相変臨界 17-12・戦闘後
初めての握手
危ない――!
機能を制限され飛行しかできなくなったドローンが、咄嗟にクロージャの身代わりとして攻撃を受け止めた。
その間も防護服の人物は攻撃に曝され続けている。クロージャが車を飛び降り、その人物のもとへ駆けつけようとした時、ドローンの耐久は限界を迎えた。
ああもう、プラズマシールド機能も使えないんだけど! 全部この後ろのデカブツのせいだよ!
ダメ――――!!!
……あんた、こっちに来て。その……小さくて飛んでるものと一緒に。
あたしの後ろに隠れてて。
それなに? ライオットシールド? でもその素材――
車に乗り込めたのに、なんであたしを助けるために残ったんだ!
さっきドクターを助けてくれたでしょ? それに、頭で考えるより先に体が動いちゃうこともあるし……どうしても気にするなら、あたしが勝手に殿を務めてるだけだと思って!
扉が閉まっちゃったのは残念だけど、みんなが無事に入れたならそれで――
前進しろ! 他の者は包囲を固め、あの二人を捕らえるんだ!
くっ――!
肩を貸すから掴まって。ひとまず、どこか別の場所に逃げるしかなさそうだね。
なあ、あんた――あんたは感染者なのか?
ん~、説明が難しいんだけど、ブラッドブルードって基本的には鉱石病にかからないんだ――
……そうなのか。サルカズに会うのは初めてだから、知らなかった……
でも今の状況を考えたら、いい情報かもしれない。
いい情報? どういうこと?
捕まったとしても、感染者じゃないなら警察に送られるだけで済むかもしれない――
まだ援軍がいるの? もう本当に限界なんだけど!
いや、違うみたいだ――
なんて?
その飛んでるもの、まだ使える? それであいつらを別の方向に誘導できないか?
確かめてみたいんだ――
――第二部隊、攻撃目標変更! 侵入者を攻撃しろ!
……よかった、やっぱり援軍じゃないみたいだ。誰かわからないけど、その人たちの方に走ろう!
そうだね、第一軍に捕まるよりはマシだろうし。
衛兵の注意が向こうに逸れた。今のうちだ、行くぞ!
キミは――
今ここで自己紹介をする暇があると思うか?
死にたくなければ全員ついてこい。
衛兵の人たち、まだ追いかけてくるね。もうジャマーの範囲外に出たし、やっぱりドローンで別の方向に誘導してみる。
試してみてくれ。
うん、試してみるしかないよね――
ドローン六号のチューニング完了、スピード最大、高輝度モード起動――
はぁっ……はぁっ……
これで、追っ手の一部は向こうに行くはず……
ちょっ、どうしたの? 大丈夫? すぐに防護マスクを外すよ――
怪我してない? あとさっき聞きそびれたけど、名前はなんて言うの?
あたしか? 名前はトーニャ……
かわいい名前だね。ささ、ドローンはもう飛ばしたから、怪我してないか見せて。傷の応急処置ならちょっとは心得があるからさ。
大丈夫。ただ少し寒いだけで……
……血が出てるよ。矢が当たったの?
わからない……
あの人の背中のシンボルマーク……どこかで見た気がする……
レユニオン……
……今は考えなくていいから! 足を怪我してるんだよ?
使うといい。
なにこれ?
薬だ。まず塗ってから、しっかり支えてやれ――
ルートを変えるぞ。
なんでこっちの道を選んだの?
大通りよりは狭いからな。
でも追っ手の車も入れないわけじゃないでしょ。
ああ、だが多少の時間は稼げる。
ドローンで何人引き離せた?
あんまり多くないよ、せいぜい四分の一くらいだと思う。向こうは「疑わしきは抹殺」って考え方でドローン六号を追いかけてるだけかも。
連中が誘導されたことに気づいたら、俺たちの行き先にバリケードを築くだろう。せめてその前に追っ手を半分以下にしないと、俺たちは全滅だ。
じゃあ、じゃあ別の方法を考えてみる!
ああ。どうにか止まれる場所を探して、地下層の入口を見つけないと。
地下の方が安全だ。
待って、車を止めて――避けきれない!
前の方に人がいるよ!
……坑夫?
