彼女はこの患者を探してるから、彼を看る人がいなくなるって心配する必要もない。
そうだわ。そちらの……アーミヤさん? あなたも患者に接触したんだから、代謝遮断薬を一本持って行ってちょうだい。まだこの病気の詳細はわからないけど、多少の慰めにはなるでしょ。
よし、行きましょうか。
……待ってください!
アーミヤさん……あなたは、アーミヤさんと言うんですね?
はい……
私の名前は……ヒアダです。
もしかしたら、またお会いできる機会が――
患者はどこにいるの? 早く案内してちょうだい。
わ、わかりました――すみません、ヒアダさん……
……また、あなたと会える機会があるでしょうか……
他の全員が立ち去った後、ヒアダはそれまで足を踏み入れなかった手術室へと静かに入っていった。
皮膚や肉が異様に剥がれ落ちた患者は、すでにベッドへと移されていた。周囲には臨時の隔離用として透明な防水シートが張られているため、中の様子をはっきりと窺うことはできない。
そのため、ヒアダはさらに歩み寄った。そうしてようやく、新しく巻かれた包帯の下で、患者の胸がまだ微かに上下しているのを確認することができた。
ふぅ……
あっ、目覚めたみたいですね。気分は悪くありませんか?
……痛い……
……
助けて……助けてくれ。
わ、私にあなたの痛みを止めることはできないんです。一度試してはみたのですが、他の人にしたように、あなたを苦痛から解放することは――
うう……
教えてください。あなたを少しでも楽にするために、何か私にできることはありますか?
すぅー……ふぅ。
……殺して……
えっ……?
殺してくれ……
俺を、殺してくれ。
あなたを殺す……?
ムルカに、会えないんだ。
俺のムルカに――
起きてはいけません――
ゴホッ、ゴホゴホッ!!
起き上がらないでください、体力を温存しないといけませんから。もし尽きてしまえば、もっと痛くなってしまいますよ。
何をしたいのですか? 私がお手伝いします。
ゴホッ……
俺たちが初めて出会った場所にも、行ってきたんだ。
お前が座って、腕に雲獣を抱いているのが見えたよ。
……
おかしいな。お前たちはもう、皆いなくなったはずなのに。
……うっ……
すぅ――
しっかりしてください!
俺は何がしたいかって? 死にたいんだ……
殺してくれ……これ以上希望を与えないでくれ。
彼女には、こんな姿の俺を見せたくないんだ……
……
いいえ、もしかしたら……もしかしたら私なら――
突如として湧き上がった衝動を、彼女はうまく言い表せなかった。彼の願いを叶えてやるべきか。それとも、少しでも苦痛を和らげ、どうにか生き長らえさせるよう手を尽くすべきか。
決断は下せなかった。ヒアダはただもう一度手を伸ばし、激しく波打つ彼の胸の上にそっと置いた。
(尊きあなたに、もう一度お願いさせてください。)
(あなたの恩恵が、すべての同胞に等しく与えられますように。)
(たとえ彼の苦痛の根源が鉱石病でないとしても、たとえ彼にはあなたの名を知る術がないのだとしても……)
……
あなたが苦痛から遠く離れられるよう、心から願っています。
赤が滲んだ緑色の皮膚が、苔のようにボロボロと剥がれ落ちる。その下の、本来柔らかいはずの血肉は硬く変質していた。
彼の体に残された生身の部分が徐々にオレンジ色の石へと変わっていく様を、ヒアダは目を大きく見開いて見つめていた。このような変化の過程を直視したのは、これが初めてのことだった。
やがて、患者の顔に小さな笑みが浮かんだ。
……もし、「ムル」に会えたら……
どうか、代わりに……
俺のそばにいてくれて、ありがとうと伝えてくれ。
……
何をしたんだ?
私……私は、違――
見間違いではないはずだよ。
お嬢さん、説明してもらえないかな――あなたはこの患者さんに、一体何をしたの?
ゼルグラード拡張ブロック 元帥の邸宅
少年は刀で目の前の死体を軽々と脇へやると、従者の手から清潔なシルクの布を受け取り、ゆっくりと刃についた血を拭った。
……
それで? 誰でもいいから教えろ……
「ヒアダがどこにいるかわからない」とは、どういう意味だ?
……ヒアダ様がお一人で外出された際に、我々も人員を割いて後を追いました。ですが、彼女が地下生活層に入ってから、姿を見失ってしまったのです。
もちろん直ちに捜索を行い、所在地の範囲は絞り込めています。その大部分は、これまで何度も掃討を試みた感染者の不法居住エリアです。
ヒアダ様は……おそらく、自ら進んで「奇跡」を施しに行ったのでしょう。
「奇跡の施し」か……ふん。ヒアダは一体誰の許しがあって、恩恵を無闇に施そうなんて考えたんだ。まさか誰もが彼女の救済を受けるに値するとでも思っているのか?
ご報告いたします! 刺客を追跡中に、団地の第三エリアで不法集会を行っている者を発見いたしました!
その感染者たちは夜間外出禁止令に違反しているにもかかわらず、逮捕を拒む姿勢を見せています。おそらく刺客を援護するためかと――
若将軍、ご指示を!
……
第三エリアも、ヒアダ様がいらっしゃるであろう中心部も、ここからそう遠くはありません。
「いらっしゃるであろう」と言ったな? どうしてわかる?
……実のところ、彼女の居場所は正確に特定しております。
ならば、まずは第三エリアへ行くぞ。
手遅れでした……間違いなく死んでます。
先生、俺たちは全員見てました。こいつがアーツを使った直後に、彼は死んだんです!
若者は手を振って、話し続けようとする仲間を制した。
お嬢さん、私たちは決して丸腰の人を傷つけるつもりはないんだ。だから、あなたにも敵意がないことを証明してほしい。ひとまずこの状況を説明してくれないかな?
私は彼を傷つけてはいません……これ以上苦痛に耐え続けてほしくなかっただけです。
医者は彼の病をどうすることもできませんでしたし、私にも命を救う術はありませんでした。
彼は病気だったってこと? どんな病気だったのかな?
私もそれが知りたいんです……ここに来るまで、私も見たことがありませんでしたから。
若者は一歩を踏み出し、病床の傍らまで歩み寄ると、おぞましい様相を呈した患者の死体をつぶさに観察し始めた……
若者の顔には終始、僅かな動揺すら見られなかった。
この遺体は私たちの推測を裏付けるものだ。軍がゼルグラードでどんな秘密を隠しているかはわからないけど、それはここの人々の命を奪っているものに違いない。
ゼルグラードは、決して感染者にとって理想的なシェルターじゃない。より多くの人に真実を知らせて、皆を連れてここを離れなければならないね。
おっしゃることはごもっともですが、今は皆を一箇所に集めることすら困難です。どうやって情報を広めればいいのでしょうか?
あなた方は……ここの人たちを連れて出て行こうとしているのですか?
私にはまだ、ここに収容されている仲間がいます。彼らはきっと私を信じてくれるはずです……あなたが彼らを一緒に連れ出してくれるのなら、連絡を取りましょう。
お嬢さん、私たちとしてもあなたを信じたいところだけど、自分が信用に足ることを証明できるのかな?
……あの若将軍がここで敷いている軍の布陣なら、お教えできます――
警報!?
俺たちがここへ来た時は、警備にまったく気づかれなかったはずです!
彼らの警戒を招いたのは、別の誰かかもしれない。
だが気にしている暇はない。パヴェル、計画通り隊に分かれて撤退しよう。
お嬢さん、あなたは――
私も皆さんと一緒に……行きます。