だが俺たちの仲間じゃない。あなたたちは――
あなたとは、あの住宅で一度顔を合わせましたね。
……ここは立ち話には向いていません。信じてくれるのであれば、私について来てください。
地下で、ある場所を見つけたんです――
行こう、後ろから追っ手が来ている。
なんで会う人会う人がみんな顔見知りなの?
ひとまず彼女と降りてくれ。俺は隠せる場所まで車を移動させてくる。
その必要はないよ! あたしのドローンで車両を隠しておくから、一緒に行こう。
少なくとも夜明けまでは持つはず。さ、急ごう!
ゼルグラード地下層
1102年1月22日 01:46
街で情報を探ってた奴らが戻りました!
今のところ、軍は俺たちを見失ってから次の動きを見せてません。まずは状況を整理してから方針を決めるって噂です。これで俺たちも少しは息をつけるかもしれませんよ。
まだ油断はできない。これから潜入メンバーを何人か選んで、昼間のうちに現地の労働者の集団に紛れ込ませてほしい。軍の状況をいつでも探れるようにね。
それと、あの怪我をしていた人の具合はどうなった?
彼女は大丈夫だ……一緒にいた者が看病している。
(小声)あなたは潜入要員の手配に行ってほしい。私はこの人と話をするから。
大変でしたね。窮屈な思いをさせて申し訳ありませんが、手狭なので詰めてもらうしかなくて。
大したことじゃないさ。仲間たちはもう休ませてる……あなたには改めて礼を言いたいんだが、まだ名前を聞いていなかったな。
……イヴァン・トゥーリンです。私たちは北原の採掘場から抜け出し、安住の地を求めてここまで来ました。
作戦から見ても、後始末の手際から見ても、あなたたちはずいぶん手慣れているようだな。その格好じゃなければ、ほとんどが元坑夫だとはとても信じられなかった。
なかなか大した指導力だ。
いえ、私ではなく皆の力です。北原からゼルグラードまで、死の脅威がずっと私たちに付きまとっていました。皆は何よりもまず、生き延びる方法を「学ぶ」必要があったんです。
それはそうと、よろしければ、あなたのお名前を伺っても大丈夫でしょうか?
俺はレイドだ。そして俺たちの部隊は……レユニオンと自称している。
レユニオン? それは――
……ここ数年、ロンディニウムであなたたちが行ったことを皆が語り合っています。私自身も、レユニオンがウルサス南部に戻ったという話を耳にしました。
皆を連れて南へ向かっていた時、私はよくその話をしていて……
隊のほとんどは感染者の坑夫です。あなたたちの話を語る度に、彼らの目に宿る希望が見えました。
まさか、ここでレユニオンの人たちに出会えるなんて。
……
つまり、あなたたちがゼルグラードに来たのは、この都市が政策を変更して、各地から感染者を受け入れ始めたと聞いたから、ということか?
……その話に皆が期待を抱いたこともありました。ですが今は、どうしてゼルグラードが感染者を受け入れ始めたかをはっきりさせないといけません。
あなたに隠す必要はありませんね、レイドさん。私たちはこの街に入った時から、おかしな点に気づいていました。
軍が提供した住居にはいくつもの不審点がありました。その後、民間診療所が軍と提携しているという話を聞き、彼らが感染者を利用して何らかの実験を行っているのではと疑うようになりました。
真相を解き明かしたいと思ったのですが、そのために、すでに多くの仲間が命を落としていて……
それは……残念だったな。
俺たちが知っているウルサスでは、どこかの貴族が気まぐれに慈悲を表しただけで、感染者に対する政策が変更されることはない。
背後にどんな目的が潜んでいるかについては、さらに多くの情報が必要だろう。
……もしかすると、レイドさんも私も、あちらの二人の女性に聞きたいことがあるのかもしれませんね。
壁際の一角で、クロージャは一枚の古びた分厚い上着を抱え、そっとトーニャの体に掛けた――若いウルサス人は未だ昏睡状態で、唇は次第に乾き始めている。
うーん、水も持ってきてあげなきゃ……もう少しの辛抱だよ、トーニャちゃん。
不意に肩を軽く叩かれ、クロージャは振り向いた。
茶色の水筒を握った手が、すっと彼女の目の前に現れた。その傍にはトゥーリンの穏やかな笑顔があり、レイドもまたその近くに歩み寄ってきている。
あっ、トゥーリンさ――って、ごめん。さっきみんながそう呼んでいるのを聞いちゃって……ありがとね。
構いませんよ。お役に立てて何よりです。
キミとレイドには、ここに来るまでもすっごく助けてもらっちゃったね。本当にありがとう。
でも、今の状況はちょっと難しくてさ。ここの問題を片付けたら、どうやって恩返しするか考えるね、えへへ……
恩返しなんて必要ありませんよ。ただもしよろしければ、なぜあなたたちがあの場所にいたのか、教えてくれませんか?
うーん……
本当にごめん。それは言えないんだ。
キミたちに悪意があると思ってるわけじゃないんだけど、あたしは極秘の作戦に参加してる最中だから。
俺がいるからか?
……
誤魔化さなくていい。俺を見た瞬間の驚きと警戒の表情は覚えている。俺のことに……いや、レユニオンであることにすぐに気づいたんだろう。
でも、これだけは教えてくれ。なぜ俺がレユニオンの一員だと確信できた?
隠しきれていない背中のシンボルマークと、道を開くために使ったアーツと、その刀だよ。
あたしは……ちょっと資料を読んだことがあって。
資料? あなたは一体何者だ?
レイド、それ以上は聞かなくていい。
その人はロドス所属の友人――クロージャさんだ。
……ちょ、ちょっと待って! どういうこと!?
……
見覚えのあるその顔を見た瞬間、ブラッドブルードはぴんと背筋を伸ばした。彼女は右腕を曲げて無意識のうちに胸元を庇い、呼吸を荒くしている。
タルラ……やっぱりキミか。レユニオンを見た時から、キミがここにいるかもしれないって察しておくべきだったよ。
……すまない、クロージャさん。
私が以前……ひどく不義理な経緯でロドスを出たことは自覚している。
一体何の目的でここに来たの? まさかあの感染者たちは……
クライニ・セーヴェルで起きた惨劇を知り、ゼルグラードの事情も耳にしたが……
それらに関するウルサスの言い分を、私は信じていない。だから連中が感染者に対して何をするつもりなのか、その真意をはっきりさせねばならない。
もっとも、言葉だけで考えを変えるのは不可能だろう。だが少なくとも、レユニオンがここの労働者を助けているのは事実だ。
……そう言われても、キミの目的がそれだけだなんて信じられないよ……
ロドスも、ゼルグラードの石壁の向こう側には何かの秘密が隠されてると思ってる。感染者だけじゃなくて、今はまだキミたちに話せない真相にも関わるようなやつがね。
レユニオンもそのために来たのなら、後で話ができるかも……この子の具合がよくなったら、あたしもキミにどう伝えればいいか考えるよ。
……ありがとう、クロージャさん。
こちらこそありがとう。少なくとも今日のことはお礼を言わなきゃね。
そういうことなら、積もる話もあるでしょうし、私は少し席を外します。潜入メンバーの確認を取り、万全を期しておかないと。
……少し待ってほしい。
イヴァン・トゥーリン……レイドにはそう名乗っていたな。
……
少し二人で話しても構わないか?
まさか、ここであなたに会えるとは思わなかった。
この名前をご存知なのですか?
あなたが北原の採掘場で綴った言葉の数々は、世で広く読まれている。運よく私も拝読し……深く心を打たれた。
以前、あなたの一行を探そうとしたこともあった。だが、様々な事情により……叶わなかった。
その後、ウルサスでは一度あなたの消息が途絶えた。多くの人が、あなたはすでに……よかった、今日ここで会うことができて。
だが、私の想像よりもずっと若いな。
……光栄です。
もう一つ尋ねたいのだが……エレーナという者を覚えているか?
エレーナからこういった話を聞かされたことがある。北原で遊撃作戦をしていた頃、とある重要な人物に出会ったと。
エレーナはその者から伝えられたそうだ。踏み躙られた善良な人々についての様々な話を……彼は抗い、立ち上がることの意義をすべての人々に理解させようとした。
その後、彼は遊撃隊に別れを告げた。雪原を越え、ウルサス中を巡らなければ、それらの話の結末を知ることはできないと言って。
……もしかすると、もう少し詳しく聞かなければわからないかもしれません。エレーナさんはどんな方ですか?
彼女は……白い髪のコータスで、私がこれまで出会った中で、最も確固たる意志を持った戦士の一人だ。
初めて会った時から、私は彼女のことを一生忘れないだろうという確信があった。
北原には尊敬すべき戦士が数多くいましたが、誰もが私に名乗ってくれたわけではないので……すみません。
もし私が図らずも、あなたの友人と知り合う幸運に恵まれていたのなら、彼女にとってそれが良い思い出として残っていることを願います。
……ああ、きっとかけがえのない思い出だったはずだ。
タルラ……あなたはタルラさんと言うのですね?
ああ。
そのお名前が出てくる話はあまり聞いてきませんでしたが、レユニオンについてはたくさんの噂を耳にしてきました。
おそらく……聞いた人間が喜ぶ話ばかりではなかったのだろうな。
噂だけでレユニオンがどれだけの覚悟で戦ったかは測れませんし、測るべきでもないと思います。ですが、こうしてお会いできましたから、今後あなたたちを理解する機会はたくさんあるでしょう。
いずれにせよ、あなたたちは多くの人々の目に留まる旗を掲げました。私はとても尊敬しています。
それに……私は「レユニオン」という名前がとても好きなんです。私たちの力は、間違いなく一つに結集するべきですから。
私たちは、同じ道を歩む者同士だと信じています。
お会いできてすごく嬉しいです、タルラさん。
若者は手袋を外し、タルラに手を差し出した。それは荒れた、凍傷だらけの手だった。
タルラはその手を握りしめた。
こちらこそ。
お父様は?
旦那様はご不在です。今朝早くに出かけられました。
執事もいないの?
旦那様と共に出られました。何かご予定があるのかもしれません。
お嬢様もずいぶんお久しぶりですね。せめて、マントと上着だけでもお預けください。私がお洗いいたしますので――
結構よ、泊まるつもりはないから。上で必要なものを取ったらすぐ発つわ。
ヘラグ将軍もヴェトチキも、感染者治療センターについての行政関連情報を閲覧する権限は持っていない。ジュナーさんの戻りを待ってから、手続きを踏むしかなさそうね。
お父様の印章を使えば、治療センターでの人員異動リストと来訪者リストが手に入るはず。書斎は……
……
もう、鍵が変わったのかしら?
マーシャ!
いえ、使用人も鍵は持っていないはず……お父様は誰を警戒しているの? なぜ私にまで隠しているの?
お父様は今まで一度も私が書斎に入ることを禁じなかったし、突然そんなことをする理由も――
……
――お嬢様、お客様がいらっしゃいました! お通ししてもよろしいですか?
なんですって?
お客様です。ヴォルキナ公爵家の方のようです。
ヴォルキナ公爵? あの「影に潜む副議長」? これまで、彼女がこの街の貴族と個人的に交流したことはないはず――
なるほど、そういうことね。
ひとまず応接室までお通ししてちょうだい。
留守のお父様に代わって、私が応対するわ。
ごきげんよう、何をお飲みになりますか? 今は父は不在で、当家のティータイムでもありませんから、サモワールも炉も火が入っておりません。他の家のように十分なおもてなしができず恐縮です。
卓上にあるお茶は淹れたばかりですから、そちらでよければお飲みください。
結構です。他の家を訪れる予定はございませんし、ティータイムを楽しむためにお伺いしたわけでもございません。
それでは、ヴォルキナ公爵からはどのようなご用件で?
特別な用件はありませんが、ゴルシコフ公爵宛てのお手紙を一通お預かりしています。
あら? でしたら娘である私にお預けください。責任を持って父に渡しましょう。
ゴルシコワ中尉、率直に申し上げますと、ここであなたとお会いするとは思っておりませんでした。
私の記憶が確かであれば……あなたは普段、お屋敷にいらっしゃらない印象でしたので。
よく私のことをご存じですのね? 嬉しくて好きになってしまいそうだわ。
では私も率直に申し上げましょう。そのお手紙をお預かりしたら、私は間違いなく中身を読みます。今ここで私にお渡しになるか、父の帰りを待ってご自身で渡されるかは、あなたがお決めください。
公爵と父の間にどのような交流があったかは存じません。ですがゴルシコフ家にとって、そのような「栄誉」が望ましいこととは限りませんので。
私が知ったからには、何らかの手を打たなければならないのです。
どうぞ。
あら?
もし私がこちらで中尉とお会いしたら、直接手紙を渡すようにと事前に公爵から伝えられております。中尉がお受け取りになっても、お父様がお受け取りになっても、変わらないとのことです。
公爵からそう伺った時、いくらか不思議に思いましたが。噂では、あなたはゴルシコフ家ではなく、近衛軍のアロイジウスであるとよく耳にしていましたので。
……どちらも私の身分であり、そのうちのいずれかを意図的に遠ざけたことはありません。
しかし今回は、公爵が正しかったようです。
噂はあくまで噂に過ぎず、中尉とお父様はいかなる時も同じ船にお乗りなのですね。
私はもちろん――
とにかく、お受け取りください。ヴォルキナ公爵家は中尉、あるいはお父様からのお返事をお待ちしています。
アロイジウスは手紙を強く握りしめた。そこに押された封蝋はひどく硬く、歪な形をしており、まるで不完全な紋章を乱暴に、かつ無頓着に押しつけたようだった。
ヴォルキナ公爵は、サンクト・グリファーブルクの人々の話の種になるこうした些事を気にも留めず、ただ修道者のように孤高で簡素な暮らしを貫いている。
あるいはそのような姿勢だからこそ、権力争いに不干渉を貫き、周囲に憚ることなく首都駐屯軍団の軍事力を掌握し、揺らぐことなくこの偉大な都市を守れているのかもしれない。
まるで、真空の中で生きているかのように。
ふん、だけど人間が本当に真空の中で生きられるわけがないわ。
彼女は欠けた封蝋を切って封筒を開け、中から便箋を取り出した。
……
マーシャ。
……マーシャ!
お呼びですか、お嬢様?
書斎の鍵が変わった理由は?
二週間前に旦那様のお申しつけで交換されました。最近は街の状況が物騒なので、空き巣が入らないようにと。
二週間前……家に空き巣が入ったの?
いいえ、そのようなことは。ですが念のためとのことです。
それなら窓の鍵も交換したのかしら?
いえ、そちらは交換しておりません。
そう。
お嬢様?
アロイジウスは手紙を封筒に戻し、それを内ポケットにしまい込んだ。
マーシャ、頼みたいことがあるの。後で書斎から出たら、あなたに父の証明になるものを渡すわ。
父の名でルーニン邸へ向かい、プラトン・ルーニン中尉をこの屋敷に招いてちょうだい。近衛軍の同僚で、彼と話をしたいの。
公爵家の車を使いなさい。着いたら、まずは彼がいるかどうかを尋ねて。もし不在なら、そのまま戻って来ること。わかったかしら?
一刻を争うことよ。よろしく頼んだわね。
……
お嬢様、お客様がお着きになりました。
「お嬢様」……?
通してちょうだい。
将軍、お呼びで――
……
プラトンは不意に口をつぐみ、踵を返してそのまま立ち去ろうとした。
私の父であっても、叶えられないことはたくさんあるわ。
あなたの望むものを与えることなどできないのよ、プラトン。
……
君に何がわかる?
このサンクト・グリファーブルクで最も権威のある一族……その唯一の後継者として生まれた君は、おそらく人生で拒絶されたことなど一度もないのだろう。
アロイジウス、君はいつでも欲しいものを望むままに手に入れてきた。一方の私は、たった一度の機会を求めているだけなのに……君は、それすら認めないというのか。
私には、自分で活路を見出すことすら許されないのか? ルーニンという名が、君のものより劣っているというだけの理由で?
教えてくれ……
……そういうことではないわ。
はぁ、まずはこれを見なさい。
アロイジウスはヴォルキナ公爵の手紙を見せた。
……
あなたの表情を見るに、私の父が持ちかけた話であれば、ヴォルキナ大将――ヴォルキナ公爵は断らないと踏んでいたようね。
彼女は首都駐屯軍団の総指揮官であると同時に、帝国議会の副議長の一人でもあるわ。私の父とは全くの別陣営にいることくらい、あなたも知らないわけないでしょう?
近衛軍から首都駐屯軍団への異動なんて、前は日常茶飯事だった。今回公爵が拒否したのは、明らかに何か邪推をしているからで――
邪推って何? あなたが父のスパイだとか、近衛軍のスパイだとか疑っているということかしら?
……君が私の申請を却下した後で、ヴァシリー将軍に助けを求めただけだ。私にはその権利すらないとでも言うのか?
父の「将軍」という階級がただの名誉称号に過ぎないことくらい、わかっているでしょう?
そう、あなたは貴族らしく、今まで享受してきた環境が変わることはないと思い込んでいるだけよね。でも、あなたは本当の愚か者ではないはずよ。
ほんの一年上司だったからといって、私のことを好き勝手に評価できるとでも思っているのか?
いいえ、私が評価しているのは、士官学校で常に上位の成績を収めていたあのプラトン・ルーニンのことよ。
彼のことならよく知っているもの。それに……彼なら私と同じだって思ったのに。*ウルサススラング*……
「常に上位の成績を収めていた」と言うのは、訓練場に姿も見せずに高得点を取る者の背中を拝み続けることか?
その件はもう説明したはずよ。私があの年学校にいなかったのは、ヴィッテ議長の中央区視察を護衛する任務に参加していたからだって。
なるほど、つまり君が将軍の名前を使って私を呼び出したのは、この紙を見せて過去の件を蒸し返し、私をもう一度侮辱するためだったのか。
……あなたを侮辱するため? いいえ、まさか。全然違うわよ。あなたは少し自意識過剰みたいね。
一体何が言いたいんだ!
プラトン、もう一度聞くわ。
今日を含め、あなたは何度かオドエフ区の感染者治療センターに足を運んでいるわね。それはどうして?
どこから軍事物資を調達したの? 感染者を受け入れ、移送できるというあそこの性質を利用して、何をしたの?
……はっ、回りくどく言っておいて、結局聞きたいのはそれか。
いいだろう、正直に話してやる。私は女大公のスパイだ。治療センターを訪れたのも、機を見てあそこの坑夫を皆殺しにするためだ。
これで満足か?
いいえ、不満ね。
*ウルサススラング*――
常々思っていたの。士官学校は座学試験ばかりで済ませず、情報部門と連携を取った防諜カリキュラムを設置すべきだって。
尋問や取り調べを受けた時に、感情に任せてもっともらしいスパイの身分を告白して、相手の注意を逸らそうとするのは、対応として下の下もいいところだわ。だから不満なのよ。
プラトン、同窓のよしみでもう一度だけチャンスをあげるわ。
今ここで包み隠さず話せば、ヴィッテ議長に口添えをしてあげる。あなたの過ちは本来、私と二人で責任を負うべきことなのよ。少なくとも家族が巻き添えに遭うことはないはずだわ。
ふっ、ご立派なことだな……だが問題は……
誰が君に「二人で責任を負う」ように頼んだ?
……?
君はただ推測でものを言っているだけだ。軍事物資の出所に後ろ暗いところはないし、その手紙も私がヴァシリー将軍に助けを求めた件しか証明できない。
君にこれ以上の証拠はない。見つけることもできない。私と将軍との取引や治療センターについて、君がどんな想像を膨らませていようと、事はもう起きてしまっている――
君は一体、何に執着しているんだ?
私は真実を知る必要があるの! あなたが本当に――議長を暗殺しようとしたスパイを招き入れて、犯人の逃走を幇助した張本人かどうか、知らなければならないのよ!
父があなたに何をさせたのかはっきりさせないと――
はっ! 自分の父親を随分と疑っているらしいな……だがちょうどいい、ヴァシリー将軍も君を信じてはいないんだから。
君はいつも武器を握っているが、将軍はそんな君が何かを成しうるとは露ほども考えていない。クライニ・セーヴェルの件が発生するずっと前から、君は将軍の管理下を離れていたんだから。
いいえ、あなたに父の考えがわかるはずがない。
ああ、だがあの方はいつも……口を開けば君の話をしていた。どれほど君を愛し、同時に軽蔑しているんだろうな? なにせ、君を守るために主戦派へ寝返ることすら厭わないほどだ――
何ですって!?
知らなかっただろう? 君が本当は軟弱な人間だと知っていたからこそ、将軍はあの治療センターを通じて、手段を選ばず君の逃げ道を用意したんだ。
助言してあげよう。君はお膳立てされた通り、この都市が完全な混乱に陥る前に逃げるべきだ。
考えてもみろ。スパイを特定したところで何になる? 私は陛下の御前で罪を認めるつもりもないし、君も私を八つ裂きにして、死体と引き換えに恩賞を賜る度胸はないはずだ。
私たちにできるのは、三流トーク番組のようにここでお喋りをすることだけだ……
「主戦派へ寝返る」――その言葉を聞いた瞬間から、耳鳴りが周囲の音を掻き消し始めた。
アロイジウスは、どうにか唇の動きからプラトンの言葉を読み取ろうとした。しかし必死になればなるほど、集中力を保てなくなっていく。
主戦派に寝返る……治療センター……逃げ道?
ここは感染者治療センターに偽装された、諜報活動の拠点だ。金銭のやり取りの代わりに物資の交換を行っているのだろう……
すべての手がかりが、周囲とは相容れないこの場所を指し示している。
貴様らはここに何を隠し、誰を庇っている?
……父は何を差し出して……
主戦派に寝返ったの?
アロイジウス・ゴルシコワともあろう者がなんてザマだ! 今の君には憐れみすら湧いてくるな!
アロイジウスは大股で前に出ると、プラトンの襟首を掴んだ。それは近衛軍の制服であり、軍人の制服であり、規律と厳格さを形にした制服であり――
そして、栄誉と責任を象徴する制服だ。
いい加減に*ウルサススラング*な戯言はやめて! 吐きなさい、プラトン――
吐け!
すでに見当がついているだろうに、どうして聞くんだ? 私は命令に従って動いているだけだ。それこそが軍人たる者の本分だろう?
……
治療センターが感染者を移送する際の審査が甘いことに、あなたたちはつけ込んだのね。そうして情報を伝え、スパイを都市に招き入れた――
……あなたたち、本当に*ウルサススラング*ね! みんな狂ってるわ!
ハハハ……ようやく正解したな。
……だめよ……
あなたは私と……
なあ、アロイジウス。
私と一緒に議長のところへ行って、罪を認めるのよ。
行くわけがない。将軍が私を売らない限り、君は証拠なんて掴めやしないんだ。こちらから裏切る必要がどこにある?
アローダ、君より将軍の方がずっと人心掌握に長けているよ。
プラトン、これ以上私に――
君にはもう一つの選択肢もあるが、それを選びはしないだろう。
君はかつて狩猟場で、事前に用意された獲物でさえ常に一撃で仕留めていた。
そんな君に、私を拷問するのは無理だ。
……あなたたち――議長はまだ生きているわ、けど……
……
今日あなたが去った後、治療センターに「皇帝の利刃」が現れたのよ。
……何だって?
あなたたちの手際は完璧とは言えなかった。だけど近衛兵は深く追及したりしないわ。彼らが求めるのは結果だけだから。もし――もしあそこに、彼らを止められる人が偶然居合わせなかったら……
今頃、治療センターは誰一人として生存者のいない廃墟と化していたでしょうね。
それがどうした?
君が死んで、しかも本来生きているべきじゃないあの感染者どもを道連れにしていたら、それこそ最高の結果だったんだ!
プラトン……
……あなたの言う通りね。
どうやら考えることすら諦めたようだな。
いいえ。答えを出したから、これから選択をしなければいけないところだわ。
なっ――!
反応が遅れたわね。本来のあなたなら反撃できたはずなのに。
カハッ……
プラトン、私はこれ以上あなたたちに……
罪を重ねさせるわけにはいかない。
これ以上、多くの人を巻き込ませるわけにはいかないのよ。
……もしかしたら、私の選んだやり方もまるで間違っているのかもしれない。
でもこの行いの代償として、父か私、どちらかの居場所が未来のウルサスから失われると言うのなら――それでも構わないわ。
今は、これが私の成さなければならないことだった。
……
お疲れ様、プラトン。
あなたの家族は、全力で守るから。
静まり返った応接室の中、ただ一人立ち尽くしていた近衛軍の女性は、血で染まった便箋をそっと床から拾い上げた。
彼女は便箋についた血痕を拭い去ろうとしたが、拭うほどに染みはより深まり、より広がっていく。
最後は、彼女も拭うことを諦めた。
アロイジウスは未だ床に倒れ、痙攣している死体を跨ぎ越える。そして物音を聞いて駆けつけ、恐怖に顔を引き攣らせたメイドの脇を通り過ぎ、その場を去っていった――
恩赦を求めるために。